- Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087204889
作品紹介・あらすじ
二〇〇八年、未曾有の『蟹工船』ブームが巻き起こった。この現象は、若年貧困層らが抱く不満や、連帯への渇望を表しているのだろうか?また、巷に蔓延する閉塞感と八〇年前のプロレタリア文学の世界をつなぐバトンの在り処とは?本書は、一九七五年生まれ"ロスト・ジェネレーション"(失われた世代)のジャーナリストが、戦後の新左翼運動とその周辺を描いた文学を紹介しつつ現代の連帯を模索した、注目作である。キーワードは-「自分探し」。
感想・レビュー・書評
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1975年生まれのロストジェネレーションのジャーナリストが、新左翼運動とその周辺を描いた文学を紹介する注目作。キーワードは自分探し!
こんな紹介文で恥ずかしくなかったのか心配。
で、これが裏表紙だが、やはり巻末に著者が「本書の作品だけで新左翼の事実を知るのは無理がある。小説はフィクション。抜け落ちた論点も多い。この本は新左翼を文献資料だけで書いたと言う点で軽率」と締める。とどのつまり、本著は、左翼小説家による小説の書評本だ。
ー自分探しと言う言葉は時に揶揄的な使い方もするが、広い意味での自分探しを近代以降に生きる人間の宿命みたいなものだろう。
…分からなくもないが、自分を見失うという状態から、そこにいる実存は自分では無いと信じる幼い厨二病のような視点で革命は語れるのか。その切り口こそ迷走している気がする。いや、それも踏まえた上で、新左翼を盛大に小馬鹿にしているとも言えるのかも知れない。
高橋和巳や大江健三郎、柴田翔はもう少し広く読んでみたいなと思った。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
これ、もしかして“意外と”掘り出し物だったりするのかも?
いや、“意外と”とつけたのは、これ、実は読んでいて、とにかく面白くないからだ(^^ゞ
この著者って、いわゆる「学生運動」世代でじゃないらしいんだけど、まるっきりの学生運動のはまってたその世代の人が書いているようで。
やたら文学文学していて(個人的には左翼思想っていうのは文学にすぎないと思うw)、屁理屈の上に屁理屈を建てるから、も―、何が何やら(^^;
おまけに、学生運動なんてはるか昔に生まれた人が、学生運動をしてた人が過去の憧憬で書いているみたいで、なんかちょっと笑っちゃうのだw
ていうか、タイトルにある「ロスジェネ」って、ヘミングウェイとかの世代のことじゃないんだ!
恥ずかしながら、初めて知ったぞ(^^;
ていうか、もしかしたら「ロストジェネレーション」はヘミングウェイとかの世代で、「ロスジェネ」はこの著者の世代を指す言葉なのかな?
たださ―。
個人的には、例えば「今年の新入社員は〇△〇型」とか、「〇△世代」みたいなマスコミや評論家が勝手につくる、そういう言葉って嫌いなだよね。
上から目線っていうか、揶揄してるようで。
そういう言葉って、面白さとわかりやすさでマスコミとか評論家は飛びつくように使うけどさ。
でも、そういう言葉って、その言葉が生まれた瞬間、それを聞いた人たちがそれぞれに本来の意味からズレて使うようになっちゃうんだと思う。
それは、この本に出てくる戦後の左がかった人たちがまさにそれで。
マルクス主義だの、プロレタリア―ト対ブルジョアだのと言っちゃぁ、「そういう言葉を使ってる俺/私って賢いよね?」と思い込んじゃって。
「賢い俺/私がその思想や考えに基づく行動は全て正しい」と、若い時期に誰もが持つ暴力衝動を身勝手に発散したり。
あるいは、ちょっとでも意見の違う仲間や他者を殺しちゃぁ、「マルクス主義の革命だから」と屁理屈こねて自己満足に浸ってたってことなんだろう。
でも、それって、「IS」や「オウム」とどこが違うんだろう?と思ってしまうのもさりながら。
「学生運動」世代がそれにのめり込んだメンタリティ―って、その後にあった校内暴力や暴走族、あるいは成人式で暴れるのと全然一緒じゃん!って思ってしまうんだよね(^^ゞ
だって、学生運動だって、ほとんどの人はそれがその頃流行ってたからしていたわけでしょ?(爆)
うん。ま―、わかるのはわかるの。
例えば、自分は本多勝一は嫌いだけど、でも、本多勝一が自らの学生時代のことを書いた『旅立ちの記』はすごく好きで(学生運動の本ではない)。
あれなんか読むと、本多勝一にしろ、その他学生運動をしてた人、さらにはこの本の著者も、すっごく優秀で真面目な人なんだろうな―と思うのだ。
ああいう真面目さっていうのは、自分が大学生だった頃にはもうほぼなくなっていた。
だから、ある意味で、すごくうらやましい気がするのだ
(もしかしたら、この本の著者もそういうところがあるんじゃないだろうか?)。
ただ、それと同時に、自分はその時代に大学生じゃなくてよかったな―と思う。
だって、その時代に大学生だったら、間違いなく左翼思想にとりこまれて学生運動してたもん(^^;
左がかった考え方というのは、必要だとは思う。
特に今の日本ではそうだろう。
ただ、それはあくまで“必要悪”だ。
左がかった考えにとり憑かれると、人は必ず上から目線になって、自らの考えとちょっとでも違う人を攻撃するようになる。
そして、それは次第にエスカレ―トしていって、人々を殺しまくったり、そこまでいかないまでも変な主張や規範で社会を歪めていく。
でも、左がかった人の主張というのは、いつの時代も「正論」なのだ。
正論だから、誰しもそれがいいことのように思えるし、また正論には逆らえない。
左がかった考え方の恐ろしさはそこにこそある。 -
戦後の若者の新左翼運動を、自分探しという観点で現在の、貧困層の多いロスジェネにまで繋げている。興味深い視座だが、書き散らした感があり説得力にやや欠けた。
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まずもって、ロスジェネについては殆ど触れられていません。
新左翼の系譜を辿る「ガイドブック」としては非常によくできていて
興味深く読み進められましたが、
終盤のロスジェネは新左翼化しうる(してほしい)という論旨は
イマイチ不明瞭で、賛同するには至りませんでした。
本書は、新左翼に傾倒した学生たちの心理に「自分探し」があり、
これと貧困(他者との関係性への渇望)が加わると、
『連帯』(=新左翼運動的な、反体制的な集団行動)に至る、と
論じている。
自分は偶然ながら作者とほぼ同年齢のいわゆる「ロスジェネ」世代で、
かつ、作者と同じ大学に籍を置いていたわけだが、
確かに学生時代は「自分探し」に終始したといっても過言ではない。
しかし、新左翼的な運動には全く関与しなかったし、
したいとも思わなかった。
「自分探し」の根源は、社会への違和感であろう。
何のためのこの生であるか、何のために生きるのかという問いは、
人生の目標が「この社会での成功」ではないのではないかという
疑問を持つところから発生すると思うからである。
そして、どの時代にも社会との違和感を持つ若者は沢山いると思うが、
彼らが新左翼的に「国家の横暴を阻止する」べく立ち上るかと言えば、
必ずしもそうはいえないだろうと思えるのである。
というのも、現代における社会(或いは国家、或いは「大人」)は、
若者にとって自分自身とある連続性を持って存在するものであるから、
本書で新左翼運動のひとつの特徴として描かれている「自己否定」
(だめな社会、だめな大人たちを否定するからには、そこから生まれた
自分をも否定し、自らを犠牲にして社会を変革したいと言う考え)
には至らないのではないか。
もっと単調に言えば、「あの戦争」、大人たちが戦いに敗れ、
そして手のひらを返して転向したあの「忌まわしい歴史的出来事」の
記憶が確かだった時代でなければ、
あのような強烈な批判は生まれないのではないだろうか。
さらに言えば、現代の日本は社会構造の変化スピードが非常に緩く、
社会や国家がどう振舞おうと、自らの利益に与える影響は軽微である。
政治や社会や国家に目を光らせていなくとも、
日本が戦争に加担する(=自分が戦争にかり出される)こともないし、
隣人との経済格差が一気に広がるということもない。
最後に、筆者は貧困にあえぐ層(例えば派遣労働者たち)が
現状打破のために『連帯』し行動を起こす点を論じているが、
そもそも過去の歴史の中で革命を起こしたり目指したりしたのは
いわゆるプロレタリアート層だったのだろうか。
少なくとも私の知る限りでは、彼らは常に「利用される」立場にあり、
革命を企図したのは寧ろ、いわゆる「エリート」たちではなかったか。
今の日本の同質化し多面化する社会の中で、
若者がそういう「気概」のようなものを失っている。
皆、自分の利益、すなわち、この構造が変化しない成熟した社会の中で、
(主に経済的な)自らのポジジョンをより上位に、より安定的にすること
ばかりを考えている。
その点が変化しない限り、新左翼運動が再興することはないだろう。 -
終章は新左翼についての頭の整理として使えそう。だが、全体的に頭に入ってこなかった。思想自体の問題かだいぶ好き嫌いでそう。
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初期の運動の源泉は国家権力への不信感と実存主義(自分が動けば世界を変えることにつながるという意識)。
自分たちエリート階級を自己否定して国家に労働者の権利を訴える。
それからしらけつつのりつつ、のりつつしらける(明るい未来を想像しないが面白そうだからのる)意識へと変化。
その後の主流は学生運動は批判の対象を学校と変える。学生運動団体同士の争いも増え運動は混沌とする。学生の意識も自分探しに近いものへ変化する。暴力に対する敷居が下がり、テロが横行、新左翼を怖いものと捉える学生が増える。
現在では新左翼はすっかり下火になったものの、蟹工船が流行ったことからわかるように社会の貧困は解決していない。また、新興宗教が問題になる程度に、自分探しの欲求も健在だ。このような社会の中で再び学生に連帯の意識が芽生えることは想像に難くない。。。。。
とのこと。文献の紹介が半分。
国家権力への不信感は薄れ、暴力に対する嫌悪意識も向上している。しかし学生が(社会全体が)連帯感を持って問題に取り組む出来事はなくならない(と最近知った)。例えばアイスバケツチャレンジ。自分とは関係がない弱者の問題を引っ張ってきてSNSで問題提起した。これにのった人は(患者の明るい未来に関係なく)面白そうだからのったという人がほとんどなのではないだろうか。
私が思うに、過去も現在も他人の問題に完全に感情移入して心から取り込もうと思う人なんて最初に運動を始めた数人のみだ。問題提起の内容がなんであれ、タイミングと運によって広まる時は広まるだろう。運動はお祭りなのだ。
ただ、学校を対象にした学生運動はこれらとはちょっと質が違うように思う。運動によって利を得るのは自分である。それ故に運動は血生臭く清い所は感じられない。これは本当に自分探しで片付けられる類のものなのか。今後も同様の出来事が起こることはありえるのか。(香港の民主化運動はこれに当たる?)詳細は本で言及のある文献をあたらなけらばわからない。 -
新左翼について論じた本というよりも、
著者があとがきで記述している通り、
関連書のブックガイドのようだという感想を持った。
実際読んでみたいと思った文献が紹介されていたので、
そういう意味では読んで良かった。
全体は新左翼の流れをさらっと紹介しているような内容。
良く考えたら200ページ足らずで新左翼の深いところまで書くのは難しいだろうし、
各時代の細かい所は他の文献読んで理解する方が良いのだろう。 -
戦後に激しい市民運動をした新左翼とは何だったのか。各時代の新左翼を扱った文学を取り上げながらその歴史を追う。
全共闘だけが新左翼ではなく、戦後の中で新左翼は形を変えながら存在し続けた。自分探しをする中で自己を否定し、戦いの中で連帯を試みる。そしてそれは貧困と立ち向かうを得ない現代の運動へとつながっていく。
戦後の運動史をただ振り返るだけでなく、それを描いた小説やノンフィクションを通して書いてあるので、新左翼とは何かを知る上で読みたい本がたくさ見つかるのが嬉しい。
戦後の運動を知る羅針盤となる一冊。 -
『ぼくらの頭脳の鍛え方』
文庫&新書百冊(佐藤優選)167
国家・政治・社会
文庫&新書百冊(立花隆選)148
全共闘