- Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062770613
作品紹介・あらすじ
親鸞は比叡山での命がけの修行にも悟りを得られず、六角堂へ百日参篭を決意する。そこで待っていたのは美しい謎の女人、紫野との出会いだった。彼が全てを捨て山をおりる決意をした頃、都には陰謀と弾圧の嵐が吹き荒れていた。そして親鸞の命を狙う黒面法師。法然とともに流罪となった彼は越後へ旅立つ。
感想・レビュー・書評
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名前しか知らなかった親鸞さんが、すごく身近な存在に感じられて、仏教に関する興味がわいてきた。
人生の中で本当に心から尊敬、信頼できる人に出会うとは、なんと幸せなことか。
親鸞が師法然に出会ってからの目覚まし変化。
信じることのすごさがよくわかる。
まだまだ続くようなので、早く文庫化になってほしい。 -
「仏様より呼びかけられてする返事だから、仏よりいただいた念仏、というのですね」
「そう思う」
綽空は自分で自分の言葉を確かめるように、二、三度うなずいた。
「それが他力の念仏だ。自力の念仏とは、仏たすけたまえ、とこちらから呼びかける念仏。これまで範宴のころ、比叡のお山までわたしがずっととなえておったのは、その自力の念仏であった。いまはちがう。よばれれば何度でも、はい、と返事をする。一度の呼びかけできっぱり信心がさだまる幸せ者は、いちどの念仏でよかろう。だが迷い多く、煩悩深き悪人のわれらは、呼ばれた声をすぐ忘れたり、とかく逆らったりしがちなものだ。そんな情けない愚か者には、二度、三度と呼びかけられるのが仏の慈悲。だから一度念仏しただけでも往生できる。まして、呼ばれるたびに何度でもはいと愚直に答える者が、どうして救われないことがあろうか。念仏は一度がよいか、それとも多く念仏するのがよいか、などと議論するのは、そもそもおかしいと私は思う。一念なお往生す、いわんや多念においてをや、と法然さまがおっしゃねのを聞いたことがあるのだよ」
法然の弟子になった直後の綽空のころは、一念と多念についてはこのように明確に答えていた親鸞であるが、「でも、悪人が救われるなら悪事はやり放題、というもの達には、なんと申しましょう」という問いには明確に答えることができない。
悪人正機説の当然出てくるこの問いに対して明確に答えるのは、「激動編」を待たねばならない。しかし、最終決着をつけるのは現在連載中の最終の巻きなのだろうと思う。
下巻では親鸞が法然の弟子になり、やがて法然と同時に京の都を追われるまでを描く。 -
五木寛之の小説は面白いのであるが、長編は間延びがある。わずか2巻なのに随分かかってしまった。この次の編も読もうと思うが、全部読み終わるのはいつになるやら…
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貴族から庶民のための宗教に移り変わり始めている時の話。
庶民にもわかりやすく、念仏を唱えればどんな人も救われる。そういう教えなのに、いつの間にか、何をしても念仏さえ唱えればなんとかなるという間違った教えが広まることに。
新しい事は、いつの時代もなかなか権力のある人には受け入れられず、いつの時代も苦労しますね。 -
重いテーマ・人物を扱ってるはずが楽しく読めてしまいます。
劇画的。アニメ化したら良いのではないか。
史実に忠実な本を期待している方は別の本を読んだほうが良いでしょう。 -
人は、他人の悲しみの上にしか
自分の幸せをおくことができないのか
信じると言うのは、物事ではなく、人です。
この二言が印象的であった。 -
親鸞として改名して越後に流罪として流されるまでが描かれている青春篇。面白くて一気に読んでしまいました。
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親鸞は名前を変えていく。生まれ変わって名前を変えていく。最後は新潟に出発するまでの話。親鸞に名前を変えるまで。法勝寺の八角九重塔って本当にあったんだな。見てみたかった。法然も親鸞も叡山で修行して今は叡山にも飾られていて、時の流れを感じるとともに叡山の人材輩出振りに改めて関心する。激動篇も楽しみ。
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「他力の念仏。情けない愚か者には、二度、三度と呼びかけられるのが仏の慈悲。呼ばれるたびに愚直に答える者が、どうして救われないことがあろうか。」「われらは末世の凡夫である。罪悪の軽重をとわず、煩悩の大小によらず、ただ仏の本願による念仏によってのみ救われるのだ。」あみ、だんぶ、なも、あみ、だんぶ、なも。