氷川清話 (講談社学術文庫)

著者 :
制作 : 江藤 淳  松浦 玲 
  • 講談社
3.84
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  • Amazon.co.jp ・本 (408ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061594630

作品紹介・あらすじ

幕藩体制瓦解の中、勝海舟は数々の難局に手腕を発揮、江戸城を無血開城に導いて次代を拓いた。晩年、海舟が赤坂氷川の自邸で、歯に衣着せず語った辛辣な人物評、痛烈な時局批判の数々は、彼の人間臭さや豪快さに溢れ、今なお興味が尽きない。本書は、従来の流布本を徹底的に検討し直し、疑問点を正し、未収録談を拾い上げ再編集した決定版。

感想・レビュー・書評

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  • 「洗足池 西郷隆盛碑文の謎」
    本書とは直接関係ないが、散歩コースである大田区洗足池で、勝海舟の建てた洗足池碑文=西郷隆盛「留魂詩碑」を毎日眺めることで、図らずも気が付いてしまった謎について記す。

    <要旨>
    洗足池は、勝海舟の墓の隣に、「西郷どん」直筆の漢詩「獄中感有り」を刻んだ実に見事な石碑が、ひっそりと建っている。
    「留魂詩碑」だ。
    西南戦争で自刃した盟友西郷を偲び、西郷の魂が乗り移ったかのような見事な肉筆を後世に伝えるべく、それを刻した石碑を自費で建てたのは勝海舟だ。
    海舟が碑文を建てて140年有余。
    その間、誰も気が付かなかったが、その碑文には大きな謎が秘められている。
    そして、その謎を永遠の謎に仕立て上げるのに図らずも加担してしまったのが、大田区が設えた解説の立て札だった。
    西郷の雄渾な筆致によって書かれた(刻まれた)この石碑の草書体の詩文は、西郷が遠島中に書いた有名な詩文「獄中有感」だと信じられてきたが、実は「獄中有感」そのものではないのだ。
    何故なら、碑文には欠落した文字が存在するからだ。
    欠落した文字とは「無」の一字。
    この改変によって、当然、七言律詩は、その形式を破ることになるし、西郷が作った詩は別の意味を帯びることになる。
    この改変•改竄を行ったのは、西郷本人なのか、碑文を作った海舟なのか?
    そして、何故?
    その謎を解く鍵は、碑文の後ろに海舟が書いた由来記にある。
    更に、石碑を克明に確認していくと、詩文から削除された筈の「無」の文字が、石碑の全く別の箇所に、すぐには分からないような形で(ほかの文字より遥かに小さいサイズで)ひっそりと潜そましてあった!
    一体、この洗足池碑文=西郷碑文は何を語ろうとしているのか?

    1. 洗足池
    洗足池は、武蔵野台地の縁に属する、勝海舟が晩年、別邸(洗足軒)を持った、風光明媚な場所だ。
    早朝の散歩には最適だ。
    海舟が愛でたであろう景色を眺めながら、海舟の墓に詣で、その隣にある「留魂詩碑」を巡ることで、毎朝、幕末•明治に想いを馳せることが出来る。
    江戸城無血開城の最終交渉を行うため、政府軍が本陣を敷いた池上本門寺を訪問する際、偶々、洗足池の傍らを通った海舟は、その景勝に惚れ込んでしまったという。
    そこからは富士が良く見える。
    海舟が「洗足軒」を作った辺りは、現在、区立中学校になっているが、中学校の正門の面する坂を池に向かって下っていくと、冬の晴れた日には、思わぬ高さに富士の威容が現れて驚かされる。

    「富士を見ながら土に入りたい」という海舟の遺言により、洗足池畔に海舟の奥津城(墓)は設けられている。
    五輪塔を模した彼の墓石には、「海舟」の文字が刻まれているが、その文字を書いたのは、最後の将軍徳川慶喜だと立札には書かれている。
    海舟の後半生は、徳川幕府家の復権に捧げられた。
    死して、海舟は慶喜から労われたのかもしれない。
    (最近になり、これは誤りで、書は徳川宗家第16代徳川家達によるものではないかとの説が出てきた)

    勝海舟と西郷隆盛は、江戸幕府のトップと討幕軍のトップという敵対する間柄でありながら、一目でお互いの度量を見抜き、江戸を焼け野原にすることなく、江戸の無血開城を成し遂げた。
    これによって、江戸百万人の命が救われたばかりではなく、日本は欧米諸国列強の植民地と化すことを避けることが出来た。
    幕府軍と新政府軍の衝突が江戸で起これば、それはその後日本全国に波及し、その間に欧米列強が日本各地を植民地化したことは間違いないところだからだ。

    明治の世になり、西郷南州は、しばしば洗足池に海舟を訪れ、歓談したと言う。
    英雄は英雄を知る。
    英雄を真に知るのは英雄でしかない。
    二人の出会いとは、まさしく英雄と英雄の出会いだった。

    2. 西郷の顕彰
    その維新の英傑西郷は、日本で最大の内乱、西南戦争を起こして、49歳にして自刃して果てた。
    (奇しくも、西郷を見出した薩摩藩主島津斉彬も49歳で亡くなっている)
    倒幕を成し遂げた「英雄」は一夜にして、明治新政府及び皇室に叛逆する「逆賊」に成り果てた。
    公式には誰も慰霊できない西郷を、海舟は私人として慰霊した。それが、西郷自筆の漢詩を刻んだ石碑の建立だ。
    その石碑を「留魂詩碑」と言う。
    「留魂」は西郷の詩文から取った語句だが、この命名に西郷の魂を永遠に留めると言う、海舟の意思を読み取ることができる。
    その碑文が、洗足池は、海舟の墓の隣にひっそりと建っているのだ。
    そして、実は、その洗足軒碑文=留魂詩碑には、「大きな謎」が秘められていた。

    刻まれている漢詩は、西郷が36歳の時に作った「獄中感有り(獄中有感)」だ。
    日本人が作った漢詩の中で最も有名な詩だと言って良い。
    碑文に刻された流麗で雄渾な、実に見事な書は、西郷という日本史上不出世の巨人の魂が込められているかのようだ。
    この元となった書は、最初、西郷の盟友、大久保利通が所有していた、という。
    それをどんな経緯でか、海舟が所有することになったのだ。
    海舟は、この書から立ち昇る西郷の魂魄と幾度も対話をしたことだろう。
    西郷が非業の死を遂げた後、海舟は西郷鎮魂のため、その書を石碑に刻むことを決めた。
    時は、西郷の3回忌、西郷死して二年後のことだ。
    誰も公には慰霊できない西郷を個人で慰霊したのだ。
    海舟のおかげで現在でも、石碑に刻まれた西郷の瑞々しい書を目の当たりにすることが出来る。
    この見事な筆使いは、どれだけ見ても見飽きることが無い。

    3. 二度の島流し
    西郷は、開明の薩摩藩主島津斉彬に見出され、斉彬は西郷を「国の宝」と呼んで大事にした。
    英雄 英雄を知る、だ。
    ところが、その斉彬は、朝廷と結んで徳川幕府を改革しようと企図した矢先に急死してしまう。
    皇室と徳川幕府を共に日本の柱にしようとする計画に邁進していた西郷は茫然自失、殉死を考えるが、周りから斉彬の遺志を継ぐよう説得され、自殺を思い止まる。

    斉彬の死はあまりに急死だったために、毒殺による暗殺説が囁かれる。
    斉彬の死後、薩摩藩の実権を握ったのが、斉彬の異母弟、久光だ。彼は傑出した英雄である兄と違い、二流の人物。英雄西郷の実力を見抜くことなど到底出来ず、自分の言うことを聞かない西郷を二度までも島流しにする。
    一度目は奄美大島へ。
    二度目は更に遠島の沖永良部島へ。

    珊瑚礁で出来た沖永良部島では、西郷は、吹きっ晒しに造られた僅か2畳の格子牢に閉じ込められた。
    これは死刑に等しいあつかいだ。
    この遠島の際に、2度と生きては薩摩に戻れないだろうと覚悟して作ったのが件(くだん)の「獄中感有り」の漢詩だ。
    西郷が、死を覚悟して狭い獄中で何を思ったかをこの詩から知ることが出来る。

    4. 漢詩「獄中感有り」
    後で、その碑文の持つ謎に触れるために、まず七言律詩の「獄中有感」の全文と書き下し文を掲げておこう。
    (七言律詩は、7文字x8行の漢詩だ)
    これは洗足池碑文=留魂詩碑の前に大田区が立たてた立て札に書いてあるものだ。

    朝蒙恩遇夕焚坑 
     朝(あした)に恩遇を蒙り夕に焚坑せらる
    人世浮沈似晦明
     人世の浮沈は晦明に似たり
    縦不回光葵向日
     縦(たと)ひ光回(めぐ)らさずとも葵は日を向く
    若無開運意推誠
     若(も)し運開くこと無きも 意 誠を推す
    洛陽知己皆為鬼 
     洛陽の知己皆鬼と為(な)り
    南嶼俘囚独竊生
     南嶼の俘囚 独(ひと)り生を竊(ぬす)む
    生死何疑天附与
     生死何(なんぞ)ぞ疑わん 天の付与なるを
    願留魂魄護皇城 
     願わくば魂魄を留(とど)めて皇城を護(まも)らん

    この漢詩の内容を理解するために、少しコメントを付しておこう。

    「朝(あした)に恩遇を蒙り夕に焚坑せらる」は、斉彬による異例の抜擢と、久光による処罰を言う。
    人生の急転直下を謳う。

    注目すべきは、「縦(たと)ひ光回(めぐ)らずとも葵は日を向く」の「葵」だ。
    後年、徳川幕府滅亡に向けて執念を燃やした鬼神西郷を知る者は、徳川家に対する西郷の執念に似た敵意をのみ記憶しているが、沖永良部島に遠島された当時、西郷は未だ徳川幕府に対する期待を抱いていたことが、この「葵」の一語で理解出来る。
    幕臣でありながら、徳川幕府の崩壊を避け得ないものと認識していた海舟にとって、西郷の雄渾の筆で書かれた「葵」の文字は心に響いたことだろう。
    (この漢詩の解釈の中で、詩文の「葵」に着目したものを見たことがないので、ここに記しておく。)

    「若(も)し運開くこと無きも意誠を推す」には、西郷が死を覚悟していたことが如実に表れている。
    死して尚、自らの信念と行動を恥じないと言う西郷の気概を感じることが出来る句だ。

    「洛陽の知己皆鬼と為(な)り」は、徳川幕府の老中井伊直弼による幕政改革派に対する断固たる処分、「安政の大獄」による盟友の死を謳って悲しい。
    「安政の大獄」によって、西郷は多くの同志を失った。特に、敬愛する橋本左内を失ったことはこたえた。
    しかし、幕政改革派の頭目たる西郷が安政の大獄を生き延びることが出来たのは、皮肉なことに、藩主である久満の不興を買って、最初の島流しにあったからだ。

    しかし、知己を失ったのは、「安政の大獄」ばかりではない。
    「南嶼の俘囚独(ひと)り生を竊(ぬす)む」と詠んだ
    二度目の島流しで南島の離島沖永良部島にあっても、「知己」を失った連絡は容赦なく届いた。
    寺田屋事件という薩摩藩同士のテロで多くの同志たちが「鬼と為る」報を受け取らざるを得なかったのだ。自分を慕っていた弟子たちが、藩主久光の命によって殺されたのだ。
    西郷の心中いかばかりだろう。

    「生死何(なんぞ)ぞ疑わん 天の附与なるを」
    ここにおいて、西郷は生死を超えた。
    後に、西郷は「命もいらぬ、名誉もいらぬ、官位や肩書きも、金もいらぬ、と言う人は始末に困るものである」と語り、「そうした者でなければ大事をなすことはできない」と問わず語りに、自らを語っている。
    この一文に、西郷の到達した陽明学の境地「敬天愛人」の境地を、読み取ることが出来よう。
    (ハイデガーなら、「ダス•マン」からの脱却と膝打ったことだろう。ハイデガーの理想とした「本来的な生」は、死の強烈な逆光を浴びなければ到達出来ない境地なのだから。「ハイデガー思想から読む西郷隆盛」は面白いテーマだが、ここでのテーマではない)

    ラストの句「願わくば魂魄を留(とど)めて皇城を護(まも)らん」に登場する「魂魄を留めて」の語句が、石碑が「<留魂>詩碑」と名付けられた理由だ。
    沖永良部島で死んでも、魂は本土に残り、京にある皇室を護り続けると言う、「尊皇」思想の絶唱と言える。
    通常、この漢詩の解釈は、この点を重視して行われる。

    しかし、この絶唱は一般に言われているような、堅忍不抜な「尊皇」思想のみを詠んだものではない。
    見事な書体で「葵」の文字が書かれているように、徳川幕府に対する期待も詠み込んでいることを忘れてはならない。

    それにしても、死に向きあった狭い牢の中にあっても、日本国の平安に想いを致す西郷の「敬天愛人」の姿勢に、思わず襟を正さざるを得ない。

    5. 洗足池碑文の謎
    その、西郷隆盛が自ら書いた「獄中感有り」が、碑文に刻まれて洗足池畔に建っている。
    碑文は、100年以上風雨に晒され、且つ、木漏れ日を受けて読みにくい。
    更に、それは楷書ではなく草書(崩し文字)で書かれているので、素人には誠に読みにくい。
    だから、誰もが碑文を前にしても刻まれた文字をまともに読もうとはしない。
    碑文の前に立てられた解説文に書かれた「獄中感有り」の詩文を読んで、碑文にチラリと視線を注いで、それで満足して立ち去るのだ。

    だが、そこにトリックが存在する。
    当然、解説文に書かれた詩文が石碑にも刻まれていると誰もが信ずる。
    それがトリックなのだ。
    碑文には、解説文に書かれた詩文が刻まれてはいないのに!

    碑文に全く違う詩文が刻まれているわけでは無い。
    そこには、確かに西郷の筆致で有名な「獄中感有り」が刻まれている。。。かに見える。
    ところが、草書体で崩された文字を一文字一文字辿っていくと、驚くべきことに気が付く。
    何と、碑文の漢詩は一文字欠落してしているのだ。
    西郷が沖永良部島にいる時に詠んだ「獄中有感」には書かれている、ある文字が、碑文には存在しないのだ。
    そんなことがあり得るのか?

    140年の風雪が文字を見えなくしてしまったのか、はたまた、その部分の石碑がポロリと落ちてしまったのか?
    いやいや、刻まれた文字は1世紀余の風雪を耐え、しっかりと残っている。
    石碑自体にもどこも崩落した跡など存在しない。
    と、いうことは、その文字は、意図的に欠落させられた、と言うことだ。
    だとしたら、それを行ったのは、誰なのか?
    詩文を作った西郷隆盛本人なのか?
    それとも石碑を作った勝海舟なのか?
    謎を作り出した犯人は勝海舟だったと仮定してみよう。

    6. 欠落した文字
    その海舟が意図的に欠落させたと考えられる文字、それは「無」と言う字だ。
    碑文の文字をそのまま写し取ってみるとこうなる。
    西郷の書は、七言律詩の形にキチンと並ばずに、奔放に書かれている。

    朝蒙恩遇夕焚坑人世浮沈
    似晦明縦不回光葵向日若
    (無)開運意推誠洛陽知己皆為鬼 
    南嶼俘囚独竊生生死何疑天附与願留魂魄護 
    皇城
     獄中有感 南洲

    この碑文の三行目冒頭にある筈の「無」の文字が完全に欠落しているのだ。
    もしかしたら、二行目の「若」の下に隠れてはいないかと、表面を撫でるように眺めたが、そこに文字が刻まれた形跡は無い。
    三行目の冒頭は雄渾な筆で書かれた「開」の文字から始まっていて、極めて印象的だ。
    「開」の字は丁度石碑の三角形の頂点に当たっている。
    だから、そこにある筈の「無」の文字は陰も形もない。
    三角形部分に更に上部があって、そこだけが崩落したのではないか、と三角形部分を精査してみても、そこに石碑が部分的に崩落した形跡は存在しない。
    石碑を矯めつ眇めつ眺めても、表面をじっくり撫で回しても、「無」の痕跡は詩文のどこにと見当たらないのだ。
    と、言うことは、この碑文には「無」は最初から無かったと結論付けるしかない。
    そんなことを石工が勝手に行う筈はない。
    したがって、依頼者である海舟が指示を出していたと考えざるを得ない。
    では、何故海舟はそんな細工を碑文に施したのだろうか?

    7. 改竄された漢詩
    「無」を欠落させた漢詩はどんな意味になるのか?
    当然、変わるのは「無」を欠落させた対句の部分だけだ。

    問題の対句部分は、「葵」を含む
     縦不回光葵向日
     若(無)開運意推誠 の部分だ。
    冒頭に述べた通り、通常これは
    「縦(たと)ひ光回(めぐ)らさずとも、葵 日に向かう 若(も)し運開くこと無きも、意誠を推(お)さん」と読まれる。
    意味は、
    「たとえ光が差さなくとも、葵の葉は日の方向を向く もし運が開かなくとも、誠の心を抱き続けたい」となる。
    ところが洗足池の碑文の通りであれば、読みは、
    「縦(たと)ひ光回(めぐ)らさずとも、葵 日に向かう 若(も)し運開かば、意誠を推(お)さん」
    と読まれることになる。
    この意味は、
    「たとえ光が差さなくとも、葵の葉は日の方向を向く もし運が開けば、誠の心を推し進めたい」となり、「徳川家は滅びない 現在私の上には日が差していないが、私の運が開けたならば、誠を尽くして自らの信念に基づき行動する」と読むことが出来る。
    それは、後に西郷の運命が切り開かれ、維新を達成することを知っている勝が、来るべき将来を過去の詩文に読み込んだものと解釈出来る。
    洗足池碑文を読む者は、西郷の詩文を鵜呑みにするのではなく、海舟の施した改竄を含んで読まなくてはならないのだ。

    8. 海舟の所有していた書
    だが、海舟の所有する西郷の書にそもそも「無」の文字が無かった可能性も考えられる。
    海舟が大久保利通経由入手した西郷直筆の書に、最初から通常とは異なる一字の欠落があったと言うことはないのか?

    海舟の所有する西郷自筆の書が現在どこに有るのか不明だが、西郷の真筆と目される「獄中有感」の書はいくつかある。
    その全てにキチンと「無」の文字は存在している。

    西郷と共に城山で自刃した西郷の部下、桐野利秋の息子が西郷真筆と裏書きする書がある。
    字体と言い、筆の迫力と言い、洗足池碑文に近いと思われるが、碑文の書とは明らかに異なっている。
    そこには明らかに「無」の文字が、「開運」の上に書かれているのだ。
    世に有名な詩文そのままに、西郷南洲は書いて、桐野に贈っていたのだ。

    他に、沖永良部島「西郷南洲記念館」にある西郷直筆の書にも、西郷の書を切って屏風に仕立てられた書にも、「無」の文字は定位置に堂々と存在している。

    したがって、大久保経由海舟が手に入れた書も、詩文そのままの揮毫だったと考えて良いのではないだろうか。

    元々「無」の文字があった書を、海舟がレイアウトする際に、誤って一文字を落としてしまったということはあり得るのか?
    七言律詩なのだから当然7文字x8行=56文字となっていなければならない。
    碑文が7文字、8行で書かれていれば、比較的欠落に気が付きやすい。
    しかし、西郷の奔走な筆は、行数も文字の大きさも自在なので、1文字の欠落に気が付きにくい、と言うことはある。
    しかし、超有名な(当時の誰もが知る)漢詩を、海舟ともあろう男が、誤って一字欠落させてしまったとは考えられない。
    だから、この欠落は海舟の意図的なものと考えざるを得ない。

    9. 石碑の歴史
    「留魂詩碑」はどんな経緯で建てられたのだろうか?

    1877年 9月24日、西郷は西南戦争に敗れ、自刃して果てる。
    1878年 5月14日、大久保利通暗殺される。
    1879年 西郷の3回忌に当たり、葛飾区に海舟が私費で石碑を建立する。
    1899年 海舟死す。洗足池畔に葬られる。
    1913年 荒川の工事に伴って、葛飾から洗足池に石碑は移設される。

    今年(2023年)で、
     西郷死して146年。
     石碑が建てられて143年。
     海舟死して124年。
     石碑が洗足池畔に移設されて110年。
    全て、一世紀以上前の出来事だ。

    海舟が最初に石碑を葛飾に建てたのは、西南戦争から二年後のこと。
    まだ戦争の余燼が生々しく燻っていた頃だ。
    政府にとって最大の逆賊を慰霊することなど普通出来ることではない。
    それを海舟は個人でやってのけたのだ。
    その行為は、当時、死罪に相当するかもしれない、危険な行為だった。
    しかし、西郷と同じく生死を超越していた海舟は、堂々と西郷を慰霊して見せたのだ。
    後に、西郷は復権する。
    海舟の死後、慰霊の石碑は海舟の弟子たちによって、海舟の墓石の隣に移設される。
    その記念碑を、現在の我々は洗足池畔で見ることが出来るのだ。

    10. 謎解明の手掛かり
    謎は解明できるのだろうか?
    謎解明の手掛かりを碑文の裏に求めてみよう。
    そこには、碑文に関する海舟の説明文が刻まれている。
    そこで海舟は、この詩文を碑文にする理由を漢文で語っている。
    西郷が昔書いた揮毫を「気韻高爽」「筆墨淋漓」と絶賛した上で「恍如視其平生」と、揮毫に西郷そのものを感じて碑を作ったと書いている。
    「気韻高爽」とは、「気品があり素晴らしく爽やか
    」の意。「筆墨淋漓」とは、「筆に勢いがある」の意だ。
    海舟が、西郷の肉筆の持つ「気品」「爽やか」と「筆の勢い」が立ち上がらせる<西郷そのもの>を後世に伝えることを最も重視したことが、この解説文から分かる。
    そして、碑文を見れば一目瞭然、海舟の意図は十二分に達成されている。
    勿論、海舟が「葵」(徳川幕府)と「皇城」(天皇家)を共に重視する西郷の至誠に感銘を受けたことは間違いないだろう。
    しかし、西郷の思想よりも、西郷と言う日本史上稀有なる存在自体をこの世に留めたかった。
    その想いがこの碑文を作らせたのだと、碑文の裏て海舟は語っている。

    碑文の裏の漢文で海舟が一番言いたかったことは、「嗚呼君能知我 而知君亦莫若我」の部分にある。
    「君は私を理解していた また、君を理解していたものは私をおいて他にいない」という意味だ。
    英雄西郷を真に理解している者は、私をおいて他に居ない。何故なら、私も英雄だからだ、と。
    こうした「オレが、オレが」の強烈な自己主張が、アンチ勝を多数作り出す理由でもあるが、英雄 英雄を知ることは素直に認めよう。

    西郷と幼少の頃から共に歩んで、維新を達成した大久保利通は、盟友西郷を殺した。そして、翌年、暗殺されて、西郷が先に行った幽冥界に去って行った。
    桐野利秋はじめ多くの西郷崇拝者は西郷と共に散っていった。
    逆賊の汚名を着た西郷を一番理解しているのは俺だ。
    俺だけが西郷の慰霊を行うことが出来る。
    こういう海舟の叫びが伝わってくる。

    それは兎も角、海舟の碑文に残した謎を解くと思われる一文が最後にある。
    「地下若有知 其将掀髯一笑乎」だ。
    「地下にいる君が、もしこの石碑の存在を知ることがあれば、頬髭を上げて一笑する筈だ」と。
    西郷どんに頬髭があったかどうかは詳らかにしないが、碑文の存在を知ったら「一笑」するとはどういうことか?
    感謝こそすれ、「一笑」というのは不思議ではないか?
    それは海舟が碑文の文字をワザと1文字落としていることに気が付いた西郷の哄笑と解釈すべきなのではないか?

    11. 謎の解明(海舟改竄説)
    碑文のナゾを生み出した事情を勝手に推察してみよう。

    (1)大久保利通が所有していた西郷隆盛自筆の「獄中有感」を、大久保の死後、海舟が入手する。
    それには、「無」の文字がちゃんと認められていた。
    そして、海舟は「葵」と「皇城」に対する西郷の至誠の魂に感動すると共に、そこに立ち現れる西郷隆盛の存在そのものに圧倒される。
    (2)国賊として公には顕彰され得ない西郷を私人として、友人として顕彰することを目的として、殆ど死を賭して、「獄中有感」の碑文作成を決意する。
    (3)江戸時代から続く石工の名匠廣家に碑文作成を依頼する。
    (4)碑文に相応しい見事な石を入手する。
    (5)西郷の書の持つ「気品と爽やかさ」と「筆の勢い」を最大限活かすレイアウトを考案する。
    その際、
     1)西郷の書の七言律詩全てを収めるレイアウト
      にすると、文字が小さくなりすぎて、「気韻
      高爽」と「筆墨淋漓」が伝わらないことに気が
      付く。
     2)また、「気韻高爽」と「筆墨淋漓」を活かした
      フォント•サイズにすると、今度は文字が入り
      切らないことに気が付く。
    (6)海舟は、詩文の内容もさることながら、西郷隆盛の存在そのもの刻み込むことを第一優先に考える。
    その際、
     1) 1文字だけフォントサイズを小さくして収め込む 
      か
     2) 1文字を削除してしまうか 
     の選択を迫られる。
    (7)海舟は(6) 2)1文字を欠落させること を選ぶ。
     (かに見えた)
    (8)そして欠落させる文字として「無」を選択する。  
     1)そうすることで、後の西郷の大活躍を知る立場
      から、過去の詩文に未来の事績を読み込むこと
      となる(海舟による意図的な改竄)
     2)更に、「無」を欠落させる場所を、碑文の下方
      乃至は上方に指定することで、碑文には存在
      しない「無」を暗示させる。
      つまり、ほとんどの人が、この人口に膾炙し
      た詩文を、碑文においては欠落した「無」を
      補って読むことが可能となるのだ。

    海舟は、このアイデアを思いついた時、冥界にいる西郷に「どうだ?」と問うた筈だ。
    その経緯が、碑文の後ろに書かれているとしたらどうか。
    「地下にいる君が、もしこの(一文字欠落した)石碑の存在を知ることがあれば、頬髭を上げて一笑する筈だ」と。
    海舟の問い掛けに対して、西郷は冥界で海舟のユーモアと親愛の情しかと受け止めて、「一笑」して答えたのだ、と考えたい。

    海舟の玄孫 高山みなこが、石碑建立のエピソードとして、海舟が当時名匠と言われた(7代目)廣群鶴との打ち合わせを、向島の人気料理屋八百松で行ったと書いている。
    石碑に西郷の揮毫を最大限にレイアウトする方法を「あーだ、こーだ」と議論する時、傍には美味い料理と最高の酒があったのだ。
    きっと、料理と酒(海舟は下戸だったので、お猪口一杯で酔っ払った筈だ)の効用もあって、「無」を詩文から取っ払うという破天荒なアイデアが出たのだ、と考えたい。

    海舟は、西郷去って22年後の1899年 明治32年、碑文の謎を残したまま亡くなる。
    それから124年間、海舟は洗足池畔で、風雨と戦禍に耐えて建ち続ける碑文を見守り続けている。

    そして、海舟の仕掛けた謎を完全犯罪にまで高めたのが、大田区の立てた解説文だ。
    その解説文には「無」の文字が定位置にちゃんと記載されている。
    碑文では無い筈の「無」の文字が、解説文には堂々と記されているのだ。
    こうして、文字が消されたことを隠蔽する見事な完全犯罪が成立した。
    この謎を封印する行為によって、1世紀以上に亘って、海舟の残した謎に気が付いた者がいなかったのだ。

    12. 飛ばされた「無」の存在
    しかし、「無」の文字は、消されてはいなかった!
    碑文には西郷の肉筆の「無」の文字も刻まれているのだ。
    どういうことか?

    「無」の文字は、詩文の中で本来あるべき場所には確かに存在しない。
    だから、「獄中有感」の漢詩が、海舟によって改竄されたことは確かだ。
    しかし、西郷の魂魄の籠った肉筆を一字とは言え、無きものにしてしまって良いのか?
    碑文の目的は、西郷の魂魄を永遠に留めることにこそあったではないか。

    碑文には、漢詩の後に、「獄中有感 南州」と刻まれている。(南州は西郷のことだ)
    その「獄」の左上に、他のフォント•サイズとは明らかに異なる極小のサイズで何やら刻まれている。
    その詩文でも、詩文の表題でも、署名でもない、何でも無い場所に、ポツンと刻まれた1文字。
    よく見ると、それは、「無」の文字だった!

    大久保が所有していた(のちに海舟の所有する)書に書かれていたと考えられる、紛れもなく西郷肉筆の「無」の文字が、サイズを変えて、そこにあった。
    通常の書では堂々と大きく描かれる「無」の文字が、碑文では、端っこに誰にも気付かれないような素振りで、小さく、しかし確かに、刻みつけられていたのだ。

    海舟は、西郷の魂魄を最大限に生かすレイアウトで、迫力ある碑文を作り上げた。
    その際、詩文の改竄も辞さなかった。
    しかし、西郷の肉筆を一字でも失うことは、西郷の魂の消滅と感じられた。
    そのため、レイアウト上、削除した「無」の文字を、碑文の端にそっと残したのだ。
    これが、「洗足池碑文の謎」海舟改竄説の全てだ。

    毎日、散歩の途中に「洗足池碑文」を眺め(撫で)ながら、碑文の謎を考え、ひとつの結論(推論)に辿り着いた時、ただちに碑文の隣に眠る海舟の墓に詣でて報告した。
    「勝先生、この推論はいかがでしょうか?」
    そう問うと、勝先生は、「ようやく気付いたかい」と破顔「一笑」された。

    現在、世界は危機の様相を強めている。
    今から150年前の危機の時代に全身で立ち向かった益荒男(ますらお)の魂の叫びを、この碑文は今に伝えている。

    13. 新たな展開 「西郷改変説」
    「洗足池碑文の謎」は解かれた筈だった。
    ところが、しばらく経って、事態は新たな展開を示した。
    謎は解明されていなかったのだ。

    西郷隆盛の「留魂詩碑」を改竄したのが勝海舟であったという「海舟改竄説」を展開することで、碑文の謎は解けたかにみえた。
    しかし、新たな展開によって、その「海舟改竄説」は取り下げなければならなくなった。

    新たなる説は「西郷改変説」だ。
    つまり、「留魂詩碑」に刻まれた、従来とは異なる「獄中有感」の改変(詩中の「無」を取り除いた)を行ったのは、西郷隆盛本人だったという説だ。
    西郷は、意図的に改変「獄中有感」の書を作り、それを盟大久保利通に贈ったと考えるのだ。
    とすると、その改変には、西郷の大久保に対するメッセージが込められていることになる。
    それは、一体、どんなメッセージなのか?

    まず、「西郷隆盛改変説」の根拠を示してみよう。
    洗足池畔、西郷隆盛留魂詩碑のある聖域には、西郷の魂を祀った留魂祠があり、その左隣には、徳富蘇峰の筆になる西郷•海舟両雄を讃える詩碑がある。

    何故、昭和の軍国化を推進したジャーナリスト徳富蘇峰が二人を讃える詩文を作っているのか?
    徳富蘇峰の父親と勝海舟は共に、横井小楠の弟子だった。
    (海舟は、西郷と並んで横井を最大限に評価している)
    その蘇峰は、父親の関係で、海舟の赤坂にあった邸宅の敷地に家を建て、10年ほど住んでいたことがあるのだ。
    蘇峰は海舟より40才若いが、海舟の謦咳に接し、海舟の弟子を自認していた。
    そのため、1937年(昭和12年)、海舟を慕う者たちが蘇峰に詩を依頼して、それを碑文にしたのが、洗足池に建つ蘇峰碑文なのだ。
    この年、盧溝橋事件が起き日本は中国との戦争を開始した。
    その前年には、「昭和維新」を目指した青年将校たちによる「2.26事件」(テロリズム)が起こっている。
    閉塞感が日本全体を覆い、それを打開するための「維新」が期待されていた頃のことだ。

    蘇峰は本名猪一郎。
    その蘇峰徳富猪一郎が大正15年に出した「西郷南洲先生」という本がある。
    この稀覯本は、現在、国立国会図書館のデジタルコレクションで見ることが出来る。
    それをwebでパラパラとめくっていると、何と「獄中有感」の書が載っているではないか!
    それも、洗足池碑文と寸分違わぬ書が、だ。
    余白には、「伯爵勝精氏所蔵 南洲先生眞蹟」とある。
    書の所有者、伯爵勝精は、徳川慶喜の10男で、海舟の長男小鹿が亡くなった後に、勝家に養子に入っている。
    大久保が西郷から送られた書は、勝伯爵家に引き継がれていたのだ。
    これこそが、海舟が所有し、留魂詩碑に使用した書に間違いない。

    字体も配置もほとんど「詩碑」そのまま。
    (「ほとんど」と言うのは、「皆為鬼」の部分が
    書では「皆/為鬼」と改行されているにも関わらず、碑文では「皆為/鬼」となっている)
    極め付けは、詩文に「無」の字はなく、極小の「無」が詩文の最後にポツンと置かれているところだ。
    「詩碑」との差は、極小の「無」の位置が、書では右に寄っているのに対して、「詩碑」では左側に配置されていることだけだ。

    つまり、西郷が自分の詩文に対して、「無」を吹っ飛ばした書を自ら書き、その吹っ飛ばした「無」を最後に小さくポツンと配置していたということだ。
    「獄中有感」の詩文を改変していたのは西郷その人だったのだ。
    「海舟改竄説」を撤回する所以だ。
    改竄の犯人に比定してしまったことを海舟に謝らなければならない。

    徳冨の本に写真で載せられた西郷真筆の書(改変書)の横に、参考として楷書体で詩文が載せられている。
    しかし、そこには「無」が詩文の中にキチンと配置されている。
    したがって、この本でも、西郷の書と解説の詩文が異なっていることになる。
    蘇峰はもしかしたら、西郷の書が改変されていることに気がつかなかったのかもしれない。
    (いや、気が付いていたのかもしれない)
    しかし、慧眼の海舟が、西郷の「改変」に気がつかなかったはずはない。

    西郷は、大久保宛に「改変•獄中有感」の書を送り、海舟はそれが「改変」であることを知りながら、碑文にそのまま刻した、と考えて良い。
    それ以降、蘇峰を含めて、誰もそれが「改変」であることを思いもしないで、単なる「獄中有感」として受け取ってきた、と考えて間違いないだろう。

    14. 「改変•獄中有感」の持つ驚きのメッセージ
    詩文が本来の「獄中有感」と異なっているのは、そこに西郷がこめたメッセージの要がある、ということだ。

    西郷が明治6年の政変で新政府を去り、鹿児島に籠った後、明治8年頃に、西郷が弟子の桐野利秋(西南の役で西郷と同時に死ぬ)に与えた「獄中有感」の書がある。
    桐野家に所蔵されている書は、誰もが知る「獄中有感」の詩文を書にしたものだ。
    当然、「無」の文字は定位置にしっかりと書かれている。

    他にも、西郷の真筆と言われる「獄中有感」は、沖永良部島にあるもの、鹿児島にあるもの、屏風に仕立てられたものがある。
    そのどれもが、誰もが知る「獄中有感」の書であり、改変されたものは見当たらない。
    だとすると、「改変•獄中有感」の書は、大久保に与えたこの書以外には無いように思われれる。
    と、いうことは、この改変にこそ、西郷の大久保に対するメッセージが込められていると見做さざるを得ない。

    だから、いつ書かれたかが重要なのだが、西郷の印章を見ても判断が出来ない。
    桐野家所蔵の書に字体が近いことから、明治8年頃のものではないかと推定できるのみだ。

    勝家所蔵の書が書かれた年代を、桐野所蔵の書と近い時期、明治8年頃(明治6年の政変から、西南戦争の起こる明治10年までのどこか)と考えてみよう。
    すると、この改変の謎の意味が氷解する。

    明治6年、征韓論を巡って西郷は大久保と対立、西郷派が政府を去るという政変が起こった。
    しかし、「征韓論」はキッカケであって、対立の本質は、「あるべき日本像」の対立にこそあった。
    この年まで、ほぼ二年間に亘って欧米を視察してきた大久保は、強烈な危機意識を持って帰国した。
    欧米列強の植民地化を防止するには、早急な近代化の推進しかないと確信して帰ってきたのだ。
    大久保が強力迅速に進めようとした富国強兵政策に大いなる違和感を感じたのが西郷だった。

    西郷は問うた筈だ。
    なぜ、徳川幕府を滅ぼしたのか?
    なぜ、多くの犠牲を払ってまで、維新を行ったのか?
    大久保が推進する近代化の日本を達成することためだったのか?
    そうではない。
    本当の四民平等の世界を作り、農民が豊かに生活できる社会を達成するために多くの血を流してきたのだ。
    しかし、新政府は全く別の世界を目ざす方向に爆音を立てて進んでいく。
    向かうのはそちらではないだろう、という西郷の声は無視されて、近代化による農村の貧困は止まらない。
    自分たちの維新は失敗だったのではないか?
    だとしたら、もう一度維新を行う必要があるのではないか?
    西郷が目指したのは、維新のやり直し、第二維新だった。

    明治6年の政変とは、西郷の「誠」と大久保の「誠」が分裂、衝突した事件だったといえよう。
    西郷が「誠」と「誠」の衝突を理解して、長年の盟友大久保と袂を別った時に、西郷はこの書を大久保に送ったのではないか。
    これが、大久保に対する西郷の最後のメッセージだったのではないか。
    だとすると、大久保に与えた「改変•獄中有感」は、元々の「獄中有感」とは、全く違った相貌を以て立ち現れている。
    どう言うことか?
    大久保の「誠」に対する「宣戦布告」だ。

    15. 西郷の宣戦布告のメッセージ
    この観点から、「留魂詩碑」に刻まれた西郷の詩文を読んでみよう。

    朝蒙恩遇夕焚坑 
     朝(あした)に恩遇を蒙り夕に焚坑せらる
      元々は島津斉彬による抜擢、島津久光による
      弾圧を意味していた。
      しかし、ここでは、維新の成功による政府の
      要職の獲得と、大久保による明治6年の失脚
      を意味していると考えることが出来る。
    人世浮沈似晦明
     人世の浮沈は晦明に似たり
      幕末も明治の世も、人生の変転は日の出、
      日の入りと同様だ

    縦不回光葵向日
     縦(たと)ひ光回(めぐ)らさずとも葵は日を向く
      幕府崩壊後謹慎していた最後の将軍徳川慶喜は
      明治5年に官位を得、復権を果たしていく。
      その復権に後半生を賭けたのが海舟だった。
      西郷は、光が差さなくとも日の方向を向く葵
      (徳川慶喜)に、自己を仮託しているかのようだ。
     
    若(無)開運意推誠
     若(も)し運開くことあらば 意誠を推す
      これが最大のポイントだ。
      改変されたこの部分にこそ、西郷の大久保への
      メッセージが込められている筈だ。
      「無」が存在する元々の詩では、「もし 
      チャンスが無くとも」という、離島での死を  
      前提として、ここで死しても、それでも自分の
      信じる「誠」を守り抜く、という遺言に近い 
      決意を述べている。
      しかし、この書では、「もし、チャンスが有れ
      ば」、つまり、自分が捲土重来のチャンスを
      得たならば、自分の「誠」を押し通して、理想
      の世界を作ってみせる、という固い決意が述べ
      られている、ことになる。
      「意」に強い意志が込められているし、「誠を
      推す」に、自分の信ずる「誠」に命を賭ける
      西郷の命懸けの「至誠」の思いが溢れている。
      「誠」は厄介なものだ。
      西郷の「誠」と大久保の「誠」は決して並び立 
      つことは無い。
      どちらかがどちらか滅ぼさなければ、「誠」
      と「誠」の闘争は止まない。
      それを知っている西郷は、それを理解している
      大久保に、「あくまで誠を貫く」と宣言する
      のだ。
      だとすると、これは、下野を余儀なくされた
      西郷の大久保に対する「宣戦布告」と見做して
      もおかしくはないのではないか?
      「今は下野するが、待ってろよ、大久保。
      一旦チャンスを得たら、腐った政府を一掃し
      て、私の信じる誠の道、本当の維新を達成して
      みせるぞ」という「宣戦布告」と読むことが
      出来るのではないか。
      この書を送られて、この部分を読んだ時、
      大久保は震撼した筈だ。
      西郷の不退転の決意を知り、全面衝突の避け   
      られないことを知ったからだ。
      そして、実際に、西郷と大久保は、日本最大の
      内乱である西南戦争において、激突する。
      「誠」と「誠」の激突だ。

    洛陽知己皆為鬼 
     洛陽の知己皆鬼と為(な)り
      元々の詩では、明治維新前の死者たちのこと
      を詠んでいた。
      しかし、ここでは、維新を一緒に戦って死ん
      でいった多くの仲間たちの霊を呼び起こして
      いる。
      坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎。。。
      「鬼となる」盟友は年々増えていく。

    南嶼俘囚独竊生
     南嶼の俘囚 独(ひと)り生を竊(ぬす)む
      維新を夢見た龍馬も晋作も慎太郎も死んだ。
      自分は一人生き残ってしまったが、維新は皆の
      夢見た姿とは全く異なる姿を晒している。
      その中で自分は追い落とされ、今は、南の鹿児 
      島に閉じこもっているしかない。

    生死何疑天附与
     生死何(いずくん)ぞ疑わん 天の付与なるを
      生きるか死ぬかを決めるのは個人ではない。
      天が決めるのだ。
      天が死ねと言えばいつでも死ぬ準備は出来て
      いる。
      理想の社会を目指して、本来の維新を行い、
      そのまま過程で死ぬのは嬉しいかぎりだ。

    願留魂魄護皇城 
     願わくば魂魄を留(とど)めて皇城を護(まも)らん
      第二維新の過程で例え死ぬことがあっても、
      自分の魂はこの国土に残り、天皇を守りたい。
      守るのは新政府ではない。
      理想の日本国家の根幹である皇室だ。

    15. 西郷「永続維新」のメッセージ
    西郷は大久保に「改変•獄中有感」を送ることで、明治新政府に宣戦布告を行い、明治10年、第二維新を目指す大叛乱を起こした。西南戦争だ。
    大久保は明治新政府の総力を上げて西郷軍を粉砕、結果、大久保による近代化路線は磐石なものとなった。
    しかし、大久保自身も、西郷の死んだ翌年、自宅から馬車で皇居に向かう途中、紀尾井坂で不平浪士に襲われて暗殺される。
    馬車の中で、大久保は、西郷の手紙を読んでいたという。
    その手紙こそ、「改変•獄中有感」だったとしたら、ドラマになる。
    ただ、大久保は死ぬ直前まで、西郷のことを思っていたことは間違いない。
    「洛陽の知己皆鬼となり」の一節に、その「鬼」に西郷が加わったことを思い、胸が詰まったに違いない。
    そして、その直後、大久保自身も「鬼」に加わるとは!

    海舟は、西郷の大久保に送った「改変•獄中有感」を入手し、一読、西郷のメッセージを理解した。
    そして、西郷の「誠」を引き受けることを決めたのだ。
    海舟は、全てを知った上で、西郷が国賊として死んだ翌年に、「改変•獄中有感」を石碑に刻んで、西郷の「誠」を永遠に残そうとした、と言える。
    西郷の「誠」とは何か?
    一言でいえば「永続維新」だ。
    永遠に理想社会を求めて維新をし続けること。
    これこそ、永遠の反体制主義だ。
    海舟は政府に参画することがあっても常に「反体制」の姿勢、「体制批判」の姿勢を崩さなかった。
    (そして、幕臣でありながら、幕府批判の急先鋒でもあった)
    いつも海舟の心には西郷の「誠」があったのだ。
    だからこそ、「永続維新」を謳った「改変•獄中有感」を石に刻したのだ。
    そして、碑文に刻まれた「洛陽の知己皆鬼になり」を海舟が読む時、その鬼(故人)には西郷も大久保も含まれていた筈だ。

    すると、碑文の後ろに海舟が刻した解説文も別様に読まれなくてはならない。「地下にいる西郷は、この石碑の存在を知った時、頬髭を震わせて笑うだろう」というのは、海舟がワザと一字落としたことを笑ったのではなかったのだ。
    西郷が笑ったのは「勝先生、そんな<宣戦布告>=<永久維新>の書を石に刻んで後世に残そうちゅとな?」と言う笑いだった、と解するべきだろう。

    西郷が生み出した「永久維新」と言う思想は、海舟を通じて後世に伝えられ、北一輝を生み出し、青年将校たちのテロリズムを生み出した。
    しかし、西郷の「誠」は、体制批判の基礎として今も脈々と生き続けている。

    洗足池碑文=西郷碑文に施された、たった一文字の削除が、幕末〜明治という激動の時代の一段面を照射していることに驚かざるを得ない。

    ここでの推理は、いくつかの仮定を前提としている。
    最大の前提は西郷が大久保に贈り、大久保暗殺後、海舟が手にした、碑文に刻まれた書が、明治6年の政変後に書かれたと言う点だ。
    これは、現物を確認して、押された西郷の印章を精査すれば、いつ書かれたものか特定出来る筈だ。
    その他の前提は、西郷の改竄の意図、大久保の受け取り方、海舟の理解、蘇峰の認識だが、これらは、彼らが何も買い残していないとしたら、推測するしかない。

    ただ間違いないのは、洗足池碑文=西郷碑文に刻まれているのは、「獄中有感」の漢詩そのものではなく、意図的に一字欠落させた「七言律詩」擬きだと言うことだ。
    その事実が謎として浮上して、人を幕末明治の時代に視覚を向けさせるとしたたら、それこそ海舟が一世紀以上前に企んだことだったのだろう。
    その企みに気が付いたのが、新たなる「戦前」と言うのが、何か意味あり気だ。

    16碑文の欠落に気がついた本
    洗足池図書館には「勝海舟コーナー」が設けられていて、関連図書が並んでいる。
    それらの中には、洗足池碑文について触れた本がかなりある。
    しかし、碑文には「獄中有感」の詩文が刻まれていると、さりげなく書かれているものがほとんどだ。
    ところが、ある日、手にした本に碑文の見事な写真と小さく刻まれた「無」について触れているのを発見した。
    碑文の謎に既に気がついている人がいたのだ、と心が逸った。

    その本は朝日新聞社刊行「大田区史」だ。
    著者は、植木浩一。
    1924年生まれ、1986年朝日新聞社定年退職、以後フリー。
    その中の「西郷隆盛 留魂詩碑」項で、碑文の文字がハッキリと分かる写真を載せ、「無」について明確に触れている。
    その文章を引用しよう。
    「皇城の左下にある小さな字は<無>という字で、下書きには入っていたが、それを清書する時に書き落としてしまったのに気がついて、最後に小さく書き添えたのだそうである。こういう形は他に例を知らないが、海舟が(石碑の後ろに)誌しているように、細事に拘泥しない隆盛の平生が窺われるし、原文が西郷の筆跡なることを証することにもなると思う」と、いうものだ。

    折角、「無」の欠落に気がついていながら、そこに謎を見出してはいない。
    「こういう形は他に例を知らない」のであれば、そんな例外的な書を残したところに西郷の意図を読み取るべきなのではないか?
    「下書きには入っていたが、清書する時に書き落としてしまった」?
    これは西郷が沖永良部に流された36歳の時に作った漢詩だ。西郷はこの詩を何度も書に認めている。
    西郷に書をねだる時の一つのスタンダードだったと言える。
    そんな何度も書いてきた書を書き間違えることがあるだろうか?
    書き間違えたら描き直したら良い。
    紙に収めるために下書きすることはあるだろう。
    だが、清書の際に、自ら作り何度も認めた漢詩の一字を書き落とすなどということは常識的にはあり得ない。
    ましてや、これは盟友大久保利通に贈った書なのだ。
    書き損じた書を贈るなどということは考えられない。
    そして、勝海舟が書き損じの書を碑文に刻むなどということは考えられない。
    西郷そう言ったのかも知れない。
    だとしたらそれは韜晦以外のなにものでもない。
    西郷は意図的に「無」を欠落させた詩を書いたのだ。そして、欠落させた「無」を小さく書き添えた。
    その意図をこそ読み解くべきなのだ。
    海舟はその意図を理解した。
    だから、それを石に刻み、「これを知ったら君は頬髭を触って笑うだろう」と書いたのだ。

    碑文に刻まれた文字に一字欠落あることを発見したのはこの本の鋭いところだ。
    しかし、残念ながら、西郷の韜晦コメントに惑わされて、謎の存在に気が付かなかったのだ。

  • 関西外大図書館OPACのURLはこちら↓
    https://opac1.kansaigaidai.ac.jp/iwjs0015opc/BB00112793

  • 昔バリバリ仕事で成果をあげた、ちゃめっけあるおじさんのエッセイ集。
    特に面白かったのは、江戸城無血開城時に西郷隆盛が居眠りをしてしまう話。西郷隆盛を、肝が座っていると評価している。
    文の最後に「ョ」をつけたりと、親しみを感じた。

    本書とは関係ないが、歌手の氷川きよしの名前の由来はこの本からではなかった笑

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/740254

  • おじいちゃんの家に行って話を聞くみたいな感じで良かった。現代の仕事に通じる話も多い。

  • 「教科書に載る歴史上の人物による回顧談」というあまり類例の無い書として貴重。実際にみずから会った(しかもしばしば歴史的場面の当事者として)幕末有名人の人物評は、面白いものがある。
    しかし、後半からは談話当時(明治後半)の政治外交批評になってきて、ここからがいけない。
    人間が老いると昔話自慢をするという症状を逃れる、あるいは緩和できる術は、医学や脳科学では実現出来ないのであろうか。

    眼光紙背に徹す85

  • 世間は生きている。理屈は死んでいる。
    胸のすくような言動の、そのコアは清明心。
    勝海舟の肉声が聞こえてくるよう。
    きっと、そのフカシっぷりも含めて、面白いおじさんだったんだろう。生死のやりとりを経た、肝の座った。
    これだけ読んでいて小気味の良い本もない。

    ところで、新井白石と勝海舟はそれぞれ18,19世紀を代表する江戸の傑物である。2人は同時代であれば、共存できたか。必ずやお互いの間に激しい応酬が生まれたに違いないと想う。そんな妄想も楽しい。

  • この人は本当に江戸っ子なんだよなあ。
    曲がったことが嫌いで、すぐ行動して、根に持たず(好き嫌いはある)、口が立つ。
    下町で貧乏育ちだっただけあって、武士っぽくない。
    だから嫌われもさげすまれもしたんだろうけど。

    それでも、自分で言うだけあって、この人のしてきたことはすごい。
    本人曰く、自分が一番一生懸命勉強したのは剣術。
    その後に禅。
    だから肝が据わったのだと。
    今の人(明治期の人)は、勉学を修め、知識はあっても肝が据わっていないから大きなことができないのだと言い放つ。
    それと庶民から学ぶという姿勢の欠如。

    明治29年に全国的に大洪水が相次いだことについて
    幕府が作る堤防は、とにかく地下を深く掘って基礎を固め、その絵に柳を植え、見栄えはともかく丈夫な堤防を作った。そして堤防の周りの土地を百姓に唯で作らせたので、土地の者たちは必死で堤防のメンテナンスを自分たちで行った。明治政府はその土地にまでいちいち税金をかけるために細かく測量し、柳の木まで全部切り倒してしまった。
    ”昔の人は、今の人のやうに、人目に見えるやうなところに頓着しない。その代わりに誰にも見えない地底へ、イクラ力を籠めたか知れないよ。昔と今と違ふところは、こゝだよ。”

    同じく明治29年の東北の津波に対して、対応が後手に回る明治政府に対して、幕府の非常時対策を説く
    ”窮民に飯を喰はせなければ、みんな何処かへ逃げて行ってしまふよ。逃げられては困るヂャないか、どこまでも住み慣れたる土地に居た者を、その土地より逃がさずにチヤンと住まはしておくのが仁政と言ふものだよ。”

    明治26年
    ”行政改革といふことは、よく気をつけないと弱い者いぢめになるヨ。(中略)全体、改革といふことは、公平でなくてはいけない。そして大きい者から始めて、小さいものを後にするがよいヨ。言ひ換へれば、改革者が一番に自分を改革するのサ。”

    明治31年、第三次伊藤内閣の崩壊が迫っている時
    ”おれは超然主義の江戸子だから、威張ると苦しめたくなるし、弱ると助けたくなる。”
    そんな性分だよねえ。

    明治30年第二次松方内閣崩壊の頃
    ”天下の大勢を達観し、時局の大体を明察して、万事その機先を制するのが政治の本体だ。これがすなはち経綸といふものだ。この大本さへ定まれば、小策などはどうでもよいのサ。大西郷(だいさいごう)のごときは、明治十年にあんな乱暴をやつたけれども、今日に至つえ西郷を怨むものは天下に一人もあるまい。これは畢竟大西郷の大西郷たる所以の本領が、明らかに世の人に認められて居るからだ。”
    小細工の上手い長州人に対し、薩摩人は不器用だという好意的批評だそうです。

    明治28年、日清戦争の後の国際的な動きを見据えて
    ”ともあれ、日本人もあまり戦争に勝つたなどと威張つて居ると、あとで大変な目にあふヨ。県や鉄砲の戦争には勝つても、経済上の戦争に負けると、国は仕方がなくなるヨ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人は、とても支那人には及ばないだらうと思ふと、おれはひそかに心配するヨ。”
    日本人の考える国のあり方と中国人の考える国のあり方は全然別で、そのスケール感といい、個人主義の極まり方といい、この辺りの洞察については今私が読んでも目からうろこでした。

    これらは明治30年ころの発言が多い。
    維新から30年、薩長の藩閥政治に庶民がうんざりしているという背景から、維新の生き残りである勝海舟の元に話を聞きに来る人が多かったのだろう。
    あんなにぼろくそ言われた徳川の世は300年続き、それを否定した政府は30年でぼろくそ言われていると勝海舟は言う。
    いや、後に勝海舟の息子と結婚したクララ・ホイットニーは、来日した明治10年のころすでに「庶民は公方様の時代を懐かしんでいる」と日記に書いていたぞ。

    吉田松陰がもし、アメリカ密航に成功して、無事に本に戻ってきたなら、明治維新のありようはもっと違ったのではないかと思ったりもする。
    テロの推奨をしたけれど、彼自身は無私の人だったからね。
    維新から30年。
    明治天皇の心中を察する勝海舟。
    なるほど、確かに薩長に騙された感はあったかもしれないね。

    もっともっと引用したいけれど、キリがない。
    なんか勝先生の言葉を読みながら、中居くんのことを考えてしまったよ。
    中居君は政治のことは何も言わないけれど、見えないところへの目配りとか…。
    この本は絶対的座右の書にしよう。

  •  勝海舟 (1823-1899) は、旗本の長男として江戸に生まれた。剣道と座禅の修行をし、また蘭学を学んだ。1868年、幕府側を代表して朝廷側の西郷隆盛と会談し、江戸城の無血開城に合意した。その結果、幕府は倒れ、徳川家は駿・遠・参の七十万石の一大名に格下げとなった。幕臣からは「腰抜け」「大逆臣」「薩長の犬」と罵られ、慶喜からさえも「汝が処置はなはだ果断にすぐ」と文句をつけられた。
     『氷川清話』は、彼が人生、政治、人物などを語ったものである。これを読むと、海舟が人間として一つの頂点に達していたことが分かる。例えば江戸城の無血開城について、彼はこのように言っている。
     「三百年来の根底があるからといったところで、時勢  が許さなかったらどうなるものか。かつまた首都というものは、天下の共有物であって、けっして一個人の私有物ではない。江戸城引き払いのことについては、おれにこの論拠があるものだから、だれがなんといったって少しもかまわなかったのさ」
     また、勝の人生は浮き沈みの激しいものだった。幕臣としての勤務の間にも、何度か免職を食い、謹慎閉門の生活を送った。これを、勝はこのように見ている。
     「自分の相場が下落したとみたら、じっとかがんでおれば、しばらくすると、また上がってくるものだ。大奸物・大逆人の勝麟太郎も、今では伯爵勝安芳様だからのう」
     勝はまた、非常な胆力を有していた。現在の日本の政治家に、次のような言葉を発することのできる人物がいるであろうか。
     「いやしくも天下の難局に当たる以上は、暗殺ぐらいのことを恐れては、何事もできるものではない」
     勝は、この胆力の出所を次のように言っている。
     「座禅と剣術とがおれの土台となって後年大そうためになった。瓦解の時分、万死の境に出入して、ついに一生を全うしたのは、全くこの二つの功であった」
     彼は二十回ほど敵の襲撃にあい、このために胆がすわったと言う。何度も暗殺の危機に遭遇しながら生き延びた要因を、彼は次のように述べている。
     「危機に際会して逃げられぬ場合と見たら、まず身命を捨ててかかった。しかして不思議にも一度も死ななかった。ここに精神上の一大作用が存在するのだ」
     若者たちへのアドバイスも、次のように気合がこもっている。
     「かえすがえすも後進の書生に望むのは、奮ってその身を世間の風浪に投じて、浮かぶか沈むか、生きるか死ぬるかの処まで泳いでみることだ」
     本書の刊行は明治三十一年 (1898年) のことである。勝は、日本の将来を次のように予言している。日本は1895年に日清戦争で勝利したが、1945年に太平洋戦争で中国に敗れている。
     「日本もシナには勝ったが、しかしいつかまた逆運に出会わなければなるまいから、今からそのときの覚悟が大切だよ。------今日のなりゆきを察すると、逆運にめぐりあうのもあまり遠くあるまい」
     また、勝は、当時の幕府側、薩長側の要人の大半と関わりを持った人物である。1862年に彼が設立した神戸の海軍局からは、薩長同盟の立役者となった坂本龍馬と、後に外相となって条約改正に功のあった陸奥宗光が出ている。坂本龍馬は、姉への手紙に「今にては日本第一の人物勝麟太郎と云ふ人に弟子入り致し」と伝えた。1864年に勝に初めて会った西郷隆盛は、大久保利通への手紙に勝について「実に驚き入り候ふ人物にて、------どれだけ知略これあるやら知れぬ」と知らせた。このように見てくると、勝海舟がいかに大人物であったのかがよくわかる。世には、様々なかたちで必読書百冊なるものが出ている。しかし、そのいずれにも、この『氷川清話』を入れたものはない。しかし、勝海舟は、まさにラスト・サムライの一人であり、『氷川清話』は万人の必読書である。

  • 処世の秘訣は誠の一字。
    勝海舟がそう言っているので奥が深いです。
    また、相当、西郷さんを高く評価していることが感じられた。

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勝海舟の作品

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