科学とはなにか 新しい科学論、いま必要な三つの視点 (ブルーバックス)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065221426

作品紹介・あらすじ

科学を毛嫌いする反知性主義も、過度に信奉する専門家も、真に科学的であることはできない。科学の意味を問い直す「新しい科学論」。

感想・レビュー・書評

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  • 科学について語っているのは間違いないし,大事な側面について語っているのだけど,「科学とはなにか」と言われると個人的には「科学研究」あるいは「科学とはどういう営みか」と感じてしまう。

    そういう側面がないわけではなし,科学とは科学研究だけではないので,私の認識の問題(偏り)でもあるけれども,本書はどちらかというと「科学知とはなにか」の方が適しているように思う。

    でも,実は私のこの認識(科学とはなにか=科学研究or科学とはどういう営みか)自体が古臭いもので,その認識を改めようとした本なのかもしれないと思う部分もある。

    10年後にまた読んでみたい。

  • 科学技術をどのように使っていくか?

    科学(知識)と技術(力)の社会における在り方や認識を時代を追って特徴を明らかにし、これからの科学技術に携わる者、つまり専門家だけでなく一般の人々含めすべてが、どのように科学技術を扱うべきか述べた本。

    科学の知識は何か人が行動するときの理由付けの手段となる。しかしそれは唯一絶対ではないし、行動は善のために、また公共のためにあるべきである。科学的知識は何回もの再現実験を経てようやく確からしいと認定されるが、一般の市民が求めるのは「今、ここの、自分にとって」である。それは夕日の例えからよくわかる。地動説が正しいけれど、夕日は沈むのである。だから専門家はそのような行動を取る市民に対してわかっていないというのではなくて、専門家の知識を生活の実際に良く活かすためにはどうしたらいいかを共に考えてほしい。

    サイエンス・コミュニケーションという考え方が東日本大震災後よく耳にするようになった。新型コロナウイルス対策にもこの考え方は重要である。別に理系じゃないし、専門家では全然ないけど、科学的知識を生活に取り入れて、よく生きることから逃れられないのだから。ここでも分断は大きな問題となってくる。エコーチェンバーやフィルターバブルとの戦いは、民主主義社会においてもはや必然であり、しかもなかなか有効な作戦が出てこない。

    明確な光は見えないけど、この本で整理された考え方について、これからも考えていきたいと思った。

  • 読み終わった。タイトルから原論っぽい印象を受けるが、社会(特に日本社会)における科学のあり方の変容みたいな感じの内容。知らないことがたくさんあった。

  • 今こそ、「科学」を社会(市民)に取り戻そう、というのが"科学者でない"著者が本書で言いたいことです。では、そのためにはどうすれば良いか?
    科学(者)の歴史から始まり、科学の有り様がいかに変容したか、現代の科学(者)を取り巻く現状など具体例をあげながら検証し、私たちはどのように科学を「飼い慣らし」ていけばいいか考えます。印象深いのは「当事者研究」から「市民科学」への流れの部分。
    "科学書"といえますが、読みやすいです。専門家でない一般人を対象としてますから。
    もはや、科学技術なしでは成り立たない、私たち人間にとって、読んでおくべき1冊だと思います。

  • 770

    佐倉 統
    (さくら・おさむ)
    1960年東京生まれ。京都大学大学院理学研究科博士課程修了。理学博士。三菱化成生命科学研究所、横浜国立大学経営学部、フライブルク大学情報社会研究所を経て、現在、東京大学大学院情報学環教授、理化学研究所革新知能統合研究センター(AIP)チームリーダー。もともとの専攻は進化生物学だが、その後、科学技術と社会の関係についての研究考察に専門を移し、脳神経科学、原発事故、AIとロボットなどを対象に、これらの技術と人間の関係を模索中。

    話がやっかいなのは、科学者の社会的評判が専門的な評価と正反対な状況、つまり、科学的に 誤った 事柄を正しいことであるかのように吹聴する連中が社会的にもてはやされるのは、しばしば危険であるということだ。とくに、医学・生命科学に関する問題だと、人の命を危険にさらすことにもなりかねない。怪しげな代替医療を持ち上げたり、昨今勢力を増しているワクチン反対運動を支持したりする自称「専門家」も散見されるが、おおむねそういう人たちは、実際には専門的な学会などでは評価されていない場合がほとんどだ。

    スポーツの場合は、彼ら彼女らの専門的な領域、つまりスポーツの試合での成績が、はっきりしていてわかりやすい。だから、本職でしょぼしょぼの選手が人気絶頂になることは、まずありえない。しかし科学の場合には、一般社会での評価基準と専門的な評価基準のズレが大きいから、本職でしょぼしょぼでも、世間一般ではちょっとしたスター科学者になる可能性がある。

    科学者も、社会のことも十分に考え、なおかつ、専門家集団の中でも高い評価を勝ち得なければならない。この構図は他のどのジャンルの専門家、たとえば音楽家や映画監督や小説家などにとっても当てはまることだと思う。

    科学的根拠のない疑似科学を吹聴する科学者を支持してはいけないし、逆に、社会の要望や感覚を一顧だにしない専門バカは厳しく批判しなければならない。それは、科学と科学者をまっとうに育てていくための、社会の使命であるといっていい。

    動物の行動観察における方法論的議論が生じたきっかけは、アメリカの霊長類学者ジーン・アルトマンが一九七四年に出版した「行動観察研究──サンプリング法」という、そのものずばりのタイトルの論文である(図1‐2)。彼女は当時、シカゴ大学の動物研究グループに所属していて、野生のヒヒの母子関係について研究していたが、もともとは数学科の出身という変わり種である。

    科学は普遍的で客観的な活動だと、信じて疑っていなかったのである。ニュートンの力学法則は、日本だろうがアメリカだろうが火星だろうがアンドロメダ星雲だろうが、どこでも等しく成り立つ。それが科学のすばらしいところだ。

    こうしてぼくは、科学研究そのものから、科学を取り巻く社会や文化や歴史のほうに興味関心を移していった。

    もう一ヵ所お世話になったのは、名古屋の南山大学で科学史・科学哲学を教えていた横山輝雄さんのゼミである。

    科学と技術は、もともとはまったく異なる活動である。前者は自然界の成り立ちを知ること、後者は人工物をつくることを意味する。

    科学技術に関わるということは、社会に関わるということなのだ。

    科学者というのは、科学的な研究をおこない、その成果を学術専門誌に論文として発表することが仕事だ。それが、 科学的な知識を生産する ということだ。ぼくは、そのような仕事をしなくなって久しい。だから、ぼく自身は科学者ではない。科学技術と社会の関係を研究している研究者ではあるが、科学者ではない。

    ここでいう「知識」が科学、「力」が技術だ。

    科学の「事実」と日常生活の「事実」とは、だいぶ異なるものだ。

    何度も何度もこういった検証に耐え、結果が支持されれば、まあ、事実と認定してもいいよねと認められて、事実として定着していくことになる。

    一〇〇年から数百年のあいだ、このようなテストを受け、合格しつづけてきた。だから、誰もが「正しい」と認定し、「法則」の称号が与えられている。

    このような法則と、昨日発表された論文の結果とでは、「正しさの重み」が全然ない。

    このように、科学における「事実」とは、専門研究者集団たちがよってたかってアラを探し、それでも瑕疵が見つからなかったときに初めて認定されるものなのである。

    ノーベル賞の授賞決定が、根拠となった論文の発表から通常は一五~二〇年程度だ。

    科学的な知識を得るには時間がとてもかかることをあまり理解していない人たちからは、科学者はすぐに「正解」を出すことを求められたりする。


    この女性、オカルトに 凝っていて、科学技術を根っから信じていないのである。


    科学という営みが「世のため人のためにある」ということが暗黙の了解だったことを示している。



    基礎的な科学研究にも長期的な有用性がある。


    古代ギリシアから始まる西洋文明の合理主義と、近代ヨーロッパの啓蒙主義とが、現在の科学の根幹をなしていることは明らかだ。

    近代科学の方法論の基本的な形は、おおよそ一七世紀に確立される。

    近代自然科学の認識論の前提になっている重要な要素は、「観察する主体」と「観察される客体」の分離独立である。

    古代ギリシアの科学の祖として、アリストテレス(紀元前三八四~前三二二)を挙げておきたい。


    ハーシェルはもともと、ドイツ生まれの音楽家だったが(ドイツ語流に発音すればヴィルヘルム・ヘルシェル)、イギリスに渡って音楽のかたわら数学と天文学にも興味を抱くようになり、ほとんど独学でこれらをマスターした。

    自然科学が実用的な価値から切り離されて、真理を追究し、知識を増やす活動そのものとして意義があると考えられるようになってきたのは、時代が下って一九世紀の後半である。

    二〇〇年を要した自然科学の制度化  この過程を一般に科学の「制度化」とよぶ。科学の方法論や領域がおおよそ明確になり、社会の中で活動が認知されていく状況のことだ。

    このような科学の成長とその潜在力にいち早く目をつけ、それを国家の発展のために積極的に利用したのが、ドイツと日本である。


    「国家と科学技術の結託」が生んだ不幸  しかし、それとは裏腹に、国家と科学技術の結託は大いなる負の遺産を残すことにもなった。第一次世界大戦である。

    ヒトラーが目指したのは「ドイツ人による強いドイツ」であり、そのためには「ドイツ人」の範囲を確定し、その枠内に入る国民を「強く」することが必要だった。前者を推進したのが人種政策であり、後者が優生学的政策である。

    ちなみに、このような優生思想にもとづく政策は、ナチス・ドイツの専売特許ではなく、アメリカでもイギリスでも、北欧諸国でも日本でも、その現れ方こそ異なるものの、普遍的に見られた現象である。

    一方で、一九世紀後半に確立した、真理を追究することにこそ科学の意義があるという見方、すなわち、政府などの統治権力から独立・中立であることが、科学として重要だという見方も、科学技術が戦争に関与したことへの反省から、第二次大戦後にふたたび高まる動きを見せるようになった。

    社会、さらには国家への貢献と、政治的中立性。この両者は、科学技術のなかでどのようにバランスをとってきたのだろうか。また、とっていくべきなのだろう。

    この本は、二〇二〇年の新型コロナウイルス感染症(COVID‐19)が世界中で猛威を振るっているなかで書いている。

    アメリカや中国をはじめとする多くの国の政治家が、自国中心主義を声高に唱えて内向きになっていく傾向が強まっているのが気になった。

    公的な権力である国家がむしろ私的にふるまい、民間組織のほうが公共圏を維持し、強化する活動をしているのである。

    科学のセールスポイントのひとつでもあった「知識の公共性」が侵食されてきたのである。

    科学論文は本来、ひとたび掲載されれば誰もがアクセスできる「公共の情報」である。

    科学はもともと、自然界の成り立ちを調べる活動である。この「自然界」の中に、人は原則として含まれている。

    もっと明確に自然界を対象とする科学、たとえば物理学や天文学では、人はつねに「観測者」であって、観測される現象とは独立した中立な存在とされてきた。観測者の影響は対象におよばないように、できるだけ排除することが良しとされていいる。

    たとえば、人と人がハグをしたり、お母さんが赤ちゃんに母乳をあげると、オキシトシンという神経伝達物質が増えて、落ち着いた感情がもたらされる、といった類の研究結果がある。こういった実験の結果は科学的「事実」である、すなわち、価値をともなわない中立な事柄である、と研究者たちはいう。それはそのとおりだし、オキシトシンの話は科学的にとても興味深い結果なのだが、それがひとたび科学界の「外」に出てしまうと、人に関する事実の記述が、たちまちある種の価値を帯びてしまう事態は避けられない。  オキシトシンが出て気持ちが落ち着くの だから、お子さんをハグしてあげましょう。赤ちゃんには母乳をあげましょう──。オキシトシンが出て気持ちが落ち着くことと、その状態を積極的に求めるべきだということのあいだには、じつはなんの論理的つながりもない。「気持ちが落ち着くのは良いことだ」という無意識の価値判断や好みがはたらいて初めて、つながっているように感じるにすぎない。

    脳神経科学を学んだ経験のない一般人は、不適切な説明であっても科学的な用語が加わっていると、説明の内容部分は同じなのに、科学用語がない説明より高く評価している。


    ぼくは、根っからの科学主義者で唯物論者だ。幽霊の存在も死後の世界も、ついでにいえば神様の存在も、いっさい信じていない。 微塵 も信じていない。だけど、わけあり物件を借りるかといえば、嫌だ。かなり強固に嫌だ。気分が悪い。自分が毎日毎日暮らすところがそういう場所だというのは、とても嫌だ。  この気持ちが非科学的で、合理的な根拠がないことは、自分でもよくわかっている。だけど、どうにもならない。このような心理的な要因も、日常生活を楽しく快適に送るうえでは、とても大事なことだ。それを「お前の考えは非合理的だ! 科学をないがしろにしている!」と批判されたら、ぼくは反論する。それのどこが悪いの? と。人間、そんなに合理主義や科学主義ばかりじゃ生きていけないんだよ。

    また、科学的知識が(少なくとも理念としては)普遍的なのに対し、「ローカル知」という言い方もあるが、注目したい対立軸は「普遍的かローカルか」だけではない。

    末期がんで苦しむ人が、標準治療以外のさまざまな代替医療(おまじない的なもの)に手を出すことはしばしば知られているが、それが成功することはまずない。

    しかし、そうとわかっていても、人によっては 藁 をもつかむ気持ちになってしまうのも、当然と言えば当然のことである。

    何かをするとか受け入れるとかの意思決定の際には、人は合理的な思考回路だけで判断するのではなく、情動にもとづく思考回路も同時に作動している。

    理性と情動、どちらも大事なのだ。

    だから、科学的知識と日常的知識とを、対立するものとして捉えるのではなく、相互に補完するものとして捉えるべきなのだ。

    科学知識だけではなく、技術についても、その使い方を決めていくのは社会であり、ユーザーである。

    もれなくスマートフォンについているカメラ、いわゆる写メである。これは当時、J‐フォンにいた電気工学エンジニアの高尾慶二が箱根でロープウェイに乗った際、乗り合わせた女性がせっせと携帯メールを打っているのを目撃し、目の前の景色の美しさを伝えているのならば、いっそ「携帯電話で写真を撮れるようにし、それをメールで送ることができたらもっと便利になるのではないか」と思いついたことに端を発している。

    有害な考え方を広めたり他人に押しつけたりする人も後を断たない。被害妄想的な想像がたくましくなって陰謀論に凝り固まったり、ヘンな正義感と一緒になってしまったり、たんにインチキを信奉しているというだけのレベルではなく、実害を 撒き散らしてしまうことになる。

    成績の悪い人ほど「自分は出来が良い」と考えてしまう。



    自分がどれだけの成績を取れたかという主観的な評価とのあいだには、負の相関があるという現象だ。  つまり、成績の良い人は自分のことをさほど高く評価しないが、成績の悪い人ほど自分は出来が良いと思うのである。知識が少ない人は、自分の状態を客観的に評価したり俯瞰的に把握したりすることも難しい。しかし主観的には、自分は正しい(むしろ、自分のほうが正しい)と思い込む度合いもある。

    つまり、ユーモアのセンスがない人ほど、自分はユーモアセンスがあると思っているのである。

    さて、このような疑似科学を信じている人たちがインターネットを使えば、自分たちの意見を正しいとする情報はいくらでも集めることができる。ネット上にはいいかげんな情報もたくさんころがっているから、そればかりを集めることは簡単だ。その結果、ただでさえ自己批判能力の乏しい疑似科学信奉者たちは、やっぱり自分たちは正しいじゃないかと、ますます強く確信してしまう。間違っているのは、疑似科学を批判している「あっち側」だと。

    このサイクルが恐ろしいのは、自分で繰り返していくことで、どんどん確信の度合いが強くなっていくことだ。疑似科学信仰は、無限の自己強化システムなのだ。カルトと同じである。

    インターネットによる、ダニング゠クルーガー効果の強化である。

    科学は何のためにあるべきか」という根本的な問いに、四つの回答を提出している。知識のため、平和のため、開発のため、そして、社会のため。



     真理は 中庸 にあり。といえばカッコいいが、反原発主義者からはさんざん御用学者呼ばわりされたし、逆に保守的なブログでは「パヨク」認定されたりして、正直、あまりいい気はしない。

    二〇世紀の研究者で誰が好きか、尊敬するか、ひとりだけ挙げろといわれたら、迷うことなく彼の名を挙げる。

    善」はとてつもなく複雑な要素から成り立っているし、人々の価値観も多様である。

    何が善いことかは、「時と場合」によるのである。だが一方で、科学は「いつでも」「どこでも」成り立つ普遍的な事実を語る。

     科学が事実探求のためのツールであるならば、人文学は価値探求のためのツールである。

    それまで当たり前だと思っていた数字のゼロに、こんなにも深い意味と歴史があったとは! ゼロがあることで位取りが容易になり、四則演算がものすごく簡単になった、と書かれていたように思う。  なんだか目の前がパーッと開けた──蒙が啓けた──感じがした。思い返してみれば、ぼくにとって、科学的な知識によって常識や世界の見方/見え方が変わるという経験の、最初のものだったかもしれい。


    福沢は、欧米諸国が繁栄しているのは、科学的合理主義が社会に根づいていることが理由だと考えている。

    近代化のカギが科学技術にあることを見抜き、日本でも広く国民が科学的合理主義を身につけることが必須と確信していたのである。


    もともとの日本社会の駆動原理というか運用規範は、科学的合理主義とは異なるものである。

    科学も、それを社会に伝える活動も、日本社会から内発的に出てきたものではなく、そこに内在していたものとの接続を明確には意識せずに、輸入されたものなのである。


    ある社会を土壌から丸ごと移植するなんてことはできないんじゃないか、とも思うのだ。それって、言語や宗教や価値観も含めて、文化システム──生態系をすべてコピーしなければならないはずだからだ。そんなことをしたら、国や文化の独自性自体がなくなってしまわないか。

    ベルツは、科学をひとつの有機体であるとして、それを育む土壌や大気とセットでなければ枯れてしまうといっている。そのとおりだが、これは鉢植えの花のような規模の有機体ではなくて、アマゾンの密林のような規模の大きな生態系ではないのか。  社会という環境の中で育まれ、さまざまな影響を受けながら、何百年もかけて変化し、成長し、ときに衰退していく。この生態系を取り巻く環境を、すべて移植することなんてできる。

     日本は、明治以降の近代化によって、表向きは江戸以前の文化からのつながりがなかったことにされてしまったのだ。


    科学は、なんらかの母胎の中で育ったのだし、日本には日本なりのそのなりゆきがあるはずだ。

    繰り返しになるが、近代科学の思考方法や論理構造は、それまでの日本人にはまったくなじみのないものだった。

    辻は、西洋近代科学が力学(機械論)を基本モデルとしているのに対し、日本の科学導入においては医学が中心的な役割を担っていたと指摘される。

    近世までの日本の科学が、普遍的な法則を追求するのではなく、職人技を極める「術」としての側面が強かったことと密接に関係している。江戸時代には金魚や朝顔、菊などの品種改良が非常に発展したが、それらも遺伝のしくみを解明する方向には向かわず、今までにない品種をいかにして生み出すか、その技術の競い合いとなっていたのである。

     もうひとつ目につくのは、日本の大学院における人文系の割合が、他の国と比べて低いことだ。日本を除いて最も低いアメリカとイギリスでも一〇パーセントを少し超えているのに、日本は全大学院卒業者のわずか八・五パーセントだけが人文系である。フランスでは、この割合は三二・四パーセントにおよんでいる。法律・経済系の傾向とあわせて考えると、総じて「文系」の大学院は、日本の社会にはまだ十分には根づいていないようだ。

    日本には公共という概念が根づいていなくて、公と私の境界があいまいだ。だから、科学技術研究が公共に資するイメージが、実利的な技術開発のほかには連想しにくい状況にあるのではない。

    公と私のあいまいな境界に、日本の家屋は「縁側」を設置している。公式にその家を訪問する人は、表玄関から自身を名乗って入らなければいけない。しかし縁側では、裏口からご近所さんが入ってきて、一緒に座ってお茶を飲んでほっこりしたりしている。それが許されるあいまいな領域が縁側だ。

    一方で、日本初のイノベーションとして成功例に挙げられるのは、ホンダ、ソニー、トヨタといったあたりで、ニコンのカメラやセイコーの腕時計も高く評価される。パソコンのマッキントッシュを発明して世界を変えたスティーヴ・ジョブズがソニーのものづくりを敬愛していたのはよく知られているし、羽根のない扇風機で空調家電に革命をおこしたダイソンも、日本法人のオフィスにはホンダのカブとソニーのウォークマンを飾っていると聞いたことがある。

    自動車ぐらいの大きさを中心に、小さければ小さいほど得意というあたりが、日本の工芸技術の粋が実力を存分に発揮できるサイズ感なのではなかろうか。

    「日本ならではの強み」を誇る分野  建築は、自動車よりは大きく、カミオカンデよりはだいぶ小さい対象を扱う技術だが、やはり日本が得意な分野だ。

    建築、ファッション、弁当。そう、日本は衣食住に強いのだ。


    人工物と自然とのあいだにアナロジーを見ることはしばしばおこなわれてきた。

    学問も同様に、発展していくにつれて細分化していく。研究成果は他人がやっていないことでなければならず、オリジナリティを要求されるから、おのずと他との差異を強調することになり、それが専門化や細分化を促進していく。  細分化が進むと揺り戻しがきて、学際的な研究や総合的な視点が必要だといわれるようになってくるが──そしてそれらは、もちろん大切なのだが──、これはとても難しい。学問研究は生物の進化と同じように、放っておけば自然と細分化していくものだからだ。学問とは、そういうものなのだ。

     もちろん、だから良いのだということではなく、なにもしなければ学問というのは細分化し、同族の専門家たちだけで閉じていく性質をもっているので、意識的に、積極的に、そうならないような働きかけを外側から続けなければならない、ということである。ある種の「 攪乱 要因」が、変化のためには不可欠なのである。

    そもそも、突然変異は遺伝子の複製「ミス」といわれることも多い。しかし、ミスがなければ進化は生じた。

    そして、同じことが人間の知識や学問にもいえるのだろう。手法の厳密性や正確性は指導教員や先達から受け継ぎつつ、発想などでは今までにない新しい「突然変異」を採り入れないと、学問は進歩した。


    自然の営みは、人間にとっての善悪とは無関係である。自然の状態が人間にとって良いものだというのは、人間が勝手に思い描いている幻想にすぎた。

    これは、道具がなにか人に危害を与えたときに、その道具を免責することを意図しているのではない。道具や人工物のあり方を考えるときには、つねにその使い方や使われる場面などと一緒に考える必要がある、ということを主張したいのだ。

    STEM(Science, Technology, Engineering and Mathematics=科学・技術・工学・数学)教育」とか、さらにそこに芸術(Art)を加えた「STEAM教育」と称される活動がさかんである。

    博士号をもっている人が日本でも首相になったことはあるが(鳩山由紀夫がそうだ)、まあお世辞にもうまくいったとはいえない状態だった。

    「君は歴史を俯瞰的に見るのが好きなようですね。でも、歴史というのはそういうものではありません。個別の出来事やなにかが集まってできているものです。もっとそういう細かいところをしっかり見て、そこから大きなほうに組み上げていかないと歴史にはなりません。

    この本の書き方も、相当大ざっぱで荒っぽいものだ。不正確なところや抜けているところ、偏っているところもたくさんある。だけど、俯瞰的に見ることでしか見られないことも、きっとあるはずだ。

    科学論として書き始めたものだ。その途中で東日本大震災と福島第一原発事故がある。

     東京大学大学院情報学環・学際情報学府の佐倉ゼミナールの学生たちからは、新しい分野の新しい知見について、いつもたくさんのことを学ばせてもらっている。

    津田孝二さんからはアフリカでの写真を提供していただいた。

  • 科学とは誰のためにあり、何のためにあるのか。

    科学は、事実を語るもので価値を語るものではない。価値を語るのは、人文である。

    専門家の鼻持ちならない上から視点はあかんし、科学的視点のあやふやなシロウトの傲慢もまた、害である。答えはその間のどこかに。
    必要なのは、科学の「縁側」。
    玄関から正面切って科学どやさ、ではなく、ちょっと気軽に上がって、気軽に話ができればいい。
    そう言うことなんだろうね。
    科学知識は絶対に必要なのだが、生活に必要なのは、必ずしも、科学的な視点ではない。そこに矛盾がある。

    読みやすいし、全体に納得なんだけど、人文的価値に立ち入ると弱い感じ。
    そっちの知識とか知見が十分とは思えないが、簡単に語ってしまうところは、科学的知見のないシロウトの傲慢と通じるところがあって、面白い。

  • 研究対象をサルからサル学者、そして科学全般へと移していった著者による、俯瞰的科学論。専門知識がなくとも読めるエッセイではあるけれども、範囲が広く意外なところに話が及ぶのが面白い(科学本で当事者研究の文字を見るとは!)。「知識の誘惑幻惑効果」(科学的用語が使われるだけで満足してしまう傾向)は身に覚えがあるような。ダニング=クルーガー効果とともに心に留めておきたい。

  • 科学そのものというより科学技術と社会の関係を中心とした科学技術史という感じ。期待とは少し違った内容だったけどあまり考えていなかった視点や角度もあり楽しめた。特に面白かったのは日本における科学の受容のされ方で明治時代に「科学技芸」という語が使われていたこと。職人による技術や言語化し得ない感覚も含む「◯◯道」との境界が曖昧な受容は、例えば帝国日本軍部の兵士の技芸や精神に至上の価値が置かれたことにもつながりそう。

    科学が社会に利するためのものであるか、それと科学が明らかにする「事実」とは別物かという話の歴史的推移も面白かった。

  • 科学を毛嫌いする反知性主義も、過度に信奉する権威的専門家主義も、真に科学的であることはできない。科学の意味を問い直す「新しい科学論」。(出版社HPより) 

    ★☆工学分館の所蔵はこちら→
    https://opac.library.tohoku.ac.jp/opac/opac_details/?reqCode=fromlist&lang=0&amode=11&bibid=TT22162545

  • タイトルの通り、科学というものの本質や考え方を、科学の発展の歴史や現代におけるスタンスなどを丁寧にたどりながら解説。ツールとしての科学といかに付き合うか(飼い慣らすか)という、これからの科学との適切な距離感についての言及は、非常に参考になると思います。

    特に自然主義の誤謬は重要で、科学的知見と安易に価値観(後者に普遍性はない)を結びつけてはならないという概念は、多くの人が知っておくべきものです。「赤ちゃんをハグするとオキシトシンが出る」ということから、「赤ちゃんを積極的にハグしましょう」という「結論・提言」を出すことは誤りです。ここには、良い悪いという価値観が介在してしまっています。

    今般、あらゆるところに短絡的な「〜してはならない」「〜するべき」という本や情報が溢れています。損をしたくない、コスパを求めたいという過度な思いが現代には蔓延しすぎです。自然主義の誤謬に基づく、「科学的エビデンスに基づく」提言の類を回避するためにも、本書は一読の価値があります。

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著者プロフィール

東京大学大学院情報学環教授、理化学研究所革新知能統合研究センター・チームリーダー。もともとの専攻は霊長類学だが、現在は科学技術と社会の関係についての研究考察が専門領域。人類進化の観点から人類の科学技術を定位することが根本の関心。著書に『科学とはなにか』(講談社)など。

「2024年 『抑圧のアルゴリズム』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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