哲学問題としてのテクノロジー: ダイダロスの迷宮と翼 (講談社選書メチエ 183)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (244ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062581837

作品紹介・あらすじ

バイオ、ナノ、コンピュータ-三つの究極のテクノロジー。生命・物質・情報を「編集」する驚異の技術を手に、人類はどこへ行くのか?解体する「主体」。「知」の根源的変容。怪物と化した「システム」…。「生命」「時間」の視点から、「知」とテクノロジーと自由の新たなあり方を探る。

感想・レビュー・書評

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  • 36697

  • コンピューターテクノロジー、ナノテクノロジー、バイオテクノロジーを
    「情報の編集可能性」という観点から統一的に考察している点が、
    非常に面白かった。

    「それまで「物理現象に還元することが不可能であり」、
    「人間が知り得ない神秘的で深遠な領域であり」、
    「対象化することができない第一次性」であると考えられてきた
    「こころ」や「生命」や「物質」を、「情報の組織化」という形で
    一元的に捉え、しかもそこに人間が技術的に関与することが
    可能であるということ・・・
    ここから、「意識の編集」「生命の編集」「物質の編集」という
    技術的可能性が生まれる」(p.128)。

    従って、

    「たとえば、「脳死」問題や「遺伝子操作」問題などとして
    語られていることは、実は「ソフトウェアの著作権」
    「コンピュータ・ウィルス」「地球環境」
    「核施設の管理」「不死」等々の問題と同一の根をもっているのだ。
    それらはすべて、意識、生命、物質などを情報の組織化の問題として
    一元的に捉え、そこに人間が編集的に関与するという、
    新しい技術が生み出すパラドクスから生まれてくる
    問題なのである。」(p.129)

    つまり、著者は、「私たちが私たち自身を編集する」、
    すなわち「自然と生命のサイボーグ化」(p.133)を目指す
    技術の自己編集性によって、
    私たちの世界了解が壊乱してしまうことに
    問題の焦点を当てているのである。

    これに対して、

    技術と自然の対比による、
    ありのままの「自然」というような概念に訴えかけても、
    自己編集(世界加工・生命加工)的な技術を
    正面から捉えることはできない。

    そこで、著者は二つの方向性を新たに提案する。
    一つは、「技術とは生命の延長でなくてはならない」(p.195)というもの。
    技術とは、あくまでも生命という潮流の中に根ざすべきものであり、
    生命を窒息させるようなものになってはならない。

    もう一つは、自己編集的世界観の中における
    人間主体の位置づけである。
    人間の身体機能の延長に過ぎなかったテクノロジーの形態は、
    産業革命以降、「脱身体的」、「脱主体的」なものへと変わっていった。
    そんな中、私たちは新たな主体のあり方、
    ―「サイボーグ的主体」なるもの―を見出していかなければならない。

    それは、技術と人間の二項対立図式の下で、
    「ノスタルジックな過去回帰を説く反近代主義」(p.99)とは異なる、
    かといって、やみくもに技術を推進する立場とも違う、
    新たな技術論の道として著者は描いている。

    この第三の道がどのようなものになるのかは、
    本書では詳しく書かれていないのだが、
    進むべき方向性としては、間違っていないだろうと感じる。

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