シリーズ<本と日本史> 1 『日本書紀』の呪縛 (集英社新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087208597

作品紹介・あらすじ

歴史は常に勝者の物だった。『日本書紀』は8世紀当時の権力者の強い影響下で生まれてきた。近現代の歴史をも規定するこの書物の正体を最新の歴史学で解剖し、その「絶対の正典」を相対化する!

感想・レビュー・書評

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  • P4にて、このように述べられている。
    【『日本書紀』は歴史書であるが、その記述は客観的、中立的なものではなく、はなはだ政治的なものであり、歴史的事実とは異なる創作記事が多々記されている。だが、この書物は、天皇が定めた国家の歴史書として大きな影響力を持った。そのため、『日本書紀』完成以後は、同書を継承しようとする書物が記される一方、同書の記述に反駁しよう、あるいは無化することによって対抗しようと試みるような書物が現われ、いくつもの書物が『日本書紀』を取り巻くようにして作成されていった。それは書物と書物との戦いであり、それが現実の政治的権力や経済的権益と連関している場合があった。そうした書物と書物の抗争や政治的対決の世界の中で、『日本書紀』は常に書物群の中央に君臨していた。】
     そして、津田左右吉が参照され、「編纂段階で創作された記述」であり、『日本書紀』の記述が歴史的事実をそのまま伝えるものとは評価できないとしたのを引いている。
     なぜ、日本書紀は問題なのか。
     中国では、歴代王朝の歴史が書かれ、それらはのちの時代の人が後世から過去を振り返るものであり、唐代(618年 - 907年)以降、前の滅亡した王朝の歴史を後代の王朝が書くというのがならわしである。
     しかし、日本書紀(天武10年より書かれ、養老4年(720年)に完成)は現在の王朝が自ら書くものであり、自らの正当性を書くという姿勢が臆することなく表明されている。勝ち組によって書かれたものである、と批判している。(P26)
     『日本書紀』は勝ち組によって書かれた一方的な書物である。何をどう書くかについては、なかなか意見がまとまらずに、時間がかかってしまったが、執筆者らはそれぞれの集団の権益を背負っていて、特に神話は異論が多く、確定するには難航をきわめ、異論も併記されることになった。
     過去の支配を目的とした書物である日本書紀は、それ以前に語られていたさまざまな歴史の言説は消されてしまい、これだけが唯一の歴史として存在することになった。日本書紀は歴史の勝者によって書かれた書物であり、信用すべきではない、ということだ。
     日本書紀は勝者が自己の正当性を唱えて定めた書物であり、自らの正当性を<歴史物語><史話>とでも呼ぶべき文学的な歴史によって示すという性格が見られる。歴史的事実とはみなすことができない創作が多々みられる。歴史とは客観的・公平に過去の事実を叙述したものである。それが、日本書紀にはなされていない。
     疑問としては、中国人もいるはずの当時の知性はなぜそう書いた? ということだ。中国を模範とするのならば、そのような風に多少なりともなるはずだが、なぜ一方的な勝ち組の歴史になったのか、また、出雲は負け組ではないのか。ナガスネヒコなどは、同じ神の血をひくものとして、戦っていいのかどうか迷う場面まで出てきて非常にドラマティックだが、これも、ただの自分たちの権威を高めるための演出の一つなのだろうか。うんこを仕掛けられた玉座に座った天照大神はどうなるのか、というのがまず浮かぶ。

    著者にとって「呪縛」とは、「この書物に書かれていることをそのまま真実とすること、自由な発想ができないこと」と述べている。
     疑問としては、日本書紀に対して日本人はそのままの真実として改変やアレンジや反論をせずに唯々諾々としたがってきたのか、ということがあげられる。日本書紀自身が、そうやって勝者のメッセージとして書かれたような文章であるのか。せいぜい「とりあえずの真実」とされていた程度ではないのか。また、一書が多数あることについてはどうなのか。

     日本書紀の記述は、持統天皇十一年(六九七)、持統天皇が皇太子(文武天皇となる)に天皇の位を譲るところで終了する。
     持統天皇が神武天皇の血筋上の子孫とされていることが最大の特色である、と述べている。(P39)
     『日本書紀』は天武天皇の末年に編纂が開始され、持統、文武、元明天皇の時代を経て、元正天皇の養老四年(七二〇)に完成。持統天皇や藤原不比等が日本書紀の意図に大きくかかわっているという。
     黛弘道は、アマテラスは持統天皇がモデル、ニニギは軽皇子(のちの文武天皇)をモデルに造型されている。その背後に、軽皇子の妻(藤原宮子)の父にあたる藤原不比等が存在すると論じた。他方、そのニニギに統治を命じるのは、大伴氏や忌部氏の祖先神である高皇産霊神。諸氏の利害が複雑に絡み合っているのが日本書紀だと述べている。これについて、筆者は「妥協の産物」(P83)としている。黛は、「各種異説の最大公約数をとってとりあえずの本文を作って諸氏の妥協を得、各氏族のそれぞれの主張はその後に一書として適宜配列されていったと読解した。」のだ。
    『続日本紀』和銅七年(七一四)二月、従六位上の紀清人、正八位下の三宅藤麻呂が編纂者としてテコ入れ参加。山田御方など複数名存在しており、四〇年かけて、編纂にあたっては、根本のストーリーをどう描くか、各氏族の祖先や祖神の活躍をどう盛り込むかなどをめぐって、内容を詰める作業が容易ではなく、時間がかかってしまったと推測されるとしている。

     その方法は、天皇ごとにその統治を叙述する形だ。
    「天皇」という存在を歴史的に説き明かすことを目的にして作成された書物と見るべきである。(P42)
     疑問として、なぜつくる必要があったか。なぜ漢文か。どうして天皇ごとにしたのかが思い浮かぶ。

    【津田は、この書物を事実を事実の記録として読むのは誤りであるとし、そうではなく、この書物が作られた時代、すなわち七世紀末~八世紀初めの時代の思想を表明した思想史の文献として読むべきであり、そう読解するなら極めて価値の高い文献であると論じた。】(P47)という。
     40年かけて思想だけであるのならば、歴史なしで思想。または思想なしの歴史はありえるのか、というところはある。そして、もし思想だけとするのならば、結局、天皇の正統性のために作られたものという結論以外に何もない。では、なぜ天皇の正統性が当時必要であったかと疑問を呈すれば、国の基礎固めをしなければならなかったからだろう。では国の基礎固めはなぜかといえば、外交、世界情勢が考えられる。世界情勢を考えれば、多くの人が、国の未来について、こうしたい、ああはできないかとか、多くの思慮が含まれることが想像できる。なぜを三度ほど重ねれば、支配者のための本というレッテルがたちまち薄れてしまい、真逆の結論になってしまう。つまり、日本が支配されないために、こういう国だと示すために書いた本、と。なので、これは批判には何もならないのである。

     聖徳太子の奇跡的な能力を、津田は事実ではないだろうと述べる。著者も同意している。が、当時の人は、それを本当に信じていたのだろうか。一度に十人の話を聞いたって! というのも、当時の人も、実際にそうだというのではなく、あるニュアンスとして捉えていたのではないか。
     大山誠一によれば、聖徳太子は中国の理想的な聖天子像に合致するような人物であるという。儒仏道三教の聖人。「礼楽」(文)を代表する人物として造形されており、「征伐」(武)を代表するヤマトタケルノミコトと対になるようになっているという。聖徳太子は、『日本書紀』の編纂者による創作である、という。
     実際に、日本書紀を通読すると、別に「武」にあたる人物はヤマトタケルではなく、ほかにも将軍たちは多数出てくる。どうして対にしなければならないのか。太子も、物部氏と戦った武人でもあるだろう。また、三聖人に合致するような、とあるけれども、そこまで崇拝するような感じで書かれていないように思える。超人エピソードも、それまでに散々超人エピソードを持つ人々が出てきているので(チョイ役でさえ)、どうして太子だけにリアリズムを求めるのかよくわからない。十七条憲法など、業績を納得させるために、太子の凄さをしのんで書かれた熱い想いの文章ぐらいに私は思っている。

     第十二条に「国司国造」の文言が見えるが、推古十二年(六〇四)にはまだ「国司」がないから、この語は七世紀以降の表現であるという指摘もあるが、これも、この文言によって書記が揺らぐことになるかは疑問である。もっと他に間違いだらけならば、あげてほしい。この部分を担当した役人のミスだろう。

     全体の論理構成は「中央集権制度・官僚政治制度」の政治理念に基づいて説かれる。後世の政治体制の記述であるという指摘もある。
     しかし、日本書紀を実際に読んでみると、官僚政治・中央集権というよりは、外交で騙されたり勝ったり負けたり、超常現象が起きたり、みんな仲良くしろといったり、犯罪をした官僚を処罰したり、ある天皇はおかしなことばかりするし、全体的にドタバタしている。それほど整然としたものではない。むしろ、とっちらかってると思う。

     『日本書紀』における改新の詔は、後世の『大宝令』の文が用いられている。日本書紀を編纂する際に後世の知識によって創作されたとしか考えられないからである。と、述べつつも、反論を紹介し、「改新の詔に書かれるような改革がそのまま実施されたのではなかったとすべきであろう」と結論している。
     『日本書紀』では、改新にあたり、「朱鳥」という年号が制定されたと記されている。しかし、木簡では、700年までのものはすべて干支で表記されているが、一方、「大宝」以降のものになると、年号で年紀が表記されるようになっている。
     しかし、遠藤慶太氏は、この時期に改革が行われたのは確かで、創作の範囲はどこまでか、精緻な議論をすべきでしょうと述べている。元号の普及まで時間がかかったとか、今より事務体制がきちんとしてなかったとか、元号はあったけれども、不便だからしばらく使われていなかったとか、あるかもしれない。

     出典論として、日本書紀は『史記』『漢書』といった中国の書物(漢籍)や、あるいは仏典・仏書の文章を借用して文を作っているところがたくさんある。記事の本体自体が先行する文献の文章の借用、あるいは変形転用である場合が少なからずある。『日本書紀』の文章が中国の類書を用いて作られていることは間違いない。『日本書紀』の仏教伝来記事にはじまる一連の仏教関連記事があり、その作業を行ったのは道慈の可能性が高いとしている。
     『日本書紀』の紀年が人為的に設定されたものについても、半年暦、4倍年暦説があるなど、非常に論争的なものであり、一笑に付すものではない。

     武田幸男の研究によれば、「大王」という君主号は、もとは高句麗で用いられていた「太王」にはじまるもので、日本の「大王」という君主号もこれを模倣、導入して用いられたものと理解される。
     これについても、私は、漢委奴国王の「王」とかはどうなのか? と思う。
     唐の高宗が「皇帝」号をあらためて、「天皇」と名乗った。日本では、七世紀末から「天皇」という君主号が用いられるようになった。唐の高宗の「天皇」号の情報は新羅にも伝わっており、新羅から遣新羅使が高宗の「天皇」号情報を持ち帰って伝えられたと増尾伸一郎は論じた。
     そして、天皇・皇后になっていることについて。称号導入時に天后がなく、なぜか皇后。それは女性が天皇だったから、天后にあたる人物がいなかったので、皇后になったのではないかという。つまり、最初の天皇号を使ったのは持統天皇ではないか、とのことだ。
     私的に思うのは、いや、じゃあ男性天皇になったとき、天后使ったらええやん。それと、朝鮮では天皇の号をつかわなかったのはなぜか、という疑問もある。
     また、著者は『日本思想史の可能性』の執筆メンバーの引用、つまり同じ観点の研究者ばかりで、別の研究者の意見も取り入れるべきではないかとも思った。

     私たちは「天皇」という言葉に慣れ親しんでいるけれども、これは中国の言葉であり、皇帝の言い換えに過ぎないのだという、指摘もある。なるほど、二ホン万歳の人間からすれば、がっくりしてしまうかもしれない。
     では、スメラミコトとか、オオキミとか、様々な言葉で「王」が「表現」されていて、天皇は「テンノウ」と言っていたのか、天皇という文字そのものは中国からの輸入かもしれないが、その文字は、日本語を当てたものにすぎないのではないか。もともと王を表現してきた歴史についてはどう考えているのか知りたいと思った。
     中国からの概念でゼロからイチになったのではなく、1+1や、もともとあったものを無視しすぎてはいないかとも思われる。
     また、皇帝と同一の内実を持つ概念であることを承知していたとあるが、そうやって皇帝の言い換えの天皇を日本が名乗るとはどういうことなのか、外交へのメッセージは何なのか触れられていない。
     また、直後、藤原不比等は、「天皇」なる地位に実質的な権力、権限が集中しないような政治システムとして日本の天皇制度を構想、実現した。それは貴族たちが共同統治を行うための政治システムであり、なかんずく不比等の構想では、天皇家と血縁的に一体化した藤原氏が実質的に権力の中枢にすわる政治システムとして構想されている、と74頁にはあるが、葛城氏のころから昔からそうではないだろうか。
     いまも藤原氏は日本を支配しているのかどうかといえばそうでもない。現在の天皇は、憲法の理念に非常に忠実である。

     いつも思うが、「日本は外国のパクリばかりでなさけない国だ」「日本は中央集権で、ファシズムが横行するなさけない国だ」「日本は女性がトップに立てない男性中心のなさけない国だ」といった流れを書こうとしても、なかなか書ききれず、本人もどう述べたらいいのかわからないのではないか。
     なぜなら、日本国内ではそれほどでもない(反例がいくつもでてくる)、外国にはもっと悪い例が山ほどある(なぜそれを取り上げない?)といった、いまのツイッターの合戦は、書籍の世界でも変わらないのではないか。

    『日本書紀』は、<時間の支配>を実現するために作成された書物であった(P77)と述べているが、公的な文書というのはそういうものである。事務的に積み重ねていくことはそういうものである。むしろ時間を支配しない国の文書なんてものがあるのだろうか。

     中国は「王朝の交替を正統化する思想になっている」(P93)しかし、日本は天から命が下るという考え方を否定し、代わりに天の神の血筋を引く家系がこの地を統治するという考え方に組み替えた。
     「命」の移動、すなわち「革命」は否定されるだろう、ということだ。
     しかし、疑問としてあるのは、どうして中国のパクリや影響を受けつつも、なぜそこを導入しなかったか。その割には、正体不明の天がちょくちょく出てくる。天が許さないとか、占いをするとか。もちろん革命の否定、というのはあるだろう。が、天皇でもぶっ殺されていることは日本書紀に普通に書かれている。天皇が対象ではないが革命も書かれている。

    【唯一の過去を制定すること――『日本書紀』編纂の目的はここにあった。】(P94)と、述べているが、一書を多数載せるのは唯一といえるのか。
     また、【それぞれの集団で語られてきたそれぞれの過去は、この作業の中でかなりの部分が消去、改変、編集されてしまい、あわせて新たな創作と整合化が編纂者たちによって書き加えられていった。複数の過去が存在することは許されず、不要な過去は消し去られ、唯一絶対の歴史のみが文章化されて、公式の歴史として制定されていった。】(P95)と、弾圧について触れられているが、あれほどの多くの神や登場人物、小役人から、氷上の女主人まで出てきて、ブルドーザーのように消されていったような感じといえるのだろうか。万葉集・風土記・古事記といった事業があったことについて、それら事業のなかでの日本書紀という事業について考察するということがもう少しできないだろうか。
     また、日本書紀の呪縛とは、日本書紀以前がない、だから日本書紀を前提としなければ歴史を論じられないということだが、それは日本書紀のせいではなくて、文字のない時代が長いだけではないか。
     中臣と忌部両氏が論争をした際、日本書紀の記述を根拠として裁定がなされた、と筆者は述べる。各氏族の裁定の根拠となっているのだ。これも呪縛だというが、根拠として機能しているので、日本書紀をつくった役人冥利にすぎる評価である。

     日本書紀を前提としない歴史叙述は、「日本霊異記」であると述べているところは興味深い。
    「新撰姓氏録」は、続日本紀や日本書紀への不満により、日本書紀に記されないこと、別の歴史がいくつか記されているという。これもちゃんと読まないとなと思った。

    P224で、著者は、『日本書紀』が一つの政治的立場から記された政治的主張の書物であること、事実に基づくとは認められない創作による記述が多いこと、政権中枢部の権力者たちの思想を表現した書物であること、といった基本的理解が私たちの共通認識として確立されるところまでは至っていないと悲嘆している。
    P226では、この書物が描く歴史とは異なる歴史が存在することをイマジネーション豊かに内面化することが必要になると結論している。

     これにより、政治的書物ではない外国の歴史書の方が正しく、それを参照として、そこから日本をイマジネーションしなければならないということにつながっていく。この本こそ、著者が最も批判している『日本書紀』と変わらない事例に陥ってはいないだろうか。

  • よく「記紀」と一括りにするが、「日本書紀」をきちんと読んだことがある人ってどれくらいいるのだろうか。かくいう私も読んでない。「古事記」は、近年でも三浦さんの親しみやすい訳が出たりして、かなりの人が読んでいるのではないだろうか。

    呪縛は確かに今も続いているような気もするが、「日本書紀」の書かれた背景や目的をしっかり認識すれば、かなりとけるような気もする。きな臭い現代社会に、本書が再び利用されないことを切に願う。

  • 2017.1.6 1/13返却

  • 「『日本書紀』は天皇の命令によって編纂された国家の歴史書である。(略)それは天皇の歴史を記す書物であり、それによって日本の天皇の政治思想を明らかにしようとする書物であった」

    8世紀、編纂され完成に至ってから今日まで、日本書紀はその後のさまざまな歴史書や家牒、または歴史そのものへなど影響を及ぼし、日本書紀に倣うもの反発するものと、「歴史や政治の原点になる書物として君臨してきた」。

    その影響をひとつひとつ解説し、存在感を確かめていく。

    いかに日本書紀が、いまだに大きな歴史認識の壁となって立ちはだかっているのか。手軽に知ることができます。
    まさにそれは日本書紀の呪縛。

  • 権威としての『日本書紀』
    『日本書紀』の語る神話と歴史
    『日本書紀』研究の歩み
    天皇制度の成立
    過去の支配
    書物の歴史、書物の戦い
    国史と“反国史”“加国史”
    『続日本紀』への期待、落胆と安堵
    『日本書紀』の再解釈と偽書
    『先代旧事本紀』と『古事記』
    真の聖徳太子伝をめぐる争い
    『日本霊異記』―仏教という国際基準
    『日本書紀』の呪縛を越えて

    著者:吉田一彦(1955-、東京都、日本史)

  • 天皇家の権威を確立するため、創作と削除によって神代からの歴史を記し定めた『日本書紀』はその後の歴史の記述のあり方を呪縛し続けていくことになった。貴族たちは自らの家系の顕彰を図る歴史書を残そうとするが、日本書紀の記述に沿いながら都合のいいものを盛り込む〈加国史〉と日本書紀よりも古い記録を標榜して新たな歴史を主張する〈反国史〉、どちらかの方式になってしまって日本書紀からは離れることができなかった。それは聖徳太子の威を借りようとする仏寺も同じだった。

  • ついに学界に属する研究者にも旧事本紀の編纂者であることが疑われるようになった矢田部公望。
    ぜひ考究をすすめていただきたい

  • 17/01/26。

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著者プロフィール

1955年、東京都に生まれる。1986年、上智大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。現在、名古屋市立大学大学院人間文化研究科教授、博士(文学)。著書、『日本古代社会と仏教』(吉川弘文館、1995年)、『古代仏教をよみなおす』(吉川弘文館、2006年)、『仏教伝来の研究』(吉川弘文館、2012年)、『『日本書紀』の呪縛』(集英社新書、2016年)、『日本宗教史を問い直す』(共編、吉川弘文館、2020年)他

「2021年 『神仏融合の東アジア史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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