ラテンアメリカの文学 10

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  • Amazon.co.jp ・本 (285ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784081260102

感想・レビュー・書評

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  • ラテンアメリカ文学も結構読んできたよなー、なんて思っていたのが…思い上がりだった、こんな名品を逃していたとはorz
    こういう名品を読むと読書欲に対して焦燥感が駆きたてられる。ネットサーフィンやら観なくていいテレビ番組見て時間を流している場合でなかった、まだ知らない素晴らしい小説がたくさんある、もっと読まなければ。
    (といいつつついまたネット遊びしてしまったんだが/f^^;)

    …というわけで。

    作者はパラグアイ出身。
    外国との戦争、独裁、反乱の歴史の中でただ前へ進もうとした人物たちを人が人を苦しめることのない世界への望みをかけて書いています。

    1740~50年代のスペイン、ポルトガル連合軍により、グワラニー族が欧州軍隊に強制移住させられたことは映画「ミッション」が描いています。
    映画予告
    https://www.youtube.com/watch?v=dj-AKSwYS-I
    (自己メモ)
    http://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/B0030LZP38

    1811年に、スペインの植民地から共和国パラグアイとして独立してスペイン人とグワラニー族との混血を進め、パラグアイの公用語は、スペイン語とグワラニー語ということで、小説内でもグワラニー語は同族の連帯感を示す場面として使われます。

    パラグアイでは、スペイン統治時代での武力圧制、独立後も外国との相次ぐ戦争、国内での叛乱などの戦闘に次ぐ戦闘で男性が激減し、「パラグアイでは木の上から女が降ってくる」と言われるくらいに男女差が激しくなってしまったということ。
    物語に出てくるパラグアイとボリビアとの間で行われた「チャコ戦争」には、当時十代だった作者ロア=バストスも衛生兵として戦地に赴いていました。

    「汝、人の子よ」が国際小説コンクールで受賞した時に作者ロア=バストスはラテンアメリカ作家たちの事を語っています。
    『この賞が技巧的なメリットではなく誠意と言うことによって与えられたと考えます。(…中略…)
    ラテンアメリカの作家たちは、その生命と思想を我々独自の文学の伝統の中に、戦う文学の中に投入しています。人間を抑圧し、尊厳を損なうあらゆるものに対する叛逆を描くことにその情熱は注がれています。彼らの作品は、各自の国民の歴史と運命に根ざしています。(…中略…)
    利害関係とではなく、人間の運命と骨の髄まで係り合おうとするこの文学こそ、真の参加の文学であります』


    (私の読書メモなのでネタバレしています)
    ===

    第1章「人の子」
    私の出身地のイタベー村にはマカリオという老人がいた。
    彼は独裁者フランシア王に仕えた奴隷の息子で、烙印だという噂もある。
    マカリオは村の語り部だった。子供たちはマカリオの後を追いかけ囃し立てた。しかし彼の話を楽しみにしていた。
    マカリオの甥のガスパール・モラは癩を病み山に籠もった。村人たちは山の入り口に食べ物を置いた。楽器職人だったころの彼が残したものは沢山ある。
    そして死んだあとの彼は私達にキリスト像を残した。
    一人で死ぬと決めたもののそれでもガスパールはきっと一人で寂しかったのだ。
    村人たちは聖金曜日の祭りの日に、キリスト像を運んで村中を回る祭りを行っていた。
    それはガスパールへの贖罪だ。

    そして私がこれを書くのも贖罪のためだ。
    『私は当時まだほんの子供だった。私の証言はあまり役に立たない。当時の思い出を書き綴っている今、幼かった頃の純粋さや驚きが大人としての私の裏切りと忘却と私の経験した何度もの死とによって損なわれようとしているように思うのである。私は思い出を懐かしんでいるのではない。
    ただ私の罪を購おうとしているだけである。(P10)』

    第2章「木と肉」
    サプカイ村にはかつて亡命ロシア人の医師がいた。
    サプカイ村に居つくことになったアレクセイ・ドゥブロフスキーは、飲んだくれていたが、墓堀人の娘のマリア・レガラーダを手術した時から無料で患者を診る医者になった。
    彼の小屋の周りには 癩患者たちの小屋ができる。
    彼はお金の代わりに木彫りの像を求めるようになった。
    次第に酔っ払い気違いじみて黙り込んでいった彼が去った後に残ったものは、
    マリア・レガラーダの腹の中の子供と、斧で首を叩き切られた何体もの木彫りの像たちだった。

    マリア・レガラーダは、それから長い時が経っても先生が戻ってくるような希望を持ち続けている。
    『それは激しい執念のように見えながらも、実は期待を捨てきらぬまま現実を容認する一種の諦めにも似た冷めた心境なのである。(P41)』

    第3章
    私は士官学校に入るためにイタベーの村を出た。
    電車の中で出会ったロシア人は、サプカイ村で電車から叩き出された。
    サプカイ村は、数年前に労働者の反乱を抑圧しようとした軍隊が、駅に爆薬入りの車輌を突入させ大きな犠牲を出したところだった。
    私の少年時代の終わり、私の性の目覚め。

    第4章「逃亡」
    かつてサプカイ村の反乱の指示者の一人だったカシアーノ・ハラは、反乱が抑圧された後、妻のナティとともに新生活としてマテ茶畑での労働に就く。
    事前に聞かされた甘い労働条件が嘘だったとすぐに気が付いた。
    マラリアに罹った男と妊娠中の女の逃亡は、出発後にナティが産気づいたことにより失敗した。
    二度目は生まれたばかりの赤ん坊を連れてほとんど裸で逃げた。林の中を、泥の中を、草むらの中を。

    サプカイ村に戻ったカシアーノ・ハラ、妻ナティ、息子のクリストーバルは反乱を鎮圧するために爆破された駅の車輌に住み込む。
    マラリアと精神を病んだカシアーノ・ハラは、信念と執着を持ちその車両を少しずつ進ませていった。
    車輛の不正使用と盗難行為は誰にも密告されることなく、妻と子供、そしてかつて村にいたロシア人医師の 癩病患者たちにより、まるで神秘のように微かながらも原野を進み続けていたのだ。

    第5章「家庭」
    私は士官学校での謀反に関わったとしてサプカイ村での監視生活を送っていた。
    ある日サプカイ村の案内人、クリストーバル・ハラが訪れる。
    私が彼について知っていたことといえば、その名前と、爆弾で中破された列車の車輌の不思議な移動について村で聞いたあの奇妙は話くらいだった。
    かつてカシアーノ・ハラが、妻ナティと息子のクリストーバル・ハラ、そして密かに手を貸す者たちの力により、長い年月をかけひっそりと原野を移動していったその車輌は村の象徴的存在だった。
    クリストーバル・ハラの後を付いていった私は、森の中でその”車輌”を目にすることになる。

    車輌を出た私の前に村人たちが待っていた。
    「やがて革命が勃発しようとしています。自分たちもこの村での叛軍を編成しようとしています。軍人であるあなたに、私達の教官になっていただきたい」

    第6章「フィエスタ」
    サプカイ村での叛乱は、情報が漏れたことにより鎮圧された。主要メンバーは捕まり野蛮な拷問を受けたが、中心人物であるクリストーバル・ハラだけは隠れ続けていた。
    クリストーバル・ハラを匿うのは、墓堀の女マリア・レガラーダと、ロシア人の血を引く彼女の息子だった。
    クリストーバルの隠れ場所から少し離れたところで、ミゲル・ベラ中尉が牢獄の土間に横たわっていた。
    ベラ中尉は村の反乱者たちから望まれ軍事訓練の教官になっていたが、しかし叛乱計画を軍人たちに洩らしたのだ。
    「私はあの人らを密告なんかしてはおらん…私は酔っぱらっていたんだ…」

    クリストーバル・ハラは、自分を探索する軍人たちのためにサプカイ村で催す祭り(フィエスタ)に潜り込み、そして電車に乗り込み逃げ出す計画を立てた…。

    第7章「抑留者たち」
    私は叛乱者たちを訓練したことにより抑留所に入れられていた。
    ここでの生活、他の抑留者たち、軍人たち、金剛インコのおしゃべり。
    だがボリビアとのチャコ地方の自治権を巡っての”チャコ戦争”が起こると私たちは正式なパラグアイ軍の兵士として戦地に送り込まれる。

    そんな中で私は、給水車を運転し戦地に水を届けに行くサプカイ村のクリストーバル・ハラの姿を見かける。彼らサプカイの反乱者たちも正式なパラグアイ軍兵士として戦場へ送り込まれていたのだ。

    熱気の篭った戦場での繰り返される戦闘、増え続ける死体、それに群がる夥しい蠅たち、私たちは涙も枯れ果てている。もはや生者と死者の間になんの違いがあるというのだろう。
    死は少年たちを抱きしめる娼婦のようだ。
    朦朧とする意識の中、こちらへ向かってくる給水車を認めた私はそれに向かって重機銃を発射する。給水車が火を噴く、ほら、私を呼んでいる。

    第8章「特殊任務」
    クリストーバル・ハラは給水車の運転手としてチャコ戦争に加わっていた。
    そして彼を慕い、娼婦から看護婦へ変わった女、サルイーがいる。
    クリストーバル・ハラが特殊任務に就いた時、サルイーは病院を抜け出し彼について行く。
    無口なクリストーバルは、銃撃されても仲間が死んでもただ任地へ水を運ぶことを目的と定めて前へ進む。
    パンクしたタイヤに草を詰め、傷により腫れ上がった腕を運転席に縛り付けて進むクリストーバルの給水車を乱射される重機銃が襲う…。

    『今や万難を排して前進するしかなかった。森と砂漠、猛烈な暑さ、戦死した友の屍、生と死が混然となって震える大地を乗り越えて遮二無二進む以外になかったのだ。それが運命だった。クリストーバル・ハラのような男にとって(…中略…)仮借のない様々な出来事の絡み合った茂みを切り開いてゆくこと、その棘で肉体を引き裂きながらも同時に、そうしたものを受け入れることで強くなる意志の力によって変えてゆくこと以外に(※どんな運命がありえただろう)。(…中略…)
    しかも無名ではあるがハラのような男は無数にいたのだ。(…中略…)
    かれらは何も知らかなった。たぶん、希望とはなんであるかすら知らなかった。(…中略…)
    彼らのうちある者は倒れ、ある者は前進した。そして大地の古いかさぶたの上に、溝と足跡と血痕とを残して行った。しかしその残したものがいかに僅かであってもそれらは猛々しく原始的な大地を肥沃にさせたのだ。(P234)』

    第9章「かつての戦士たち」
    チャコ戦争の英雄だったクリサント・ビシャルバが戻ってきたことにより、イタペーの村から徴収され、生き残った兵士たちはみな戻ってきた。
    クリサントはイタペーにいたころは村一番の農夫だった。
    だがあの”いかす戦争”での日々が彼を戦争を懐かしむ廃人に変えていた。
    私は故郷のイタペー村に戻り村長となっていた。
    彼のような戦争の狂気に憑り付かれた男を助けることができるのか?彼の息子は?未だ私を受け入れないイタペーの村人たちは?

    『人間によって人間が十字架にかけられるという、この酷い矛盾がいつまでも続いていいわけがない。なぜなら仮にそうだとすれば、人間は永遠に呪われていると考えざるを得ないからだ。この世は地獄であり、救いを期待することは不可能だということになるからだ。
      いつかは終わるはずだ、さもなくば…(P267)』

    『この物語の主要な価値は、そこに含まれている証言にあるのだと思います。もしかして、これを公表することが、たとえ万分の一たりとも、一人の人間を理解するだけでなく、アメリカでもひときわ中傷されているパラグアイ民族、何世紀もの間絶えず叛逆と抑圧、圧政者たちの不名誉と殉教者たちの栄光との間を揺れ動いたこの国民を理解するのに役立つかもしれません(P268)』

    ===

    奇数章は「私」による一人称で、偶数章は俯瞰的三人称で語られます。
    章の時系列は、
     第1章⇒第4章⇒第3章⇒第2章⇒第5章⇒第6章⇒第7章と8章⇒第9章
    となっています。
    そして章のなかでも時系列は入り混じっています。
    まず「彼はもういない」と語られ、その後に”彼”が何をして、どうやってここにきて、どうやって消えたのかが書かれる構成です。
    これが時間の流れの中を漂うようで物悲しくも心地よい読み心地です。

    本編はパラグアイの歴史を踏まえているので、検索してみて当てはめてみました。
    ■1813年 独立して「パラグアイ共和国」となる。
    初代首相ホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシアは独裁を敷く。
    ■1864年 フランシアの死後のパラグアイと、アルゼンチン・ブラジル帝国・ウルグアイの三国同盟軍との間で、「三国戦争」が行われる。
     ⇒第1章に、フランシア時代や三国戦争前後の時代を語る老人が出てくる。
     ⇒同じ作者でフランシアを書いた「至高の存在たる余は」という独裁者文学があるのだが…日本では未訳っぽいorz
    ■1912年 反政府運動が起こるが鎮圧さする。
     ⇒第2章3章など、何度か触れられる。
    ■1932年 パラグアイとボリビアの間で、チャコ地方の領有権を巡り”チャコ戦争”勃発。
     ⇒第7章と8章はそれぞれ別の人物目線で。最後の場面は同じ場所。
     ⇒第8章だけを映像化した「乾き」という映画があるようだ。

  • 失敗に終わる二つの蜂起事件を軸に物語が進む。
    一つ目の農民蜂起失敗で逃げ延びた男女の、その息子が語る流れがひとつのライン。息子も成長の後、別の革命蜂起に関わるが、その企てを裏切る男の物語が別のライン。

    章により歴史が前後したり、ひとつの事件が別の視点から語られたり、読み方を理解するまではやや難解な印象を受ける。だが流れを理解した後は、ロア=バストスの仕掛けた緻密な物語世界に捕捉されてゆくが如き。

    パラグアイの歴史に対する知識は無くとも読める。読みながら、かの国の閉塞状況や、いまに繋がる政治的苦境について自然と頭に入ってくる。このあたり、ある国の事情を知るには、その国で一番優れた小説を読めば足りる、と云えそう。

    タイトル自体が聖書の言葉であり、作品中もキリスト受難にまつわるイメージは頻出する。そこに象徴性を見出す読み方が作者の望みのように思える。しかしながら本書の奥深いところは、先住民族グワラニーの流れをくむメンタリティや伝承の主張も色濃く、異文化の相克もまたひとつのテーマとなっているところ。

    入手困難な作品ではあるが、求めて読むべき作品と云える。

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