欧化と国粋――明治新世代と日本のかたち (講談社学術文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062921749

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  • 『欧化と国粋――明治新世代と日本のかたち』
    原題:The New Generation in Meiji Japan: Problems of Cultural Identity, 1885-1895 (Stanford University Press, 1969)
    著者:Kenneth B. Pyle (1936-)
    監訳:松本三之介 (1926-) まつもと・さんのすけ
    訳者:五十嵐暁郎 (1946-) いがらし・あきお

    【書誌情報】
    発売日 2013年06月11日
    価格 本体1,100円(税別)
    ISBN 978-4-06-292174-9
    判型 A6
    頁数 368ページ
    シリーズ 講談社学術文庫
    初出 本書の原本は1986年12月に社会思想社より刊行された。

     西欧文明を前に、たじろぐ明治新世代。初めて西洋型教育を受けた彼らは、この国のかたちがどうあるべきか論争した。政府の欧化政策に反発しつつも下からの欧化主義を唱えた徳富蘇峰。それに反発し国粋保存を訴える志賀重昂、文化的アイデンティティ確立を模索した陸羯南、三宅雪嶺ら。日本人は何を誇ればいいのか? 若きナショナリズムは身悶えしていた。
    http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062921749

    【メモ】
    ・著者についてのWikipedia記事(英語版。なお日本語版の方は特に書くことが無いようで)。
    https://en.m.wikipedia.org/wiki/Kenneth_B._Pyle
    ・原著は、博士論文(1965~66年)を改訂したもの。

    【目次】
    日本語版への序文(一九八五年四月十一日 シアトルにて ケネス・B・パイル) [003-006]
    序文(一九六九年七月 K・B・P) [007-008]
    目次 [009-011]
    凡例 [012]
    献辞 [014]

    序章 015

    第一章 新しい世代 022
     I 025
     II 036

    第二章 明治青年と欧化主義 048
     I 051
     II 060
     III 067
     IV 076
     V 085

    第三章 日本人のアイデンティティーをめぐる諸問題 091
     I 094
     II 099
     III 112
     IV 120

    第四章 国民意識の苦悩 127
     I 134
     II 139
     III 145
     IV 152
     V 161

    第五章 条約改正と民族自決 163
     I 164
     II 167
     III 171
     IV 176
     V 186

    第六章 精神的保証を求めて 192
     I 195
     II 198
     III 210
     IV 220

    第七章 国民的使命の探求 230
     I 230
     II 236
     III 248
     IV 253

    第八章 戦争と自己発見 257
     I 259
     II 265
     III 268
     IV 274
     V 280
     VI 286
     VII 291

    第九章 日本の歴史的苦境 294
     I 296
     II 307

    原注 [317-347]
    訳者あとがき(一九八六年四月 五十嵐暁郎) [348-355]
    文庫版訳者あとがき(二〇一三年五月 五十嵐暁郎) [356-360]




    【抜き書き】
    □ 原注は全括弧[ ]、傍注はスミ付括弧【 】で示し、傍注は引用文のなかに埋め込みました。
    □ ルビは亀甲括弧〔 〕。
    □ その他
     〔……〕 Mandarineによる省略
     ……  パイル(著者)による省略
     《 》 パイルによる引用を、ここでは二重山括弧で括った。
    □ ここの抜き書きはアバウトなので、真面目に書いたり考える場合などは、実際に本書を確認してください。


    □第一章から(pp. 27-28)。
    ―――――――――
     19世紀半ばの革命的な変化は、この継続性を断ち切った。それはさまざまなかたちをとったが、次の二点において最もはっきりしていた。第一に、職業選択にたいする封建的な制約の廃止によって、自分の職業を選択する自由が確立されたことである。第二に、新しい工業技術の導入によって、非常に多くの新しい職業集団が創り出されたことである。
     このようにして、明治時代初期の事件の最たるものとしては、家にまつわるさまざまな信条体系〔シンボル〕が有する力の漸次的な低下、家の活動範囲の縮小、および家の権威の弱体化などにつながる変化をあげることができる。社会が、その遺産を世代を超えて伝え、そうすることによって社会自体の継続性を保証する過程は、加速度的に打ち破られていった。家、共同体および教育の場をめぐる「連続的な世界」は破壊されたのである[7]。」

    [原注7] 「七十年の回顧」『小崎全集』第三巻、1938年、25-26頁。
    ――――――――――


    □7章の冒頭から(pp. 237-239)。
    ――――――――
     そして板垣は、西欧人が日本を他のアジア諸国と同じ仲間と考えることが条約改正運動を危うくしているという結論を下している。
     福沢はこのような態度のより明確な例を示している。一八八五年に「脱亜論」[原注 8]と題して書かれた社説において、かれは西洋文明の摂取によって成し遂げられた進歩を大いに喜んだが、しかしこの進歩それ自体は、西洋諸国の好感を得るためには十分ではないと論じている。

    《独り日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在て新に一機軸を出し、主義とする所は唯脱亜の二字に在るのみ。……今の支那朝鮮は我日本国のために一毫の援助と為らざるのみならず、西洋文明人の眼を以てすれば、三国の地利相接するが為に、時に或は之を一視し、支韓を評する価を以て我日本に命ずるの意味なきに非ず。……間接に我外交上の故障を成すことは実に少々ならず、我日本国の一大不幸と云ふ可し。左れば今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり》【傍注2】

    【傍注2  最近のアメリカの学者による次のような評価を聞いたならば、福沢諭吉はさぞ喜ぶことだろう。「今日の日本はアジア的あるいは東アジア的文化に属するとは考えられない。百年後の今日、日本の文化には歴史的に西洋的伝統に――究極的にはギリシアやイスラエルにまで――さかのぼることができるような思想・価値観・人間の扱い方なとが深く浸透している。……日本は今や西洋文化の伝統に属しているいるのである」(Robert Bellah, “Values and Social Change in Modern Japan”, 『アジア文化研究』3, 1962, 55)。
     だが、デヴィッド・リースマンや他の多くの人々は、日本人自身はそれほど自信を持っていないことを指摘している。「謙譲のゆえか奥に秘められた自尊心のためか、いずれにせよ日本人は自民族中心主義的に自分たちが世界で孤立していると考える傾向がある。日本の自民族中心主義は、自分たちがどのリーグに属してプレーしているのかという、日本の知識人の不安なとまどいに関係がある。あるいはまたかれらが属するのが、たまたまイギリス海峡ではなくて、困ったことに、多くの『後進』国民に近接したアジアに位置するであることが問題なのだろうか」(David Riesman, “Japanese Intellectuals ―and Americans”, American Scholar, XXXIV, 1, 1964-65, 63)。】

     徳富はアジアにたいするこの有力な態度を共有していた。かれの著作においては、われわれがすでに見てきたように、「東洋風」とは退廃的・不毛な・受動的・非科学的などと同義の呼び名であった。
     アジア的な価値観よりも西洋のそれを選ぼうとする、この広く感じられていた志向と戦うために、陸と三宅は「世界の文明」という概念を造り出した。かれらは次のように指摘した。一国の文化はその成員のうちのごくわずかな人々によって産み出されたものではなく、「各種能力の協合及び各種勢力の競争に因りて以て其の発達を致すもの」である。同様に、世界の文明も異なる文化を持つ国々が、その影響力を行使し、その独自の才能をもって寄与することによってのみ十分に発展し得るのである。陸は次のように述べている。

    《国民天賦の任務は世界の文明に力を致すに在りとすれば、此の任務を竭〔つく〕さんが為に、国民たる者其固有の勢力と其特有の能力とを努めて保存し且発達せしめざるべからず。以上は国民論派の第一に抱く所の観念にして、国政上の論旨は総て此観念より来る》[原注 9]

    [原注8] この社説は『福沢諭吉全集』第10巻、238~240頁にある。
    [原注9] 「近時政論考」『日本』1890年7月20日~8月30日号。『羯南文録』142~143頁。 



    □ 三宅先生のターン。パイルによる要約が長い(pp. 240-248)。

    ――――――――――――
     もしある国の国民が、歴史や環境が授けた独自の特性を発展させることを無視するならば、その国は世界の文明にたいするその潜在的で独自な貢献をなし得ないであろう。
     政教社の見解を最もよく説明しているのは、一八九一年春に三宅が書いた論著『真善美日本人』である。そこでかれが目的としたのは「日本人をして自から知るの明を具ヘしめ、全世界の文明に於て負担すべき一職分を尽さしめんとする[原注10]」ことであった。その序文で、かれもまた、国民が第一議会の結果にたいして感じている憂鬱を追い払いたいと述べている[原注11]。
     三宅は、文明の進歩は競争の産物であると信じていた。かれはスペンサー流に、人間はまず最初に個人間の競争をつうじて、次にしだいに大きな社会単位相互の競争をつうじて進歩してきた、と論じた。この競争の過程で、競合する単位や集団は自らの能力を開発し、世界の文明の進歩に寄与した。こうして世界の文明はより高い段階に到達し、人間の最終的な完成をめざして進んでいる。三宅は文明の最終目標を真・善・美の獲得であると定義したのである。
     しかしながら、これらの絶対的なものの認識は、つねに時間的空間的なパースペクティヴによって制約される。ちょうど山の実形を確認するためには、多くの異なる位置から眺望しなければならないように、真・善・美も相異なる視点、相異なる方法、相異なる基準によって測られなければならない。競争によってさまざまな観点を検証してみることは、絶対的なものを決定するにあたって必要不可欠なことである。
     現代にあっては社会的競争の単位は国民国家である、と三宅は述べている。世界の文明は現在、さまざまな文化を持つ国家間の競争のゆえに進歩しつつある。そして西洋諸国の文化は、文明がかつて到達した最高段階にあることを三宅は認めているが、しかし世界の文明がさらに高い段階に進もうとするならば、西洋の文化以外の価値の概念が必要であると述べている。
     それゆえに日本人は、西洋文化の貢献を補足するために、日本人が有する特色ある才能や値観を保持し発展させる義務を持っている。このように日本の独自な資質を強調することは、もちろん自己防衛にとって必要な要素であるが、しかしそれにとどまるものではない。文化的ナショナリズムなるものは、名誉ある進歩的な営為である。三宅は序文でこの基本的な論点を強調している。

    《自国のために力を尽くすは世界のために力を尽くすなり。民種の特色を発揚するは人類の化育を裨補〔ひほ〕するなり。護国と博愛となんぞ撞着することあらん》

     この巧みな筆致によって、三宅は文化的ナショナリズムを道徳的な義務であると同時にまた進歩的な大義たらしめた。すなわち、日本文化にたいする国民の心情的な愛着を高め、またそれに知的な正当性を与えたのである。三宅の信ずるところによれば、日本の使命の遂行にとって最大の障害は、ほとんどの日本人が西洋人にたいして抱いている恥の感覚と劣等感であった。
     こうした感情を生じる重要な原因は西洋人の高い背丈であるが、それは西洋の歴史的発展の初期の時代におけるいっそう過酷な自然環境がもたらしたものであると述べている。しかしながら現代では、国際競争における重要な要素は肉体的な強さではなくて知性である。内地雑居をめぐる論争が行われていた間、井上哲次郎は西洋人の大きな頭蓋骨やひときわ高い額はかれらの優秀な知性を示していると述べた。これにたいして三宅は、象や他の人種も大きな頭を持っているではないかと述べて このような信念をしりぞけている。
     ヨーロッパ文明が優秀なのは、その知性が優秀なことを証明するものであるという主張に答えることは、それほど難しいことではなかった(井上哲次郎は、日本人には西洋に見られるような意味深い一般化や正確な推論を行う能力が欠けていると述べていた)。三宅は非常に異なる歴史的環境の下にある民族を知識や業績の面で比較しても、それらの民族の相対的な知的能力の差異を示すことはできないと主張した。日本の生徒は地球のかたちについてソクラテスよりもよく知っているが、だからといって生徒がソクラテスよりも知的であるということにはならない。ビスマルクはペリクレスよりも大きな帝国を支配したが、だからといってビスマルクのほうがよりすぐれた、より知的な政治家であったということはできない。
     ヨーロッパ文明の多くの否定し難い優秀性は、そのこと自体は西洋人がよりすぐれた知性を持っていることの証明にはならない。
     三宅は、日本人がモンゴロイドとしての人種的アイデンティティから自信を呼び起こすベきことを主張した。かれは、西洋人がその起源に誇りを持っているのと同じように、日本人は黄河流域の「モンゴロイド文明」の起源に誇りを持つことができると述べている。かれは夏・殷・周の時代をギリシアの偉大な時代になぞらえ、周公をペリクレスに、孔子をソクラテスに、秦・漢時代の中国をローマ帝国に、そして儒教の普及をキリスト教の出現に、それぞれなぞらえた。要するに、古代と中世における西洋の発展は、どの点においても決してモンゴロイドの発展にまさっていたわけではない。日本人はモンゴロイド系民族の中でも最も才能豊かな民族に属する。すなわち日本人は、みずからの人種が遥か過去に成し遂げた業績に誇りを持つべき十分な理由がある。
     三宅は、近代になってヨーロッパ文明は、地理的および時機的な理由からモンゴロイド文明をしのいで発達するに至ったのだと主張した。ヨーロッパは通商や発展を促す河川網に恵まれていた。他方、わずか三、四本の河川が貫流する中国の険しい地勢は、かかる急速な発展を許さなかった。さらに、ヨーロッパ文明は千年遅くその発展を開始したので、より古いアラビア・インド・エジプトおよびモンゴロイド文明の成果から利益を得たのである。
     日本人は人種的アイデンティティだけではなく、民族的アイデンティティをも同様に誇りに思うべき理由がある。一体、西洋の歴史上のどれだけの人々が、徳川家康の政治的烱眼や豊臣秀吉の統率力や伊能忠敬の熟練した地図作成法や紫式部の文才に匹敵し得るであろうか。これらの人々やその也多くの日本人は「輙〔たやす〕く欧米人の下に出」ることのない才能を示している。かれらの業績は、日本人が世界文明の発展に有用な能力を持っていることを証明している。
     日本人の自信の基盤を築いた三宅は、次に真・善・美の追求における日本の歴史的地理的役割を説明しようとしている。真理(「真」)を追求するためには、多様な経験と状況から抽き出された資料を調査、分類、分析することが必要である。日本人はこの面では、すでに相当の経験を積んでいる。インドや中国から思想を輸入し、それらを徹底的に検証し、洗練し、発展させてきた。現在は西洋思想にたいして同様のことを行っている。他の民族、たとえば西洋ともっと長く接触している中国人が新しい思想に無頓着でいたのにたいして、日本人は目ざましい研究の才能を発揮してきた。
     とくに日本人は、その学問的才能を極東諸国の歴史、社会および文化の研究に用いるべき使命を持っている。西洋の学問――たとえばスペンサーの社会学――は、東アジアを適切に論じるには至っていない。三宅は、日本人の学者や学術調査隊を東アジア全域の興味ある地点へ派遣し、またかれらの調査を援助するため国内に博物館や図書館を設立することを主張した。かれは日本自身の歴史と社会が実りある研究のための新しい資料になると信じていた。とくに日本が比較的孤立の状態で発展したことによって、ある種の因果関係を他の諸国の場合よりも明確に識別できるはずである。その研究の才能を東アジア研究に向けることによって、日本人は新しい学説を展開し、独自の学問的伝統を保持することができる。
     日本はまた、国際問題において正義と公正を支持するために積極的態度に出ることによって、第二の理想である「善」に向かっての進歩にも寄与しなければならない。日本が唱える正義の意味を世界に認識させるためには、西洋諸国と対等にわたり合えるだけの力を持たなければならない。ひとたび強力になるならば、日本は東アジアの弱体な諸国を西洋の帝国主義から保護することができる。国家は防衛のためにのみ軍備を持つべきだと主張した徳富とは対照的に、三宅は国際的問題において毅然たる姿勢をとるために軍事力が必要なのだと信じていた。日本がヨーロッパ諸国よりも弱体なのは、徳川時代を通じて国家間の競争の刺激から孤立していたためである。三宅は日本の国力を西洋の水準まで引き上げるためのよく練り上げた長期的な計画の必要を主張した(しかしながらかれは、政府が急速な軍備拡張を支えるために地租を増徴しようとしたのを批判している。かれは民生の向上を優先すべきだと考えていたのである)。
     日本人の第三の使命は、繊細さと優雅さを強調する日本独自の「美」の概念を保存し発展させることであった。かれは他の様式――たとえば厳粛、壮麗な西洋の様式――を学び、試みることに反対はしなかったが、その摂取には思慮深くなければならないことを強調している。
     日本人は西欧建築の特徴である「堅牢」が日本の風土にふさわしいかどうかを反省すべきである。また資材の入手可能性やその費用も考慮しなければならない。絵画や彫刻・音楽などの西洋の媒体を採用する場合も、その基準は日本の芸術家がそれらを用いて日本の芸術愛好家に自己の感情を伝えることができるかどうかに求められるべきである。
     さらに、文化的自律性の喪失は品位をおとしめるものである。たとえば社会的慣習は簡単に捨てさるべきではない。それは日本の歴史の中で日本人の性質に従って発展してきたものである。この点に関連して、かれは洋服が「背の曲りたる」日本人に似合うかどうかを疑問視している(政教社と民友社の人々は相異なる着衣のスタイルに象徴的な意味を持たせていた。二つのグループを写真で見ると、一般に政教社の人々は着物を着ており、民友社の人々は洋服を着用している)。三宅は、身体に合わない外国の服を着ている日本人は西洋人の嘲笑を買うことになると述べている。つまり、西洋人は中国人の弁髪や礼服を表面的には笑うかもしれないが、内心ではその独立心を尊敬しているのである。他方かれらは、日本人の洋装を表面では誉めるかもしれないが、内心ではその不体裁な模倣をばかにしているのだ。
     三宅の著書は、日本人の恥と自己不信を、国民的な誇りと自信とを必要とする世界観によって置き換えようとするものであった。国民的使命という付随的概念を内包するかれの世界文明の概念は、画一的な社会発展に関する当時の有力な信念を否定した。国民的進歩というものは、日本の社会の完全な西洋化を必要とはしない。なぜならば、国民的進歩と文化の多様性とは両立し得るものだからである。
     実際、文化の多様性は人類の進歩にとって必要不可欠な条件である。世界の文明は、相異なる歴史的経験と環境に育まれた多様な国民的才能の競争を通じて発展してきた。日本独自の特性を保存し発展させていくことは、単なる反動的な企てなどではない。それは刺激的で進歩的な活動であり、人類に奉仕する企てなのである。日本の過去は日本人の特殊な才能の源泉であるから、それを否認するよりはむしろ尊重すべきものである。日本とモンゴル・アジアとの同一化についても同様と言ってよい。
     大方の見るところによれば、『真善美日本人』は広く読まれたと言われる。田口卯吉の『東京経済雑誌』が言うには、この著書は人々に大きな影響を与え、たちまち版を重ねるとともに、三宅はもはや単なる保守主義者として片付けられることはなくなったとのことである[原注12]。三宅の伝記作者である柳田泉教授は、この論文が青年にとりわけ深い印象を与えたと記している[原注13]。この評論が発表されたころ政教社の支持者となった丸山幹治は、のちにこれが国民的能力にたいする信頼と国家の過去にたいする誇りとを鼓舞する上で重要な役割を果たしたことを回想している[原注 14]。
     『国民之友』は、三宅の主張の内容を認めることは保留したが、他の国の人々に尊敬されたいと思うならば日本人はまず自らを尊敬せねばならないという、その精神には賛意を表わした[原注15]。ただし『国民之友』は、それが傲慢や自己増長につながらぬように警告を発している。


    [10]志賀重昂全集刊行会編『志賀重昂全集』1927~29年、第三巻、7頁。
    [11] 同右、54~55頁。
    [12] 同右、102~103頁。
    [13]『国民之友」1887年10月21日号。
    [14]三宅は、『大学今昔譚』1946年、および『自分を語る』1950年の二冊の自伝的作品を書いている。また、柳田泉『哲人三宅雪嶺先生』1956年、および長谷川如是閑「三宅雪嶺」『三代言論人集』第五巻、1963年、237~336頁所収の二冊の伝記がある。また、本山幸彦による「三宅雪嶺――在野のナショナリスト」朝日ジャーナル編集部編『日本の思想家』第二巻、1963年、59~67頁所収、および同じく前出の「明治二〇年代の政論に現われたナショナリズム」の二篇の論文を参照。後者は三宅と同時に陸と志賀の思想を取り上げている。
    [15] 三宅雪嶺「自分の思想の由来」『我観』一九二五年九月号。これは最初『我観』に発表され、のちに『自分を語る』という表題の下に一巻にまとめられた一連の自伝的評論の一つである。
    ――――――――――――――

  • たまたま,外出先に持参した本が読み終わってしまい,書店で見つけた本。こういう場合は場当たり的に妥協して本を購入することが多いが,今回は本書を見つけられたことに感謝をしたくらい。
    本書は講談社学芸文庫に収められているが,元は1986年に社会思想社から刊行されている。なんと,原著は1969年出版。なぜ,私が本書を手にとり,購入したかというと,西川長夫『国境の越え方』(筑摩書房,1992年)の4章が「欧化と回帰」と題し,日本は明治以降の近代化の過程で,欧化という欧米文化を吸収する時期と,回帰という日本人の元来の性質を見つめ直す時期とが交互に行き来するという議論をしているからだ。章のタイトルは回帰だが,当時ナショナリティの訳語として用いられていた国粋も何度も登場する。そして,『欧化と回帰』に登場する国粋主義者の陸 羯南と三宅雪嶺の名も『国境の越え方』で知ったのだ。しかし,改めて『国境の越え方』をめくってみると,本書は引かれていない。まあ,ともかく目次をみてみましょう。

    序章
    第一章 新しい世代
    第二章 明治青年と欧化主義
    第三章 日本人のアイデンティティをめぐる諸問題
    第四章 国民意識の苦悩
    第五章 条約改正と民族自決
    第六章 精神的保証を求めて
    第七章 国民的使命の探求
    第八章 戦争と自己発見
    第九章 日本の歴史的苦境

    本書は非常に素晴らしい日本史研究である。正直いって,西川氏の本では,陸や三宅という国粋主義を標榜し,『日本人』という雑誌や『日本』という新聞を発行していたという事実は分かったものの,その内実についてはちょっとよく分からなかった。
    しかし本書では,陸と三宅と,『日本風景論』の著者として地理学では有名な志賀重昂の3人の日本主義者がなぜ登場したのかということを,その前の欧化主義者,徳富蘇峰を対比させることで,非常に明快に論じている。しかも,その議論は非常に丁寧で,厳密に史料に基づいており,訳文も併せて,とても原著が1960年代に出たものとは思えない。まさに,この時代に講談社学術文庫に収められるべく本である。
    本書を読むと,アンダーソンが『想像の共同体』でインドネシアなど旧植民地でのナショナリズムのあり方を議論していたことを思い出す。日本は植民地にはならなかったが,急速な近代化のなかで欧米文化の吸収によって新しい近代国歌として生まれ変わったわけだが,その後なぜ天皇を中心とする内向きの力が働き,軍国主義のもと拡張戦争へと突入していったのか,いまいち理解できていなかったのだが,本書でその一面を垣間見たような気がする。そして,内村鑑三のような人物が,キリスト教に深く心酔しながらも,日本国に対する忠誠を持っていたのかということについてもヒントを得たような気がする。
    本書には直接的に書かれていないが,日本人が国粋思想というものをこの時代に得たのは,やはり国粋という言葉自体がナショナリティの翻訳語だったように,自分自身の国民アイデンティティを求めるという発想自体を欧米から学んだのではないかと考えた。

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