- Amazon.co.jp ・本 (780ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062639972
作品紹介・あらすじ
1995年3月20日の朝、東京の地下でほんとうに何が起こったのか。同年1月の阪神大震災につづいて日本中を震撼させたオウム真理教団による地下鉄サリン事件。この事件を境に日本人はどこへ行こうとしているのか、62人の関係者にインタビューを重ね、村上春樹が真相に迫るノンフィクション書き下ろし。
感想・レビュー・書評
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読んで良かった一冊。
1995年3月20日の地下鉄サリン事件。
報道からは得られなかったであろう声に触れられ、読んで良かった思いが溢れた。
涙なくしては読めない被害者、家族のつらさ、あの時のこと、その後。
対して悩みつつも関係者62人に真摯に向き合った村上さんの姿、思いも伝わってきたのが良かった。
印象的だったのは多くの方が警察組織に疑問を感じ、もっと真摯に受け止めていたら…という憤りを口にされていたこと。
そして風化させない大切さが被害者の方、村上さんの何よりの願い。
死刑=終わりでは決してないことを今、改めて思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
おぞましい気持ちを何度も覚えた。
地下鉄サリン事件という一つの出来事を見つめる、六十二人の双眸から辿り着く闇に。
六十二の語り始めはどれも違うのに、三月二十日という一つの点に集約されてゆき、本当にあっけなく非日常に変わってしまう。
そうして、それまでとは異質な日常に戻っていく姿に、何も言葉が出ない。
加害者たちは人間として同じ土台に立ってはいない、と語る人がいた。
人間は、時として人間でなくなることが出来るのかもしれない。だとしたら、彼等は一体何だったのだろう。
読んでいるだけで、無味無臭の恐怖が起きる。
たまたま、電車の中で読んだのだけど、この空間が惨状に変わるのか、と悲しい想像をしてしまった。
村上春樹が、こうした形で本を出したことは、本当に大きいと思う。
他の文庫本なんかを探しても、見つからない本もたくさんある。2014年現在、事件はそういう局面を迎えているのだろう。
「日本のような安全国家」が、こうして嘲笑われるように堕ちていく様子を、私はもう何度目の当たりにしただろう。
そうして、この嘲笑は現在進行形であり、明日はどうなるかなんて、分からない。
けれど、可能性をなくしていくことならば、人間には、出来る。-
「本当にあっけなく非日常に変わってしまう。」
何か起こったら、生き残る自信がないので、普段から身辺を片付けています(積読は全然減ってません...「本当にあっけなく非日常に変わってしまう。」
何か起こったら、生き残る自信がないので、普段から身辺を片付けています(積読は全然減ってませんが)。。。2014/05/01
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地下鉄サリン事件をリアルに捉え、社会学、心理学にも通ずる。各事象の背後に確かに存在する人間と人生、の重要性を改めて教えてくれる。
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ちまちま読んで半年間かけて読了。
1995年3月20日、地下鉄サリン事件。当時3歳にもなっていなかった私にはもちろんなんの記憶もない。
それがどれほど人々を恐怖に陥れたのか、どれほど恐ろしい薬物が撒かれたのか、これを読んで私は本当に何も知らなかったのだと思い知らされた。
ニュースで見て聞いたことではなく、あのとき、地下で本当は何が起きていたのか。その場にいた人々はどういう人生を生きてあの事件に巻き込まれ、そしてその後どのように生きているか。村上さんが約一年かけてインタビューしてきたというこの一冊には、平成最悪の無差別テロとしてニュースでただ流され消費されていくだけのものではない、ほんとうの声のようなものがあったと思う。
被害に遭われた方々の中で、オウム真理教のことを恨んではいない、という方も一定数いたのが印象的だった。もちろん憎んで早く死刑にしてほしいと言う方もいるけれど。
それと、『事件に巻き込まれてからの自分は「もう既に一回は死んじゃっているんだ」と思うことがある、そうすると何かふっきれた感じがして、「そうだ。なにごとによらず迷うことなく前向きにやっていこう」って考えられる』と答えていた方も印象に残った。
宗教ってなんなのだろう。
信仰って?信じるって?
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物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも倫理でも哲学でもない。それはあなたが見続ける夢である。あなたはあるいは気がついていないかもしれない。でもあなたは息をするのと同じように、間断なくその「お話」の夢を見ているのだ。その「お話」の中では、あなたは二つの顔を持った存在である。あなたは主体であり、同時にあなたは客体である。あなたは総合であり、同時にあなたは部分である。あなたは実体であり、同時にあなたは影である。あなたは物語をつくるメーカーであり、同時にあなたはその物語を体験するプレーヤーである。私たちは多かれ少なかれこうした重層的な物語性を持つことによって、この世界で個であることの孤独を癒しているのである。
しかしあなたは(というか人は誰も)、固有の自我というものを持たずして、固有の物語を作り出すことはできない。エンジンなしに車を作ることができないのと同じことだ。物理的実体のないところに影がないのと同じことだ。ところがあなたは今、誰か別の人間に自我を譲り渡してしまっている。あなたはそこで、いったいどうすればいいのだろう?
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最近、電車内での事件が立て続けに起きていたので、ふと地下鉄サリン事件を思い出し、この本を手に取った。村上春樹が地下鉄サリン事件に遭遇した方々へインタビューをした内容がまとめられており、事件のリアルを知ることができる。
自分がもしそのような事件に遭遇したら、どんな行動を取るだろうか。いつもと違う駅でおりるのか、人を助けるのか、それとも会社に直行するのか。ちょっとした行動の違いが生死を分ける。自分の直感と五感を大切にして日々過ごさなければと思う。 -
65冊目『アンダーグラウンド』(村上春樹 著、1999年2月、講談社)
1995年3月20日。カルト宗教団体「オウム真理教」は東京都の地下鉄構内でサリンを散布するという、未曾有のバイオテロを行った。俗に言う「地下鉄サリン事件」である。
本書は村上春樹がその事件の被害者、および被害者遺族にインタビューを行い、その証言を纏めたノンフィクションである。
証言者の数は60人以上。750頁を超える大ボリュームの一冊である。
〈一九九五年三月二〇日の朝に、東京の地下でほんとうに何が起こったのか?〉 -
村上作品でもっとも好きな作品。地下鉄サリン事件の被害者に焦点をあてたインタビュー集だが、被害者の日常や背景を淡々と描きながらも、人物像が浮かび上がる筆力に感動した作品です^_^
オススメ! -
1995年に起こった地下鉄サリン事件。事件当初は「オウム真理教」という特殊フィルターを通して連日連夜報道されていたが、被害者含め一般市民にとってあの事件とは何であったのか。村上春樹氏が62名の関係者にインタビューを重ね再検証する。
本書を読んでまず思うのは本作品の執筆が村上春樹氏で良かったということだ。氏の何かを判断したり決めつけたりしないスタイルが今回のノンフィクションに非常にマッチしている。本作品に登場する人々の人柄や生活、事件がもたらした影響を剥き身のまま伝えてくれる。我々と変わらぬ普通の人々の人生が当日交差して立体的に描かれることで、事件の異常性と大きく構えれば1995年の世相や歪みを描き出している。
そしてこうした事件で毎度語られるマスコミの横暴には苦笑いしてしまう。一方で、現場にいたマスコミ関係者のインタビューも掲載されているので個人としての言い分や論理を聞くと気持ちはわからなくもないと思うのが不思議なところだ。
世界でも有数の平和国家で起きた、世界的に見ても極めて稀な無差別バイオテロを起こしたオウム真理教。彼らを「カルト集団」で片づけるのではなく、我々一般市民との関わりで何が起こったか捉え直す良いノンフィクションであった。 -
とにかく深く考えさせられてしまった。られた、ではなくさせられたであるのはインタビューの最後にある村上春樹自身が綴った文章にもあるように、わたし自身がオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件について、生理的嫌悪感から無意識的に考えることをやめてしまったからだ。この本を読むことによって、やっと正面から向き合う気持ちになり、あらゆることを考えさせられた機会となった。
圧倒的な暴力のまえで、暴力を受けた側は何かしらの感情は持つが、その感情を表すための言葉は失ってしまう。地下鉄サリン事件が起きた1995年、わたし自身は1歳になるかならないか。生まれたばかりの者にとって、覚えていない事件を“関係のないこと”と判断するのは非常に容易い。現にわたしはこの年になるまで事件のことを深く知ろうとは考えてはいなかった。毎年3月になれば世間は事件を振り返り、長期に渡る裁判に動きがあればそれはニュースとして報道されていたから、事件全体のことは知らなくても、主犯が誰で、どんな目的があり、どれくらいの被害者が出たのかは知っていた。でも本当にただ知っていただけだ。それ以上のことは能動的に知ろうとする自分はいなかった。その理由は先述した内容になるが、少し知っただけでもとてつもない生理的嫌悪感があったのだ。はっきり言えば知りたくはなかった。
本を読んで思ったことがある。この事件は誰にでも遭遇する可能性があり、多くの人はこの本に書かれている内容を他人事だと思えないだろうということだ。事件の体験者は自分だったかもしれないし、自分の家族だったかもしれないし、生まれたばかりの自分の子どもである可能性もあった。それゆえに読みすすめることが、しばしば辛いと感じた。読み終わった今はただ、駅員としての責務をまっとうしようと行動した方々、そして自身も苦しい状況にありながら、互いに助け合いどうにか地上に出て病院まで辿り着けた方々の人としの素晴らしい姿勢を、自分も見失わないようにしたいと思うばかり。