「平穏死」のすすめ

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (202ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062160148

作品紹介・あらすじ

延命治療の限界、安らかな「看取り」を考える。「特養」常勤配置医が初めて提言。

感想・レビュー・書評

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  • 特養老人ホームの常勤医である筆者の実体験を元に語られる看取りの現実。

    嚥下障害から誤嚥性肺炎となりホームから病院へ送られる高齢者に医師は胃瘻を薦め、胃瘻を施された患者はホームに戻ってくる。
    寿命を迎え死に向かおうとする身体に、胃瘻という延命処置は果たして必要なのか。
    過度な栄養分は心臓に負担をかけ、もしくは食道を逆流してまた肺炎を起こし、再度入院するケースが多いという。
    筆者は、本人と親族が望むならば、胃瘻にすることなく、食べられるだけの食事を与え、安らかに老衰死することが認められるべきだとする立場である。

    オランダでは、食べられなくなった高齢者に無理に食事を与えることは、本人の自己決定の侵害だと考えるという。
    日本の介護士は、高齢者に食事をしっかり食べさせることが出来ないと親族から嫌味を言われ、自分の能力不足のように思われてプライドが許さないと言う。
    医師は出来うる限りの延命治療を取らなければ不作為による殺人だと法的に判断される可能性があり、そのリスク回避のために延命治療が選択されている。
    日本人が世界的に長寿であるのは、この延命治療が原因なのではないかと疑わしい。

    日本では、ホームもしくは自宅で死にたい、死なせたいと考える高齢者、親族が大半であるのに、ほとんどの人が病院で亡くなっている。
    厚労省の政策は医師会への利益誘導もしくは医療費削減ばかりを求めているようで、終末期医療についての根本的議論が足りていないように思われる。

    誰も死を逃れることは出来ない。
    安らかに老衰死出来ることこそが国民の望みであり、幸せではないだろうか?

  • 特養に常勤で勤めているというそれだけで希少なお医者さんの書いた本。字が大きくて読みやすいし、内容もコンパクトだからあっという間に読めてしまいます。

    何が書いてあるかを要約すると、80~90歳のもう経口摂取すらままならない高齢者に対して、胃に穴をあけてまで栄養を与えて生きさせることに何の意味があるのか、年をとって死ぬことは自然のことなのだから、医療的介入を続けて本人の身体的負担を強いてまで生きてもらわなくてもよいではないか(それを「延命至上主義」とも表現しています)、それが人間にとっての死ということではないのか、ということを老人介護の現場経験を元に書いておられるわけです。

    特に経口摂取が困難になる高齢者というのは、脳梗塞などの既往歴がある認知症の人が多く、胃ろうをつくるかどうかの判断を本人ができず、ほとんどが家族の人に委ねられるのが現状です。でも、わからないわけですよ。それが本当に最善の選択なのかなんて。死に関することなんて、認知症でなくても本人にすらわからない可能性もあるのに。

    ということで、なんだかよくわからないまま、とりあえず医者に言われるがままに、少しでも長生きして欲しい(もう十分に生きてるはずなのに・・・)という考えのもと、PEGという胃に穴を開ける手術をする高齢者がたくさんいるわけです。介護施設ならそんな人は必ずや一人はいると言っていいでしょう。

    そういう現状に対して本当にそれでいいのか?ということを問いかけているのがこの本なのです。

    まあ、そういう考えの人が読めば、「ああそうだなあ」と自分の考えを後押ししてくれる本だと思います。

    でも、死について、看取りについて、もっと深く考えようとしている人にとってみれば、物足りない部分もあると思います。たとえば著者のすすめる「平穏死」(あるいは自然死)とはいったい何を意味しているのか・・・

    それらを含め、議論の叩き台として、問題提起の書として、読むに値すると思います。

  • 深く考えさせられた 私の働く施設では水分と養分摂取に必死にならざるを得ない 実際飲ませた所で回復しない人もいる 最終的には入院となる 今の施設では看取りはしない 看取らないので辛い所へ食べさせたり飲ませたりさせなければならない 死を待つ人への食べさせなければならない食事介助はお互いにとって拷問である こんなにしてまで食べさせなければならないのかとの疑問を抱くのが間違いではないと教えてくれた本

  • 誤嚥性肺炎を避けるための胃ろうが誤嚥性肺炎の原因になるとは、知りませんでした。
    超高齢者に必要な一日の栄養量が医者にも分からないこと、点滴のしすぎで水死する高齢者がいることも知りませんでした。
    医者である著者が(同業者に恨まれることもあろうに)よく書いてくれたなと思います。

    老人ホームで死ぬことを望む人がいることすら、視野狭窄で知りませんでした。

    自宅か病院かだけでなく、本人が望むなら住み慣れた老人ホームで死ぬことも選べるようにならないと、私たちの行く老いの道は、草木も生えぬリノリウムの道だけになってしまいそうです。
    まずは親を送る人たちが、我がこととして親の旅立ちに接することから始めなければと思いました。

  • 特別養護老人ホームの医師として働いてる医師の本だが、私も非常勤とは言え同じ立場だ。何が理不尽って自分の死の時期が選べないのが正直理不尽と感じてしまう。著者の勧める平穏死は必ずしも自分で決めるものではないが、少なくても家族は一定の段階でその人の大事な人の生を諦め、徐々に安らかに死に向かうその過程を手伝うべきなのだと思う。最近私もそういっった死に立ち会う場面が増えた。そして思うのは病院で点滴につながれた死の悲惨さであり、不条理であり、理不尽であり、無駄な医療だ。

  • 経口摂取について、栄養について中心にありながらも、自然な死とは何かを考えさせられる。是の批判を読みたい。

  • 元外科医で現在特養ホームの医師である作者の言葉は重い。自分自身、親の介護どちらにしても知っておかなくてはいけないことだと思う。

  • 自分の死は、自分で選ぶもの。当然の権利である。
    医療が発達した現在、本人が望まないで、生かされている現状がある。問題にもなっているが、胃樓と経管栄養だ。
    この本は、石飛医師の経験と現場の声が沢山載っている。

    印象的なのが、その中の「三宅島」の話だ。“年寄りは、食べられなくなったら水を与えるだけだと、静かに息を引き取る”。
    ひと昔は、ごくごく当たり前のことだったのだろうが、現在はそれすら出来なくなり、病院で死を迎える人の数が多い。私の親戚もそうだった。且つ、胃樓もしていた。その時に、第三者であるが、果たしてこれが良かったのだろうか、と疑問を抱いたことがある。介護職に着いた現在でも、医療と介護の連携の難しさ(制度・現場問題)には、頭を悩ませることも多い。

    石飛医師の、特養での取り組みには、学ぶところが多い。
    本人が本人らしく生き、本人が本人らしく死ぬこと。
    ADL(日常生活動作)の低下に加え、IADL(手段的日常生活動作)の低下=認知症状が出ようとも、感情は絶対残っている。それは、認知症のお年寄りと関わっていて、必ず感じることだ。「看取り」をする現状は、在宅では厳しいと言わざるおえない。畳の上で死にたいと思っていても、それが出来ない現状なのだから。だからこそ、このように様々な機関との連携が大切であり、これからも真剣に皆が考える必要があると思う。

    自然の摂理に背かず、『平穏死』を迎えたいと切実に思った。

  • 胃ろうによって約半年命をつないでいた父親が昨年亡くなった。何の疑問もなく医者の勧めによってそうなったが、この本を読んで、いかにいろんな問題を含んだ処置なんだと実感した。
    現在、特養に勤務している私。身近に「口から食べられなくなった」人、あるいはそれに近付いている人を毎日見ている。家族の立場に立てば、安易にこの本の内容を請け売りできないが、人間の終末について考える上で、非常に示唆に富んだ本だ。
    字が大きくて読みやすいのがなにより(^^♪

  • ご主人をみとられた友人から借りて読みました。父のこれからの介護について、1つの考え方の目印ができたような気がします。ひいおばあちゃんを見送った頃には、普通だった身うちの看取り方が、おばあちゃんの亡くなったころには普通でなかった…。それがまた、今になるとどちらが普通であるべきか、医師も家族も施設も、再び考えるいうところにきているわけでしょうか。

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著者プロフィール

医師・東京都済生会中央病院副院長を経て、現在世田谷区立特別養護老人ホーム 芦花(ろか)ホーム医師

「2016年 『とまどう男たち―死に方編』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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