- Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062748155
感想・レビュー・書評
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凄まじい小説を読んだ。扱うテーマがデリケートなゆえ、安い反近代主義に陥りやすいところ、この小説はそれでない。うまくこの気持ちを表現できないのが申し訳ないのだが、読めばわかると思う。克明に書かれている。その点が、この小説がもつ最大の傑出した長所であるとさえ言える。
文を追う度に、凛烈。鼓動が乱れる。訛りの強い言葉と、報告書然とした文体が交互に訪れる構成は、尚この小説を完全にしている。
目も躰も不自由ながらもバットを振る少年、主人の給与が減るからと会社を壊すのを止めるよう懇願するデモの参加者、罹患した娘にいま魂が残っているのかを問う母親、答えられない父親、水俣病をつくったのは神か否か、水俣病患者とは違うと見下す他の病の患者、もっと荒んだ生活をしてないとと他人事のように接する新聞記者、ならあの水を掬って飲めという患者、家に謝罪に来られた時に用意した言葉を言えず果てに泣いてしまう患者、誰も来なかった慰霊会。
その全てが心臓を氷柱が貫くかのようで───。
読むと読まぬとでは、人一人分は優に超えるくらいの人生観が、といえば安く聞こえるか。
自然の美しさと人間の醜さが眩しい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
漁村で捕れた魚を食べる普通の生活をしていただけなのに、水俣病にかかってしまい、肉体的・経済的苦痛に加え、当事者の企業だけでなく、国や県、市民からも向けられた敵対心や無視による精神的な苦痛は本当にどれほどだったかと思います。それは今も起こり続けている様々な問題と構造が同じであるということは、誰が読んでも気づくことです。
ささやかな幸せさえ奪われる人たちがこの世界には多すぎて、自分は何もしてあげられないけど、せめて知ることによって無関心にはならないようにしたい。 -
弱さの思想から
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聞き語りではなく文学作品だ。
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【読了メモ】小説でもない、ルポとも違う気がする、重たいのに文がとてもきれいで、指でなぞって辿って読みたいような、そんな本でした。
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やっと苦海浄土を読み終えた。高名なこの本の名は知っていたが、これまで手にすることはなかった。石牟礼さんが亡くなられやっと読み始め、一気に読み進むことができた。確かにここに書かれた水俣は現在に続くこの世の物語であり、棄民とされた一人一人を描く浄瑠璃の世界であった。読むのが「15年遅かったばい」
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何とも胸の痛む本である。昭和28年頃から熊本県水俣市で、工場の排水が川に流され、その汚染された排水に水銀が含まれていたため、周辺住民が水俣病になったのは、歴史の教科書で勉強した。当時も非常に恐ろしいとは思ったが、日本高度成長期の弊害のような位置づけで学んだにすぎなかった。
今年亡くなった著者の石牟礼道子さんは、たまたま水俣の近くに生まれ育った主婦である。幸いにも彼女は水俣病にならなかったが、何が起こったかを伝えなければならないという一市民の使命感から本書を書き上げた。
水俣市が誇ったチッソという世界にも通用する地元の一流企業。水俣市の収入の半分はこの会社からだったという。本書を読むと、水俣病が発生する前の素朴で豊かな漁民たちの暮らしと、その後何十人も苦しみながら亡くなり、生業の漁業が出来なくなり、差別を受けるというその対比がすさまじい。地元の人にとって、小さな船を操って、夫婦で美しい海で魚を取り、それを売ったり食べたりすることがどれだけ幸せなことか。
書評にもあるように、本書は単なるルポではなく、文学作品としても評価が高い。描写や表現が、素人の書く文章ではない。最初から、胸にずっしりと岩が乗せられたように苦しみながら読んだ。患者にインタビューをして書かれた部分は、九州方面の方言が分かりにくいが、それでも話し手の苦悩が身に沁み渡った。 -
いやあ、熊本弁が読める。「西郷どん」で鹿児島弁が理解できるのもうれしいが、どちらも少しわかりやすくしてあるのだろうか。本書については、100分で名著を見て、読まなければと思っていた。それからずいぶんと時間がたってしまった。テレビで見たときにも憤りを感じたものだが、本書を読んでいても、さらにやりきれない思いがつのる。一方で初期のころの病気に対する受け止め方にのどかな雰囲気がある。60年まえというのは、まだそういう時代だったのだろうなあ。それが決してよいとはいわないが、何か問題が起こったとき、責任の所在を徹底的に追及するようないまの姿勢もどうかと思うときがある。ほどほどとはいかないものだろうか。とはいえ、水俣病については、当該企業と政府の問題だろうから、被害者には十分な補償をするべきだろう。実をいうと、この公害病の全体像は解説を読んでわかったことが多い。石牟礼さんの書いたものからわかるのは、その村に住む人々のやるせない思いである。そして、驚くべきは、ここに挙がっているのが聴きとった記録というわけではないということ。文学作品であると思って読み直すと、また違った思いが起こることだろう。