ユリシーズ 2 第十一挿話から第十五挿話(前半)まで

  • 集英社
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  • Amazon.co.jp ・本 (620ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087732252

作品紹介・あらすじ

『ユリシーズ』はいよいよ『ユリシーズ』らしくなって、ジョイスは芸のありったけを披露する。少女は花火の下でスカートの奥を紳士に見せ、彼はそれを見ながら手淫する。これはナボコフ絶讃の章。そして英文学史全体のパロディによって語られる産婦人科病院の章は、『古事記』『源氏物語』から西鶴を経て宮沢賢治まで、日本文学史全体のパロディに移された。第11挿話「セイレン」から第15挿話「キルケ前半」まで。

感想・レビュー・書評

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  • 「ユリシーズ」11挿話から15挿話の前半まで。
    11挿話と12挿話だけは、柳瀬尚紀さん訳でも読んだけれど、こちらで二度目を読んだら少しは状況がわかってきた気がする。

    「ユリシーズ」では、政治、経済、社会情勢、宗教、文学芸術などについて論じられるので、当時の状況を検索してみた。「ユリシーズ」の舞台である1904年は「アイルランド島は、1801年1月1日から1922年12月6日までグレートブリテン及びアイルランド連合王国の植民地だった」という時代で、「ユリシーズ」が発表された時にはジェイムス・ジョイスの国籍はイギリス人だった。
    ジェイムス・ジョイスの時代は、イギリスからの独立の機運が高まりや、アイルランド人としてのアイデンティティを見つめ直す必要があったのだろうか。

    ユリシーズ関連の本はこちら。
    「若い芸術家の肖像」
    スティーブンの幼少期からユリシーズの数年前までの心の動き
    https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4087610330

    柳瀬さんによるユリシーズの写真集「ユリシーズのダブリン」
    https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4309202578

    柳瀬さんによるユリシーズエッセイ「ユリシーズ航海記」
    https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4309025854

    集英社共訳「ユリシーズ」1挿話から10挿話
    https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4087610047

    柳瀬さん訳12挿話までの「ユリシーズ」
    https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4309207227


    『第11挿話 セイレン』午後4時
    ❏この挿話は、意識の流れの部分や状況描写は音楽が流れているような描写になっている。
    ❏オーモンド・ホテルの二人の女給、ブロンズのミス・リディア・ドゥースとゴールドのミス・マイナ・ケネディがお喋りしている。
    …この二人の描写は「ゴールドブロンドの声が入り混じり」というかんじで、まあ金管楽器のような声が響き響きかしましいんだろうな。
    ❏そのホテルに、サイモン・ディーダラス、レオポルド・ブルーム、興行師ボイラン、カウリー神父、スポーツ記者レネハン、たちが来たり帰ったりしている。彼らはホテルのラウンジ(?)のピアノを弾いたり歌ったりする。
    …洋画を見ていると、お客さんがホテルに出入りして知り合い同士で音楽やダンス楽しむ描写を見かけるけれどもなんかいいよなあ。
    この章の書き方としては、彼らの音楽やダンスのリズムで彼らの思考がステップや韻を踏んだりしているようになっている。かなり卑猥なお喋りや思考が流れている。
    …よみづらい(´・ω・`)
    ❏興行師ボイランは、ブルームの妻でソプラノ歌手のモリーに会いにブルーム家に行く。
    ❏ブルームは、ボイランとモリーは不倫するんだろうなあとかあれこれ考える。(ブルーム氏はそれを分かってて家を開けている)


    『第12挿話 キュクロプス』午後5時
    ❏冒頭で”俺”という人物登場。煙突掃除のおじいさんのブラシが目に入りそうになったんだよ!と怒っている。”俺”は取り立て屋をやっているらしい。
    …解説によると、この「取り立て屋」は当時のアイルランドでは最下層扱いで、かなり馬鹿にされていたらしい。
    ❏”俺”の話し相手は、ジョー・ハインズ。新聞記者で、6章で葬式が行われたディグナムの死亡記事を書いたのも彼だ。”俺”はジョー・ハインズと一緒に酒場に行く。
    ❏酒場には”市民”と呼ばれる熱烈なナショナリスト(反英国政府主義でユダヤ人嫌い)がいる。”市民”はダブリンでは名物男らしい。
    ❏”市民”がアイルランドについての演説。
    「アイルランドの飢饉でアイルランド人はアメリカに追い出されて、アイルランドにいるアイルランド人は減っていくなんて言われてた。本国イギリス野郎は外国からの飢饉お見舞金をこっちによこさず餓死させようとしやがって。俺たちは自由の国に行ったって忘れず帰ってきて復讐してやるんだよ」…こんな感じかな。一見すると酒場で威勢がいい飲んだくれの戯言のようだが、この時代のアイルランドがイギリス植民地で、飢饉で人口流出だったという史実を考えると、もっと切実な怒りも感じられる。
    ❏酒場ではディグナムの話になるんだが(6章で葬式が行われた)、この酒場にいる人たちはお互い知り合いなので「え?ディグナム死んだって??つい5分前に見たぜ?」みたいな混乱が生じる。
    …知り合いが突然死したらそんな感じか。
    ❏ディグナムの息子らしき独白があった。しかし彼は酒場にはいないよね?独白だけ差し込んだってことかな。
    ❏5章で、ブルームが競馬が趣味の友人バンダム・ライアンズに「この新聞もういらない(スローアウェイ)からあげるよ」と言ったのをライアンズは「スローアウェイという競走馬が来るぜ」という情報をもらったと勘違いするんだが、そのスローアウェイが大当たりしたらしい。
    …なお、柳瀬版では馬の名前は「モイラナイン」にしている。ブルームが「この新聞はもういらないんだ」と言う言葉を「モイラナイン」と聴き間違えた、ということ。
    ❏酒場にブルームがくる。”市民”は、ブルームが大当たりしたと勘違いしている。ユダヤ人嫌いなので、ブルームに絡む。
    ❏この挿話の書き方は、”俺”とジョー・ハインズの会話や、この挿話の舞台となる酒場の人々の会話の途中途中に、裁判所文章やアイルランド古典のパロディらしき文体が挿入される。
    …よみづらいーーー(´・ω・`)。
    ❏挿入された裁判所文章パロディから想像すると、”俺”の現在の取り立て案件は、商人モーゼス・ハーゾックが商品を売ったマイケル・ゲラティへのものらしい。
    ❏挿入されたアイルランド古典?文体のパロディは、アイルランド凄いぜ!こんなに素晴らしいものがあるぜ!ということなんだが、その中に酒場に集っている人たちの意識も流れ込んでいるので、古典パロディとしてのわざとらしい格調高さと酒場でグダってる人たちの野次が混じってる感じ。
    …よみづらいーーー(´・ω・`)。
    ❏各国の公使がアイルランドを訪れたよ、というパロディ文章に登場した日本人公使の名前が「ホコポコ・ハラキリ」だった。 ( ≧∇≦)ブハハハハッ 他の国の公使もみんなパロディ名らしい。このあたりは翻訳者楽しいんだか大変なんだか(笑)

    13挿話『ナウシカア』午後8時
    ❏この章の語り口が「夏の夕暮れはその神秘な腕に世界を抱擁し始めていました」と、急にお行儀よく始まったので驚いた。
    ❏この時期のアイルランドはほぼ白夜で、午後8時はまだ明るい時間らしい。
    ❏この章の前半の中心人物で”ナウシカア”に該当するのは、ガーディ・マクダウェルというアイルランド美女の娘さん。どうやら12章の”市民”が父親らしい。ガーディは、女友達で乳幼児連れのイーディ・ボードマンと、幼い双子の弟連れのシシー・キャフリーと一緒に海岸に散歩に来ている。ガーディは夢想家で恋愛や家庭の理想なんかを考えている。語り口は夢見る乙女っぽいんだけど、女性の身体や性のこと、乱暴な父親(なにしろあの”市民”だから)のことで、中下層階級かなと見えてくる。
    ❏若い彼氏のレジー・ワイリーとの結婚生活も考えるけど、自分にはもっと別の理想の出会いもあるかもしれないね、とも考える。そう、あそこにいる紳士のように。
    ❏その紳士とは、レオポルド・ブルームだった。12章の酒場から追い出されたブルームは、裁判所勤めで故人ディグナムの遺児の遺産相続担当者カニンガムと一緒に、故人ディグナムの家を訪ねる。その後サンディマウント海岸(1章でスティーブン・ディーダラスが、塔からダブリンに行くために歩いた)に着いた。
    ❏夢見るガーディはブルームをやっと会えた理想の紳士★としてハーレクインロマンのようなことを考える。そしてブルームはガーディを覗き見(ばれてるけど)しながら、どうやら解説によると自慰行為したらしい。
    …「ユリシーズ」が発禁扱いになったのってこの場面が原因らしいんだが、解説で「自慰行為をした」と読んだ上でその場面を読んでも…ううん、意識の流れ的表記なのでよくわからないよ(-_-;)
    ❏ガーティたちが海岸から去ってからはブルームの目線とそれまでの語り口に戻る。この語り口の切り替えはお見事だなーー。
    ❏ブルームは、自分の周りの女性のことや、妊娠のことなどを考え難産で入院中のピュアフォイ夫人(8挿話で知る)をお見舞いに行くことにする。

    14挿話『太陽神の牛』夜10時
    ❏この挿話はですね、ジェイムス・ジョイスが英語の文体実験でもしているらしくて、英語古典文体、ラテン語風、韻文、有名な作家の文体、スラングなどなどを繰り広げて書かれているんだそうだ。翻訳に際しては、古事記調、江戸時代戯曲調、夏目漱石の文体…などなどで表現している。それでも翻訳しきれないようで、解説で「便宜上こうしてます」と翻訳者のお断りがある(笑)
    ❏以前参加した読書会では、ジェイムス・ジョイスが英語の文体を崩したり色々な文体実験をしているのは、英国の植民地であるアイルランドのアイデンティティ確認のためか?というような意見があった。ユリシーズ発表時のジェイムス・ジョイスはイギリス国籍で、彼らの文学はシェイクスピアなど英国文学を根本としている。しかし自分たちはあくまでもアイルランド人であり、だからこそシェイクスピアを研究したり、英語を解体したり、そうやってアイルランド文学を築きたいと思っているのかな。
    ❏この章での現実の出来事としては。
    ブルームがピュアフォイ夫人を病院にお見舞いにいくと、医学生の宴会にバック・マリガン(そういえば彼は医学生だった!)やスティーブン・ディーダラスがいて、みんなで猥談雑談戯言を言い合ってるらしい。ピュアフォイ夫人は無事に男の子を産み、ブルームは乳幼児期に亡くした息子ルーディのことを考える。ブルームにとってスティーブン・ディーダラスは、ルーディがそうなったかもしれない青年であり、彼の様子をチラチラ気にしている。
    ❏女の私としては、妊娠や性に関しては生々しい感じ(-_-;)がしてしまうのと、アイルランドってただの知り合いの女性の出産御見舞に真夜中に病院訪ねる(しかもこの時ブルームの妻は自宅でフリン真っ最中で、その自宅に帰りたくないために)というのが、日本とアイルランドとの違いを感じた。

    15挿話『キルケ』夜中12時
    ❏この章はですね、戯曲調で、娼家街をうろつくスティーブンやブルームの現実と幻影が混ぜ混ぜに描写されている。翻訳者さんによると、読者もこの混乱世界に参加しているということらしい。原文そのものを翻訳するのは困難なようで「便宜上日本語訳ではこうしてます」とお断りしている。翻訳者さん、楽しいのか大変なのか(笑)
    ❏ブルームの幻想には、13挿話に出てきたガーティたち、妻のモリー、8挿話に出てきたミセス・ブーリン、ブルームの秘密の文通相手マリアン、6挿話で葬儀に出たディグナムやその葬儀に参列していたマッキントッシュ(雨外套)の男、12挿話の酒場にいた”市民”、ブルームの死んだ父、などが入れ代わり立ち代わり現れる。またブルームと交流のないはずのバックマリガンがブルームと旧友として登場することも。
    ブルーム自身も、場面が変わるたびに服装が変わったり、伊達男のように振る舞ったり、帝王レオポルドとして戴冠したり(笑)、なんか両性具有者だとか言われて子供を産んだり(ええ!?/笑)する。
    ❏街の様子は、妙にテンションの高い悪夢の様相となっている。
    浮浪者や娼婦や障害者が絡んできたりおどけていたり、立小便する女がいたり、ころころ姿を変える犬がいたり、グロテスクな(本当にこう書いてあった)振り付けの民族舞踊を踊る人々がいたりする。
    ❏場所は娼婦街のため、現実の娼婦やお店に、ブルームの幻想としての女性たち(ガーディや妻モリーなど)が娼婦姿で登場してくる。女性たちはブルームを誘ったり、法廷に訴えたりする。
    ❏ブルームは兵隊(これは現実の人間?)をからかうような事を言ったり(これは想像の言葉?)する。
    ❏レオポルドの渾名はポールディーらしい。
    ❏ブルームが娼婦(これは本物)と一緒にある店に入ったら、スティーブンと友人たちがいた(これも現実)。スティーブンは、このごちゃごちゃ幻想世界でも芸術論を述べているらしい。
    ❏「ユリシーズ」ではシェイクスピア論がかわされる。
    以前参加したユリシーズ読書会では「アイルランドはイングランドの植民地であり、ジェイムス・ジョイスにとっては同じイギリス国籍の偉大な作家とはいっても民族的には違うので、シェイクスピアを研究して解きほぐすことにより、新たなアイルランド文学を追求したかったのか?」という意見があった。なるほどーーー。
    ❏登場人物たちがお店から出た場面でこの本終了。この本に納められているのは15章「キルケ」の前半までで、後半は次の巻に続くようだ。
    ❏この挿話は、幻想文学好きな人、ホラー映画好きな人は割と楽しめると思う!
    少なくとも他の章よりは頭に映像化で浮かべられる!
    私は頭の中では、モヤのかかる夜の街で、現実で知ってる人が現実ではない格好で現れては消え、自分自身もいつもとは違う自分になっている姿を思い浮かべた。

  • 酔っぱらい達の会話をすべて文字起こしして、後日読んだら、こうなった。
    とでも云うべきか。第2巻。
    たわごとやくだらない洒落にも、流行や時代の空気感を読むことが可能で、
    酔っ払い同士の罵りあいにも、遡るべき歴史背景を拾いとることが出来る造り。
    うっかりすると酔っ払い達の会話の文字起こしが、聖典にひっくり返るおそれがある。

    と、書いたが。違うな。
    聖俗一体などという逆説を軽々と飛び越えて、
    もっと厄介な具合に意味不明。更に良くないことに、読んでいて愉しい(場合がある)。

    最終巻へ。

  • もしも、ジョイスが『ユリシーズ』を書かなかったら、ナボコフの『ロリータ』も、ダレルの『アレクサンドリア四重奏』も、この世に存在しなかっただろう。ヴァージニア・ウルフだって、その下品さにはうんざりさせられながらも、ひそかにライヴァル意識を燃やしながら『オーランドー』を書いたにちがいない。この途方もない小説には、読む者をして、これを読んだ後、以前と同じ平静な気持ちで小説に対峙することを不可能にさせる魔力がある。

    『ユリシーズ』は、言うまでもなくホメロスの『オデュッセイア』を下敷きにしている。トロイヤ戦争から帰国の途次、英雄ユリシーズは、神を怒らせたため、魔物や怪物に帰還を邪魔される。夫の帰りを待つ貞淑な妻ペネロペイアは、ユリシーズの後を襲おうと押しかける求婚者たちに悩まされていた。苦境を見かねて父を捜しに出たテレマコスは、ようやく父を探し当て、二人は故郷イタケに帰って求婚者たちを追い払うという物語だ。

    主要な登場人物三人のうち、ユダヤ系アイルランド人の広告取りレオポルド・ブルームがユリシーズ、その妻でスペイン系の歌手モリーがペネロペイアに、そして、教師兼著述業の青年スティーヴン・ディーダラスが息子テレマコスに擬せられている。

    舞台はアイルランドの首都ダブリン。時は1904年6月16日木曜日の朝から翌日の午前4時頃まで。つまり、この作品はとある夏の一日、ダブリンの町中を彷徨するブルームとディーダラスに、ユリシーズの長い航海をなぞらえているわけだ。しかも、矮小化はそれにとどまらず、家で夫の帰りを待つはずの妻は、どうやら浮気をしているようで、ブルームはそれを知っていながら見逃している様子。つまり、枠組みは借りながらも、英雄は猥本好きで争いごとを好まない小市民的人物に、貞淑な妻の見本は夫のいぬ間に間男をくわえ込む好色な女に変更されている。

    ジョイスは「たとえダブリンが消滅するようなことがあっても、それは『ユリシーズ』に含まれ ている証拠から容易に復元できる」と言ったそうだが、そう豪語したくなる気持ちも分かるほど、街路から飲み屋、肉屋の一軒一軒まで、実に細かに描き出されている。ナボコフでなくても、地図を脇に置いて登場人物の歩く道を鉛筆でたどりながら読みたくなる。しかも誰と誰がどこかで出会うのは何時か、という空間と時間の結節点を細密に記述していく。ナボコフが「同時生起」と呼ぶこの手法は、まるで映画を見ているような気にさせられる。

    主要な登場人物も、別の章ではまるで点景人物の一人のように素っ気なく描写される。それとは逆に、盲目の調律師や、茶色の外套(マッキントッシュ)を着た男のように、人物と人物とを結びつけるためにだけ登場しているような人物もいる。特に度々登場するマッキントッシュと誤って呼ばれる謎の人物はいったい何者なのか、ナボコフは解決したと自慢しているが、それが正解かどうかは誰にも分からない。この例一つをとってみてもそうだが、チラシ一枚とってみても、度々言及され、その航海の跡をたどれるように書かれている。

    さらに文体の問題がある。ナボコフに倣って大きく三つに分けると、
    1.本来のジョイスの文体―直截、明晰、論理的。
    2.いわゆる意識の流れ―未完結で、素速く、切れ切れの語法。
    3.文体模倣―非小説形式(音楽、芝居、教義問答集)、文学的文体と作家のパスティーシュ。
    これらが、時には入り混じり、あるいは一章ごとに姿を変え、次々と変化する目まぐるしさには、「異化作用」を狙ってのことだとは思うものの、正直ついていくのに閉口する。

    地口、洒落、なぞなぞ、流行り歌からアリアまで、ありとあらゆる言葉遊びを投入し、さんざっぱらふざけ散らす。酔っぱらいの喧嘩、放屁、手淫とブルームズベリー・グループならずとも目を背けたくなる乱暴狼藉かつ下品で卑猥なシーン、とモダニズム文学が採り上げなかったような叙述の様々なレベルを採用し、有名な句読点抜きのモリーの独白で終わる、この小説。読み終わっての感想は、不思議に心に残るものがある。

    これまでの小説にはなかったリアルな人間がいる。「意識の流れ」の手法を過剰なまでに使うことで、切れ切れな思考の間にエロティックな妄想に耽ったり、つまらぬことに気をやってみたりと、ブルームほどではないにせよ、我々人間がそういつも立派なことばかり考えたりしたりしているわけでもないことが嫌でも分かる仕組みになっている。その、しようもない人間が、一方で動物や、弱い立場にいる人々に心を寄せ、争いごとが嫌いなくせに、ユダヤ人差別には一言言ってやらねば治まらないところも持っていることが、じんわりと伝わってくる。

    一度や二度読んだだけでは、もったいない。第十二挿話「キュクロプス」の「おれ」という視点人物は誰なのか。柳瀬尚紀に拠れば「犬」の視点から書かれているのだということになるが、果たして本当にそうなのか。いくつもの謎を解くために、数多ある注釈本を探し、別の訳者による翻訳で読んでみたり、と楽しみの尽きない書物である。(『ユリシーズ』1・3を含む)

  • ジョイスの『ユリシーズ』は、プルーストの『失われた時を求めて』と並ぶ近代文学の金字塔といわれる小説だが、『失われた時を求めて』とは、また全く違う難解さがある。

    しかし、『失われた時を求めて』よりは、ずっと読破率が高いだろうと予測される。
    なぜなら、『失時』とは量が違うし、筋だけを追えばいいのであれば、1日の出来事の小説なので割と簡単にFINに辿りつくのだ。

    だが、『ユリシーズ』は、そんな簡単な書物ではない。

    『Ulysseus』とは、『Odysseus』のラテン名 ウリッセース の英語読みである。
    『ユリシーズ』は、ホメロスの『オデュッセイア』を下敷きとして書かれており、まず『オデュッセイア』を完読していなければ、真に『ユリシーズ』を楽しむことは不可能といえる。

    『ユリシーズ』は、十八の挿話によって構成され、その表題はすべて、『オデュッセイア』の重要登場人物や地名等をそのまま借用している。
    もちろん、それだけではなく、小説すべてが『オデュッセイア』と照応しており、挿話の冒頭でどの部分に対応しているのかも明かされる。

    『オデュッセイア』は、トロイア戦争終結後、ポセイドンの怒りに触れたため、10年もの間、漂流をし、やっと妻子の待つ故郷のイタケ島に帰り着くという物語であるが、ジョイスは、10年ではなく、たった1日の時の流れで『オデュッセイア』に呼応した『ユリシーズ』を書き上げている。

    この一日というのは、1904年6月14日であり、場所はダブリン。
    『ユリシーズ』の主要登場人物は、スティーヴンという22歳の詩人、学校教師と、レオポルド・ブルームという38歳の広告会社の営業のユダヤ人と、その妻モリー。

    ちなみに6月14日は、ブルームズ・デイと呼ばれているらしい。この日は、ジョイスがのちの自身の妻となるノラとはじめてデートした日でもある。

    ブルームの妻のモリーは、多くの求婚者を拒否しつづけ、貞淑の象徴 オデュッセウスの妻のペネロペと照応しているが、モリーは、夫のブルームと夫婦仲がしっくりいっておらず、浮気をする。
    妻が浮気をすることを予知していても夫のブルームはそれを事前に阻止できない。

    ジョイスは、1904年以来、ヨーロッパ各地を転々とし、アイルランドへも1912年以後は戻ることはなかったが、小説の舞台は常に故郷ダブリンだった。
    『ユリシーズ』は、1904年のダブリンをそのまま閉じ込めて描かれており、
    「たとえ、ダブリンが消滅するようなことがあっても、それは『ユリシーズ』に含まれている証拠から容易に復元できる」とジョイスが述べているとおり、
    1904年6月14日 日の出日の入り、鉄道、船などの交通手段、人々の生活、通り、酒場などの様子、市民の生活等当時のダブリンを忠実に舞台として描いている。

    また、『ユリシーズ』は、『オデュッセイア』の照応ということだけでなく、文体や言語遊戯という意味でも意義深い書物だ。
    語り、弁証法、カノン形式によるフーガ、戯曲風、教義問答、句読点なしの科白などさまざまな手法が用いられている。

    そして、多くの訳注がついているが、多ジャンルの芸術方面からの引用、比喩、符牒など、訳注によってジョイスの意図を汲み取りつつ読み進む。

    最初、文庫で『ユリシーズ』を読みはじめたが、1巻を読んだところで、文庫本から単行本に変更した。
    理由は、文庫本では訳注が巻末にあるので、いちいち後ろのページをめくりながら読まねばならず非常に読みにくかった。
    単行本は、下に書いてくれていて、訳注が多すぎるためにページがずれこむことも多々あるが、文庫本のそれとは違って、やはり至便であった。

  • あくまでも読書ノートでしかないが、思ったことを書いてみたい。
    本題から離れてしまうかも知れないが、致し方ない。/

    [訳注]
    【七八六 下等動物(その名はレギオン) 
    イエスがゲラセネ人の地に行き、舟から上ると、悪霊に憑かれた人が走って来て、前に平伏し、わたしを苦しめないでくれと叫ぶ。イエスが、悪霊よこの人から去れ、と言ったからである。「イエスまた『なんじの名は何か』と問い給えば『わが名はレギオン、我ら多きが故なり』と答え(中略)彼処の山辺に豚の大いなる群、食しいたり。悪鬼どもイエスに求めて言う。『われらを遺して豚に入らしめ給え』。イエス許したまう。穢れし霊いでて、豚に入りたれば、二千匹ばかりの群、海に向いて、崖をくだり、海に溺れたり。(以下略)(「マルコ伝」五・九〜一五)。】/


    【補足 レギオン(略)とは古代ローマの4千から6千の軍隊を意味します。転じて、多数・軍団といった意味を持つようになった言葉でローマはキリスト教徒を弾圧したため、それに対する当てつけで悪魔を指してレギオンと書いたという説がある。そのため悪魔の軍勢というニュアンスも含む。】
    http://www13.plala.or.jp/Ragnarok2/file/ME5.htm より引用。)/


    聖書では、悪霊が抜け出して滅びて、めでたしめでたしとなっている。
    そうとも、それを聴けば誰もが安心して眠れる。
    だが、ロシアのウクライナ侵攻における蛮行を見ると、「悪霊」は未だに人間の中に巣食っているようだ。
    そもそも、果たしてそれは「悪霊」だろうか?
    それが人間の本性ではないと誰が言い得るだろうか?/

    進歩と言い、科学と言う。
    だが、殺戮兵器が進歩したほどには、「人間」の研究は進んでいないのではないだろうか。
    ちょうど、核廃棄物の処理方法も考えずに、原発を建造してしまったように。/


    スタンリー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』に、猿が棒を空に放り上げ、それが落ちてきて宇宙ステーションになるという素晴らしいシーンがある。
    だが、これも口当たりの良い物語でしかなくて、実は猿が放り上げた「棒」は、本当はミサイルや戦車になったのだと思える。
    もともと、「棒」は武器だったのだから。/


    ひと頃、SFというものがなぜいつも宇宙人との戦争物語なのか不思議だった。
    だが、よく考えると何のことはない。
    SFは、時代劇などと同じで、時と場所を移して「今」を描いているに過ぎないのだ。
    【「いつも戦争だ」】(プリーモ・レーヴィ『休戦』)の「今」を。/


    同じように、宇宙人がなぜ人間とほとんど同じ格好をしているのかについても、今は分かるような気がする。
    インベーダーとは、いつも人間なのだ。
    人は、他者に対する恐れをSF物語に仮構して、際限なく繰り返し演じ続けているのだ。/


    そう言えば、「狼男」という物語があったっけ。
    あれが一番人間に似ているかも知れない。
    ただ、人間が「狼男」と違うのは、人間が悪霊に変身するのは、満月の夜だけに限らないということだろう。/


    これが、『ユリシーズ』の感想?読書ノート?
    (まあ、勝手な想像を自由に遊ばせることができるのが『ユリシーズ』の大きさだ、と言えば言えるだろうか?)/


    『オデュッセイア』との関係:
    『ユリシーズ』には貞節なペネロペイアはいない。
    いるのは浮気するモリーだ。
    また、『ユリシーズ』には求婚者たちを制裁するオデュッセウスもいない。
    「寝取られ亭主」ブルームがいるだけだ。
    だが、そもそも、ブルームに「制裁」する権利があるだろうか?
    ブルームの頭の中は、いつも目を引く女たちへのエロチックな夢想で溢れんばかりではないか。
    オデュッセウスは「制裁」したが、彼はその流浪の日々の中で、ときに女神や王女と「添い寝」したりしていなかっただろうか?
    ギリシャは、男には「添い寝」が許され、女には貞節が求められる社会だったのではないか?
    だが、今はもう、自らに淫靡な夢想を許すのであれば、相手にもそれを認めるしかない。
    その夢想を実行に移すかどうかには、一つの階段があるような気もするが、決して本質的な違いではないだろう。
    かくして、もはや「貞節な」ペネロペイアはいない。
    「高潔な」オデュッセウスがいないのと同じように。
    僕らは、浮気女と寝取られ亭主(あるいはその逆)しかいない世界をどこまでも漂流して行くしかないのだ。/


    【「この世はまさに悪のしろしめす世にあらずや、下衆はさは信じずとも、律も検非違使もえ救わず」】

    ロシアのウクライナ侵攻で行なわれている蛮行を見た者の胸に、この言葉が突き刺さる。
    ゼレンスキー大統領の国連批判は、核心を突いている。
    国際法も国連も機能していないが故に、世界は「悪のしろしめす世」になっているのだ。
    一番のネックは、「常任理事国の拒否権」だろう。/


    『ユリシーズ』の一周目は「素読」でしかないだろう。
    ジョイス関連本が早く読みたくて、無理矢理読んでいるような感じすらする。
    『ユリシーズ』の連続イベント「22Ulyssesージェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』への招待」に登壇する英文学者の先生たちや、『ジョイスの挑戦』(言叢社)の中で南谷奉良、桃尾美佳先生たちが展開して見せてくれる読みは、素晴らしくスリリングで深い。
    だが、今さら英語を勉強し直して原書を読むには、あまりにも時間が足りない。
    諏訪哲史さんではないが、二周目は(も)「アサッテ」の方からアプローチしてみたい。

  • ダブリン、アイルランドなどを舞台とした作品です。

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著者プロフィール

James Joyce(James Augustine Aloysius Joyce )【1882年 – 1941年】。本原書名 James Joyce 『Exiles A Play in Three Acts With the Author's Own Notes and an Introduction by Padraic Colum, Jonathan Cape, Thirty Bedford Square, London, 1952』。

「1991年 『さまよえる人たち』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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