仏陀のいいたかったこと (講談社学術文庫)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061594227

作品紹介・あらすじ

釈尊の入滅後、仏教は各地へ伝播しやがて六世紀には日本へも伝来した。しかし、インドと遠く隔たる日本へ遙かな歳月をかけて到達したのが、釈尊の説いたままの仏教であったかと問えば、答えは否である。釈尊はもともと何を教え、どこへ導こうとしたのか?偶像ではない人間釈尊の言と行とに、その本音を探る。

感想・レビュー・書評

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  • いわゆる初期仏教についての解説書。後世、大乗仏教においに形作られた神格化され、神通力を持ってしまった『仏陀』ではなく、生身の人間・釈迦がなにを悟りなにを伝えようとしたかをわかりやすく解説しています。
    講談社学術文庫にしては(笑)とても読みやすい。仏教についての前提知識もそれほどいりません。日本で流布している大乗仏教とは全くといっていいほど違う考えなので、下手な予備知識がないほうが素直に理解できると思います。

    仏教の基本は「中道」と「縁起」。
    中道とは極端を排すること。ゆえに、欲を貪ることも苦行で身体を痛めつけることも捨てよ、ということです。バランス感覚ですでね。
    縁起は、この世に不滅のものなどなく、世界の現象すべては、千変万化し、相依・相関しているということです。そういう意味ですべては「相互依存」だといえます。文字通りの意味での「自立」はあり得ません。

    そして、悟りとは、知ることではなく習慣化することだ、といわれます。だから修業が必要なのだと。○○をしてはいけない、ではなく、○○をしない、と自然に言えるようになるまで血肉化することの大切さを説かれています。

    スピリチュアルな宗教を胡散臭いと思う人ほど手に取ってほしい本。原始仏教はスピリチュアル臭がほとんどありません。

    <目次>
    1 インドにも「諸子百家」がいた
    2 釈尊の立場と伝道
    3 過去の因習を超える
    4 日常生活に根ざした教え
    5 男女平等を説く
    6 国家・国王との関係
    7 俗世と出家
    8 霊魂を否定し、無我を唱える
    9 ブッダになることを教える
    10 出家者の正しい生活態度
    11 釈尊後の仏教
    12 大乗仏教の誕生
    13 意識下の世界を見る
    14 ブッダになるために

  • 同じ著者による『道元の考えたこと』(講談社学術文庫)と同様に、釈尊の生涯と思想をわかりやすいことばで解説した評伝的入門書です。

    ただし、『道元の考えたこと』では、原始仏教の実践的な側面を重視する著者自身の観点が強く押し出されており、日常作務に関する道元の思想にクローズ・アップした、かなり癖の強い解説書だったという印象がありますが、本書はもう少し穏当な入門書です。

    釈尊の亡くなった後の教団の分裂や大乗経典の編纂、唯識思想の成立に関しても、ごく簡潔にではありますが、解説されています。

  • 仏陀のいいたかったこと 田上太秀 講談社

    後半は楽しく読めたけれど
    前半は仏陀の言葉と言うより田上さんの評論が引っ掛かって読みずらい
    例えば田上さんによれば釈尊は中道と言う悟りを開いたのち
    それを伝えることの難しさに仏陀自身が不安を覚えたと言うが
    不安になる状態にある仏陀は悟っているのだろうかと言う疑問が湧いてくる

    禁欲は苦行となってしまうし
    欲を解放すれば快楽に溺れてしまう
    両極端には破滅が待っている
    だから中道に暮らせと言う

    中道とはバランスだと田上さんは言う
    本の中ほどに修業は適度の実践なければならないとあるのに
    ここではバランスだと言いきる
    しかしこのゼロ点と言うバランスが曲者だ
    これこそが無限と言う極端の極みでないだろうか
    両極端は兎も角として
    バランス点はゼロ点であって足の置き場すらない
    もし置けたとしてもゼロ点に留まる事はこの世から消えてなくなることを
    意味しているのではないだろうか

    と言うことでこの世に居ながらにしてとどまることができないとしても
    波動を小さくしてゼロ点の近くに暮らすことはできるだろう
    平等観もこのゼロ点のバランスと同じように無理があると思う

    仏陀の言う中庸とか中道とは対等観にあることはないだろうか
    この世に暮らす限り曖昧(ファジー)であれと言うことのように思える
    それは波動を細かくして無と言うゼロ点に近付くことでしか
    真理を実感して納得できないことに気付けと言うことだろう

    無限であるゼロ点に入ろうとしても無理な願いであって
    よしんば入ってしまったとすれば
    己を見る鏡もなく五感で感じることのすべてを不可能にしてしまう
    例えるならば綱渡りをする際
    完全な中心点に治まってしまえば身動きできずに固まってしまう
    あるいは物質でなくなってしまうことだろう
    若干のブレがあることで物質であることを保ち実感を得られる
    振り子現象の中でこそ「中心」のありかを見ることができる

    つまり極端は一定に留まろうとする逃げ腰の結果なのではないだろうか
    変化と言う方向転換している最中に中道が現れると言うことなのだろう
    中道でありながら戒を守れと言うことは
    パラドックスと言うよりもナンセンスなのだと思う

    この本が解説せずに
    伝承された事実をドキュメントすることだけにとどめてあれば
    素晴らしいと思うのだけれど
    なまじ意見を差し挟んでいるので読み分けるのに骨が折れるし
    中途半端な誤解を招くだろう
    学者の書いた物は往々にして過程上の見解でしかないものを
    答えのように押し付けてくる
    断言して書くと言うことや教えることに責任を感じないのだろうか

    古来インドには宇宙の成立について二つの考えがあったと言う
    その一つはキリストのような絶対神であるか、最高神を持つ神組織で
    もうひとつは科学的に原理を追求しようとしたものだと言うことらしい
    前者を転変説(てんぺんせつ)後者を積集説(しゅうじゅうせつ)

    仏教は宗教でありながら論理的な積集説だと言う
    世界のすべては動いている現象であり
    「因縁によって起こっている(縁起=えんぎ)」だと言う
    神も不滅原理も立てない
    物は「空」であって実体をもたない
    人間は肉体の色と形そして心の感受作用(感覚)表象作用(表現)
    形成作用(意志)識別作用(意識)から成っている

  • そもそも、仏教ってなんなんだ?ってひとや、
    あるいは、現在的な仏教は知っているけれど、
    そもそもの仏教とは?っていう疑問を持っているひとには、
    打ってつけの一冊であると思われる。

    しかし、これを読んでいていろいろと感じることは、
    そもそも現代的な仏教ってやつは、そもそも仏教とは、
    全然違うよねということであり、しかし、
    進歩していく社会において、
    (いちおこの進歩史観をこの場では前提としする)
    仏教が生き残っていくためには、仕方なかったのだとも言える。
    それは今の、葬式だとかの形式主義やら、
    神やら仏やらの菩薩信仰やら、
    死の際にお布施さえすれば仏になれるという都合のよさやら諸々。
    とはいえ、そのせいで、いろいろなものが歪められているのもまた事実。

    著者やら解説のかたやらは、仏教の教授だけあって、
    「仏教の宗教性」にかなり矜持を持っているようで、
    宗教>哲学みたいな感じで考えておられるようだが、
    個人的にはむしろ、哲学>宗教のような気がする。
    宗教はなにかっつーと、それは、やはり形而上的な存在、
    言うなれば神を認めるものになるのではないか?
    しかし、初期の仏教には神と呼ばれるものはいないし、
    釈尊は現世来世過去世について言及はしているものの、
    霊魂による輪廻は否定している。
    まぁ、因縁はあってそれが輪廻するとは説いているのだけれど、
    釈尊の言ってることは半ばで詭弁であり、どうにも、
    ソフィスト臭くもあるのだが、それでいて、彼は、
    生き方を提示している。
    そういう意味で、初期仏教ってのは、仏教ってよりもむしろ、
    インド哲学って感じだ。

    初期仏教の教えは、たしかにいろいろと面倒くさいあれが、
    あるが、しかしそこから抽出すべきエッセンスとしては、
    「ある程度の戒めを持ってほどほどに生きること」を提示している。
    これは酷く理性的であるし、これは万人が目指すある種の、
    普遍的な姿とも言える。とはいえ、修行はやりすぎだし、
    これを自然に出来てるひとっていうのは、ある種、
    「なにも考えずに今だけを生きているひと」とも言える。
    俺はあれこれ考えるし考えることが大好きなのでこうは決してはなれないが、
    しかし、これが一番世の中をうまく生きられる姿である。というわけで、こういう教訓みたいなものを仏教から学べばそれでいいんではないでしょうか?っていうのが個人的なこの著書を読んでの感想だろうか。逆にそれ以上の、厳格なしきたりやらあれこを学ぶことにどれほどの意義があるのか?
    いえ、学ぶことが愉しいのなら別だけれど、それはあくまで教養やら思考の餌みたいなものであって、「崇高なる~」みたいに考えるのはむしろ毒な気もする。いえ、毒もいいのです。なにしろ、個人的には、思考こそが最高で最悪の中毒だと感じるくらいだし。
    ただ、それを誰にも彼にも広め教えようとする働き。
    それはいったいどうなのだろうと疑問に感じる。

    とはいえ、俺はバランスのとれていないというバランスを生きるつもりです。
    なぜなら、ひとにはそれぞれそのひとのバランスがあるからです。バランスがとれてなくて一見不安定に見えても、無理してバランスとろうとしてうわーってなるよりは、よっぽど楽です、いえ辛いけれど、けれど、なんとか耐えられるのです、気持ち的に。いや、耐えられるってのも違うのかな。このニュアンスを伝えるのは難しいや。

  • 10/11/26。

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著者プロフィール

昭和10(1935)年生まれ。
最終学歴 東京大学大学院卒
職  歴 駒澤大学教授、同副学長、駒澤大学禅研究所所長を歴任。
駒澤大学名誉教授・文学博士。

[主な著書]
『仏典のことば さとりへの十二講』『ブッダのいいたかったこと』『道元の考えたこと』『ブッダ最後のことば』(以上、講談社学術文庫)、『ブッダの人生哲学』(講談社選書メチエ)、『仏教の真実』(講談社現代新書)、『ブッダが語る人間関係の智慧 六方礼経を読む』『仏教と女性』(以上、東京書籍)、『釈尊の譬喩と説話』『人間ブッダ』(以上、第三文明社レグルス文庫)、『迷いから悟りへの十二章』『ブッダの最期のことば 涅槃経を読む』(以上、NHK出版)、『仏性とは何か』(以上、大蔵出版)、『道元』のこころ(大法輪閣)、ほか多数。


「2022年 『ブッダ臨終の説法 完訳 大般涅槃経』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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