琉球王国の興亡・倭寇から戦国時代の始まり~信玄・信長までの話。
倭寇=日本人の海賊と思い込んでいたが,それは間違いだということを知った。日本歴史学の通説を集めた本とも言える『国史大辞典』において,倭寇とは,朝鮮半島を中心に展開した前期倭寇と中国大陸・南海方面を中心に展開した後期倭寇とがあり,後期倭寇の構成員の大部分が中国人で真倭と言われた日本人は10~20%であったとの記載がある。しかもこの時代の倭寇の最大のボスは王直という名の中国人なのである。
歴史には様々な視点があるが,そのなかの重要な視点の一つに『歴史は定住民と非定住民の抗争史である』と言うものがある。これを理解するのは難しい。というのも,非定住民の歴史というものが明確な形として見えないし,たまに見えたとしても,それは倭寇のような悪の象徴としてしか見えない。非定住民(つまり農業や工業に従事しない民)にとって,海こそ国家からの管理統制を逃れることの出来る真の意味での自由の天地だった。これは,海には非定住民の国家があったと言うことではなく(そういう発想こそ非定住民のもの),海はむしろ国家に縛られない人々の楽園であったということで,三島由紀夫の言葉を借りれば,『絶対の無政府主義(アナーキー)』なのである。
戦国武将の中で名将と呼ばれる人物には,一つの共通点がある。武田信玄,上杉謙信,毛利元就,北条氏康,今川義元 この5人に共通するものと言ってもよい。それは全員,金山か銀山を持っていると言うことである。名将の条件とは,戦争に強いことと答える人が多い。確かに間違いではないが,単に戦争に強いと言うことだけなら,関東の武将長野業政は信玄に負けたことがないし,真田幸隆の子昌幸も関ヶ原の戦いの際に,信州上田城において,わずかな手勢で徳川軍4万と戦い,一歩も引けをとらなかった。しかし,長野や真田は戦争に強い武将とは言われても,名将とは呼ばれない。やはりスケールが小さいのである。国人クラスだからしょうがないじゃないかといっても,元就だってはじめは国人クラスであるので言い訳にならない。戦争とは巨大な投資である。勝てば新しい領土や利権を獲得できるが,負ければ何もかも失う。だからこそやるには余程の経済力がないと無理なのだ。だから,名将の条件には財力があるということがあり,金山を持っている武将が歴史に名を残しているのである。これに対し,信長には金山を持っていないと言う点がある。それなのになぜ勝者になれたのかと言えば,皆さんご存知のとおり,金山以外の別の財源・商業財源を持っていたからである。
次に,信長が他の名将に比べ,大きく抜きん出たのは,目的を定め,具体的な計画を作成し,それを強烈な意志で実現するといったところであろう。例えば,信玄などは,川中島合戦などすべきではなかった。無駄な時間と労力を川中島で費やし,とりあえず自国の領土を拡張するということしか頭になかったと言うことである。だが信長は違う。天下統一と言う照準に合わせ,政治・軍事・外交の全てをその計画の元に行っている。足利義明の確保,京への通り道の北近江の大名浅井氏との婚姻政策,兵農分離などである。また,現代から見れば,野蛮・残酷の極致とも言える比叡山の焼き討ちについても,農民,商人,職人も,あの寺社勢力の横暴を何とかしてくれという意志を持っていたため,信長政権は支持を失わなかったのである。注意しておきたいのは,信長の目指したのは寺社勢力の武装集団,利権集団,政治団体としての解体であって,決して宗教そのものの弾圧ではないと言うことだ。比叡山を焼き討ちしても,天台宗禁教令は出していない。室町時代後期はあらゆる秩序が崩壊した混沌の時代であった。政府がどこにあるのか分からない。税金はとられるが,政府は何もしてくれない。物価は下がらず,一部の利権団体だけが巨額の利益を貪っている。正直に働くもの,能力がある者が決して正当な報酬を得られない そんな社会である。信長は,治安が守られ,産業が盛んになり,働く者は働いた分だけ正当な報酬が得られる社会に改革することを目指した。楽市楽座もそうだし,関所の廃止もそうだ。そういう改革を阻もうとする守旧派は必ず抵抗してくるから,それを排除するために対抗する武力がいる。その武力で抵抗を排除することを天下布武と表現したのである。