- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062765053
作品紹介・あらすじ
みんな生きてる、やあ奇跡。
怒濤の大阪弁で綴る芥川賞作家デビュー随筆集
純文学界の気鋭として注目を集める著者は、一体何を感じ、見つめ、考えてきたのか。瑞々しい感性と卓越した表現で綴られた、がむしゃらな日常に湧き起こる喜怒哀楽と問いの数々。共感と驚嘆が詰まった、愛らしくて滑稽で深遠な136本を収録。芥川賞作家のデビュー随筆集、初文庫作品。
ドーナツとの激しい距離/サボコを救え!/猫パニック/帰京、もしもし絶対者さん/排水溝の神様おりはりますか/芸術御破算/精神よ、黙って体についていって下さい/刺繡狂想曲あははん/午前四時/退屈凌ぎ自慢in人生/謝ってんのに/浮気相手になりたいのですが/っ頭蓋骨!/私はゴッホにゆうたりたい/宮沢賢治、まるい喪失。/絶唱体質女子で!/家事、なんて難しいの/私が瓦を、瓦も私を、みていた冬/性の感受地帯、破竹のあはん/大島弓子を読めないで今まで生きてきた/さようならサボコ/砂漠、世田谷、銀河/鰯なのだよ/歯で穴をあける/奇跡っつうぐらいのもんで
感想・レビュー・書評
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独特な文体だなあ。読みづらいはずなのに頭に入ってくる。愛する男の浮気相手になりたいの話が印象的だった。
句点少なめで畳みかけてくる感じ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
乳と卵の川上未映子のデビュー随筆集。
関西弁、ミュージシャン、とくると、
やはりこのような文体になる不思議。
さは実はあんまりなかったりする。
ミュージシャンだったのですね。どうりで。
と勝手に納得。
あけすけ、場当たり、衝動ままに迸る文章群。
哲学と文学と詩と関西弁の何故か美味い闇鍋。
スカすし脱臼的で独特の曲がり方をする言葉捻り。視点。眼。
噛みごたえの斬新さ、詩的ワードセンス、
純文学"的"自分語り。用法。多分に共感する。
モラトリアム、モラトリアム抜け、
抜けた思たら抜けてないモラトリアム、
人生モラトリアムったら、
もう毎日がモラトリアム記念日ってんで、
そうコラージュ。コラージュだけが人生。
やけども、コラージュだけやのうて、
本当の本当に自分きっかけの、
後ろめたい何かの無い、
独自一本松を古墳にブッ刺して、
息切れして肩上下さして、
松やったら結局松っていう種のコラージュやないかという揚げ足取りにも負けず、
すこんと脛叩いて行かなあかんな。
そう思いました。ましてん。
そうこれもコラージュ。
見たまんまの模写、写経(シャケイといまだに書いてしまう、シャキョウ)
それもこれもまたこうして、
適応したつもりの自我が、自我達が、
SNSの中に放り込んでしまって、
存在を一旦は認識されるも、
いないのと同じと消えていき、
にっこりマッコリのにっこりくらい白々しい何かと同じになり、
肘の上のトルマリンリングでピスタチオを割る、
その音を聞いた時の感動を生み出すために、
生きて来たのでは無いなぁと思うくらいには、
僕たち私たちの心の中にいつもあるそれ。
頭、かもしれない。
それ、そんな塊を吐き出す作業は必要なのだと思う。
何を言ってるのかって?
そうですね、
この本を読めばわかるかもしれません。
僕たち私たちの中にあるなにか、
奥のほぞの世迷言のような部位の、
止まる事を知らない罵詈や耽美を、
ひいては地球を壊しかねない蒙昧を、
実は大事にしなければ。
と、ふと思ったなら尚の事。
すこん、入れたらええねん。
ウォッチリストでもなんでもかめへん。
入れる言う事は、生きると同義なんやから。
言うてな。知らんけど。
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芥川賞作家、川上未映子氏のエッセイ集。ブログか何かに書かれていた所感を集めたもののようだ。気づいたことや考えていることなどが散文的にかかれているので、独り言のような感じである。
現在40代後半の川上氏が20代後半のころ、つまり小説家ではなくシンガーソングライターだった頃のエッセイである。伝え聞く話や個性的な外見から、気が強い人なのかと想像していたが、全く違った。
やはり作家になる人というのは、独特の世界観を持って生きているのだと感じた。彼女が書く文章は、とてもよくわかって共感できるところもあるし、よく理解できずに文字がから滑りしていくところもある。おそらく彼女自身も何となく抽象的な概念をつかもうとしている感じがうかがえる。
20代後半ならではの、また作曲をするクリエイターとしての、悶々とした苦しさが伝わってくる。20代後半は人生で一番あれこれ懊悩する時期かもしれない。
大阪弁は(私の頭の中で再生されるイントネーションも間違っていると思われる)、彼女の一部というより彼女そのものであり、標準語では表現できないこともたくさんありそうだ。 -
最初は関西弁だし、文章も内容も独特過ぎて無理かもって思ったけど、段々この人オモシロってなってきて、最後は病み付きになる感じ。もっと読みたいしまた読みたい。
桜の話とかサボコの話とか若者の話とか母親の話とか。。。 -
記録
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読んだことないと思ってたけど、普通にあった。
これぞ川上未映子という感じ。未映子節炸裂。そういえば初めて読んだときになんちゅうユニークな文章やとびっくりしたんやった。
川上未映子の文章はほんとにおもしろいなとおもう。大好きだ。
基本的に書き言葉と話し言葉は、違うものなんだろうなと思う。書き言葉ではなくて、話し言葉を文字にしたような文章たち。
声に出して読んだらリズムが心地いいだろうなって読んでて思って、声に出して読んでみた。やっぱり声に出したほうがすっと入ってくる気がする。
思考によって、頭の中でことばがぐるぐるする、あの感じ。
頭の中を覗き見したような。もしくは未映子さんが話しているのを聞いているような、たのしい読書の時間でした。また忘れた頃に読むんやろうな。
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2013-2-12
ずっと読みたいと思っていた本。なんだか支離滅裂なような気がしたり、でも確かになと納得させられることも多くあったり。非常に面白かったです。哲学的。わたし川上さんの考え方とかすごくすきだな。
わたしももっとこんな風にいろんなことを考えてみたくなった。 -
f.2023/7/29
p.2009/11/19 -
私には合わない文章だった。
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小説家としてデビューする前の、ビクターからCDアルバム・シングルを発表しシンガーソングライターとして音楽活動していた時代に、ブログに書き散らしていた断片を抜粋して収録したもの。2003年8月から2006年8月。EPを含めてアルバムを出していたのは2002年から2005年で、本書収録の随筆?雑記?にもしばしば「録音が」などと音楽活動にまつわる事象も触れられるが、記録的な日記としての機能はほとんどない断章なので、当時の詳細な出来事や考えはよく掴めない。
ビクターからリリースされた彼女の音楽を幾つか聴いてみたが、音楽的に私の好みではない。歌詞がいくぶん独特ではあるが、POP文脈の「きのう語られたように語る」音楽語法にはどうも馴染みにくいものが、彼女の言葉にあったのではないか。
「こんなことは歌詞にはならない」とビクター側から言われ続けていることが、本書「詞までもが」(2004/12/15、P67)に書かれている。
POPの歌詞には馴染まない彼女の言語活動は、ブログにおいて極端なまでの自由さで発散された。
本書、凄まじいまでの気ままなパロールの嵐である。その日その日になんとなく書かれた断章は、そもそも「作品」を目指したものでもないから、つまりコンポジションの意図がほとんどないから、入り口と出口がまったくの異質さを呈していても全然構わないわけだ。
ここでの言葉たちは、意味内容(シニフィエ)が表示されたかと思うと、次の瞬間文脈が破壊され通常の意味のまとまりを大きく逸脱したシニフィアンが踊り出すかのようであり、それは現代詩と似ているし、20世紀以降の芸術全般がそうであるように一般的な文脈の破壊によって新たな意味の生成を目指しつつある。これらの自在なパロール構成が秘める芸術性は、小説として作品化した『乳と卵』(2008)以降に結実するのである。
本書の騒がしいパロールの横溢、クセナキス・サウンドを楽しめるかどうかは、人によるのかもしれない。私は川上未映子さんの文学に希有な才能を認めているので、この不思議な主体の遍歴に大いに興味があるのだが。
林芙美子ほどではないが貧しい家庭に生まれ高卒後は大阪でホステスなどもやって弟の大学費用を捻出した頃から、どういう経緯でシンガーソングライターになりビクターからメジャーデビューした(2002)のか、音楽活動の傍ら本書所収のブログ(2003-2006)を下記つつ、散文詩「先端で、さすわさされるわそらええわ」(2005)が雑誌ユリイカに掲載されたのはどういう流れであったか、その後2006年には突如芝居に出演したのはどういう事情であったか、突然小説「わたくし率 イン 歯ー、または世界」が「早稲田文学」に掲載された(2007)のは何故か、この雑然とした経歴のゆきさつを知りたいのだが、日記にはなっていない本書所収の断章では知ることができない。たくさん出しているらしいエッセイ集のどれかを読んだら、いくらかでも分かるのだろうか?
本書の雑文の中では、19歳の頃つきあっていた彼氏に浮気されかなり凶悪な所業に至ったことを回想した「私も喪服で生きていたいけれども」(2005/2/28、P91)が、病みキャラっぽくて面白かった。怖い。