都会のトム&ソーヤ(15) エアポケット (YA! ENTERTAINMENT)
- 講談社 (2018年3月15日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (290ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062695145
作品紹介・あらすじ
150万部突破のマチトム最新巻!
究極の(?)ゲーム、「夢幻」も完成し、内人と創也はホッとひと息。
冒険は一休みして、二人の学園生活を描いた短編集をどうぞ。
と思いきや、やっぱりライバルの栗井栄太や、謎の組織プランナがからんできてしまい……。
感想・レビュー・書評
-
正に最強というより、最凶の人物が登場!!でドキドキが止まらない(゜゜;)栗井栄太の秘密にもビックリ!Σ(×_×;)!でも本当に知りたいのは内人のおばあちゃんの事かも?(^^;)この後どうなっていくのか凄く楽しみ♪シリーズ15年目!でもまだまだ続いて欲しい(^o^)♪
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
面白かったー!コンパクトさは初期を思い出すけど、あの頃よりもひりつきが増していて楽しかった。
-
前巻『夢幻(下)』では最後に伝説のゲームクリエイター集団のリーダーたる威厳を創也たちに見せつけた神宮寺直人が、この巻の最終部ではバックグラウンドが少し語られるとともに新キャラに格の違いを見せつけられ、小物っぽさ(あるいは「親しみやすさ」)を上げる。
小中学生の頃に愛読していた『マチトム』シリーズの未読巻を十数年ぶりに読み返していて、同時ほどはやみねかおるの描く世界に夢中になれないのは、そのまま自分が児童文学の対象読者ではなくなってしまったことの証左だろうから哀しいなぁと思いながら読んでいるのだか、しかし、どうやら他の理由もあるのではないかと思い始めた。
というのは、はやみねかおるが本シリーズで提示する「ゲーム観」(および「フィクション観」,「〈赤い夢〉観」)が、自分のそれとは根本的に違うのではないか、というものである。
前巻『夢幻』でも扱われ、本巻でも言及される「究極のゲーム」とは「退屈な現実世界を、ゲームの世界そのものに書きかえ」p.262 るものらしい。そんな元祖栗井栄太の遺伝子を受け継ぐ梨田奈亜は、神宮寺から依頼されて内人と創也の学校を舞台に創り上げた「呪い鬼」のゲームで、2人を殺意満々で狙いにかかる。
ここで不満点は2つある。
ひとつ目は、前巻で南北磁石が作ったR・RPG「夢幻」と同様に、本巻で梨田が披露した「呪い鬼」ゲームもまた、ゲーム内容そのものは凡庸な謎解き/宝探し/脱出ゲームであり、ちっとも面白そうに思えなかったこと。特にラストで梨田が現栗井栄太をも超えるゲーム制作の才能をもつキャラクターであると明らかになったことで、かえって「えぇ、あんなので良いのかよ……」と落胆してしまった。
ふたつ目は、梨田が本気で内人たちを殺そうとするところ。ゲーム内での死が現実世界での死と同義であることは、すなわちゲームと現実が一致してしまっていることを表す。まさにこれが、上述した「現実をゲームそのものに書き換える」というマチトム流(はやみね流)究極のゲームの方向性なのだろうが、これが自分のゲーム観とは相容れない。現実世界と一致してしまうのでは、ゲームがゲームたる意義も資格もないのではないか。呪い鬼に実際に殺されるかもしれないことがゲームの根本的なスリル、ハラハラドキドキ感を担保している(それ以外はおまけである)のは、果たして「良いゲーム」「面白いゲーム」なのか? 真に面白いゲームとは、そのゲーム内でのペナルティが現実の自分にはまったく影響を及ぼさないにも関わらず、それでも、そんな現実の自分のことなど忘れてのめり込んで夢中になってプレイしてしまうようなゲームなのではないか?
しかし、この梨田の作ったゲームの瑕疵は少なくとも2通りの観点で擁護できる。
まず、梨田は天才的なゲームクリエイターの才を父親から受け継いでいるにもかかわらず(それゆえに)ゲーム作りを憎んでいるキャラクターである。本名もクリエイターとは真逆の「クリーナー」の意を冠している。
だから、この呪い鬼ゲームは、それ自体がゲームの根源的な尊厳を破壊するために作られたゲームであるかもしれない、ということ。
そして、ふたつ目はマチトムのジャンルに関わるものである。マチトムはその元来の参照元(マーク・トウェイン)からも明らかなように、現代日本の街での中学生たちの「冒険小説」である。(多くの場合、)冒険には「死」のスリルが必要不可欠だ。だから、上での自分のモヤモヤは、「冒険」と「ゲーム」を混同してしまっているがゆえのものかもしれない。ゲーム作りというのは冒険のひとつの要素、方便に過ぎなくて、マチトムは本質的に冒険小説なのだから、死のスリルを利用した作劇は批判の対象にはならない、ということ。
しかしこの方向では、マチトムの「ゲーム作り」要素および〈赤い夢〉とは何か、という大きなテーマの重要性を下げてしまうため、あまり建設的ではない気がする。
いずれにせよ、この「死のスリル」および「ゲームと現実の関係」問題は、マチトムの冒険小説としての側面と、ゲーム制作モノとしての側面の衝突・葛藤を起源としていることは確かだと思う。
・他に書きたいこと
掃除中の即興の野球ゲームの色褪せない魅力について。
ここまで、呪い鬼ゲームへの文句を書き連ねてきたが、本巻で「良いな」と素直に思えたところ、マチトムに夢中だった「あの頃」の感覚が蘇った箇所もある。
それは、学校で物置を大掃除しなければならなくなった内人たちクラスの男子が、余りの時間を計算して「第一回物置杯争奪大野球大会」を始めるところである。p.86-
クラスの男子たちが(創也も含めて)一致団結して馬鹿をやる青春の雰囲気がたまらない、というのが最も大きな理由だが、ここで行われる即席の野球「ゲーム」自体もまた魅力的にうつる。
初期のマチトムでも、音楽室で即席の野球大会をやるくだりがあったのを覚えている。また、学校の階段などまで利用しての「3Dボウリング」には大きな衝撃を受けて、家で真似して遊んでみたこともあった。
昔も今も、自分にとってマチトムの面白そうな「ゲーム」として頭に浮かんでくるのは、こうした日常生活のなかの下らない「遊び」であり、「夢幻」や「呪い鬼」のような、大がかりな、生死のかかったR・RPGではないのだと思う。
これら3Dボウリングや即席野球大会などの些細な遊びもまた、たしかに現実世界の建物や道具、時間などを利用しているが、現実を書きかえるゲームとか、現実そのもののゲーム化、というよりは、現実のスキマに入り込んで、現実を適宜活用しながら、日常生活のなかに「ゲーム」というフィクショナルな空間、遊び場を暫定的に創り上げるもの、というほうがしっくりくる。
小難しく言っているが、要するに、かくれんぼや鬼ごっこ、おままごとといった、子供なら誰でもやっている遊びだっておんなじことだ。
小さい頃の自分が『マチトム』に魅せられたのは、こうした身近な遊びの「一歩先」にある、頑張れば自分たちも真似してできるかもしれない「ゲーム」や「冒険」を巧みに描いてみせてくれるからだ。
ふたりが “深夜のデパートや下水道で冒険する” p.220
のを読んで、じぶんもやってみたいと思った。やれるかもしれないと思った。だって、デパートや下水道は身近な、手の届く存在だったし、それでも内人たちのような冒険は子供には普通できないことだから。
しかし、本気の殺人鬼と対峙する呪い鬼ゲームや、数億円の予算がかかった超高性能のARデバイスに全面的に依存した「夢幻」などのRRPGは、身近でもないし、真似したいとも思わない。内人たちは確かに命の危機を間一髪切り抜けて大活躍するが、そもそもそんなに「楽しそう」に思えないのだ。それが致命的だと思う。冒険としてのスリルや規模、RRPGというゲームとしての凄さやコンセプト、あるいは内人たちの活躍の派手さばかりを追求することで、マチトム当初の、読者である子供たちの身近な手の届きそうなところ──それはオフィスビル街の隙間の狭い路地へと曲がって入り込んでいくことかもしれない──にある冒険のワクワク感から離れていってしまっているのではないか。
とはいえ、物語のスケール感や刺激がインフレするのはシリーズ物一般のさだめであるし、初期の趣そのままを期待し続けて裏切られるのは多分に仕方ないのかもしれない。
-
4、5年振りの都会トムシリーズ。
随所に散りばめられた内人のツッコミなどで何度も笑い、飛行機がエアポケットに入り、急降下で内蔵がヒュンと上がる。
犯人が誰かを当てることができて嬉しかった笑 -
15巻になってもまだ新キャラが出てくる…
この話本当に終わるのか??笑 -
教育実習生の梨田先生と柳田先生。
シリーズを読んできたなかで一番おもしろかった。 -
平凡な学校生活かと思ったけどやっぱり創也といれば、平凡じゃなくなった‼️とても面白かった。