- Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
- / ISBN・EAN: 9784065303597
作品紹介・あらすじ
鮮明で美しく、静謐かつ余韻に満ちたレクイエム、芥川賞作家の新境地。
人生はパレード、荘厳な魂の旅路。台湾と日本、統治と戦争の歴史に及ぶ記録と記憶の軌跡――。
祖父の自死をきっかけに実家のある地元に帰った美術家の私。祖父が日本の植民地だった戦前の台湾に生まれ育った「湾生」と呼ばれる子どもだったことを知り、日本統治下の台湾について調べ、知人からも話を聞き、誘われるまま台湾を訪れることになる。祖父の自死の原因、理由を探り、自身のルーツ・アイデンティティを確かめるための台湾訪問だが、何かに導かれるように台湾先住民の系譜にある人物の葬儀に参加することになる。日本とは全く違う儀式や儀礼、風景に触れるうち、戦争や生と死・祖父の思い出・美大時代唯一の友人の死、様々なイメージが想起され喚起されていくのだった。
感想・レビュー・書評
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「周到に、慎重に、順序だったシステムで私たちの生のパレードは晴れがましく死へ進む。」
祖父の自死、そこから判明する何も知らなかった祖父のルーツ、祖父のルーツを訪ねて知人を通して台湾という見知らぬ文化の地へ誘われるわたし。台湾の文化や風習を知っていくことで、祖父のこと、友人の死のこと、自身の芸術や美術作品への向き合い方へと思いを巡らせていく。
物語は複雑に、慎重に、静謐に、絡まり合いながら「わたし」の思考は解きほぐされていく。
このように鮮やかに死へと連なる生という名のパレードについて、そのあらましを描けるものなのかと感嘆した。
本書に、台湾では死者が返ってくる鬼月には顔と名前を死者=鬼に知られてはならないという風習があるらしい。
この物語に出てくる登場人物は主人公のわたしを含めてみな、名前はわかっても下の名前や苗字だけだったり、あだ名だったり名無しだったりする。
容姿の描写もなく顔が見えない。やはり意識して書かれているのだろうか、だとしたらなんとも周到なと舌を巻く。
「生きている人が酒を飲み、涙と汗を流すいっぽうで、死んでいる人が水分を失っていく祭りが、お葬式というものだということに私は気がついた。」という文章がやけに印象に残る。事実だからかもしれない。
読了してから改めて表紙を見る。
私たちの生が数々の仕組まれたシステムのうちに存在するパレードであるならば、この表紙は私たちの人生そのものだ。 -
生と死。
続いていく生と、その先でたどり着く死。
それは絶対的なものでありながら、
その捉え方は異なる場合もある。
様々な視点、観点から台湾に触れ、
固まった思考が色々なきっかけで流れ出し、
価値観が騒ぎはじめる。
この作品にはそんなスイッチがあって、
読み進めるうちに起動するシステムがある。
私たちそれぞれのパレードに想いを馳せる。
思考が深い場所を巡り、
ひとつひとつを繋げていくうちに、
魂の音が重なり合う。
しっとりと心を揺さぶられる作品です。 -
読了。
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主人公である芸術家が、祖父の死をきっかけに故郷に戻る。そこで祖父が台湾で生まれ日本に帰った“湾生”であることを知る。そのことから以前アルバイトで知り合った台湾出身の梅さんと繋がり、彼女の祖父の葬儀に招待される。
本書には3人の死と葬儀が描かれているが、主人公は台湾で行われた知人の祖父の葬儀にしか参列できない。なかなかに難解で手こずったが、決して読みにくくはない。
……タイトルの意味はそういうことなのかなあ? -
『ふと、私の首が、私の叫びとともにスポットライトの中でごとりと落とされたら、ここにいるたくさんの人たちはどうふるまうだろう、と妄想する。事実このときの私は、たくさんの人たちの前で斬首される受刑者とたいして変わらないと思えた。私が自分の作品の一部、創作活動の一部として自分の死を差し出すふるまいをしたなら、この場の人たちはどうそれを鑑賞するんだろう。などと考えながら、にもかかわらず、曖昧で無毒な困惑の笑みを浮かべながら、拍手と光に満ちる舞台にずっと立っている』
保坂和志なら、これも(こそ)小説というだろう。けれど、一般的な意味で小説にプロットを期待するなら、これはその期待を裏切るだろう。しかし高山羽根子の書くものに(初期の作品はともかくとして)判り易い筋書きを求めるのがそもそも、筋違い、ということなのだ、と考え直す。
それにしてもこの作品は小説というよりも随筆のような趣があって、ともすれば主人公に作家本人を重ねてしまいそうになるのだが、書かれていることと言えば、表現することにまつわるもやもやとした思いであったり、閉塞的な地方や古いしきたりへの感傷であったり、民族間の文化の相違や類似から派生する取り留めのない感慨であったり、死にまつわる思いや死生観のようなものを巡る感情であったりと、自由に逸脱する思考のオンパレードだ。それを面白いと思えるかどうかについては、案外と個人差が出るかも知れない。例えば、前出の保坂和志や柴崎友香の小説を面白く読める人であれば、きっと高山羽根子のこの新作も面白いと思うに違いない、くらいは言っておいてもいいだろうか。
もう少し個人的な趣味で言うと、堀江敏幸のちょっと嘘くさいエッセイを思い出したりもするのだけれど、堀江敏幸といえば上手な嘘に巧みな伏線回収というイメージがあるのに対して(あくまで個人の感想です)、この高山羽根子の散文には回収される伏線じみたものがほとんどない。主人公の祖父の死、美大の同級生の死、バイト先の知り合いである美術を学ぶ台湾人の父の死、あるいは異国で出会う正体が知れないまま消えてしまう人物と、断ち切られたものが残してゆく幾つもの謎は提示されるのだが、それに答えることに費やされる頁数は極端に少ない。思えば「如何様」でも「居た場所」でも、断ち切られた後の余韻や残像に余計な言葉を添えないのがこの作家の特徴でもある気がする。そして、どこで読んだのかは忘れたけれど、以前保坂和志が何かの対談で「男と女が出てきたらどこかでセックスするみたいな、判り易い話は書きたくないんだよね」と言っていたのを思い出しもする。要は、全ての謎が解かれなければならないという思い込みこそが物事をつまらなくするのだ。読んで何だか頭の中が掻き回された気になるというのが、保坂和志のいうところの小説というもので、だとするとこの作品は実に小説的な小説だとも言える。
そう言えば、最近こんな風に不意打ちを喰らった小説を読んでいなかったなあ、と独りごちる。 -
公私に渡りバタバタでなかなか本を読むことができなかったのだが、この本が「おい、読むのはいまだぞ」と自宅最寄駅から帰さぬような豪雨を降らせ、私を喫茶店へいざなったのかと思うほどの、今読むべき、どんピシャな内容であった。人の死とは。誰もが生きてきたその道のりとは。高山羽根子さんの本は初めてだったけれど、心満たされる、好きな文章で、他の作品も読みたいと思った。
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台湾の文化にまつわる部分が興味深かった。
ブクログの感想で、どなたかが「伏線が回収されないところが高山作品」と書かれていて正にその通りで、そういう読み方の小説ではないです。
最近こういうタイプの本を読んでいなかったせいか、はたまた加齢のせいか、最後の数ページは飽きて読む気が失せてしまい、どうでもよくなって流し読みになってしまいました。
随所に興味深い文章や考え方があってハッとしたり共感したりして、面白いと思ったんだけど…。 -
過去の台湾の歴史にもふれ台湾での日本との風習の違いなど知らないことばかりあなたも読んで深く感じて下さい。