- Amazon.co.jp ・本 (428ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061592179
作品紹介・あらすじ
日本文化を考えようとする時、「聖なる場所」は特別の意味をもっており、例えば神は、ある特定の山、川、海などに鎮まるとされる。そこにはある特殊な情報や記憶が融合されて、人間の想像力というよりも場所のもつ力が憑依して、そこを特別の聖域にしていくのである。国学者・篤胤や折口の思想は、いかなる場所から現れ出たのだろうか。異能の宗教哲学者が初めて構想した日本の精神地理学。
感想・レビュー・書評
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『身体の宇宙誌』(1994年、講談社学術文庫)につづき、著者がさまざまな雑誌などに発表した論考をまとめた本です。
前半には、平田篤胤や折口信夫、あるいは鞍馬山の祭礼にかんする論考などで構成されています。後半は、本書のサブタイトルになっている「日本という身体」を題にもつ論考で、慈円や吉田兼倶、あるいは江戸時代の国学や水戸学の思想を参照しながら、「日本」という地の宗教学的な観点からの意味づけがどのようなしかたでおこなわれてきたのかということをたどっています。
慈円の『愚管抄』についての考察は、興味深く読むことができました。保元の乱以降の日本を乱世と規定し、「血」と「地」の継承によってこれまで保たれてきたと主張して、それがもはやうしなわれてしまったと嘆く慈円の思考は、こうした秩序を支える「霊」へと向かい、「神国」思想へとつながっていることが明らかにされています。さらに著者は、そうした「神国」思想の「源」を求め、それを捏造することになった吉田兼倶に着目し、こうした彼の執念はいったいどのような考えにもとづいていたのかということを論じています。
著者の本を読んできた読者には問題がないのでしょうが、ブラヴァツキーやシュタイナーといった神秘主義者の教説を飛び石のように伝いながら展開されていく議論は、ついていけないというひともいるのではないかという気がします。