享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」 (講談社選書メチエ)

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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062586641

作品紹介・あらすじ

日本列島での戦国時代の開幕は、一般的には応仁元年(1467)に始まる「応仁・文明の乱」が画期とされることが多い。この戦乱で京は焼け野原となり、下剋上があたりまえの新しい時代が訪れたというわけである。
 最近でも、呉座勇一氏のベストセラー『応仁の乱』(中公新書)のサブタイトルは「戦国時代を生んだ大乱」となっている。新書などのタイトルは概して出版社や編集者の意向をうけて決まることが多いから、やはりこれは最大公約数的な見かたといっていいのだろう。
 さて、のっけから恐縮だが、その見かたは、まちがっているとまでは言わないまでも大きな問題がある。
 私の説は思いきって簡単にいうとこうなる。

 ◎戦国時代は応仁の乱より13年早く、関東から始まった
 ◎応仁の乱は「関東の大乱」が波及して起きたものである

「関東の大乱」というのは享徳3年(1454)12月、鎌倉(古河)公方の足利成氏が補佐役である関東管領の上杉憲忠を自邸に招いて誅殺した事件を発端として内乱が発生し、以後30年近くにわたって東国が混乱をきわめた事態を指す。
 この内乱は、単に関東における古河公方と上杉方の対立ではなく、その本質は上杉氏を支える京の幕府=足利義政政権が古河公方打倒に乗り出した「東西戦争」である。しかし、これほどの大乱なのに1960年代初頭までまともな名称が与えられておらず、「15世紀後半の関東の内乱」などと呼ばれていた。
 (中略)
 関東で起こったこの戦乱は、戦国時代の開幕として位置づけるべきではないか、そのためには新しい名称・用語が必要ではないか。こう考えた私は「享徳の乱」と称すべきことを提唱した。1963(昭和38)年のことである。この歴史用語は、その後しだいに学界で認められて、今日では高校の歴史教科書にも採用されるようになっている。
 しかし、いまだに「戦国時代の開始=応仁・文明の乱」という「国民的常識」は、根強く残っている。それを正すためにも、「享徳の乱」をメインタイトルとした書を世に問いたかったのである。本書は私の年来の宿願である。
(「はじめに」および「あとがき」より抜粋要約)

感想・レビュー・書評

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  • 「享徳の乱」の名付け親だという著者の一般向け概説書。関東で発生した「享徳の乱」こそ戦国時代の幕開けだとする著者の主張を、享徳の乱の過程を通じていろいろな角度から照射する内容になっている。

    著者の最も本書で訴えたいポイントは次の二つとのこと。
    ◎戦国時代は応仁・文明の乱より十三年早く、関東からはじまった
    ◎応仁・文明の乱は「関東の大乱」が波及して起きたものである

    しかし、読み進めていっていろいろと疑問点が湧いてきた。
    まず第一に巻末の年表をみての通り、関東に限ってみてもかなり短い間隔で乱が起きているのが分かる。
    上杉禅秀の乱(1416年)、永享の乱(1438年)、結城合戦(1440年)、享徳の乱(1454年)、長尾景春の乱(1477年)、長享の乱(1486年)・・・。
    このうち、直接的には結城合戦は永享の乱の結果を受けて、また長尾景春の乱は27年続く享徳の乱の過程において発生している。
    さらに京においては1441年に嘉吉の乱、1467年には応仁・文明の乱が発生しており、これらの乱は当然のことながら水平的・歴史的にお互いに何らかの関連があるものであり、乱によっては10年・20年のスパンで続いているので、どの乱が戦国時代の始まりかなどそう簡単に区切り良く言えるものではないのではないか。

    次に著者は享徳の乱が中世の「職の体系」を根幹とする守護領国体制(鎌倉府体制)を破壊し、それを契機に一円の領国支配を指向する戦国領主が誕生したとしているが、本書の「むすびに」で書かれてある通り、そうした動きが出るのはむしろ永享の乱終結後の結果として進行していったのではないかと思える。
    享徳の乱の過程とその発端となった鎌倉公方と関東管領の対立が、従来の支配秩序を破壊し「職の体系」を無視した所領獲得が横行したことはもちろん首肯できるのだが、「領主」としての一円支配をこの時点で指向できたかと言えば、古河周辺と五十子陣に諸将が集結・対峙している現状、乱を生き抜くために階層的な家臣団の形成と他領への侵入(強入部)は行われるものの、まだそうしたところまでは至ることができずようやく萌芽し胎動し始めたというのが実情なのではないだろうか。

    また永享の乱が応仁・文明の乱へ波及したという主張だが、堀越公方・足利政知に帯同し積極的に外交攻勢を仕掛けていた渋川義鏡の息子が斯波義廉ということを大きな論拠にしているようだが、しかし、関東の上杉氏を後押しし古河公方・足利成氏を潰そうとしていた将軍・足利義政と管領・細川勝元に対し、両者の和睦を進めようとしていたとする斯波義廉・畠山義就・山名宗全の路線の対立という論理構成からするとむしろ真逆の立場であると言え、そもそもそうした対立構造が大戦にまで結び付くかと言うとそこはようようと納得できるものではない。(この手の論述はたまに歴史書でも見かけるが、そのようなことだけで普通は戦争にはならないと思うが如何?)
    そもそも堀越公方・政知は結果として伊豆以東へ進出するのを最後まで味方であるはずの上杉方に阻まれており、渋川義鏡がそこまで力を持ったのかという疑問もある。
    応仁・文明の乱の発生はやはり、それぞれの家内部の矛盾構造がそれぞれの利害関係に結びついたということが応仁・文明の乱の原因であり、享徳の乱との連動が一因であるとは思うがあたかもそれだけのように「波及」したとまでは言い過ぎのように思える。

    逆に本書で良かったと思える点は、新田岩松家純や太田道灌、長尾景春といった乱で活躍した武将らにスポットライトを浴びせたことだろう。
    特に太田道灌や私利私欲に走る長尾景春の動向などはとても面白かった。新田岩松家純の私利私欲ぶりも面白かったのだが、著者が狂言回し役と位置付けていた割にはそこまでの働きはなかったようにも思う。(笑)(近年の呉座勇一の『応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱』もそうであったが、最近狂言回し役を立てるのが流行っているのかな?)
    ただ、自分としてはより乱に直接的な立場であった古河公方・足利成氏とか、対する上杉方の要の関東管領・上杉房顕、越後守護・上杉房定と子息の顕定などの動向がもっと知りたかったので、乱の経過の記述としては少し物足りなさも感じたところである。
    乱そのものについては、室町時代に関東で発生した有数の大乱であったにもかかわらず、われわれ後世の人々にはあまり知られておらず、こうしたところを掘り起こし世に知らしめた点においては高く評価できる。

  • 自分が関東の人間でありながら
    応仁の乱に先立ち
    かつ30年近くに渡る戦乱があったとは
    知らなかった。最近関東の史跡を訪ねているが
    あちこちに享徳の乱の関連する場所があったようだ。
    この戦乱がその後の戦国時代に
    どのような影響を与えたのか
    もう少し探ってみたい。

  •  応仁の乱と時を同じくして、鎌倉公方と関東管領が対立。関東を二分する大乱が繰り広げられた。それが享徳の乱。さて、その実態はいかに??

     私の高校時代にはまったく習わなかったこの享徳の乱、当時の関東の事情も含めて、発生した背景も分かりやすく書いてくれている。鎌倉公方と関東管領という支配層だけでなく、新田岩松氏という国人衆も取り上げて当時の関東事情も合わせて説明している。

     享徳の乱自体は出てくる人物像がよく見えないことや、乱が終わっても既存の価値は大きく変わらなかったことから、何というか、地味。しかし、鎌倉公方がこののち関東の一部の実効支配を果たし、戦国大名の奔りとなったことが本書でよくわかった。研究が進めば、もっと魅力ある分野になるかもしれない。

  •  1454年、鎌倉公方足利成氏による関東管領上杉憲忠の謀殺を機に、以後28年にわたり続いた関東の内戦=享徳の乱の全容を明らかにしている。応仁・文明の乱をもって戦国時代のはじまりと見做す通説に対し、先行する享徳の乱こそ中世の守護領国体制・荘園制の変質・崩壊をもたらした画期であったことを明快に示している。応仁の乱の原因についても、享徳の乱への介入をめぐる幕政の路線対立を主因とし、むしろ関東の内戦が畿内に飛び火したと解釈しているが、この点についてはより精緻な検証が必要だと思われる。

  • 『戦国時代は関東から始まった』
    と言う主張は、まぁそう言っても良いのかなと思った。
    ただ、『応仁・文明の乱は関東の大乱が波及して起きた』
    の方は、そう言い切るほどの説得力があったとはいえない。

    ちょいちょい地図も出てきて理解を助けてくれた。
    ただやっぱり登場人物が多くてこんがらがる。

    ちなみに再読。

  • 応仁の乱より前に関東で勃発した大乱を「享徳の乱」として、応仁の乱勃発の要因、そして戦国時代の到来の起源という説を提唱する著者の渾身の一冊。
    応仁の乱もそうだけど、鎌倉時代の源頼朝や源義経、建武の新政から室町幕府スタート期の足利尊氏や楠木正成、そして戦国時代の織田信長や豊臣秀吉などの、軸となるスター武将が不在なたため、人物相関も含めて中々複雑で、またそれにより新たな時代の幕開けになった訳でもなく、より混沌とした戦国時代に突入し、登場人物の多くがその混沌の中で没落していった事から、カオスで興味深いはずなのにイマイチ地味だった時代だが、改めて読んでみると面白い。
    けど理解を深めるには、もっと頭を整理しないと。

  • 先週、群馬県藤岡市の鮎川に行ったら、平井城址があったので行った関係で読んでみました。

    著者は戦国時代の始まりは享徳の乱であると言いたいようだが、テスト以外には意味のない話だ。
    次の日にいきなり戦国時代が始まるわけではない。そもそも、室町時代自体がずっと戦乱だったし、そんなので区切ること自体がナンセンス。
    https://seisenudoku.seesaa.net/article/472425895.html

  • 享徳の乱を戦国時代の始まりと位置付け、古河公方と関東管領上杉家の争いを追っていく。

    特に、各地に散っている所領が、戦国時代にその土地に根付いた武力勢力によって「強入部」されることで、守護、守護代による間接支配から、直接支配になっていく様子が面白く読めた。

  • “あの”東国武者が、都の戦乱の余波が来るまで黙っている訳ねえってのw
    と、言うわけで、応仁の乱は享徳の乱の余波である(享徳の乱が本心)という説に説得力を感じる。
    そういえば、「古河公方」って聞いた覚えあったなあ、とか。
    それにしても、想像以上に近所の地名が出てきて驚いた。
    まあ、東国だからね。そこもここも古戦場でおかしくないよね。

    それにしても、享徳の乱の段階で殺し合いすぎて、戦国時代には関東から大物が出てこなかったという点に、戦のむなしさを感じざるを得ない。

  • 15世紀の関東で起きた内乱を描く。筆者は教科書にも載るようになったというが、正直記憶にない。少し後に起きた応仁の乱に比べれば扱いは小さいのが実情だろう。
    だが、この書を読んで、享徳の乱はもちろん鎌倉幕府滅亡以降の関東の歴史を知っていなければ、戦国時代に繋がる流れを理解できないと感じた。北条早雲は享徳の乱の戦後処理の間隙からのし上がったし、上杉謙信は上杉家の名前と関東管領の役職を移譲され関東武士の調停者として振舞っていた。
    本書は複雑な関東の動きを分かりやすく描き、その重要性を認識させてくれる。
    筆者はかなり高齢な人で、冒頭マルクス主義的な視点を覗かせることもあったが、それが全体を通して結論を歪めている印象はなかった。

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著者プロフィール

一九三二年、群馬県生まれ。東京都立大学名誉教授。文学博士。専攻は日本中世史。
慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻修士課程修了。東京都立大学人文学部教授、東京都立大学附属高等学校校長、中央大学文学部教授を歴任。
著書に『中世の東国』『中世社会の一揆と宗教』(ともに東京大学出版会)、『中世災害・戦乱の社会史』『新田義貞』『中世東国の荘園公領と宗教』『足利尊氏と直義』(いずれも吉川弘文館)、『享徳の乱』(講談社)、『中世の合戦と城郭』(高志書院)、『中世荘園公領制と流通』(岩田書院)、『日本中世の社会構成・階級と身分』(校倉書房)など。その他、共編著多数。

「2020年 『中世鎌倉盛衰草紙 -東国首都鎌倉の成立と展開-』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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