- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062882460
作品紹介・あらすじ
「これは、研究者ではない一人のごく普通の日本人が、自国の近現代史を知ろうともがいた一つの記録である。
それがあまりにわからなかったし、教えられもしなかったから。
私は歴史に詳しいわけではない。けれど、知る過程で、習ったなけなしの前提さえも、危うく思える体験をたくさんした。
そのときは、習ったことより原典を信じることにした。
少なからぬ「原典」が、英語だったりした。
これは、一つの問いの書である。
問い自体、新しく立てなければいけないのではと、思った一人の普通の日本人の、その過程の記録である。
――「まえがき」より
感想・レビュー・書評
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戦争は永久に之を放棄
すると、
いまや日本人自ら決意
したかの如く喧伝され
ますが、
戦後、アメリカにそう
言わされたのであって、
私たちの当事者意識は
あるようでありません。
平和や反戦を私たちが
誇る至上の美質と語る
ことは、
与えられた美辞麗句に
便乗してるだけの欺瞞
とも感じてしまいます。
「一億総火の玉だ」と
猛り狂う気質は変わる
ものなのか。
アメリカの庇護が消え
隣国の脅威に晒される
いま、
当事者意識のもと憲法
を見直してくなかで、
それでも戦争は永久に
放棄すると言えるのか。
そのメッキが剥がれる
ときは近いのでは?と
思うのです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
立て続けに赤坂真理さんの著書を読んでいる2冊目。またも新書でありながら新書らしくないエッセイのような読後感。
戦後の日本といいながら旧態依然、旧弊としたものが厳然とあるいは巧妙にかたちを変えて残っていることや、世のなかが自然と受け入れてしまっているものへの異議を唱えるなどヘソ曲がりな私には共感できることが多かった。特に地元の町内会にかかわって公園のあり方を検討するメンバーになった顛末は、身近なだけにその異常さ、おかしさがリアルに感じられ恐ろしくなった。
赤坂さんが会ってみたかった人として鷺沢萠を挙げていた! -
著書は思い込みの強そうな人物だと感じた。
そして、その壮大な思い込みに付き合わされているような、感じが読んでいてした。
頭が良くて面白い人なのだと思うし、ここまで日本というもの、戦争の結末を自分ゴトとして考えられるのはすごい才能だとは思うのですが。
頭が良くて真面目な文系の人特有の言葉遊びというか、レトリックに付き合わされている感じがした。
読んで何か得られるか、っていうとそういうものもなかった。
視野が外に広がるというものでもなかった。
なんというか、非常におすすめできません。
戦後史とかを知りたいならジョンダワーの有名な本なり何なり、他に面白い本がたくさんあると思う。 -
著者とは全くの同世代です。私にとって、戦後という言葉のくくりでの時代感覚はない。戦争を知らない子供たちですから、前も後もなく、時代論証としては、ガンダム世代、ファミコン世代、おにゃんこ世代、バブル世代、ネット世代みたいなキーワードで語られることご多いです。
さて、そんな世代でも学生時代には興味の薄かった日本史を知りたいと、この歳になると自然と思います。歳をとるとはふしぎなものです。
本書はタイトルには戦後というありますが、戦争や天皇のお話もふくみますが、それにべったりでなく、戦後という時代を経て育った日本の社会を考えています。社会学としてはパーソナルな視点に立脚しており正しい、正しくないではなくこの人はこう考えるんだ。と自然に伝わってくる読みやすいものでした。 -
「がんばろう東北」ではなくて「嘆いていい、東北。あなたたちのために私たちはがんばる」と東北以外の人が言うのが、筋なのではないだろうか?
に納得。それ以外の言葉は、気持ちの真相に挟まった感じですぐには出てこない断片になって我が身に入った。 -
ところどころに印象的な言葉はあるけど、全体的になぜだか思い込みの強さを感じてしまい少し受け入れられないところがある。まるで無農薬野菜の素晴らしさを説かれているように。
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読み終えて、タイトルは何だったかなーと思った。『愛と暴力の戦後とその後』だった。
『東京プリズン』の方がテーマに迫れていたように思うのは、私だけか。
日本人は根深い恨みを持たない民族だ、と評していたのは誰だったか。
天皇が現人神ではないことに、我々は気付かなかったわけではない。それが西洋の宗教観とは違う所である。
では、現在の我々は戦争に対して、誰かに、何かに恨み辛みを抱いているだろうか。
忘れてはいけない事柄は、「受けた傷」であり、「傷を与えた存在」ではないことが殆どである。
しかしだからと言って、敗戦に対する衝撃を忘れようとしている、と言い切れるのだろうか。
言い切るためには、我々は確かに直視しなければならないと思う。 -
大きなエッセイみたいなかんじだった。けっこう直観にもとづいていろいろと結びつける。たとえば「1980年に何か決定的な変動が始まった。」このような直観から考察が出発する。個人的な、主観から出発する近現代史の本だから、いいのかもしれないけど、あるいは、読みやすくするためにそうしているのかもしれないけど、事象の解説の論拠が「知合い一人の話」だったりして、薄いなと思ったこともたびたびあった。
「神を創ってそのもとにまとまり、戦(聖戦)を戦い、そして負けた」ということでオウムと戦前の日本の類似性を指摘し、オウムを語りにくい理由としていた。たしかにそうではあるけれど、これはオウムや戦前の日本だけでなく、ほかにもそういう団体はあるし、その点はちょっと受入れがたかった。
通底して伝えている何か、というより、ちょくちょく、そうともいえるなということもあったというかんじだった。自民党の憲法改正案や来る東京オリンピックの招致についての考えは自分に近いものだった。
「何かあったら私が責任をもつから、君らは遊べ」といえるのが大人、というのはその通りだと思う、そうありたいものだ。 -
小説は読んだことないけど、講談社現代新書のモテ本は読んだ記録がありました。その頃からこのテーマは考えられていたのですね。
前半は小説家の視点からの日本近現代史という意味でとても興味深い反面、現代社会批評的な部分はあまり共感できないものがあった。
憲法の憲という漢字の意味とか、日本国憲法草案の英語原文とか、言葉は大切にしなければというのは法律家の端くれとしてハッとさせられた。憲法とは何かと問われて法律的(というか芦部的)な説明しか頭に浮かばないのは思考停止ですね。
そもそも法律家として憲法に触れなすぎる。 -
#英語 だと Love, Sexuality and Existence by Mari Akasaka でしょうか。
テーマに向き合う著者の姿勢が、今回もすごかった。