戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (202ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061962873

作品紹介・あらすじ

昭和二十年三月二十九日、世界最大の不沈戦艦と誇った「大和」は、必敗の作戦へと呉軍港を出港した。吉田満は前年東大法科を繰り上げ卒業、海軍少尉、副電測士として「大和」に乗り組んでいた。「徳之島ノ北西洋上、「大和」轟沈シテ巨体四裂ス今ナオ埋没スル三千の骸 彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何」戦後半世紀、いよいよ光芒を放つ名作の「決定稿」。

感想・レビュー・書評

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  • 戦記物して書かれた体験文学の傑作。全部が文語体で書かれているのがかえって迫力になっています。悲壮感、戦場の不合理がビンビン伝わる。古文勉強の導入として音読してもいいんじゃないかなと思います。

  • 【死・愛・信仰】

    539
    戦いは必敗だ。いな、日本は負けねばならぬ。負けて悔いねばならぬ。悔いて償わなければならぬ。そして救われるのだ。それ以外に、どこに救いがあるのた。

    542
    あれが死なのか。あののがれようのない、孤独、寂寞、絶望はどうしたことなのだ。あのようにしか死ねないものとすれば、人間とは何なのか。

    543
    ゆるしてくれ。俺は愛したい。献身したい。ひとに押し付けひとを叩くための議論でなく、そのためにこそ自分が生きているということだけを語りたい。
    生きねばならぬ。正しく、愛をきずいて、生きるにふさわしく生きねばならぬ。

  • 筆者の吉田満は、学徒動員の一環として応召され、副電測士(電測士というのは、レーダー要員と理解した)として、沖縄特攻作戦に参加する戦艦大和に乗り込む。1945年春、終戦まであと4ヶ月の時である。
    既に米軍は、沖縄を勢力圏に置いており、そこを本拠地とした本土攻撃を遅らせるために、日本軍は本土防衛作戦の一環として「天号作戦」を立案する。「天号作戦」には、一号から四号まであり、戦艦大和が参加したのは、「天一号作戦」である。700機の特攻機が沖縄の米軍を攻撃するのを支援するために大和は、計10隻の艦隊の中心艦として参加するが、帰還は想定されておらず、行きの燃料のみを積んで、広島県の呉港を出港した。
    本文中にある、本作戦の目的についての記述を引用する。
    【引用】
    本作戦ノ大綱次ノ如シー先ズ全艦突進、身ヲモッテ米海空勢力ヲ吸収シ特攻奏功ノ途ヲ開ク 更ニ命脈アラバ、タダ挺身、敵ノ真只中ニノシ上げ、全員火トナリ風トナリ、全弾打尽スベシ モシナオ余力アラバ モトヨリ一躍シテ陸兵トナリ、干戎ヲ交エン 
    【引用終わり】
    勝ち目のない、成算のない作戦であることは乗組員は分かっている。「圧倒的数量ノ前ニ、ヨク優位ヲ保チ得ル道理ナシ タダ最精鋭ノ錬度ト、必殺ノ闘魂トニ依リ頼ムノミ」と筆者も書いている。
    大和は沖縄近海までやって来るが、そこで100機を超える、米軍の航空機部隊から攻撃を受ける。攻撃は一度で終わらずに、七波、八波と続く。その間、大和は相手にほとんどダメージを与えられないまま、一方的な攻撃を受け続け、沈没してしまう。筆者は、奇跡的に助かり、他の艦船に救助され、佐世保港に戻る。
    本書は、大和の出陣から、筆者が救助され佐世保に戻るまでの記録である。

    戦闘場面、大和の最後、筆者が九死に一生を得る場面等、実際に起こったことの記述の迫力にまずは驚かされる。本書は文語体、かな部分は、ひらがなではなくカタカナで書かれており、決して読みやすい本ではないが、ほとんど一気に読んだ。
    しかし、心が痛んだのは、戦争の悲惨さ、理不尽さだ。それも、「戦争が一般的に悲惨で理不尽である」ということではなく(もちろん、それはそれで真実だと思うが)、日本軍というか、日本国(大日本帝国)の、この戦争に対しての理不尽さである。
    この「天一号作戦」に参加した艦船10隻のうち、帰還したのは4隻のみ。特攻攻撃に参加した700機の航空機のうち、350機は撃墜され、かつ、米軍には、ほとんどダメージを与えることが出来なかった。ほとんど意味のない作戦を実行したのである。
    しかも、行きの燃料しか持たずに大和が出航したことが示すように、「こうなることは、あらかじめ分かっていた」うえでの作戦であったのだ。
    沖縄が米軍の勢力圏に入った後の戦争の展開も既に分かっていたはずである。実際に、その通りに戦争は進んだ。日本は本土を空襲され、広島と長崎に原子爆弾を投下される。終戦間際には満州にソ連軍が攻撃を開始し、そこにおられた方は大変な想いをされ、多くの兵士がシベリアに抑留され、また、兵士でなくても、例えば、多くの「中国残留孤児」を生んだ。しかし、この作戦が失敗してからも、降伏するまでに数か月、何の成算も、何の意味もない戦争を続け、兵士ばかりではなく、一般の人たちに多くの犠牲者を出し、悲惨な想いをさせたのである。それは、本当に理不尽なことだと思う。

    本作は以下の通りの終わり方をしている。万感が込められた終わり方だ。

    徳之島ノ北西二百浬ノ洋上、「大和」撃沈シテ巨体四裂ス 水深四百三十米
    今ナオ埋没スル三千ノ骸
    彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何

  • 収録内容は以下の通り。

    本編
    「戦艦大和ノ最期」初版あとがき
    決定稿に寄せて
    「鎮魂戦艦大和」あとがき
    鶴見俊輔: 解説
    古山高麗雄: 作家案内

    戦中のうちから、戦争の方針について反対意見が多数あったこと、それらが自由闊達に議論されていたことが分かって良かった。

  • 副電測士の少尉であった著者による、戦艦大和の最後の出撃をえがいた記録文学です。

    太平洋戦争の敗色が濃厚になっていくなかで、大和は片道の燃料だけを積んで、生還を期することのない「天一号作戦」の実行をおこないます。「日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」と語る臼淵大尉と、それでもなお戦いのなかで死んでいかなければならないことの理由を求めようとする者との認識のちがいが浮き彫りになりつつも、大和は進路を進めていきます。たびかさなる集中砲火を浴び、著者も死の淵をさまようことになりますが、生きたいという「希求」ではなく、生きなければならないという「責務」によって、著者はロープをつかみ、救出されることになります。

    巻末の「作家案内」を執筆しているのは、「祖国と敵国の間」の作品がある古山高麗雄です。古山は、戦争のなかで著者とは異なる立場に立つことになりましたが、古山のこの作品の書評を依頼された著者は、「こんなに苦しい原稿を書いたことは初めてだ」と語りながらも、原稿用紙30枚におよぶ書評を執筆します。二人のあいだに立場のちがいはありながらも、ともに戦争をくぐり抜けた者としてのことばの重さを感じます。

  • 吉田満 「戦艦大和ノ最期」 戦艦大和の電測員であった著者が、天一号作戦における戦艦大和の出撃から自爆までを記録した本。


    戦争の不条理、悲哀、残酷さ、昂揚感など戦争の全てを再現している感じ。カタカタ文語体の文章が 軍隊を象徴しているように感じる〜規律的というか、ガラパゴス的というか。


    天一号作戦は、往路のみの燃料を搭載し、敵国の標的となれというもの。もはや作戦ではない。この時点で降伏せず、原爆投下まで国家の損失を広げた理由を知りたい


    敵国の的確な攻撃力に対して「敵ながら天晴との感慨湧く。達人の稽古を受けて恍惚たる如き爽快味あり」と感じるあたり、後に日本銀行で日本経済を復興させた人物だけあって、自分と周辺を俯瞰する能力が凄い


    臼淵大尉の言葉「進歩のない者は決して勝てない。負けて目ざめることが最上の道だ〜我々は 日本の新生にさきがけて散るのだ」が玉砕の本質なのだと思う。無理やりな論理構成だが、それで自分を納得させるしかないといった感じ

  • 文語体

    特攻部隊。自分が死ぬとわかりつつも、戦いに一部興奮、やりがいを求める部分もあり。

    大和と米軍機動部隊の攻防。波状攻撃。
    大和沈没後の誘爆、駆逐艦で救助されるまでの出来事。ここが一番生々しかった。
    生きているのが苦しい、死んでやろうか。

    駆逐艦のスクリューで巻き込まれて、、

  • 916-Y
    文庫

  • 本文は文語体で、馴染みがない文章なので難しかったが、その後の著者の解説を読むとなぜ文語体が用いられたのかが分かる。大和の特攻、必敗の作戦に赴き、援護もなく立ち向かっていくがやられ放題、最後には沈んでいく様がなんとも悲しい。生き残ってもまた苦悩、、、

  •  吉田満は1923年に生まれた。1945年に22歳。九死に一生を得て戦後を迎えるが、1979年、高度経済成長の最中、56歳という若さで亡くなっている。
     20代に、初めて読んでい以来、沈没寸前の大和艦上の凄惨な描写が忘れられない。臼淵大尉はじめ、少壮の将校たちの特攻に対する議論が、戦後日本の浮かれた経済成長を批判する言説として読み継がれてきた一面が強い作品だ。しかし、ここに描かれている、艦上の凄惨にこそ、「死」と「国家」を天秤にかけた議論以上に、吉田の国家や戦争の持つ、本質的な「人間蔑視」批判のメッセージを読むべきではないのかと、最近気づいた。
     先日、呉の「大和博物館」(?)の前を通った。金のかかった威容に驚いたが、入る気はしなかった。ずっと高齢の老人の団体が、ポセイドン像へのあからさまな感動を口にしながら入館していたが、神話化し美しい魂の結実のような、戦争機械の美化は、本当にもうやめた方がいいのではないか。
     戦没者の慰霊を、国家の美化にすり替えるペテン師たちが、大手を振って歩きまわっている。吉田が生きていれば、どう感じるのかわからない。しかし、自分の孫の世代の「日本人」が、ここまで恥知らずな言説を振り回していることには驚くに違いない。

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