言葉のアヴァンギャルド: ダダと未来派の二〇世紀 (講談社現代新書 1214)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (205ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061492141

作品紹介・あらすじ

世紀が移り、新たな芸術が「運動」し始める。「切断の意識」につらぬかれた前衛-未来派、ダダ、シュルレアリストたちが企てる言葉の解体・解放の冒険的な試み。意味を無化する方向に働く「20世紀の想像力」を考察する。

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  • ・二つの切断
     20世紀初頭、ベルエポックの頃にはフランス革命にはじまる近代市民社会の指導原理であった「理性的主体としての自立した個人」はその地位を失っていた。「20世紀的なもの」を通底するコンセプトは「切断の意識」である。それは「過去との切断」と「意味との切断」の二つの方向性をもつ。「過去との切断」は旧い世界と新しい世界の区切りの意識である。この意識は人々が社会的/経済的/政治的/地域的/身分的/宗教的差異を越えて「同時代」の感情、「同じ時計」を共有すること前提する。この共通の時計が自覚されるようになったのは、近代性が一世紀を経験し、世界の少なくない部分が生産と消費のネットワークに組み込まれはじめた19世紀後半以降のことである。(「世紀末」)。
    「意味との切断」とはシニフィアンとシニフィエとの結びつきの必然性を問い直し、切り離すこと。1910年から1911年にかけてのソシュールの講義録は、「記号表現=シニフィアンを記号内容=シニフィエに結びつける絆が恣意的である」ことを説いた(『一般言語学講義』1916)。この切断はシニフィエから解放された「浮遊するシニフィアン」の可能性をひらいた。この可能性は言語表現内の領域にとどまらず、思想/文学/美術/音楽/建築etc.の様々な知的企てから、広告やマスメディアの世界に至るまでさまざまな領域に侵入してゆく。この「浮遊するシニフィアン」の侵入の過程を通して、20世紀の文化が構築される(「意味の破壊」、ボードリヤール『クール・メモリーズ』1986)。19世紀的なものから20世紀的なものへの移行は、「人間/世界とは何か」といった存在の内在的本質の意味への「存在論的な問いかけ」から、あらゆる事象を記号として捉え、それらの表層の差異において人間/世界の本質を理解しようとする「記号論的問いかけ」へのシフトと考えられる。アヴァンギャルド(前衛)の共通項は、以上の二重の「切断」の意識である。

    ・個人から大衆へ
    (アヴァンギャルド的切断に一世紀以上先立ってなされた最初の切断、フランス革命の要求する暴力的な国王の首の切断は「理性」と「個人」すなわち「理性的主体」(=ロマン主義的な「私」、近代性)をもたらした。自由と平等をキーワードとして出発した文学的/法的/経済的個人の概念は、「大衆」(マス)へと移行していった(「理性」の動揺)。「理性」と「個人」から「非合理」と「集団」へ、という精神的風景をアヴァンギャルドとファシズムは共有する。)

    ・事物としての詩(les mots-choses)
     バルトによれば、古典主義時代においては美しく飾られた言語が詩であり、詩と散文とは同質なものであった。しかしランボーに出発する近代詩においてはこの構造が消え去る。詩は表象から「一個の物質」へ、散文と同質の詩から還元不可能な「詩そのもの」である詩へと変化する(実体 substance としての詩)。サルトルは、ランボーの詩(「おお季節よ!おお城よ!きずのない魂があるものか?」)において問う主体としての詩人が不在であることを言う。<十九世紀以後、言語(ランガージュ)はそれ自身のうえに折れかさなり、それ固有の厚みを獲得し、言語(ランガージュ)のみ属する歴史と諸法則と客体性を展開する。>(フーコー『言葉と物』1966)これは言語行為の現場が個人から集団に移ったことをも意味する。(「未来派宣言」や「ダダ宣言」等のマニフェストの発表)。

    要再読 P90,94.101.
    103(「提督~」は言語の線状性 linearity への挑戦).107(メタ宣言、ダダ=反記号).108(パロディ的宣言).
    111.116.124.132.146.147.148.151.
    153(書く主体の消去、画→写真).155(無意識―超現実、被写体).159.
    171(作詩への侮蔑、方法の不可能性).173(思考は口の中で作られる).
    176(ダダ―主体/意味の無化、ブルトン―倫理).181.
    185(ジャンルの破壊cf.『泉』).
    190(切断→接続、規範の誘惑).193(1968五月革命、再び意味からの解放).
    194(「消費される記号」).195(「大きな物語」、理性/個人)

  • 短くも示唆するところが多く面白い。
    20世紀的なものは、「過去との切断」と「意味の切断」の二つの切断でなっている。
    前者は理性主体としての私の意味を問うもので、後者は言語の表音と意味内容の絆は恣意的なのだということ。
    そして、前者を提起したのが未来派。後者がダダだという主張。
    ソシュールのシニフィアンとシニフィエやロラン・バルトの主張、またヤコブソンのメタ言語性など、知らない概念や見解を学び、その意味でも勉強になった。

  • 創始者トリスタン・ツァラがピカソたちのように異郷のものに触れたことが原動力となってダダを始めたのではないかという指摘が興味深い。理屈で始まったのではなく異物との遭遇の感動が始まりなのではないのかと。

  •  記号論的「消費文化」論のボードリヤールの紹介者でもある塚原史の著作。「意味」からの切断と「過去」からの切断の二つの「切断」から未来派、ダダとシュールレアリスムの運動を眺めていく構成になっている。ダダのトリスタン・ツアラ、シュールレアリスムのアンドレ・ブルトンの出会いと対立が言葉を巡る争いの側面から描かれていて、野次馬的興味も持てる。
     ■言葉の意味からの切断の状況に20世紀はあったという塚原の補助線が引かれる。言葉がソシュールの意味するもの(シニファン)意味されるもの(シニフェ)は必ず統一されるものではないという言語記号論から、言葉は「意味」を捕らえるもんではなく、「物」としてオブジェとして考えた表現者を、ダダのツアラであり、ソシュールの予期せぬ実践者として塚原は捉えている。
     ■ソシュールの理論の当否は別に、ツアラの言葉は、オブジェとしての言葉であることが多くの「引用」から実感できる。言葉の表現に対する「思想」は、シュールの場合、自動記述であり、意識を媒介させることなく、「無意識」の記述が尊ばれた。一方、ダダのそれは、「思考は口にある」というツアラの吹聴に見受けられるように、極めて秩序の無効性を唱える。旧来の言葉と意味の連関を、無効化し、時としてシュールの言葉より、奇想の形象さえ作り上げるときがある。■二つの戦争が、簡略に挿入されているので、「歴史」のどの位置にこの運動があったのかも掴める 。
     ■ダダの運動は、言語の非言語的表現にも突っ込んでいく志向と音声としての言語の非言語的表現も拡大していく狂おしいほどの「幻惑」的な側面も持っていたの、だ。
     ■塚原は、ダダのアヴァンギャルド性をかなり評価している。イタリアの未来派、シュールレアリスム、ダダ、この二十世紀の運動が、軽快に述べられているので、星四つ。

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著者プロフィール

早稲田大学政治経済学部卒業。京都大学大学院文学研究科修士課程(フランス文学専攻)修了、パリ第三大学博士課程中退。専攻はフランス文学・思想、表象文化論。訳書に、ボードリヤール『消費社会の神話と構造』(共訳、紀伊國屋書店)、『芸術の陰謀』(NTT出版)、『ダダ・シュルレアリスム新訳詩集』(共訳、思潮社)、ヴュイヤール『その日の予定』(岩波書店)、エリボン『ランスへの帰郷』(みすず書房)、ソヴァージョ『ボードリヤールとモノへの情熱』(人文書院)など。早稲田大学名誉教授。

「2023年 『サインはヒバリ パリの少年探偵団』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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