「社会」の誕生 トクヴィル、デュルケーム、ベルクソンの社会思想史 (講談社選書メチエ)
- 講談社 (2011年8月11日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062585088
作品紹介・あらすじ
神という超越性に包摂された世界から、社会という観念が切り離されたとき、「社会科学」が生まれた。19世紀フランスに生まれたトクヴィル、デュルケーム、ベルクソンという三者を、ひとつの流れとして読み解く、これまでにない「ユニーク」な思想史。
感想・レビュー・書評
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トクヴィル、デュルケム、ベルクソンの3人を取り上げ、「社会」がいかに思想的にとらえられてきたという系譜を追う思想史。トクヴィルは、「神の御業」としての世界が二月革命によって神の摂理が後退し「社会それ自体」を発見したという。デュルケムはパリコミューン以降、カトリシズムにとってかわる共和制の世界観樹立のために、社会を「物」としてとらえようとする一方、人間の「生」にその社会の基礎を見いだそうとする。ただしそこには人間の「生」を「物」としてとらえられないという矛盾を孕んでいたのだが。
第一次世界大戦のさなか、かつて超越的権威だったカトリシズムは共和制のなかに取り込まれるなかで、ベルクソンは「個人に外在し個人を拘束する社会的事実の全体ではなく」「至高の権威をもった抑圧的義務的な統合体でもな」く、「人間性を持つ存在としての人間の統合体であり」「人間性の原理そのものへの愛において愛し合う存在の全体としての統合である」(pp.154-55)。人間性とは「人間たる限り普遍的である本質」…たとえば「意識」…である。と思う。
その結果現出する社会は、「他者が他者であると、他者も生きた人間であると否定し難く見えることそれ自体が私という生の創造性の発露であり、またそのことによってこそまさしく他者が自由な存在として創造されているのではないか」という「他者像」を前提に、「相互創造する存在の全体」(p.181)が人間社会の定義ではないかという結論に達する。
…大雑把にいうとそういう流れだと思う。思想家と現実の歴史過程を対比させながら、それぞれの思想家の「社会」概念形成を追っている点は興味深く読めた。ただ、どこまでが現実でどこまでが理念なのか…読みながらそれがわからなくなる。いや、理念と現実に明確な区別を置くことに意味がないのかもしれないが、それでも、ベルクソンに至って到達した「社会」概念が、今のわたしたちの社会にいかほど実現しているのかという点が、少し気になったのだった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
トクヴィルとデュルケームとベルクソンを繫げるのは珍しい。特にベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』を扱っているのがポイント。社会とは人間的超越性なんですね。
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革命以来の個人対国家の二極構造が破綻をきたすなかで、超越的審級に頼るのではなく「社会」という中間的な領域を想定しながら個人の主体性を捉え直した三人の思想家を関連づける試み。前の二人は常道だが、最後にベルクソンをもってくるのは少し強引な気がした。バーター。
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神なき時代に、人間を保証するものはなにか。最後にはこの答えに辿り着く。とてもわかりやすく良い本だ。半分ぐらいまでは、キリスト教カトリック信仰がうすれ世俗化するなかで立ち現れてくる社会という社会思想史的説明。神がいなくとも同等な人間一般というものを保証するものはなにか、というのが後半。
あのベルクソンをこうも軽く料理してしまう。そのへんに興味がある人がまず気軽に読むのにとても面白いのではないだろうか。ただちょっとかなりニッチな切り口ではあると思うが、それがいいところでもある。 -
【読書その34】和歌山大学教授の菊谷和宏氏の19世紀フランスで生まれたトクヴィル、デュルケーム、ベルグソンの思想を解説した本。菊谷氏は一橋大学社会学部で、自分の学部の先輩。神という超越的存在に包まれた世界が社会という観念が切り離され、「社会科学」が誕生したという。中でも特にデュルケームの「自殺論」には興味を持った。是非読んでみたい。
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デュルケムの章が興味深かった。