下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち (講談社文庫)

著者 :
  • 講談社
3.99
  • (290)
  • (379)
  • (195)
  • (40)
  • (8)
本棚登録 : 3306
感想 : 357
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062763998

作品紹介・あらすじ

なぜ日本の子どもたちは勉強を、若者は仕事をしなくなったのか。だれもが目を背けたいこの事実を、真っ向から受け止めて、鮮やかに解き明かす怪書。「自己決定論」はどこが間違いなのか?「格差」の正体とは何か?目からウロコの教育論、ついに文庫化。「勉強って何に役立つの?」とはもう言わせない。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 当座の報酬の期待値の低さ・不確定性に対し、経済合理性の下、消費者マインドで「こんなん何になるんだよ」と突っぱねちゃうのがニートと不登校、つまり労働や学びの拒否の始まり。

    その曖昧さや不確定性に対して「きっとなにかになるはず」と、気長かつ楽観的・期待的に身を投じて、労苦を負って行くこと。そして自己の不確定な変化という性質を認め、受け入れ、期待し、勘定に入れた上で学びに向かうこと。それらの勇気ある殊勝な態度が知性。

    また「自身の存立」時点で社会や周囲の人間から受けてきた恩義、つまりは贈与に負い目を認められ、その反対給付義務意識に駆られて積極的に労働という(返報)贈与を社会に行っていくこと。それこそ伝統的人間らしさ・文化人類学的知見に合致する労働者マインドであり、労働の倫理・哲学・美学である。

    ※ただこの倫理に関しては(薄給なだけならともかく)ハラスメントや長時間労働強制、肉体的・心理的安全性侵害が横行するような、日本に跋扈するブラック職場では成立しないと思うけど(2005年の本だししゃーなし?)。

    含蓄が多い本だと感じました。
    勇気と忍耐のある、道徳的な内発的動機づけに強く意志付けられた人間になりてぇ。

    • ゆうさん
      確かにリスクヘッジ全然できてへんなぁ。ぶっちゃけ絶望しか無いから、さらにリスクのこと、それに立ち向かうことを考えるだけでもしんどいわ。
      確かにリスクヘッジ全然できてへんなぁ。ぶっちゃけ絶望しか無いから、さらにリスクのこと、それに立ち向かうことを考えるだけでもしんどいわ。
      2024/02/12
  • 自分も含めてですが、コスパよく結果がでることや収入が得れるというのが一般的な時代になっています。そんな時だからこそ本書で述べられている
    教育という本質的な部分は忘れてはならないと感じました。親と子で学ぶ。なぜ勉強するか?そこは問わずに楽しいよね?学ぶって出来るってという変化をしっかりとみてあげること。子どもも含めて感謝をする。人間として大事な教育という土台をもう一回作り直して現行にも活かせる一冊だと感じました。

  • 冒頭の事例は「事実の一部」、「メディアで変に強調されているところだけ」を基にしているように思われたけど、「消費主体」という視点にはかなり納得。そしてリスクヘッジの意味を再認識させられた。

  • 「どうして勉強しなくちゃいけないの?」
    こういった子供の問いに、大人として最適なふるまいとは『絶句』してそのような問いは「ありえない」と斥けることだと著者は主張しています。

    なぜなら、その答えを教師から引き出すという体験によって、子どもがあるゆることにおいて自分に有益そうならやるし、気に入らなければやらないという採否の基準を身体化した『等価交換する子ども』になってしまうからだと言います。

    それは子どもたちが「家で労働する」という体験から自己形成をする機会がなくなり、その代わり早い時期から消費活動への参加を促されていることに原因があるとのことで、その説明は納得するところもあるのですが、平和で豊かな生活を送る日本の子どもが、勉強の意義を考えることがそんなに悪なのでしょうか?とも考えてしまいます。私もなんとなく考えたことあったと思うし。

    そんな質問に教師として「答えがない問いに答える必要はない」と斥けるのは、「つべこべ言わずにやれ」という昭和の感覚をよっぽど引きずっているのではとも思ってしまいます。
    「君は歴史で習った、戦時中の子どもの話を聞いてどう思った?これがその質問の答えになると思うから、一度自分で考えて、あとで先生に教えて」
    みたいな子どもに気付きや考える力をサポートするのが最適なのでは。

    ちょっと自分と意見が違うけど、子供をとりまく教育、家庭の構造がわかって面白かったし、色々考えるきっかけになりました。また読みたいです。
    ちなみにこのあと『ドラゴン桜2』を読むと、なかなか味わい深くなります。「考えるな!動け!」

  • 学ぶことができるという環境を放棄している日本の子どもたち。納得のいく内容でした。
    生産と消費がかけ離れ、生産することへの尊敬と感謝が失われている日本社会。たくさん消費することが良いライフスタイルであることのように報じられるメディア。日本はどうなっていくのでしょう。

  • 再読はしないけど、一度は読んで良かったと思う本。特に転職を繰り返す人の件は、自分自身がそうなので納得感があった。

  • 面白かった。
    本人も書いておられるように「ずいぶん力んで書いている」力作であります。
    消費者として全てを同時性の中で生き、世の中を等価交換で見る体質。
    こういったことが学びを馬鹿にし、労働を無意味なものと見る価値観に結びつくと見る。
    解明していく際の気押される程の勢いある文章に引き込まれて行く。

    学校内の状況は改善はされてきているのだろうか。
    ニートの数は減少しているのだろうか。
    外からは見えない隠れた部分。実態を知る術が無いが、良くなってきていることを望む。

    対談部分は文庫化に際して削っても良かった気がする。何か著者にもしがらみがあるのかも知れないが…

  • 著者の的確な視点から見つめる現代の教育、改善点、問題は山積みであるが、やるべきことが明確になった。

  • 今まで読んだ中でベスト・オブ・ベスト。
    ウチダイズムの原理というか、ベースを知れた=社会の構造。
    如何にして社会的上層と下層の差が生まれているのかそしてその原因は何なのかを考えさせられる書籍である。個人主義がいかに恐ろしい思想であるか。
    そしてすべて個々人に降りかかるという、良い意味でも悪い意味でも。
    勉強を放棄してもそれは将来の自分が連帯保証人として存在する。

  • 本書は、筆者の娘の中学校での学級崩壊の様子から、話が始まります。

    学ぶという行為をなぜ子供たちはやめ、あまつさえ努力してまで学ぶ・働くことから遠ざかるのか、という疑問です。

    その原因を端的に言えば、幼年期からの消費者としての商取引の蔓延、と解しました。

    ・・・
    筆者は労働と消費の二項を導入します。

    かつては子どもは労働に従事させられた。それは家庭内の小さな手伝いであったり、兄弟の面倒などの家族のサポートであったりした。その結果、家庭内がよりうまく回ったり、時に小遣いがもらえることがあったりもしたと。その労働の世界では搾取されるのが当然の世界で、子どもはその世界で自らの社会化を始めた(その搾取された労働のおかげで家庭であったり社会であったりがうまく回り、再配分が行われるということのよう)。

    対して、現在の子供たちは労働の世界に馴れ初める前から、消費者としてマーケットに参入していると。ここでは原則は等価交換・無時間性です。

    つまり交換は受領するサービスとその対価は等価であり、かつ瞬時に交換されなくてはならない。もちろんマーケットメーカーですから、値段に納得がいかなければ交換しないし、交換するならば今すぐそのサービスやバリューが提供しなければ納得しません。値切ったり交渉があったりするかもしれません。

    ・・・
    ところが、教育というものが、そうした消費という概念におそよ馴染まない世界であることから、教育という世界と消費者たる学生との間で齟齬をきたすことになります。

    まずもって教育とは時間がかかる。今日受けた授業で、生徒が成長を明日にでも実感できるものではありません。また教育がそもそも功利のみで語られるものばかりでもありません。しかも教育を受けたとて、それで将来の成功が保証されるわけでもありません。

    このような教育の本質は、消費者として等価交換を考える学生のメンタリティとは合致しないことになります。

    ・・・
    ここで、等価交換という消費の原則に、「不機嫌」という貨幣が導入されます。

    交換される財とサービスは等価でなくてはならない。

    では学校では何が交換されるか。そう、授業というサービスです。学生にとって意味を見出せない授業とは自分が交換している時間に大いに見合わない。そこで交換を等価にするために支払われるのが「不機嫌」です。

    「不機嫌」という通貨。なんだそれ? ほら、振り返ってみてください。昭和世代の「父親」が歯を食いしばって宮仕えをし、給金を家庭へと持ち帰ってきた様子を。いやな仕事もお金の代償とばかりに、家出は不機嫌顔で録に家族と話もせず寝てしまう。子どもたちは、親のこの態度を学習したと。

    授業という意味を見出せない(無時間的に価値ありげなものも提供してくれない)ものに対して時間を(強制的に)交換させられている。でもこれは子どもたちとって等価ではない。この交換を等価にするべ、生徒たちは「努力して」授業を妨害している、と。

    つまり学級崩壊は、生徒の等価交換の実現であると言えます。

    ・・・
    しかも、「自分らしさ」「内発的動機」「自己決定」などを称揚する潮流が事態を悪化させたとしています。

    例えば「自己決定」。これは、自分が価値を置くものを自ら選択・決定するってことですね。逆に言えば、他人や世間がこれをやりなさいって言っても、強制されないわけです。パターナリズムの否定です。
    生徒の立場で「自己決定」を言われると、授業や教育とは、生徒が意味を見出すもので、先生が一方的に授与するものではない、ということになります。意にそぐわない授業を聞くことは「自分らしく」ない。

    塾で習う方がコスパ・タイパよくね? てか歴史なんか勉強して意味なくね?俺達将来を生きるんだし。 暗記とか時間の無駄だし。ネットで検索でオッケーじゃね?…すべて等価交換を念頭に置いた自己実現・自己決定であります。

    ・・・
    さて、この「自己決定」ですが、その決断の正しさを担保するのは何でしょうか。

    もちろん、将来の自分です。でも将来の自分が正しくなかったとき、どうなるでしょうか。もちろん、将来の自分が毀損します。

    しかし学ばない子、働かない子は、安全網を破棄していることが多いと言います。

    基礎教育を得ていない(「俺的に授業はイけてなかった」「人からやらされることは嫌い」)、労働経験が少ない(「チョー面倒なことをやらされるんだったら、収入なしの方がマシ」(無労働と定収入の等価交換・自己実現))、などです。

    もちろん、勉強なんて何の意味があるか分からないことも多いです。そして何に役に立つのかも分かりません。また、そうした努力が必ずしも実を結ぶとも限りません。

    しかし、生きる力がない・生きられないというリスクをヘッジするという観点から言うと、たとえ努力が実を結ぶと信じなくても、こうした努力・勉学を続けることこそがリスクヘッジとなるのです。

    そして「内発的動機」を重視しまくり「自己決定」した人がこうしたリスクヘッジをできず、ニートになり得る、と結論づけているように見えます。

    ・・・
    ということで内田さんの著作でした。

    問題は複合的であり、一概に原因を特定したり、断定できるものではないかもしれません。内田氏もニートの統計が少なく、状況について断言しかねる旨、仰っています。

    なお、こうしたニート達については、特効薬もなく、労働や勉学にも価値があるということを少しずつ理解してもらう、彼らを受け入れるような共同体を回復させる、等々を簡便に仰っていました。このあたりは宮台真司氏の考えに似ているかもしれません。

    とうことで、本作、日本の教育事情、日本現代文化、社会学、思想系に興味がある方には興味深く読んでいただける作品かと思います。

全357件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

内田樹の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×