輪廻転生を考える: 死生学のかなたへ (講談社現代新書 1303)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (203ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061493032

作品紹介・あらすじ

私はどこから来てどこへ行く。前世は何、死後は。自己が自己である理由を考える。

感想・レビュー・書評

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  • 著者の主だった問いは、「なぜ、この私がこの時代、この場所に生まれたのか?生きているのか?」といったものである。これは、実は二分割できる。なぜ、このA(名前)はこの私なのか?が一つ目。そして、その私がなぜ、この時代、この場所に生まれたのか?生きているのか?が二つ目である。一つ目に答えるとしたらそれは、独我論になる。これは永井的独我論で十分に答えられよう。それは、<AがAである>ということと、<Aがこの私である>ということの差異である。Aが生まれた際に、Aが生まれた原因を探せば、それは卵子と精子との邂逅ということになるだろうが、Aがこの私であるということは説明できない。ここで偶然と必然と用いると非常に話が難解になる。なぜならば、偶然は必然になりえるし、必然は偶然になりえるからである。両者は定義によっていかようにも用いれるのでここでは触れずにおく。ともかく、前者は結局のところ独我論になるということは間違いない。ちなみに、著者は独我論と、心身二元論(霊魂論)と、唯物論の三つに区分けして論証している。心身二元論が霊魂論となるのは、心身が二元しているならば、霊魂が実存していると言えるからである。とはいえ、我々が例えば他人の痛みについて述べるとき、実はその他人の痛みを知りえないのである。我々ができるのは想像だけである。ということは、この時点で唯物論は消滅する。我々は知りえないのだから、他人の痛みが存在するなどとはいえないのである。かといって霊魂論も同様であろう。やはり我々は想像するしかない以上、他人の痛みを知りえないのだから、これもまた消える。とどのつまり、我々は他者の痛みを想像するだけなのだから、めぐりめぐってそれは他者の痛みではなくて自分の痛みとなる、つまり、我々は他者の痛みを知りえないが、それを自分の痛みとして知りえると言える。かなり粗いがこれにて、一つ目は論証し終えたとしよう。二つ目は、著者はかなりアクロバティックな裏技を採っている。著者が最後に触れているファイマンという人は、複雑系でも有名な御仁だが、彼曰く、電子と陽電子の対創生(ガンマ線の消失)、対消滅(ガンマ線の発生)は時間軸を遡れば、全て電子が+-を移動しているだけだと言えるというもので、著者の流れは独我がこの電子に喩えられてるわけである。つまり、私は時間軸を越えて未来と過去へと遡行将来することによって絶えず私で在り続ける。私は同時代に存在することもつまりは当然あり得る。ここでこの私たちの関係性を必然で考えれば、全ては一つであるとする、インド哲学的な「梵(ブラフマン=世界)我(アートマン=人間)一如」やユングの「集合的無意識」とリンクしてくるというわけである。ちなみにこの時間軸を越えて絶えず私であり続けるというこの考え方を偏在転生観と著者は定義している。そして、永井の独我論はこの私たちが偶然という関係によって結び付けられているとする穴だらけ偏在転生観、更にそこから時間軸のつながりを取り去った独我転生観、更にそこから、転生観を取り去ったものとして、純粋独我論として定義づけされているわけである。ともかく以上が著者が主張する哲学観とでも言えるものなのだが、いかせんかなりアクロバティックなことをしているのもまた事実なのであるが、個人的に著者にはかなり可能性を感じる。というのは、著者はかなりの貪欲家であるからである。自らの哲学観の発展のためならばなんだって取りいれるであろう。そこには心理学、科学、宗教、哲学、サブカルチャーを問いはしないはずである。そういった意味での可能性は感じるものの、著者がかなりの異分子であることは間違いない。著者は本気で議論をしてみたいと感じる人物の一人では有る。とりあえず、<私がこの私であること>と永井においてはそれに付随していたと思われる<この私がこの場、この時代にいること>をある意味同列に扱っているあたりが著者の特徴だろうが、どちらにせよ全ては独我論に飲み込まれることになるのだが、それでも我々は日常生活を営むにあたって独我論を信じきれないのが、独我論の最大の難点なんだろうね。

  • 出だしの自信満々度に吃驚した。

  • 論理が飛躍しているので読みづらかった、、

  • 歳をとってくると、死について考えるようになった。しかし、死を考える前に「私とは何か」「なぜ私は、今、ここにいるのか」をまず考える事が必要だろう。死は生の後にくる。でも、生は死によってもたらされるとも言えるが。

  • 結構著者の独断チックなとこも否めなくもない…けど、おもしろい! いろんな視点から輪廻転生を紐解き、自説を饒舌に唱えつつも、それ以上の輪廻の壮大さ、「私」とはなにか?という問いのロマンに圧倒されました。

  • これは面白い!
    ところどころ強引な感じの部分もあるが、とにかく面白い!

  •  絶版だったようなので中古で購入。自分以外にも、やはり同じようなことに思いを馳せる人というのはいるのですな。
     例によって『素晴らしき日々』の影響が購入の決め手になったわけですが、そこでも触れられていた偏在転生という概念が少しだけ理解できたような気がします。とても興味深かった。

  • 心理学者渡辺恒夫氏が、衝撃の死生観・転生観を開陳した問題作。
    「私はあらゆる今ここにいるすべての人間だったし、あらゆる今ここにいるすべての人間になるだろう」
    「すべての他人は私の過去か未来かのどちらかである」
    p128より
    この転生する「私」と永井均のいう比類なき<私>の検討は、哲学的に最難問にして重要。三浦俊彦氏の著作も同様に検討する必要がある。永井は、完全に渡辺を黙殺しているが・・・・・・。他我問題をめぐる極北にして主戦場!!

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著者プロフィール

東邦大学名誉教授

「2021年 『明日からネットではじめる現象学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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