ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア (講談社現代新書)
- 講談社 (2013年6月18日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062882132
作品紹介・あらすじ
文芸評論とは無関係ながら、ある一定の世代に黙々と消費され続けるライトノベルの世界。
気がつくと、ラノベ出身作家がメジャーシーンで活躍していたり、作品がハリウッドで映画化されたり。日本文化にもじわじわと影響をもたらしている。
その巨大で寡黙なラノベ作品群だが、
読者層が限られているからこそ、内容の変容をたどっていくと、
日本社会の変化が確実に刻み込まれている。
その変化とはどのようなものなのか。
上の世代との断絶。ポップかライトへ、そしてぼっちへ。むかしオタク、いまはフツー。ドラえもんの来なかったのび太たち。
注目の文芸批評家が読み解く。
感想・レビュー・書評
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ラノベ世代の若者が抱く上の世代との感覚的断絶感の正体を、それぞれの世代の作家が作品に描く「現代日本」を抽出して比較しようとするもの。断絶感の概形には納得するけど、文学批評研究を読み慣れてないからか不安が残る。という意味で星3つ。
こういう種類の本にありがちな「リア充」「DQN」みたいなワードに飛びつく、といった事が無かったので、そういう点では安心して読めた。そういうスラングはもはや大人の言葉とはかけ離れた世界のものである、という問題意識を始めに提示してくれているから。
この本は異世代との交流の薄い、交流を避ける人に読んで欲しいと思う。それでもなお異世代への不安が残るとすれば、なぜ不安なのかを突き詰めて考えることに意味があると思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
バブル期以降に若者に受け入れられた、
衒学的な虚像を題材にした小説。
ぼっちが自由に、見えるらしい。-
https://www.evernote.com/shard/s37/sh/a79b69d3-c1c4-45fe-bdf6-41bfae3b...https://www.evernote.com/shard/s37/sh/a79b69d3-c1c4-45fe-bdf6-41bfae3bdcbe/7751b8c3a4b25f376efb93bc5e408fb42014/04/18
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ラノベの軽さが自嘲から来ているとは!
でも群れない。ぼっちーズはあくまでぼっち。スネ夫が邪険にしてくるのだ。
でもでも薄い連帯感はあって、オタクらしく振る舞ったりする。仲間内でしか通じない単語を使ったりして。
これに対して村上龍の若者像は、群れてる。ポップとかなんとか言うけど、団結して敵と立ち向かうのだ。
でも無傷の素敵さにはドキッとした。失う経験があってこそのいまの無傷さであるはずなのに、それを忘れちゃうんだな。
ノスタルジアにひたれる一人はみんなのためには今の若者像ではない。いまだって黒歴史は作られ続け、ノスタルジーには遠く及ばない。
村上春樹はみんな傷つけずに気持ちよくなることのできる世界を描いているそうだ。そりゃはまるひともいるわーとおもう。
ポップに生きられたらいいけどさー、無理。なんでってそんなに連帯しないし、楽しいことばかりを考えられるほど未来に希望はない。立ち上がる意味も感じられない。
ノスタルジアが病だったとは笑える。たしかに現実逃避だもんね。 -
本書は決して「ラノベ」論ではない。本書が語るのはあくまでも、書名のとおり「ラノベのなかの現代日本」なのである。ライトノベル中に散らばる「現代日本」を知るヒントを拾い上げ、現代文芸の流れの中に組み込もうとする意欲的な評論だ。
その結果見えてきたのは、従来の「オタク」とは違う「ぼっち」という生き方である。「リア充」を中心とした「大衆」を否定し、自らの世界に独りであろうとする存在である。詳細は本書にて確認をしてほしいが、ここで特に取り上げたいのは「ぼっち」の「物語の主人公になれない」という特徴である。「ヘタレ男子」をその源流とする「ぼっち」系主人公は、その「ヘタレ」さ故に「物語の主人公」とはなれないという。
しかし、以前『変態王子と笑わない猫。』などのレビューでも述べたとおり、僕はライトノベルを取り巻く「エロ」にある種の危惧を抱いている。ライトノベルの主人公には、その性欲をアイデンティティとする主人公も少なくない。果たして彼らは「物語の主人公になれない」のだろうか。むしろ、性欲を堂々と披露できる男は、「ヘタレ男子」でありながら、そこに「リア充」の片鱗を感じることもできる。もちろん、ここで取り上げたような主人公たちは、本書の取り上げた「ぼっち」に該当しないという見方もできるだろう。けれども、そういった主人公群が存在する以上、性欲の披露は決して無視できないファクターなのではないか。
「村上龍」や「村上春樹」といった世界観とラノベを同列に扱うなど、本書にはかなり冒険的な仕掛けがなされている。時に、その冒険心が「行き過ぎ」を生んでしまっている感もあるが、一つの「試論」として評価されるべき一冊だろう。
【目次】
序章 ラノベを知らない大人たちへ
第一章 ポップかライトか
第二章 ジャパニーズ・ポップの隆盛と終焉
第三章 オタクの台頭と撤退
第四章 「ぼっち」はひきこもらない
第五章 震災と冷戦
第六章 ポスト冷戦下の小説と労働
第七章 ラノベのなかの「個」
終章 現代日本というノスタルジアの果て
参考文献
あとがき ラノベを知らない子どもたちへ -
2013/11/4読了。
ラノベについての本ではない。現代日本についての本である。当然その全てを論じるものではなく、ひとつの切り口を提示するものだ。
だから、その切り口の形から使われた刃物が何かを推定し、その刃物を振るった人物のプロファイリングを行うという方法で、そういう方法を知る者にとっては、なんとなくラノベについても読み取れる、という類の本だ。
ラノベとは何か、を考察する本かと思って読み始めたがそうではなかったが、そういう本ではないと思い直して読み進めれば、なるほどと思われる一節もあった。類書を待ちたい。 -
ラノベから現代日本(というか主に若者)を考察した1冊。「別にそこまで細かく分析しなくても良くない?(作家がそこまで考えてるか怪しい気がするけど・・・)」というツッコミを所々に入れたくもなるけど、文芸評論っていうのはそういうものなのだと目をつぶろう。
内容としてはハルヒから変態王子まで最近出たラノベを網羅して分析していて、全然作品を読んでない者としては面白かったです。
特に「なるほど!」と思ったのは村上龍とかかつてのジャパニーズポップが対象にしていたのはスクールカーストの最上位から中間層にかけての「若者」であり、最近の"ぼっち"に主眼を置いたラノベが描いているのは「スクールカースト制度そのものからドロップアウトしたいけど引きこもりとかオタクになる気はない若者」という指摘。
そういえば今までに「ラノベが好き☆
」っていうリア充(いわゆるカースト上位層)にはであったことはないわとめっちゃ納得。 -
ライトノベルと称される文芸ジャンルの作品群のなかにえがかれた「現代」のとらえかたを、文学研究者である著者が読み解く試みがなされています。
「ラノベ的であることから限りなく遠い「大人」であろうとしていた」と述べる著者は、東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007年、講談社現代新書)によって開かれたコンテンツの文化的読解に刺激を受けつつも、「ラノベ的世界」への「敷居を片足またいだ格好のままで」その作品を読みはじめたと語っています。東のコンテンツ批評が、思想の分野における業績を背景になされたものであるとするならば、本書は現代文学の研究による東の文化的読解に対するアンサーとみなすことができるように思います。
本書が考察の対象としているライトノベルは、平坂読の「僕は友達が少ない」、渡航の「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」、裕時悠示の「俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる」、さがら総の「変態王子と笑わない猫。」などのシリーズですが、村上春樹や村上龍、大江健三郎や寺山修司、穂村弘といったライトノベルではない作家たちにも言及がなされており、日本の現代文学においてえがかれてきた「現代」のかたちが、ライトノベルにおいてどのような変容を受けることになったのかということが考察されています。
著者は、これらの作品にえがかれる「ぼっち」のすがたに、もはや一般的な消費者を意味するだけとなった「オタク」の現代のありかたを見いだすとともに、そこにえがかれている少年少女たちが、両村上の作品に示されるような、平板な日常を越え出ようとする志向をいだくことなく、平板な日常を送ることに終始しているということが指摘され、そこにライトノベルの「現代」を見ようとしています。
200ページに満たない分量の本になっているのですが、現代日本文学における「家」や「アメリカ」といったテーマについての概要を解説する手間を著者が惜しんだことが悔やまれます。 -
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【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/685809 -
「本書の考える「現代」とは、あくまでも、誰かのノスタルジアの産物として観測可能な事象だ」(183頁)というスタンスのもと、第二次大戦以降の日本において、各世代の人々の内的な過去の嫌悪/美化のパターンを描こうとしている。特に、ポップ世代として村上龍や村上春樹を据えながら、その後の村上隆や穂村弘との、さらにその後のラノベ世代の感覚(自分や世界との向き合い方)の違いを、様々な作品を紹介しつつ説いていく。後の世代になるにつれ、内的な過去が依ってたつリアルが失われていく。それはよいことでもなければ、悪いことでもない。そんな感じだろうか。著者の論の運びは図式的なようで感覚的。視点は面白いが、読んで納得、とはならなかった。