私のいない高校

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (234ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062170086

作品紹介・あらすじ

カナダからの留学生(でも英語が苦手)を受け入れた、とある高校での数ヵ月-。描かれるのは至ってフツウの学園生活のはずなのに、何かが、ヘン…。"物語"の概念を覆す、本邦初「主人公のいない」青春小説。

感想・レビュー・書評

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  • なんともおぞましい小説。“私”や“物語”の不在がおぞましいのではなく、それ以外の事象(≒出来事)があまりにも満ち足りており、それが定型句による記述のみで成立することに戦慄した。『私のいない高校』は“ページをめくる”という行為が内包している物語への期待や欲望を悉く裏切る。だからこそ、ページをめくる行為をやめられない。これがたとえばスマホでスクロールしながら読む形式だったら多くの人間が頓挫したであろう。
    二巡する意義のある小説。一巡目は奥付にぶちあたるまで、物語を期待し続ける。いわゆる小説が好きな人ほど、その呪縛から逃れられない。しかし、二巡目はそうはいかない。どんな景色が待っているのだろうか、今からワクワクしている。という期待すらも破壊されるのかもしれない。

  • 「学校」がどことどのように地続きなのか、考える。

    きょうれつなやつである。これ。とある高校教諭の教務日誌的なものを参考資料にして(というよりほとんどそのまんま、という話も聞くのだがそれの資料自体まだ未見なのでなんとも言えず)、どちらかといえば先生の側の視点、でも人称を変えているのでちょっとずれてなんともピンぼけな印象のまま文章が続いていく。内容的にはどこにも変なところはない、至極まっとう。何が起こるというわけでもない。こんな感じだったか、学校生活、いやこんな感じだったわな、でもすげえなようこんなんやっとたわな、そして先生方もようこんなところでこんなふうに日々過ごしとったよな、と思うのである。地続きなのかな、いまと。いまにつながるための、あれだったのかな、とも思う。

    『私のいない高校』、というタイトルで、「私」の、で、タイミングとしては『教室内カースト』という本を先に読んでいたし、『桐島〜』の本や映画の噂を聞いていたりしたので(つまり未見)、そういう部分もあるのかな、と無意識に期待していたけれど、結果は…むーん。まあ、ただ、担任の目線でクラスをつぶさに観察しているはずなのに、明らかに言及される生徒の数は少ない、と感じるので、そういう意味でも「私」のいない高校なの?どうなの?

  • ストーリー皆無。人格不在。もちろん作者の「言いたいこと」など何ひとつ書かれてはいない。史上最も国語入試問題に不向きな小説の誕生。

    しかし何気ない描写がいちいち面白く、だがそこに物語的な面白さは一切ないと言い切れるのが凄い。描かれているのはただただ、「日本の高校にやってきた外国人留学生の日常」。それ以上でも以下でもない。さも山場っぽく修学旅行が描かれるが、そこには突然の告白も熱い友情もなければ「外国人から見たニッポン」といった類のいかにもな発見も別にない。

    その面白さの質は、まさに我々が日常生活(学生生活)の中で、自分だけにとって面白いと感じる個人的な感触に満ちている。それが極めて平坦に平板にそして意識的に、強弱も緩急も極力排したフラットな文体で淡々と描かれるのみ。修学旅行のラスト、担任教師が口にする「無事、家に辿り着くまでが――」の常套句に代表されるように、「いかにも」な言動と日常的シチュエーションの連続は、まったく小説を前に進めようとしない強い意志に貫かれている。ここまで「物語」という推進力のない小説は珍しい。通常、小説を読み進めるモチベーションとして当然存在すべき「続きが気になる」という感覚が、この作品からは微塵も感じられない。予感も予兆もない世界。正直、僕は中途で二度挫折し、三度目でようやく読み通せた。だがそれは「面白くないから」ではまったくなく、むしろ「この先もいま読んでいる箇所の面白さが永久に続くだろう」という作品への信頼感からくる妙な安心感ゆえだったような気がする。

    人が物語の先を急いで読みたがるのは、通常「この先もっと面白くなるはずだ」という期待を推進力にしている。だがそれは裏を返せば、「この先よりいま読んでいる箇所は面白くないはずだ」という確信に基づいているとも言える。そういう意味で、小説には普通面白い箇所とそうでもない箇所の「波」があるというか、むしろそれを前提として、振れ幅を効果的に利用すべく作られているものが多いが、本作にはその「波」というものがまったく存在せず、「凪」のまま最後まで平行移動する。だが「凪」の状態が充分に面白いのだから、それでなんの問題もないどころか、高いレベルをキープし続けるある種の理想型とも言えるわけで、全体を通してフラットなぶん精度のバラつきがない。結果として、底辺から頂点へと向かう上昇時に湧き上がる一時の興奮ではなく、虚空を漂う浮遊感が継続するタイプの小説になっている。もちろん「起承転結」などというものは知らぬ存ぜぬな顔をして。

    「平坦な日常の描写」という感触はいかにも日記に近いのだが、まったく関心の持てない、キャラクター性をあえて排した人物の日記を、人は普通面白く読めるものではない。だがこの小説に描かれた心底どうでもいい人たちの学園生活は、読者にとってどうでもいいままに面白い。どうでもいい人のどうでもいい話を聞いて興味を持つことは稀だが、たとえば時にファミレスの隣席で交わされている会話が想定外に「ある意味」面白いことがあるように、まったくないというわけではない。たとえば見るからにモテなそうな先輩とそれより少しはモテそうな後輩という男二人組がいるとして、最近フラれて落ち込んでいる後輩に先輩がドヤ顔で投げかける「大丈夫。女は星の数ほどいるさ」という台詞が持つ一周した面白さ。いやそんなシーンはこの作品にはもちろん出てこないのだが、そういう類の「あちゃー」と言いたくなるようなどうでもいいままに滑稽な台詞が、本作には不意にあちこち登場する。そしてそんな稀に遭遇する「なぜか面白い場面」が連続する世界があるとしたら、やはりそれはフィクションの中でしかあり得ないのかもしれず、この小説が描いているのはいかにも平凡な日常に見せかけて、実は日常のふりをした異常な世界だとも言える。

    本作の中心視点人物である担任教師(しかし主役とも語り手とも言えない)は、いかにも先生らしくすべての言動に意味を後づけしたがるが、それはむしろ徹底的に安っぽく、アイロニーとして描かれる。そもそも修学旅行というもの自体、教師側の目論見は文字通り「修学」であるにもかかわらず、多くの生徒にとってそれは第一に「遊び」なのであり、そこに「学び」があるかどうかは結果論にすぎない。そして読者の中にも、教師のように「有意義な何か=学び」を求める人と、生徒のように「面白い何か=遊び」を求める人がそれぞれいるはずで、それは教師や学生が「修学旅行」という言葉をどう捉えているかと同じように、「小説」という言葉をその人の中でどう定義しているかによるだろう。そしてこの小説は明確に、「遊び」を第一に求める後者に向けて放たれている。そこに学びがあるとすればそれは作者も意図せぬ何かであって、作者の意図した何かではあり得ない。

    ちなみに美しい装丁から感じられる「切なさ」の感覚は皆無であり、これもむしろ安易な感傷ばかりを求める昨今の小説に対する皮肉であると受け取れる。少なくとも、即物的な「感動」や「泣き」を求める向きにはまったくお勧めできない小説であることは間違いない。もちろん某かの「意味」や「明日へのメッセージ」、ましてや「生きるヒント」を欲しがるビジネスライクな横着者にはもっとお勧めできない。『金八先生』と『深イイ話』を交互に繰り返し観るべきだ。しかしそれ以外の、まだ見ぬモヤモヤとした面白さを求める勇者には強くお勧めする。

  • これを書いた人も、これを出版させた人も凄いと思う。

  • 青木淳悟はいつも実験的な小説を書くという印象がある。で、読み始めてしまってから、あれ何でこの本を読んでいるのだったかな、という疑問を抱くことになる。というのも、別に実験的な小説を読みたいと思う程に文学にハングリーな訳ではないからなのだが、その著者の名前の背表紙は何か自分の中にあるものを引き寄せるらしい。

    青木淳悟の小説は事実を述べた文章をパーツのような組み上げる。このあいだ東京でね、も同じような文章群からなる本だった。そういう組み合わせから何かが立ち上がっているのかも知れないのだけれど、それを感知するには至らない。不可解なのである。この小説では「私」という人称で指示される人物が出てこない。それだけのことで他は何も変わらないと言ってしまうこともできると思うのだけれど、何かが動き出す気配は消えてしまう。

    もちろん、それはとても実験的で意欲的なことなのだとは思う。一人称のいない世界を第三者だけで動き回る。ところがとても不思議なのだが、一人称で呼ぶ人物のいない世界は、全ての人が消えてしまってもぬけのからのように見えてしまうのだ。そしてとてつもない空虚な感じが漂ってしまう。その感じには見覚えがある。それは自分以外の存在は全ての自分の脳の作り出した想像の産物ではないかと疑ってかかった時に感じるあれだ。

    そういう小説があってもよいとは思うけれど、どうしても「何故」という疑問がつきまとう。青木淳悟、ますます遠のくような気がしてならない。

  • 裝画/河村怜
    裝幀/泉沢光雄

  • カナダ人留学生がクラスに来てからの学校の日々を、主人公もストーリーもなく淡々と記録するかのように書かれた、タイトルどおり「私」が不在の小説。ある学校の教員が書いた学級日誌的な話を、フィクションに書き換えて創作したもののようだ。
    主語にクラスの担任を置く文が多いものの、その主語はほぼ終始「担任」という第三者的呼称で統一されている。担任視点の文があったかと思えば、隣接する文でその担任を第三者的視点で描写したりしていて、頻繁に視点が揺らぐ変わった文章になっている。
    ストーリーの観点から言えば、俗にいう起承転結の「起」あるいは「承」までしか描写されていない印象を受けた。クラス内での紛失事件や、他校の校長自殺事件が起きていることが描かれるが、それらは何の結果も生み出さない。これから何か起きるだろうという予感、これは伏線になっているんだろうという読みをことごとく裏切り、小説は唐突に終わる。
    物語の展開がなく、日々の出来事が羅列されるだけという構成上、途中何度も挫折しそうになった。これほどの細部は不要なのではないかと思われる詳細な情報(クラスの時間割など)が多いが、それがないとノンフィクションを基にしている意味や効果が薄れてしまうんだろう。表面上書かれている記述は平易そのものだが、意図や目的を考えると難しい、揺蕩っているような小説だと感じた。

  • なかなか慣れるまで読みづらい小説だ。3人称で語られる日記とも言える。ブラジルからの留学生について高校でのできごとを中心に語られる。修学旅行は詳しく語られる。また古文についてはやや唐突なくらい、語られる。上手いのかどうかよくわからなくなった読後感は奇妙な感覚を残した。

  • 関節の外れたような捉えどころのない小説。いや、小説と読んでよいものかどうかさえ微妙である。実際の留学生受入体験記を下敷きに、フィクションとして改変を加えたと言うが、いったいどこをどう改変したのやら。

    一応はクラスの担任の視点を中心に、三人称でひたすらディテールの積み重ねが語られていく。スジもなければヤマもなければオチもない。それらしきもの影さえ見当たらぬ。

    強いて言えばなんだか不穏なものを読んでいるような気はしてくる。担任の粘着質的というか、ともすればストーカー的な行動のせいか。そういえばカメラが趣味の先生ってなんだか少しヤラシイ。でも、そんなの深読みだよという感じで何も起こらない。でも、何かがずれているのだ。それがフィクションたる部分なのだろうか。

  • 学校の生活が日記形式で書き綴られている本。
    これはこれで、ありなんだと思った。

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著者プロフィール

青木淳悟(あおき・じゅんご)…1979年埼玉県生まれ。早稲田大学第二文学部表現・芸術系専修卒業。2003年、「四十日と四十夜のメルヘン」で第35回新潮新人賞を受賞し小説家デビュー。05年、同作を収めた作品集『四十日と四十夜のメルヘン』で第27回野間文芸新人賞、12年、『私のいない高校』で第25回三島由紀夫賞受賞。ほかの作品に『いい子は家で』『このあいだ東京でね』『男一代之改革』がある。

「2015年 『匿名芸術家』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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