私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062881722

感想・レビュー・書評

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  • ざっと読み
    個の多様性について書かれている

    文章が多くて内容が頭に入ってこない

  • タイトルに惹かれて読んでみたが、わかりにくく目が滑る文章だった。
    「分人」という慣れない造語のせいだとしておく。

    分かるような分からんような、オジサンの一人語りをメモったような一冊だった。
    自分が「分人」の考えを持つに至った背景や、この時期の云々を例に挙げたいのも、自身の作品に関係する内容があるから引き合いに出したいという気持ちも理解できる。
    だが、その関係の記述が本当に伝えたい内容を遠ざけ、間延びさせているように感じた。

    3000文字のエッセイを連載で4回ほどに分けて発表するくらいでちょうどよさそうな気がする。

  • S図書館
    分人は理解できたが私には難しかった

  • ようは「発達」と「教養」を混同してるのだろう
    おかしな論理立てをしている

    これは早い話が、ダブルスタンダードを合理化するための屁理屈である
    たとえば

    「嘘ついたけど、それは私の分人がしたことだから」
    「万引きしたけど、それは私の分人がしたことだから」
    「殺人したけど、それは私の分人がしたことだから」

    …だから仕方ない、許せという理論を成り立たせるものだ
    おおらかにも程がある
    ところが逆に

    「嘘ついてないと言ってるけど、分人のしたことだから自覚ないだけだ」
    「万引きしてないと言ってるけど、分人のしたことに自覚ないだけだ」
    「殺人してないと言ってるけど、分人のしたことに責任持てよ!」

    といったふうに、冤罪をごり押しすることもできてしまう
    これらの両面性を、恣意的に運用することが
    分人主義をもちいればごまかせてしまう
    じつにおそろしいことである
    アベルは常にカインであり、カインは常にアベルであり
    そしてそれを決めるのが、神ならぬ人間というわけだ

  • 分人という単位間には連繋はあるのか。上司に対する分人と家族に対する分人の間には連繋はないのか。分人という以上、分かれているということだからその間には連繋は無いように感じられる。
    そうではなくて、生まれてから少しずつ増やしてきた人間性、つまり大雑把に言えば喜怒哀楽、細かく言えば人に依って変化する自分の外面、印象なんかが、与えられる外的要因に依って出たり出なかったりするだけで、勿論その各々の人間性一つ一つの間には連繋があって、別にこの人に対してはこの顔、というように人間を使い分けている訳ではないのでは。
    「消してしまいたい(略)のは、複数ある分人の中の一つの不幸な分人」と言っているが、その不幸な分人と呼ぶ人格はこの人の前でだけ、というように固定されている訳ではない。少なくとも自分はそうではない。だからどの人格の間にも連繋はある。
    というか、分人とかいう良く分からない単位を創らずとも人格ではだめなのか?

    友人に薦められて買ったが、何故薦められたのか今以てわからない本。

  • あっそ

  • つまらなかたです。

著者プロフィール

作家

「2017年 『現代作家アーカイヴ1』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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