日本史・中国史を中心に,偉人達が発する,心に感銘を受けた言葉などを記録しています。
板舛さん
山岡 荘八
本 / 講談社 / 1987年02月02日 発売
そして舞台は硫黄島へと移る。この硫黄島には耕された田畑もなく,何よりも水がなかった。そんな島になぜ2万人以上もの兵を進め,司令部まで移したのか。また,アメリカ側も7万の大軍をひっさげてやってきて,一歩も退かずに戦っているのか。アメリカ側がさきに占領したサイパンから東京を爆撃するためには2千7百マイルの長距離を飛行しなければならない。それだけの航続力をB29はもっているが,これを実行するためには,護衛の戦闘機を同伴する必要があるし,燃料を多く積む必要があるので,爆弾の積載量に大きな制限を加える必要がある。それを克服するために,東京とサイパンの中間地点である小笠原諸島がターゲットになったのだ。小笠原諸島の一角である硫黄島を手に入れ,ここに飛行場を造ることで東京攻めの根拠地を一挙に1千3百マイルも縮めることが出来るのだ。従って,硫黄島が敵の手に渡るということは,日ならずして東京がB29の絨毯爆撃にさらされるということだった。 アメリカ軍は,サイパンで行ったのと同様な攻撃手法で硫黄島を手に入れようとたくらんだ。上陸前の徹底的な爆撃である。上陸すれば5日で掌握可能との目論見だったが,日本側の栗林中将が守る硫黄島の抵抗は激しく,結局,2月19日にアメリカ軍が上陸を開始し,日本軍が玉砕したのが3月25日であった。1ヶ月以上に渡って死守したのだ。『ここは東京の表玄関である。死屍を積んで一歩も通すな』という合い言葉のもと,抵抗を続けたのであった。 ”玉砕”の真意は決して全滅ではない。降伏によって生き残る以上の人生の意義をそこに認め,進んで死につくのが玉砕と言うものであろう。それが全員の胸にどのような形で浸透してゆくかによって,全兵団の結束ともなれば,収拾できない大反乱にもなりかねない。ところが,硫黄島の日本兵2万3千の将兵の結束は,まことに一糸乱れぬものがあり,その結束の中心は最後の最後まで栗林中将に対する尊敬と信頼であった。 硫黄島で日本軍のとった防御戦略とはどうだったのか。それはサイパンとは違い,アメリカ軍を水際で叩くのではなく,上陸させ,安心させたところを一挙に叩くというものであった。アメリカ軍は上陸前に必ず艦砲射撃と空からの絨毯爆撃を行い,防御側の戦力を著しく低下させたうえで上陸を開始する。この際に,日本軍が徹底抗戦すれば,防御陣地も丸見えとなり,敵の物量攻撃に必ずといっていい程,打ちのめされる。その後,いかに抗戦しようとも,砲弾薬,兵,食料ともに足りなくなるのである。この愚を冒さず,敵に対して日本軍の防御陣地を上陸前にはひたすらに隠し,上陸・油断させておいて,一挙に殲滅するのだ。 アメリカ軍の硫黄島への上陸開始は,2月19日だが,玉砕までの74日間にアメリカ側から投下された爆弾量は6,800tで,21,926発であった。まさに鉄と火薬の新断層作りあげたと言ってよい。しかし,史上空前の猛攻撃にもかかわらず,日本軍にはほとんど損傷らしい損傷を与えなかったというのだ。栗林中将の采配によって築き上げられた地下要塞の頑強さには,恐れ入ると共に,地中を掘るたびに硫黄の吹きだす劣悪な環境下で地下帝国を作りあげた兵隊達の苦労を思うと,防人となって東京を守らんとする意気込みのすごさを感じるのである。名将のもと,強兵たちが屍を積んで果てた硫黄島は,戦後23年,ついに祖国日本の手に還った。 硫黄島の本土戦に続き,沖縄本土戦が始まった。ここでも硫黄島と同様に,サイパン戦の教訓が色々な角度から熱心に検討された。硫黄島では,どんなことをしても勝算は弾き出せず,全部隊が地下にもぐり,徹底抗戦を行い,玉砕までの時間を稼ぐ以外に道はなかった。しかし,沖縄戦では全く事情が違ってくる。ここは九州の一角ともいえ,従ってただの防衛線でもなければ抵抗線でもなく,文字通り,この大戦の勝敗をかけた決戦場でなければならない。このことは大本営もようやく理解し,沖縄に向け,かつてないまでもの質と量の砲弾・将兵を投入していった。 しかしながら,その後,レイテ上陸作戦がこの沖縄への戦力投入に待ったをかけた。最も頼りにしている砲兵隊の中から最精鋭師団を抽出し,フィリピン島方面へ転用するということだった。このため,これまで沖縄決戦として作戦を貫いていたものが,沖縄本土についても硫黄島と同様に戦略持久という作戦に変わっていったのだ。これは沖縄県民にとっては看過できない問題だ。決戦主義であれば,戦ってみて勝つか負けるかは別として,これならば同胞として当然協力しなければならない。しかし戦略持久となると,問題は一変する。硫黄島の戦いのように,勝てる戦ではないのだ。ここでは1日でも1時間でも時を稼いで,敵の本州への進入を遅らせるという戦になる。当然,最後には玉砕だ。そうなると,老幼婦女子の疎開ぐらいではすまない。硫黄島では全住民を全て避難させたのだが,沖縄は人口において硫黄島と同様に論じられない。沖縄県民を九州に移すだけの輸送力は既になかった。そこで,軍は主戦場を南部に限定し,住民はできるだけ北部に疎開させることにしたのだ。 アメリカ側で沖縄攻略戦をどうして決定したのかだが,それは,日本本州と350マイルしか離れていない沖縄本島を攻略して,航空基地を建設し,そこから日本の工業地帯をしらみつぶしに叩き潰そうという構想からだった。その沖縄戦にアメリカが勝算を抱いたのは,レイテ海戦での日本側艦隊の壊滅的打撃にあるのだろう。事実,フィリピン島に続く我方の航空機の消耗は,その生産力との均衡を完全に失ってしまっていた。アメリカは沖縄上陸にあたり,まず,日本本州の飛行場という飛行場を大打撃を与えた。これは,沖縄上陸支援のための航空機動力を削ぐためだ。事実,その後,3週間に亘って,日本側は大挙反撃できなくなったのだ。 ここで,書き落としてはならないことがある。それはこの時期の陸軍と海軍の考えの差だ。陸軍側では,沖縄戦を半ば諦め,別に本土決戦を『決号作戦』として構想し,海軍側では沖縄戦を重視してここに残存勢力の全てを投入しようとする『天号作戦』を考えていた。この両者の考え方の相違を陸海軍の感情的な反目と考えている人が多いみたいだが,そうではない。海軍側には,もはや勝敗は決したのだという考えがどこかにあった。敗れたのだから,我々は責任をとって潔く死ぬべきだとする痛烈な責任感に繋がっていた。海軍の戦には艦艇や航空機のない個人的なゲリラ戦などありえない。したがって,敵が本土に上陸して来たときには彼らの戦は既に終わっているのだ。陸軍側には,戦士としては海軍と異質の環境にあり,異質の訓練を受けている。一隻の艦艇に乗員全ての運命が託されているわけではない。意志さえ強ければ一人になってもゲリラとして戦い得る。したがって彼らは最後まで戦い抜いてみなければ納得できない爆発的なエネルギーを残していた。この両者の意見が,沖縄戦で2つに分かれるのはむしろ当然のことだった。陸軍は本土決戦,海軍は沖縄決戦。したがって,陸軍は沖縄戦よりも,本土における決戦戦力の温存に努めなければならないことになり,海軍は沖縄戦で戦艦大和まで吐き出す結果になってゆくのである。 海軍は沖縄上陸が始まる前に,神雷部隊を投入していく。これは必死兵器である”桜花”を懐に抱いた一式陸攻を母機とする特攻部隊である。これによる突撃を敢行するということは,日本がどういう状況になっているかというのが言わずと知れるわけだが,この特攻も敵船隊にたどり着くことなく,敵の圧倒的な航空戦力により撃墜されてしまった。沖縄は見捨てられたのではなく,沖縄上陸戦に先立ち,このような悲惨な特攻という事実も当然にしてあったのだ。 アメリカ軍の沖縄上陸は4月1日から始まった。前日の31日いっぱいはアメリカ軍は例のごとく,爆撃と艦砲射撃で沖縄本島を叩きまくった。上陸寸前の敵の攻撃の激しさはどの戦闘でも同じだが,この日も例外ではなく,総計10万発の砲弾が一度に撃ち込まれた。それに対する我方の砲撃は,8千発だ。12倍もの砲弾で攻め立てられたのだ。硫黄島の上陸時の砲弾の差は5倍であったので,いかに今回の規模が大きかったか想像に難くない。そして,島の周辺に迫っている敵の艦艇は1300隻。これが夜明けの5時半から上陸に向けた活動を開始した。 当時の日本人はもはや冷静にものを考える余裕などそのほとんどが無くしていた。それが敗戦という事実の前に立たされた時の本当の人間の姿だと思う。硫黄島では,2万3千の将兵は,始めから敵が上陸してくれば死なねばならない事をよく知って団結した。ところが沖縄はそうではない。始めは勝つ気であった。それが兵力を他の戦場に持って行かれ,憤慨し,気持ちと戦略を立て直そうとしている間にぐんぐんと戦局は進んでしまった。つまり,納得する暇もない間に危急存亡の時を迎え,冷静な合理主義による戦略の再構築が非常識なのか,大死一番という玉砕主義が非常識なのか,その識別もできないまま,それこそ紛戦状態に陥ってしまったのだ。 東条内閣とは『勝つことばかりを知って,負ける事を知らない内閣』であり,小磯内閣は『勝って終戦の端緒を掴もうとする内閣』であった。その小磯内閣が,沖縄上陸という事実により倒れた。次に大命を拝したのが,長い間侍従武官長をつとめた鈴木貫太郎大将だ。鈴木内閣は『どうやって最も早い機会に終戦の機を掴むかという任務を負わされた内閣』だった。その鈴木内閣の発足と同時に,戦艦大和もその運命に従って突き進むことになっていく。
2012年05月25日 | コメント(0) | 日本史 | 読み終わった (2012年05月25日) |
本 / 講談社 / 1987年01月06日 発売
6巻の初めは,神風・新雷特別攻撃隊だ。神風は”かみかぜ”ではなく,”しんぷう”と読む。神風特攻隊は,豪胆で聞こえた大西司令長官が最初の声をあげたわけだが,果たしてこうした必死必中の非常手段を神々が許すものであろうかと,大西は自責の念にたえずさいなまれていた。この特攻隊の編成は,事実は命令ではなく,司令長官である大西中将とその指揮下にあった人々の凄まじいまでの愛国心が期せずして一つの火柱になって吹きあがったものであろう。大西中将は,ただそのおりの悲しい長官であったに過ぎない。その隊員24名が決まった。指揮官は関行男海軍大尉だ。これに,10月25日までにフィリピン島沖の敵機動部隊を殲滅すべしという命令が出た。そして,関らはその25日に5機で突撃,目的を果たした。アメリカ側の発表では,護衛空母1隻,空母3隻,軽巡1隻の5隻が撃沈したということだった。すなわち,1機で1隻を沈めたことになる。この神風特別攻撃隊は日本国内でも衝撃を与えたが,アメリカに及ぼした精神的な打撃の方がはるかに大きかった。 このころ,敵は既に全力をフィリピン島の進攻に賭けている。フィリピン島を敵の手に渡すと,日本の本土と南方資源地帯を完全に中断されることになる。中断されると本土は自滅,例え艦隊を温存してみてももはや用を成さない飾り物になってしまうのだ。結局,大本営は,作戦の無理な事は重々承知の上で,座して死を招くよりも,戦果はひとまず問わず,艦隊に死所を与える気になったのに違いない。そこには,海軍主力の覆滅と言う厳しい現実から,終戦に持ち込むのでなければ,本当に日本民族は滅びかねないという考え方が潜んでいたに違いない。しかし,海軍側としては,これほどの大艦隊に,輸送船や上陸用舟艇を撃って死ぬなど釈然としないものが残ったのは言うまでもない。敵はレイテ島に1週間も前から上陸作戦を決行している。ということは,湾内の船は空であり,陸に上げられた武器弾薬,食料に猛砲火を浴びせ,これを焼き払うのが上等だろう。しかし,この陸地には味方も上陸しており,味方撃ちになるかもしれないから止めてくれと陸軍に頼まれたのである。訓練に訓練を重ね,日本が世界に誇る大艦隊を,空になった船を沈めるために使い,そして,敵の集中放火を浴びて死ねという命令に従わなければならないのか。しかしながら,命令は絶対である。命令が実行されないような軍隊はもはや軍隊とは言えないただの暴力兵器を持ったテロ集団と化す。こうして遂に,規定どおりの捷1号作戦は発動されていった。 捷1号作戦は作戦というよりは,日本帝国海軍の遺書のようなものではなかったか。武蔵や大和といった最新鋭の戦艦はいたものの,圧倒的な数量差により,戦の結果は決まっているというものだった。しかしながら,なぜ,この作戦を遂行せざるを得なかったのかということを考えなくてはならない。栗田艦隊をレイテ湾に送り込んで砲台化し,帝国海軍の持てる全てを投入して陸軍に協力する。そうすれば,陸軍も納得して,終戦による事態収拾を決意するに至るであろう。勝算は絶無である。戦争継続が不可能であることはもはや決定的となっている。と言って,それを口外してよい時期ではない。海軍は皆黙って死ぬのだ。死んで民族の結束を将来に祈りだすのだ。その決意に立つと,世界一の戦艦も,苦心粒々の武器も惜しむに足りない。艦艇があって民族があるのではない。民族あっての艦艇であり,民族あっての海軍なのだと自分達に言い聞かせた。 話は,陸軍側になる。レイテ島への上陸部隊の指揮は山下奉文大将だ。山下はマレーの虎と異名された赫々たる武勲をあげていながら,東条英機と不仲であったため,マレーから満州に飛ばされて,天皇陛下の拝謁さえ許されなかったといわれている。その東条はサイパン失陥によって退陣し,後の小磯首相が,山下ならばこの戦局をどうかしてくれるだろう,という深い信頼で,再びこの重大な任務につかされた。しかし,山下が現地にやってくると,もはやどうにも彼の手腕のふるいようがない状態であった。戦局の切迫だけでなく,彼が苦言を呈しては嫌われていた総軍司令部が,ここでもまた,マレーと同様,彼の頭上に重苦しく覆い被さっていた。レイテ決戦以降のフィリピン島の言語に絶した敗戦は,決して日本の将兵の勇敢さや忠誠心の欠如によるものではなかった。むしろこれは,アメリカと日本の両軍総司令官の才能と闘魂の差であった。むろんここでも,第一の原因は国力の差ではあったが,いかに国力の差があったにせよ,寺内元帥の掌握している地位と権力がもっと有効に活用されていたら,このように惨めな犠牲は積まずに済んだと考えられる。マッカーサーのレイテ島上陸作戦が,合計730余隻という史上空前の大船団であったし,それにハルゼー提督の大艦隊を加えると,859隻という大勢力となり,上陸軍は一挙にして10万を数えた。またフィリピン人は,他の東南アジア諸国と違い,皮膚の色への親近感は問題にならなかった。タイやビルマやマレーでは,侵略者は白色人種であって,日本人は解放者であった。ところが,フィリピンでは,逆にアメリカ人が解放者で,日本人は侵略者だったのだ。この事が,フィリピン島全体でどれだけの犠牲者数を増やしていったかは想像以上のものがある。現地人達の諜報,内通に悩まされ,ゲリラにも苦しめられた。要するにこれは,占領軍の宣撫工作の拙劣さによる大きな失敗の一つであったのだ。 軍の規律は”命令”によって保たれる。この命令に絶対性を持たせて服従させるのでなければ,戦争という非常事態の運営遂行は成立しない。これは作戦面や技術面だけでなく,精神面において最も重視されなければならない。十分に練り上げられた作戦ならば,兵士の一人一人の忠誠は,そのまま一糸乱れぬ威力を発揮してゆくことになるのだが,一旦それが知識不足の上層部による実情を無視したままに下達されると,残酷無残な命令地獄を描き出す。理想からすれば,一兵の意志はそのまま大本営に上通さるべきであり,大本営の命令の意図は,そのまま一兵士の闘魂に直通するほどのものでなければならない。むろん中間の,総軍も,方面軍も,軍も,師団も,それを補佐して充分戦わせるための機関だと言ってよい。したがって,理論的には,どうして一兵の忠誠心をよりよく活かすかが,実は中間機関の存在理由であり,任務なのである。その理想例は,ガダルカナルの引き上げの際と,終戦のおりの陛下のご英断に現れている。これが残念ながら,レイテ戦の折にはみられなかった。敵の急迫が,完全にわが方の頭脳を引っ掻き回して,一兵の戦いを補佐するための中間の存在が,命令の執行だけを強要するという結果になっていた。むろん悪意があってのことではなく,すべてが敵状を確かめる方法を持たない軍隊の当然の帰結であった。 当時のレイテ島での日本軍の勢力は,わずかに1個師半の兵力約2万,大砲36門。対するアメリカ側は6個師の兵力約12万,大砲250門以上。これに10倍以上の航空勢力が敵には加わっている。第1師団の13,423名のうち,戦死者12,960名,生存者はわずかに463名に過ぎなかった。このような状態にもかかわらず,あろうことか,更に第26師団を上陸させたのだ。上陸の際は,充分な食料,弾薬を揚陸できず,こうして第26師団も総員12,000名中,無事帰還した者はわずかに16名と信じられない結果となった。このことは,結果から見ると,1週間分の食料と130発の弾を持たせて,1万名の兵隊を,陸海協力・苦心惨憺して,わざわざ死地へ追い込んでやったということに他ならない。しかもまだあるのだ。そのうえ,更に更に,第68師団についても,第26師団以上にほとんど丸裸でこのレイテの戦場近くに投げ出されたと言ってよい。彼らは,食いついて離れない敵機をかわしながら,かろうじてレイテ島にたどりついたので,重砲や戦車,軍需品は,ことごとく揚陸の際に海中に進呈してしまっていた。そんな彼らに対し,あろうことか,方面軍から自戦自活の名が下ってしまった。わざわざこの島に捨てられに来たようなものであった。途中であらゆる苦心を重ねながらやってきて,決起上陸し,裸で腕を撫しているところへ,『もうお前たちは,お前たちの才覚で戦いながら生きなさい』そうした意味の自戦自活の命令が下ったのである。こうした事実を,親や妻子が知ったら,どんな気持ちがするであろうか。それが目を向けてはならない,”戦争”の中の一つの事実なのだ。終戦後二十年近くも当時の戦場に居残って,いかに終戦を告げても降伏しようともせず,ジャングル内に出没して戦意を捨てなかった日本人の存在は,こうした悲しい自戦自活の命令の遵奉者たちにほかならない。補給も出来ないし,連絡も出来なくなるだろう。だが降伏してはならぬ。永久に抵抗を継続せよ・・・・この命令の底にあるものは,戦後二十余年,もはや日本人にはほとんど理解のできない残酷物語になってしまった。戦うだけ戦ったのだ。負けたと決まった以上降伏してもよいではないか。そのために世界共通の捕虜の取り扱いも法規化されている。というのが当時も世界の通念であった。そのなかで日本人だけは断じて降伏したり捕虜になったりはしてはならないと教えられ,それが一兵の末までに及んでいた。天皇は神であった。神の軍隊が不正の戦をするはずがない。それゆえ捕虜となって助かろうとは思うようないい加減な戦はしてはならない。このときレイテ島に残された日本軍は約2万7千ほどと推定される。 レイテの決戦は日本軍の完全な敗北に終わった。その原因の第一はアメリカ軍の実力を過小評価していたところにあった。それはある意味では,レイテの敗戦は,日本陸軍の自信過剰に下された鉄槌であったともいえる。『自戦自活の下に”永久”に抵抗を継続し,もって国軍将来の反攻の支柱たるべし』とはっきり命令され,終戦の命が下る昭和二十年八月十五日まで生き残った人々のほとんどが,飢餓とゲリラの渦中にあって,降伏のない悪戦苦闘を続けてきたという事実を忘れることは出来ない。フィリピン全域にわたって死屍をさらしていった日本人の総数は約47万人という膨大な数字となっている。いうまでもなく,この戦場で命を落としているのは,日本人だけではない。フィリピン人もそれ以上に命を落としていると著者はフィリピン島の軍人の友人に聞いてたという。なぜ,このように悲しい自戦自活の生活を,執拗に,かつ頑強に繰り返すことが出来たのか。そうした人々の闘志を支えたものはいったいなんなのであろうか。それは一口に言うと,アメリカ軍の東京への道に立ちふさがろうとする,ひたすらなる同胞愛であったのであろう。フィリピンにある将兵達はすでにアメリカ軍がやがて日本の本土へ上陸して行くであろうことを本能的に探り当て,その日を1日でも,1時間でも遅らせなければならないとする,凄まじいまでの意志であった。『死ぬものか。いや死んでも本土へは上陸させないぞ!』と幽鬼のような姿で,餓死線上を彷徨いながら,彼らは果てていったのであろう。いや,自分が果てた事もわからないまま,東京に向けて立ちふさがる支柱となっていったのだ。 フィリピン島を失うことは,これまでの南方の戦果の全てと絶縁させられることであった。次に攻撃される地点は,台湾・沖縄・本土の進攻戦と,サイパン・硫黄島・小笠原を経て東京に達する2つの線を残すのみとなり,足に火が着いた状態になった。マニラが陥落するころは,アメリカ側は,日本本土爆撃のためになくてはならないB29の前進基地として,小笠原諸島南端にある硫黄島への上陸作戦を開始していた。その硫黄島に敵が上陸戦を開始して来たのが,昭和二十年二月十九日だった。すでに太平洋上では,硫黄島の攻防戦が開始されていたが,マニラ陥落後のフィリピン島の終末戦は,終戦の日まで続いていったのである。降伏はあくまでこれを否定して,統一指揮も出来なくなった時は山下と武藤は自決するが,他の者はなるべく生き残って,ゲリラに転ずるようにと方針を決めて,徹底抗戦を続け,そのうちに,戦争は終結したのである。こうした徹底的な山下軍の抗戦のために,マッカーサーは最後までルソン島から手を引くことは出来なかったのだから,山下大将以下のアメリカ軍の拘束作戦は見事に成功していたといってもよい。こうして生き残った山下大将だが,終戦後はマニラに護送され,絞首台の人となった。この山下大将以下の人々を,日本を死ぬまで守り続けた人であると言って何が悪いのであろうか。そのように思えない人は,この日本の土を踏んで生きる資格はないのだと思うのである。
2012年05月18日 | コメント(0) | 日本史 | 読み終わった (2012年05月18日) |
話はビルマ戦線に突入する。ビルマでも,初戦を除き,イギリス軍の物量攻撃に苦戦させられることは,先のガダルカナル島やニューギニア島と何ら変わりなかった。ここでは,ひとつ事件があった。それは,戦場の二・二六事件と言われる佐藤中将の抗命事件だ。これは日本陸軍の歴史の中で一大汚点とされているが,真相はどうだったのか。著者はその張本人である佐藤中将と相手方の牟田口中将に戦後実際にお会いして,話を聞いている。 佐藤中将の抗命事件とは,大まかに言うと,牟田口軍司令官の進攻命令を公然と拒否し,兵団を率いて勝手に退却した事件である。これだけ書くと,何たる事かと思ってしまうが,退却までのいきさつを聞くと,どちらが悪いとも言えず,強いて言うなら,このような戦争を起こさざるを得なかった日本国の無謀さだが,それはやむを得なかった時代であるということだろうか。 佐藤は,牟田口に約束していた補給が,約束の日を過ぎてもいっこうに来る気配も無く,逆に,更に無理して進めといった命令を寄越した事に腹を立て,部下を飢えや無謀な突撃で死なすわけにはいかないという理由で,撤退に踏み切った。ただ自分のみが抗命の責任を負うように,退却の電報の草案も自ら起こすなど,周りにも配慮しながら撤退した。戦争下では時には死ぬよりも勇気がいる行動を,部下のために起こしたのである。 補給の話以外にも佐藤には不満が積もっていた。兵隊が痛い足をひこずりながら歩行を続ける中,芸妓や板前等が嬌声をあげて自動車で過ぎていくようなところを目撃していたからである。それを見た兵が何を思い,それがどのように士気に触るか考えただけでも分かりそうなものが,既に,考えられなくなっているほど,上層部は堕落・老衰していたのだ。そもそも慰安婦というのは,日清・日露のころは無く,はじめてこれが現れたのは支那事変が済南附近まで戦線を延ばして来たころだ。むろん初めは兵隊のためのものだった。兵隊の中には何としても欲望が抑えられず,密かに住民を乱暴して行く者が出てきていたからだ。ところがこれが,瞬く間に兵の手から将校の手に移り,さらに前線に戦うものは忘れられて,机の上で作戦し,机の上から命令する人々の公然の魔窟になってしまった。 佐藤は言った。立派な指揮者が,兵隊に死ねと言った伝統などは日本の歴史に断じて無い。最後の一兵になるまで頑張るのは,空疎な掛け声に煽られて頑張るのではなくて,指揮者の平素の労りが,生死を共にせずにはいられない共感,友愛に昇華されているからなのだ。つまり,自分の方から捧げたくなってくるから,一兵になっても頑張る。それが伝統だ。と。このようなことが言える軍人佐藤中将が,果たして,単に補給が届かなかったからと言う理由だけで,抗命し,撤退を図ったか,やはり疑問が残る。この抗命事件は,既に,戦争は負けており,これ以上,上層部の見栄や誇りのために,日本の皇軍を死に追いやってはならないという,大本営に向けたメッセージではなかったのではないか。とすれば,戦争とはいったい何であろうか。現地部隊に命令を下す司令部の存在は,戦争とは全く無縁の場所で忙しそうに命令遊びをしているに過ぎないことになる。佐藤中将が抗命になろうと,銃殺されようと,断固としてこの滑稽な錯乱遊びと戦わなければならないと感じたのであろう。犠牲をいといたくないというわけではない。犠牲はどこまでも意味のある捨石でなければならない。その捨石をどこで活かすつもりなのか,それさえハッキリと腹に入ったら,士気は全く違ってくるのだ。佐藤は罷免された後も,部下にあてて激励電報を打っている。大東亜戦争を通じて,兵を愛し,兵と共に泣き,兵と共に死んでいった将聖は無数にいる。しかし,戦場でこれほど強く兵のために闘った将軍はいなかったのではないかと著者は言う。 ビルマと同様に悲劇の島となったのが,サイパンである。ここは絶対国防圏の中心拠点であった。というのも,サイパンは東京から2400kmの距離であり,ここを敵に占領されると,日本全土がB29爆撃機の爆撃圏内に入ってしまうからだ。サイパンは小豆島より少し大きい程度の島である。この島の在留邦人の数はおよそ2万3千人いた。在留邦人と現地人との間もいさかいはなく,協力体制ができあがっていた。ここは第1次世界大戦以来,日本の委任統治領となり,海軍もしばしばこのあたりで演習を繰り返している。このため,既にこの時期には難攻不落の大要塞が出来上がっている,と誰もが思っていたが実際は違っていた。このように大事な拠点であるにもかかわらずだ。このため,敵の艦砲射撃をまともにくらい,島の形を変えてしまうほどの攻撃受けてしまった。ここで日本海軍がアメリカ海軍を追い払ってくれれば良かったのだが,フィリピンの泊地にいるため直ぐには現場に行けず,しかも,サイパンに着く前に,空母3隻のうち2隻も魚雷により沈没させられてしまった。サイパンでは,後少し待てば,味方の海軍が来て,敵を追っ払ってくれると思い込んでいたため,悲報を聞いて,絶望し,突撃,自決の不の連鎖が起こる悲劇の島と化してしまった。この島で死んだ日本軍の戦死者は2万3千人。また,在留邦人の2万3千人のうち1万人も死んでしまった。軍人の戦死者の多くは,砲弾,爆弾を浴びながらの激戦によるものだが,在留邦人の死者の多くは自殺であり,餓死であり,狂死であった。バンザイと叫びつつ,手榴弾を手にアメリカ軍の中に踊りこんで,銃剣をもって暴れ,自爆したり,バンザイ,バンザイと叫んで断崖から身を躍らせたりした。このバンザイ突撃は,アメリカ兵を戦慄させた。島の洞窟には軍人と一般人が混じって退避し,赤子の鳴き声で敵に居場所がばれる事を憂慮し,赤子を抱えた母に出てゆけと暴言を吐く軍人もいた。母親は仕方なく赤子をつれて出ていき,共に海に身を投げたりした。戦闘員と非戦闘員の入り混じった戦場にはこうした悲劇が必ずつきまとう。戦争もまたギリギリの人間の所業なのだ。温かい人情の発露もあれば,醜い剥き出しの利己の跳梁も避け得ない。それゆえ,戦争は永遠に呪われる悪行中の悪行なのだ。サイパンは結局,アメリカに占領されたが,アメリカ側もこの島の攻略だけで1万7千人の死者を出していた。この小さな島にささげた犠牲者の数はあまりに大きかった。 戦争には前線の戦闘部隊と後方の補給部隊のバランスが欠くべからず条件である。そのバランスが崩れると,どのように勇敢な兵士でも,闘い得ない。ニューギニアにせよインパールにせよ,繰り返し展開された日本軍最大の敵は,実はアメリカ軍ではなく,この補給の無力さであり,混乱であり,不器用さであった。玉砕していった人々はただそれを口にしなかっただけである。インパール作戦とサイパンの失陥で戦の勝負は決定し,ここからは戦争そのものの収拾に政治的な手が打たれなければならない時期に来ていた。しかし,ここで誰がいったい,東条に辞職を勧告するのか。そこで登場したのが,岸信介であった。ある時期の東条は不思議な魅力を持っていた。ところがその魅力の元をなしていた誠実さも,忠誠心も,努力も,不退転の信念も,今はみな見逃しがたい欠点に変わっている。東条が変わったのではなく,時局が全く別の物を要求しだしているのだ。ところが東条はそれに気付かない。少しでも彼の意に反するものは遠ざけ,彼の信念に近い者だけを近づける。そうなると内閣そのものが東条の過ちなり,欠点なりの塊になってしまった。しかし,これに敢然と意見したのが岸信介であった。今の東条に意見する事は,死を決しないと出来るものではなかった。全ての権力を東条が握っているからだ。しかし,東条も決して悪人でもなく,陰謀家でもなかったので,岸やそれに呼応する大臣の意見も入れ,東条内閣は19年7月18日に総辞職した。これで実は太平洋戦争は終わったのだ。岸の功績は大きい。既に負けている戦を,負けているぞとして終戦の方向へ向きを変えさせたのだ。それはサイパン玉砕の大本営発表と同じ日であった。 この時期,アメリカ側の大船団はレイテ島を目指していた。日本側はこれに気付かず,フィリピン沖のアメリカ陽動海軍にひっかかり,マッカーサー率いる海軍にレイテ島上陸を許してしまう。このように戦局が不利になるにつれて,不思議な形で愛国心が燃え上がり,それが,神風特別特攻隊の芽になっていった。山本五十六は,必死という,何ほどかの生還率の無い作戦は実施すべきものではないと厳重に戒めていたが,サイパンの失陥のあとでは,この海軍上層部の自戒は激しく揺れだした。敵に日本本土の攻撃基地を与えてしまったのだ。生産力の差からいって,応戦するに足るだけの飛行機や艦艇の補充が出来る状態ではない。そうなるとわが方にあるのは,異常なまでに昂まっている純真な人々の愛国心以外には何ものもなかった。この事に気付いて,真っ先に必死必中の特別攻撃を考えたのは,大西滝次郎中将であったと言われている。一機をもって一艦を沈める程の体当たりをやらなければ絶対に勝ち目は無いということだった。しかし,この戦術は易々と決断して良いものでもない。戦争にも下命してよい事の限界はあり,その限界を超えると果てしもない暴挙になる。陸軍はこの時期,まだ気負い立って闘っている。海軍もまた,最後の一兵になるまで徹底して闘って死ななければならない。その意味では,この特攻により神風を吹かせるということより,この特攻により,徹底して責任を全うしたいという,そして,その責任を全うする事で,神風は子孫の上に吹くであろうという考えからであったのだろう。 特攻隊の出現は,この時期,日本に起こるべくして起こったものであり,その行為に至った神聖なる気持ち,子孫への願いを鑑みると,その行為自体を批判する事は私には出来ない。でも,そんな限界ギリギリの心境にさせてしまう戦争というものの恐ろしさを,子孫である我々はよく考えなければならないと思うのだ。
2012年05月10日 | コメント(0) | 日本史 | 読み終わった (2012年05月10日) |
ガダルカナルの敗北は太平洋戦争における峠であったと言ってもよい。ここで失った人と物と時はその後の日本軍に与えた影響は無限大の大きさであった。艦艇や航空機の喪失は日本側だけでなく,アメリカ側も同様もしくはそれ以上に出ていたが,費やされた”時”の与える影響は両国で全く違ったものとなっていた。アメリカ側の工業生産高は日本のおよそ13倍であった。これを航空機にとれば,日本が1機生産する間にアメリカは13機生産するという事だ。したがって日本はアメリカの12機を無損害で撃破しなければ均衡が崩れていくという事になる。鐵鋼の生産量でもアメリカ側の1億トンの供給量に対し,日本側は400万t。これは,日本の艦艇1隻が,25隻の敵を撃沈するのでなければやがてはバランスが崩れるということだ。こういう前提のもと始めた戦だということを肝に命じておかなければならない。 ガダルカナル攻略の後は,西ニューギニアの攻略に進むものと考えていた日本軍は,ガダルカナルの敗北前に,既にニューギニアにも兵を投入していた。ガダルカナル攻略後,その兵をニューギニアに投入するものだったため,まず,上陸させたのは,工兵が3分の1を占める部隊だった。その部隊が全く気付かないままに,マッカーサーは10倍の兵力をもって大飛行場をニューギニアに整備し,日本の陣地に向けて進撃して来た。寡少かつ戦闘部隊で無い日本軍は,敵が猛射を浴びせてくると,日本はただじっと待ち,猛射が止むのを待って突撃して行くしかなかった。この突撃だけはアメリカ兵の最も苦手とするところだった。アメリカにとっては,物は決して惜しんではならない戦争の必需品であって,戦争とはそうした消費・浪費を惜しんでゆくと,より貴重な人命の消費に振り返られねばならないことを良く計算している。日本側は物量が足りないので,ついに人命をもってこれに代える考え方に馴らされていた。このため,アメリカは日本兵の突撃を警戒し,弾雨の中に日本兵の闘魂を閉じ込めようとした。射ち止めたら突撃してくるので,突撃させないためには,つねに弾丸を射ち続けて,壕の中へ日本兵を閉じ込めておくに限るのだ。そうすれば,やがて空腹もあり,飢餓もある事を冷静に計算に入れた攻撃方法であった。いうなれば,これこそ真の『人と物との戦い』であった。こうすれば,いかに頑強な日本兵も降参するに違いないとマッカーサーは踏んだのだ。 中央では常に地図をにらみ数字を並べて作戦を立ててゆく。無傷の3個師を送るには,何ほどの船舶を必要とし,何ほどの武器・糧食を必要とするか,そうした数字による兵力比の計算だけで容易に勝算をはじき出し,そうした根拠から実戦部隊を叱咤し,命令して行くのだが,実際の戦場ではそうはいかない。戦場は常に敵の出方に応じ,思いがけない突発事や変化が連続的に待ち構えている。逆に,実戦部隊の現実的な要求を,どうして中央が満たしてやれるかに本当の勝敗はかかっているのに。 山本五十六は十八年五月の開戦から1年半にあたっている時期に,起死回生の”い号作戦”を立案する。1年半の間にミッドウェーの蹉跌はあったが,とにかく,タイ,インドネシア,ガダルカナル島までは互角の戦いをしている。ガダルカナル島を撤退して,勢いづかせた敵に,ニューギニアでもまた手も足も出なかったとなっては戦いはもはや終わりではないかという思いがあった。開戦から1年半から2年になると戦いには自信が無いと言っていた,開戦当時の山本の言葉を踏まえると,この時期は既に山本としても最後の手段を講じる時期だという認識であった。しかし,山本の乗った飛行機が撃ち落され,日本海軍は戦略的,心情的な柱である山本を失ってしまう。陸軍にとっても,よき理解者たる山本の死は非常に大きな影響を与えた。 ニューギニアでは,ガダルカナル島と同じように,アメリカ軍の武器・人の供給量が飛躍的に増加し,もはや完全に人対人の戦いではなく,アメリカの物量と,生き残った日本兵の戦いになってきた。敵の5万発を超える砲撃に対し,日本は10発ぐらいを打ち返すといったぐあいだ。こういった状態の日本軍に対し,アメリカは更に包囲の輪を縮めてくる。日本軍は,前進するも退却するも,その包囲網を突破しなければならなかった。そんな強行軍について来れないような傷病兵は,戦友達の足手まといになるのを恐れて律儀に自決の道を選び,死んでいった。日本軍が撤退する時には,どこの戦場にも,必ずそうした自決があった。ニューギニアでは富士山よりも高い4500m級の山を縦走して敵の包囲網を交わしたり,30kmにも亘る湿地を,10日間もずっと立ったままで進んで行かなければならなかった。日本陸軍の第51師団はこのような信じられない行軍を実際にしてきたというのだから,そんな話を聞くにつれ,何ともいえない申し訳なさや感動や哀しみが入り混じった感に襲われるのは私だけだろうか。 参謀本部でも大本営でも,こうしたニューギニアの悲劇を全然知らずにいるはずはなかった。国民の前にこのみじめな実情の報道こそなかったが,自分達の招いたこの大失敗を痛いほどよく知っていた。しかし,時すでに遅く,もはやどうすることも出来なかったというのが実情ではなかったか。このため,十八年の秋ごろからは,本部でもソロモンとニューギニアの前衛戦線を放棄し,退却せよという意見がしきりに出だしてきた。しかし,現地では退却すら出来ない包囲網の中にいる。とにかく,進むも死,退いても死の絶対絶命の窮地に立たされている。援助物資も届かないとなれば,当然,現地での食料調達となる。しかし,ニューギニアでの現地調査の結果,兵達に加え原住民をもまかなう程の食料が無いとわかった。いかに皇軍の兵士達といえども,極限状態でどのようになるかわからない。いや,原住民や味方になっているインド兵も交えた大暴動になりかねない。人間がいったん食をめぐって争いだしたら,それはもはや何者もこれをさえぎりえるものではない。しかし,そうなってはこれまでの忠烈さも,名誉も一度に吹き飛んで,民族永遠の汚辱が刻印されることになる。そこで遂に,ニューギニア包囲網にある安達二十三(はたぞう)第十八軍司令官は,熟慮の上”我々は皇軍なのだ”という誇りを胸に,玉砕覚悟で進撃していった。原住民との食料争奪戦になるよりも,名誉ある死への突進を選んだのである。しかし,この玉砕覚悟の進撃戦も,自給自足生活をしながら長期に亘り,結局,昭和20年の終戦までに頑張り続けたのだから凄まじい。終戦時,第十八軍の生き残りは,第20師団2千名,第41師団1300名,第51師団400名という酸鼻を極めたものであった。 南太平洋のガダルカナルとニューギニアの戦いは,その最初からあまりに悲惨すぎるものであったが,アジア地域内のビルマはその2者と違って,緒戦当初はまことに輝かしい勝利と栄光に飾られた戦いであった。日本はビルマに進出して,イギリス軍を追いはらわなければ,マレーからインドネシアの石油地帯を確保出来ないし,ビルマは日本軍進出の間に自国民の義勇軍を結成して,長い間の植民地的抑圧から独立を図るという点で完全に両者の利害は一致していた。タイも中立を守っていたが,日本軍大勝の報が続々と入るに及んで,日本軍の国内通過も許容してくれることになった。日本軍が常に誇称していた”皇軍”としての面目を占領地域で遺憾なく発揮したのは,今村軍司令官のインドネシア掌握時代と,このビルマにおける緒戦当時だけだったような気がする。成功の原因としては,両者の利害一致の他に,両者がいずれも仏教徒であったということがあるのではないか。一人一人が故郷を偲びながら合掌する姿は,このうえなく親しい身近なものに見えたに違いない。それが日本軍に協力したいという感情的な部分に強く訴えたのではあるまいか。 そんなビルマにおいても,現地部隊の苦労が大本営には理解されない。現地の兵隊の生命を投げ出しての善戦敢闘が,逆に上層部の人々に戦争を安易に考えさせる原因にもなった。 ビルマ方面軍のインパール作戦については,現地軍がやれるというのならやらせるがよい,というのが中央部の意見の大勢であった。しかし,ニューギニアの戦局が悪くなっていくに従い,ビルマのインパール作戦は,起死回生の一撃にと,その戦略的な意義が当初とは違ってきた。インパール作戦を主導したのは,現地の牟田口中将だった。従来ならば,一個大隊の兵力をもって密林に包囲圧縮して行けば,支那の一個師団はただちに潰走するのが例であったが,彼らには大きな変化があった。今までの包囲は,そのまま補給路の遮断を意味していたが,敵の補給は一切が空からに変わってしまっていたのだ。こうなると,日本軍がどんなに突撃を敢行しても,日本側は補給は無く,少しづつ減って行く一方なのに対し,敵はいつでも補給が受けられ,逆に益々増加して行く一方であった。つまり,空からの補給という新戦術を採用されると,日本軍独特の肉弾攻撃ではどうにもならないということであった。そんな困難な状況であっても,日本軍は牟田口中将の激のもとインパールを目指すしか生き延び,戦線を収拾していく方法はなかったのが現実であった。ビルマ戦の初戦では敵を蹴散らしたものの,次第に負け戦の色が濃くなっていった。そうなってくると,このインパール作戦に凄まじい執着を示している牟田口中将への反感が軍内に充ちはじめ,そこからビルマの戦局についても悲劇が始まっていったのだ。
2012年05月08日 | コメント(0) | 日本史 | 読み終わった (2012年05月08日) |
本 / 講談社 / 1986年12月01日 発売
ジャワ攻略を予想以上の成功に導いたのは,ジャングルへの備えと今村均中将およびその命令下の将士の冷静かつ果敢な行動,それに陸海軍の緊密な協力にあった。今村中将の逸話を聞くに従い,これが太平洋戦争全体を包んでいたらという思いを強く持つ。 今村中将は,インドネシアに侵攻しつつも,常に現地人への被害に対する反省がつきまとっていたに違いない。このため,オランダの降伏後は,民政に力を入れ,インドネシアの現地人の独立を助けるように支援した。そんな占領初期の日本人に対しては,現地人は非常に好感を持ってこれを向かえ,惜しまない協力をくれた。インドネシアは,どこの占領地域よりも明るく,活気があり,みな伸び伸びと生活していた。しかし,一方で,日本国内の窮乏は日に日に深刻の度合いを深め,このような明るい姿に嫉妬しだし,臥薪嘗胆主義者達の感情に触れた。中央から派遣された武藤章軍務局長が東条の意を携え飛来して来た。威令に満ち・厳しい統治を進めよということだ。今村は決して日本の方針を踏み外すことはなかった。ただ,今村の言う日本の方針とは,唯一,天皇陛下の決定された統治要綱であり,『戦略物資の確保,国際法の厳守,現地の人心安定』の3つであった。その3つを厳守するためには,威令でも鞭でもなく,現地人に常に希望の光を灯しておく,つまりは,独立の夢を支援してあげる事こそが,インドネシアを統治し,うまく運営して行く要となると武藤に懇々と説いた。今村から言わせると,この度の中央からの命令は,天皇の意に沿ったものではなく,陸軍省の感覚や,一部の秀才が勝手に天皇の統治要綱を変更したものだと。ただ,残念ながら今村中将の統治から,軍政当局者による統治に変わるにつれ,現地人には威風で臨めといった空威張りが横行するようになり現地人も暗澹としていく。 ミッドウェー海戦は,日本側からいえば大敗北であり,これまでの必勝の自信と誇りを失う痛恨事であった。当時の海軍は,名実ともに世界のトップクラスであった。ゼロ戦の戦闘力や魚雷の射程距離などは世界随一であった事は明白である。そんな帝国海軍がミッドウェーでは信じられない敗北を喫する。その原因として,今日あげられる最大のものは,連戦連勝の成果に酔った指導部の慢心であったとされる。確かに,それは外れていないが,その背景にあったものを全て理解した後に語るべきものであり,軽々しく,無謀で狂気の沙汰の海戦であったと済ませてはならない。それでは,失われた日本兵の死が全く無意味な犬死に成り下がって行くではないか。歴史上,全く無意味な犬死などは存在しない。それは後世の人々が,その意味するものを探り出そうとする努力を怠り,その過去の事実から反省の資を摂取する才能を持たない人々の,まことに不遜な片付け方ではないかと思うのである。著者としては,この部分を,少なくとも読者には知ってもらいたい,理解してもらいたい,教訓にしてもらいたいと思って,おそらく大げさではなく,命を削ってでも後世に文字として残したのだろう。 本来,海軍は戦争を長引かせることは不可能だと言ってきた。山本は1年ぐらいは十分暴れられるが,その後は自信がないと言っているし,海軍軍令部総長の永野も対米戦争は1年か2年は持ちこたえられるが,それから先は分からないといっている。石油の貯蔵量を使い果たすと,世界一の艦隊も軍港に抑留しなければならなくなるためである。このため,太平洋での防衛的な戦略戦術は取りえない。速戦・即決で如何に早く戦争を有利なうちに終結させるかということに尽きるのであった。まずはハワイを襲撃し,太平洋の制海権を確保し,続いて東南アジアの海域からインド洋を制圧し,陸軍の行動を助けて戦略物資の調達路を確保し,そして,ハワイ奇襲により打撃を与えたアメリカの超大海軍の再建完成を最も効果的に妨害して行くことであった。ただ,アメリカ本土を攻撃して,生産設備を破壊する力まではない。このため,再建艦隊の大きくならないうちにこれをいずれかの海域に誘い出し,艦隊決戦に挑んで行くほかなかった。再建できたアメリカ艦隊がこちらを圧倒するほどの大勢力にならないうちに,どこかの海域へ引っ張り出して叩くこと,これがギリギリで考え出された山本戦法の根幹を成すものであったろう。南は豪州から北はアリューシャン列島まで,広大な作戦規模は,わざと巨大なくもの巣の網を張り,そこへ誘き出し,ひっ包んで撃沈してゆく,そしてその間に好機を捉えてこの戦を終息に導かせるという構想だ。こちらがその意気込みでアメリカ軍を射ち沈めていこうにも,向こうはそれに優る生産力を持っている。それに反して味方は小艦艇一隻を失っても,それはもはや今次の戦争中に補充される見通しはないという,絶対のマイナスに繋がってゆくギリギリの戦だったのだ。アメリカは『日本海軍は石油という動力源のパイプを閉ざしておきさえすれば,両3年の間には乾上る海軍だ』といった蔑視の上に立って,石油の禁輸を断行し,日本はあらゆる面から挑発した。それに対し,日本は従来の戦略戦術をもってしては全然勝ち味のない戦ながら,止むなくこれに突入して来ているのであった。利害を計算したら開戦すべきではなく,はじめから米英のなすがままに任せておく方がよかったのだ。そういった思考のもとから,ミッドウェー作戦を決定していったのは,やむを得ない成り行きだったと思うのである。 真珠湾,シンガポール占領,フィリピン攻略などは,米英は出鼻を挫かれただけで,全然立ち上がってはいないのだ。それなのに,これ以上戦局を拡大し,進むのは不当である等,陸軍出身の東条の考え方もあり,これ以上学生は召集しないという声明が発せられた。連戦連勝の経験がひどくタガを緩ませ,山本の『今度の敵は我が国始まって以来,最大最強の敵である』と言う主張を理解する人間は少なかった。また,情報戦・索敵戦については,アメリカに大きくひけをとっていた。索敵による敵機発見が1時間差があるだけで,運命を決してゆく,言いようもなく大切な差になってしまったのが,ミッドウェー海戦である。この海戦で,日本軍は最新鋭艦4隻を失ったが,それはこの戦争中の日本の実力では取り返しのつかない損失である事を海戦に臨んだ艦長や司令官は認識しており,そのために,自艦沈没の折には,責任をとって,艦とともに沈んだ者が多かった。 山本五十六が三国同盟には徹底して反対していながら,太平洋戦争には徹底的に反対しなかった理由として,『日本の革命』があった。もし太平洋戦争に海軍をあげて反対したら,陸軍の少壮将校は必ずクーデターをやるに違いない。そうなると,国家社会主義やら共産主義やら,判然しない革命政権が出現するだろう。そして,彼らは現在よりも数倍混乱した能力で,昂然とアメリカに挑戦していくにちがいない。その結果,日本は現在の力で戦うよりはるかに惨憺たる亡国になってゆくに違いない。そこで歯を食いしばって開戦に賛成する。賛成するが,早期決戦で講和に持ち込まなければ勝ち味はないことを常に中央に忠告しなければならない。その忠告が届かぬと見た時に,海軍は平素の教育信条のとおり,最後の一兵に至るまで厳しく戦って滅んでゆこうと考えていた。ミッドウェーでは敗北したが,これはミッドウェーと言う局地戦での敗北ではなく,太平洋戦争という大きな視点でも日本海軍は敗北したと言ってもいいだろう。 海軍敗北の一ページはミッドウェーであったが,それと相対する陸軍敗北の第一歩は,ガダルカナル島争奪戦であった。当初は,日本陸軍はガダルカナル島を重視していなかった。というより,このような島はしらなかった。アメリカは逆に,アメリカと豪州の生命線を守る城砦として,日本軍をこれ以上南に進出させないために,絶対欠くことの出来ない拠点であった。その意識においても,守るアメリカ方と攻める日本方では,緊迫度合いも違い,それに輪をかけるように,日本軍の驕りがあった。 ガダルカナルの戦況が悪化して行くにつれ,日本軍の驕り,無謀は輪をかけて増していった。『こうなったら日本軍の面目に賭けてもアメリカ軍を殲滅してやる』と,満々とした考えが中央にも現地軍にもあった。ただ,次第に要塞化され,軍備も充実していくアメリカ軍を冷静な目で捉え,深入りせず,こちらも戦略をもう一度練り直すべきだといったような後ろ向きな意見もあったが,これは一蹴された。そこへ,カノン砲や砲弾とともに,11名の参謀陣と派遣参謀も3名を加え,大兵団を送り込み,一大決戦をしようという動きを陸軍中央部がとるのである。1万5千人の軍隊を送り届けるには,空海上から,それなりの援護が必要になる。しかし,このような隙間は現時点ではほとんどなく,無理に上陸しようとして敵機に見つかり,人員・軍資の大半が海の藻屑に消えてしまったのである。辛うじて上陸した部隊には,10日を養うほどの食料もなく,弾薬は半日で尽きるぐらいしか残っていなかった。これに,マラリヤや赤痢などに多くの兵士が感染し,兵士達は骨と皮ばかりになっていた。引き返すにも船もなく,まさに,行くも死,留まるも死であった。大挙やってきた若い参謀達は大きく狂っていたが,反面,その他の将士や兵士達は責任感があり,再起の可能性がほとんどないと悟った時,この際残っている精力をふりしぼって一寸たりとも前進し,もって後続部隊のために道を拓いておくことが最後の奉公となると考えて,散華していった。2回もの総攻撃に失敗した日本軍は,アメリカ軍に負けたと言うより,これら若き参謀達の稚拙で無謀で全く理解に苦しむ戦略による犠牲となったとも言えよう。 既にガダルカナル島が敵の反抗の第一拠点となったことは明瞭である。ここに,陸軍がこだわればこだわるほど,犠牲は陸軍だけでは済まず,その護衛・輸送に協力する太平洋上の主戦力である海軍勢力の大消耗を来たして,戦争全体の敗色を深める結果となった。2回もの総攻撃に失敗した日本軍だが,子供の喧嘩のような面子にこだわり,意地にもなって,第3次の総攻撃に突撃していったのは,後世の私達から見れば,何故という疑問を超えて,腹ただしくもあり,またそこで亡くなった士卒のことを思うと,やるせない気持ちになるのである。 これらの太平洋戦争では,帝国陸軍の異常なまでの意地や,開戦初期は幸運にみまわれただけのことなのにそれを当たり前のように感じ驕りに変わっていったことが不運な結果を引き起こす大きな要因になったのである。この教訓から,我々は,勝っておごらず,敗れても狼狽しない冷静さをつねに堅持していかねばならないと肝に命じなければ,散っていった将士達に申し訳が立たなくなる気持ちに襲われる。 ガダルカナル島では,第2次総攻撃で生き残った兵達が,飢餓に近い状態で取り残されている。彼らが今戦っているのは,アメリカ軍ではなく,病や飢えに対してであった。川という川には魚一匹いなくなり,森からはトカゲも一匹もいなくなったという。見つけ次第にとる人間の数が多すぎるので,さしものトカゲの群れも食い尽くされてしまったのだ。そんな異常な状態を引き起こすのも,戦争の一情景であることを心しておかなければならない。ある時には,立派な美点として通る日本人の『頑張り』が,ある時には欠点となって,悲劇の波紋を拡大して行ったのだ。第3次総攻撃のため,輸送船団は編成され,魔の海域に乗り出したが,結局これも敵の猛襲に会い,食料の不足している飢餓の島へ,十分な食料の補充も行い得ないまま,人員の補充のみが行われ,悲劇の上塗りをしてしまった。輸送船団の被災により,アメリカ軍との軍備の差が更に増すとともに,原料調達力と生産力の差がいよいよ激しく日本側を圧迫していった。 退きたくても意地でも退けない,そんな陸軍の状況をみかねた山本五十六は,『撤退断行のほかに結論なし』と大本営に具申した。正直なところ,その山本の具申には陸軍首脳部も,ほっとしたのではないか。でも,そこに至るには余りにも多くの犠牲が出すぎた。そして,このような状況において,現地の兵員達は撤退を良しとするのかも問題であった。ここまできたら,飢え死にか,玉砕覚悟の特攻か,そんな選択を迫られているギリギリの状態で,撤退という言葉に飛びつき得ないというのがこれまでの犠牲者と,陸軍参謀達に対する無言の抗議であったのではないか。 投入総員3万3千人のうち,戦死1万4千600人,戦病死4千300人,行方不明2千400人という同胞の犠牲がガダルカナルという一小島で起こった事実である。ここは,日本陸軍の哀しい墓地の一つであった。
2012年04月28日 | コメント(0) | 日本史 | 読み終わった (2012年04月28日) |
山本は『戦争にせよ,賭博にせよ神様が喜ぶことでは決して無い。したがって正義がこちらにある時は,止むにやまれぬものとして天佑があるだろう。その天佑も信じられないような戦ならば全作戦を放棄するのが良い』と考えていた。逆にこのように考えた上で,大艦巨砲主義の思想が中心だった日本の作戦から抜け出し,航空機が海戦の勝敗を決定するような戦のやり方に日本の戦争のやり方を変えていくべきだと主張し,そうした技術を短日月の間にマスターすることを本部に求めた。 山本は決して無謀を強いるような人ではなかった。青年士官が特殊潜航艇での真珠湾強襲を申し出た時,その内容を一目見て却下した。それは航行時間は五時間だったからだ。これでは襲撃した後,帰って来れない。これは必死兵器だった。山本は戦争だから人の道を踏み外してよいというものではないと考えている。生と死はそれぞれの覚悟の上では紙一重かもしれないが,戦争は断じて自殺であってはならない。指揮者として,そのようなことをさせたら,武士道に反する。故に,『それを命じることは出来ない』と,何度も退けたが,航続時間を十六時間に増大させたことと,青年士官の純真一途な真剣さに負け,これをようやく許した。当然,帰還可能という計算の上での許可であった。 明治維新を成し遂げた子孫として,この戦争を起こしたことは決して褒められるものでもなく,戦争に踏み切ったこの子孫達は彼らから見てとても懸命な子供たちではなかったかもしれないが,維新以来の国防国家的な特異性の中で育てられて来た子供たちが,白人文明のゆがみに腹を立て,まなじりを裂いて決起したとしても,それを責めることは決して出来ないだろう。一切の不正と戦い,正しさのためには敢然死を恐れるな,と教えてきたのが明治維新を成し遂げた彼らの祖父母・父母であったからだ。その子孫たちに対し,宣戦の詔勅は昭和16年12月8日午前11時45分に発された。 戦争の勝利国から,日本の戦争指導者たちは,ことごとく人道の敵という名を冠せられて裁かれたが,それを裁く側の国民の中にも,それはおかしいという人も当然あった。その証拠に,米国内からもルーズベルトやハルのとった日米外交について多くの批判がなされているし,この裁判に臨んだインドのパル判事は,ハル・ノートを『こんなものを突きつけられたら,モナコでもルクセンブルクでも宣戦せずにはいられなかったろう』と酷評し,日本の無罪を主張している。 真珠湾攻撃と同時に,陸軍はカンボジア国境からタイに進攻した。バンコクでのタイ人の日本人に対する感情は親近感を示すというものだった。それは,彼らも長い間,白人優越の世界に住み慣らされ,白人には敵しえぬものと劣等感を脳裏に刻み付けられていたものに対し,黄色い皮膚の日本人が白い皮膚に勝ったのだということからだった。東南アジアでは,ハワイに勝ち,マレーでイギリス軍を追い払った日本人に対し,現地人の見せる笑顔は底抜けに明るかった。著者自身もマレーに渡ったらしいが,そこでは限りない友情を示してくれたという。 そんな日本の進出をイギリスも黙って見ていたわけではない。不沈戦艦プリンス・オブ・ウェールズ号を,イギリス海軍中,最も有能の誉れ高いトム・フィリップが率いてやってきた。1分間に6万発の火器を装備しており,それがこの巨艦をつつみこみ,飛行機は近づけないという対空砲火の装備を誇っているのだ。しかし日本軍もこれを海上に誘い出し,爆撃機隊が狂ったように食い下がり,誰もが生命の危険など全然考えることもなく,ただ,白人許すまじという思いを胸に弾幕の中に急降下していった。それにより,ウェールズ号は海底へ沈んでいった。マレー沖海戦である。 シンガポールはイギリス軍が過去一世紀にわたって東南アジア経営の策源地として利用して来た大要塞であった。ここがある限り,香港につながる中国大陸も,マレー諸島も,ビルマ,インドも英国を敵として立つことは思いもよらなかった。これに戦を挑んで,占領するものが現れようとは思いもよらなかったろう。当のイギリスも,そして,現地人もだ。そのシンガポールを目指して,日本軍は南下して行く。 途中ではイギリス・インドの混合部隊と衝突し,これを破りつつ進む。英兵2割,印兵8割の混合部隊であり,インド兵は続々と投降した。これらの降伏兵は,後にインド解放軍を組織した。日本軍がイギリス兵を破ったと知ると,ニコニコと日本兵に笑いかけてきたという。 マレー上陸から,シンガポール対岸のジョホール・バルの占領までに要した日数は55日。東京下関間に相当する1100kmの距離を突破するまでに,92回の激戦を繰り返し,破壊されていた250の橋を架けなおしている。これは毎日2回の戦闘をしながら,5つの橋梁を修理して勝ち進んだということだ。ただ,マレーの占領だけでは戦略的な意味を成さず,ジャワ・スマトラの南岸一帯の石油・ゴム・すずその他の戦略物質の確保が目的であった。 山下奉文というマレーの虎と言われた男がいる。マレーの虎は別にいたマレーのコタバルの残留邦人の谷豊という青年親分のことだったが,いつしか,山下の呼称に変わっていた。山下は総司令部とは反りがあわず,戦場を転々とさせられていた。山下は皇軍として,常に厳しい軍紀と犠牲を指揮下の部隊に要求し,同時に自分にも課していたにもかかわらず,そんな山下を司令部は変わり者の頑固者とでも考えていたのだ。 シンガポールは東西38km,南北22kmで淡路島より小さい。その島が近代設備で完全に武装化しており,島への橋も一箇所のみだ。ジョホール・バルとシンガポールの間を隔てる水道の幅は700m程度。そこには蟻一匹も通さぬほどの厳しい監視がついている。したがって,ここは奇襲などはありえず,水際の血闘にどれだけの犠牲を投入して闘魂を競うかにかかっていた。山下は霧の中,弾雨の中,そして夜間絶えまなく猛攻を加え,そして猛攻にも堪え,遂に無条件降伏を勝ち得た。それは,奇襲でもなんでもない戦いで,初めて有色人種が白色人種に刃を向き,屈服させた時でもあった。ただ,これに勝ちを得たときも山下は勝利に酔いしれることはなかった。また,シンガポールへの入城式はせず,主力部隊はシンガポール市街地へは入れなかった。兵たちからは不満が出たが,順次,市街地見物をさせてやり,これを抑えた。憎悪の生々しいうちに勝者を市内へ入れると,必ず大騒動がおこってゆくことを封じたのである。この時の山下の頭の中には,いつこの戦の終止符をうてるのだろうかということのみが占められていた。それは,現場指揮官の山下が考えることではなく,司令部が考えることだったが,山本五十六も同様に感じていたことであった。支那事変を終わらせるにも,米英からの援蒋路を断つ事が必要であり,そのためには,重慶からタイ,ビルマの方向を日本が封じることとが必須だった。 フィリピンも宣戦布告からすぐに戦場となった。12月10日には島北部から上陸が開始され,首都のマニラに向けてひたすらに南下した。航空部隊と連携し,制空権を開戦3日で得て,意気揚々としていた。が,ここで思わぬ戦略的なミスを司令官の本間がしてしまう。本間は山下のような猛将型ではなく,理論的な,欧米型の文化的知的司令官であった。師団同士の競争があることもしらず,お互い協力せよといった,聞けばすごく真っ当な命令をして,2方面からマニラに向けて出発させた。しかし,師団同士は,お互いに我先にと一番槍を目指して,他の師団を頼る事などしないのだ。お互いの連携もとれず,結果は無残な全滅となってしまった。マニラを守る敵将はマッカーサーだ。マッカーサーは多方面から攻められることを恐れ,兵力を集中させ,援軍を待つ体制ををとった。そこに地理的にも全く無知な日本人が,現地人も足を踏み入れたこともないようなジャングルを抜けて攻め立てようとした。が,そのジャングルには未知の生物,未知の地盤,未知の気候など,人間との戦争ではない様々な苦難が待ち構えており,これを抜けることはほぼ不可能で,そのほとんどが,餓死してしまったという。そもそも日本には米英と戦う意志など元からなかったため,敵側の戦力の分析や地理的調査も全くしていなかった。この事は,その後の太平洋の各地の島々で展開された陸軍側の玉砕に多かれ少なかれ必ずつきまとって,悲劇の原因となっている。 進んでも死,止まっても死,退いても死という場面が戦場にはしばしばあった。そうした場合,,不思議なほどに果敢に前進するのが日本兵の常であった。『天皇陛下バンザイ』という時の”天皇陛下”と言う言葉には,指揮官でも,権力でもなく,そんなこととは無縁な宗教的な救いの対象であった。 バターン半島に引き下がり,日本軍に勝利を続けるアメリカ軍は,その他の戦況がよろしくないため,この勝利を最大限に宣伝し利用した。とにかく,日本軍の第1次バターン攻略作戦は失敗であった。しかし,退却を転進などと言い,司令部などは,自分の失敗を認めまいとしていた。それが,次の攻撃に際しては,日本軍の面目に賭けてもバターンの敵を撃滅しようと,たぶんに感情的な戦に導いてしまうのだ。日本としては,各所で勝利ををおさめている現状では,フィリピンの敗北は極めて屈辱であった。そして,日本は,これまで侮っていたフィリピン攻略にようやく真っ当な戦力を投入して行く。人員と銃砲火器を充実させつつ,徹底的にバターンに攻撃をかけていった。すると,戦況もかわり,次々と投降者が出てくるようになったのだ。しかし,その捕虜となった数は,住民も加え,日本軍の4倍までも膨れ上がり,日本軍3万に対し,捕虜12万という様相となってしまった。勝った瞬間から,計15万の人間を養いながら保護して行かなければいけない責任を転嫁されたのだ。日本兵がどんなに知恵を絞っても,その飢えに対処することは不可能に近かった。難民を見ると黙っている事が出来ない日本兵達であり,ある者は乾パンをわかち,ある者は水を,ある者はタバコをとするうちに,日本兵もすっからかんになる。子供たちの頭を兵隊たちは撫でてやっていたと従軍記者は記している。きっと,故郷の事が思い出されているのであろうと。しかし,これが戦後,バターン死の行進と報復喧伝され,善良な兵隊たちまで,残虐な鬼畜であるかのように印象づけられ,責任者である本間中将を銃殺させる結果となった。 従軍記者は,敵側戦力はアメリカ兵とフィリピン兵で7万近くにもなるのに,なぜ戦おうとしなかったのか,武士道として非常に腹ただしい思いに駆られたという。兵隊の勇敢さには面食らうほどの差があったのだ。日本側は兵隊自身が自身の力で戦っているのに対し,アメリカは武器,食料,その他の戦場条件で戦っているということだった。それだけ彼らが近代人だったということかもしれない。これら条件の一つが欠けても戦おうとしなくなるアメリカ兵を,アメリカ側はすばらしい英雄のように宣伝し続けた。日本の将兵達は,必要以上に腹を立てたのもこのためであろう。だが,日本兵は,戦が勝利に終わると,すぐまた人の良い日本人にかえるのだ。過去を水に流してしまうのだ。出来る限りの救済の手段を講じたのに,戦後に至って死の行進と喧伝されたのでは無念を超えて,憎悪にも似た感情を抱く。日本側にいくぶんの落ち度があったとすれば,軍司令部の幹部たちが自ら率先して俘虜をすくおうとせず,次の戦場であるコレヒドール島に向かって激しい戦意を燃やしていたことであったろうが,捕虜を可能な限り,日本人と区別することなく一緒に生きようと歩いた行軍を,死の行軍だとはいったい誰が言いだしたのか。 バターンを失ったアメリカは戦力をコレヒドール島に集中させた。ここも難攻不落と宣伝され,アメリカは意地でも守り抜かなくてはならない橋頭堡となった。バターンはフィリピン人が大半を占めていたが,コレヒドール島はアメリカ人のみが守る島であった。そういう意味では,日本側の闘魂もコレヒドール攻撃に燃えたたさずにはおかなかった。日本側の集中砲火と決死隊による攻撃の前に,アメリカが不落を喧伝していたコレヒドールは,上陸作戦を敢行してから1日足らずで落ちてしまった。フィリピン,タイ,マレーに続き,同程度の武器を持って相対すると,日本側が圧倒的に勝つのだという思いがここでも強くなっていった。 太平洋戦争のそもそもの原因は,日本側に関する限り,アメリカによって禁輸された石油の獲得戦争であり,タイ,マレー,フィリピン攻略もその目的は,攻略と言うより,その地域の安定確保いわゆる,蘭領印度という石油資源地帯への進出確保であった事は言うまでもない。蘭領印度とは現インドネシアであり,ここの軍司令官はフィリピン攻略の本間雅晴中将と同期生であった陸軍大学校の今村均中将だった。今村中将は,坂口支隊を先遣隊として送り込んだ。ボルネオは世界第3位の大きな島で,わが本土の約3倍で,そのほとんどがジャングルだ。これへの用意がされていないと,いざ戦いとなっても,敵と戦わずして敗北を喫することになる。そこで,開戦に先立つこと3週間,坂口は11月19日には門司を出発し,パラオ諸島でジャングル突破の猛訓練をしてからボルネオに向かったのである。兵隊たちは,訓練のおかげでジャングルを恐れなくなり,ボルネオの対岸の島のジャワ島攻略に大きく貢献した。人生では,知ると知らぬの差は,そのまま自信と恐怖の差になることを忘れてはならないだろう。そして,ボルネオ島に渡った坂口支隊は,ジャワ海に面したバンジェルマシン市に到着し,これを落としいれ,ジャワ攻略の橋頭堡を得たのである。 ジャワ島の攻略においても,現地人は日本人に対し友好的であった。どうも日本人を救世主と思っていたようだ。3百年前,インドネシア諸島の王達は,オランダの侵略に対し,独立を失ったわけだが,愛国の志士たちの間で”やがて救いは北からやってくる”という語り伝えが残っていた。それはおそらく,戦国時代に渡航して交易をしていた日本の武士・商人達が吹き残してきた法螺であったかもしれないが,それが幸をそうし,日本軍に非常に好意的だった。このようなことが,オランダ軍の士気にも影響し,また,日本の兵力を見誤ったのも幸いし,インドネシアも日本軍が占領するところとなった。
2012年04月23日 | コメント(0) | 日本史 | 読み終わった (2012年04月23日) |
井沢 元彦
本 / 小学館 / 2002年10月 発売
第10巻は信長についてだ。 権力を確立するために欠かせないものは,人事権と賞罰権だ。また,人事が名実ともに行われるためには,その担保となる強制力,すなわち軍事力がなければならない。軍事力と賞罰権があれば,一応政権はできるが,あともう一つ,権威(正統性)があれば完全なものとなる。信長と足利義昭の関係は,まさにこの権威を得んがために信長が義昭を手元においたのだ。 また,宗教についても触れている。ユダヤ・キリスト教の造物主信仰では,神以外のもの全てに,何か超自然的な存在を感じること,すなわちモノに対する臨在感を否定している。それを徹底させれば,偶像(人間が作った神の姿)を拝んだり崇めたりしてはいけないという偶像崇拝禁止となる。これがイスラム教である。だから,イスラム教徒は偶像崇拝禁止を徹底していないキリスト教を神の真意を十分に理解していない不完全な教えだということになる。逆に,我々日本人は,造物主信仰(世界の全てのモノが神によって作られた)という信仰はない。だから,むしろあらゆる臨在感を全て認め,全てのモノに神が宿っているという考え方をする。だから神社にはご神体があり,ドクロにも霊を感じる。八百万の神というのもそれで,8百万もの神様がいるのではなく,あらゆるところに神様がいるということだ。この西洋と日本の中間が儒教である。儒教では来世を問題にしない。人間は生きているうちに何をしたかが全てであって,たとえば天国に生まれるために(来世のために)良い事をするという意識がない。かといって,全く道徳心がないと言う意味ではなく,君主への忠義のために死を選ぶ事もある。これは儒教への殉教になるが,イスラム教の殉教はあくまでも来世のために行うから意味が全く違ってくる。日本は伝統的にどんな悪人でも死んでしまえば霊となって神になると言う考えだが,中国では,これは極めて違和感がある考え方だ。彼らは悪人は永久に悪人で,歴史的に復権する事はまずない。毛沢東のようなカリスマ的な指導者でも歴史の再点検でも言いださない限り,悪人は悪人なのである。 信長は宗教弾圧をしたことがない。本願寺との争いはあくまでも武力反抗に対して叩き潰す必要があったのだ。だから,信長は本願寺から武力は奪ったが,信仰は奪いはしなかった。また,信長は本願寺側の先制攻撃や奇襲攻撃を受けても,本願寺側が講和を求めてきたときは必ずこれに応じている。自ら申し入れた講和を破って常に信長をだまし討ちしたのは本願寺側である。 また,信長は義昭を権威の肩代わりにして保持していたが,まもなく,自ら権威を手に入れようとする。それが,まさに信長が神自身になろうとした所以である。その権威を否定できるものが日本に2人いた。それが,本願寺顕如と天皇家であった。これをいかにしていこうかというのが,信長の最終的な目標であった。日本の歴史上,天皇という存在と一切無縁の最高政治権力というものは実はなかった。藤原氏も天皇から関白に任ぜられ,平将門も八幡大菩薩(応神天皇)のお告げで新皇となったし,頼朝も天皇から征夷大将軍に任じられた。信長と天皇は対立関係にあったと言って良い。ただ,信長も天皇を滅ぼすことはなかった。それはやはり信長も日本人であり,タタリを恐れての事だったろう。タタリのバックボーンになっているのは怨霊信仰であって,その祭司ともいうべき天皇家を滅ぼすことは極めて反動が大きいと予想し,信長も手を付けなかったのだろう。勝負を避け,敬遠策を採用したのだ。
2012年04月21日 | コメント(0) | 日本史 | 読み終わった (2012年04月21日) |
まず,本書を読み始めるのは非常に腰が重たかった。9冊というボリュームだし,歴史小説と言うには余りにも近代は近すぎたためだ。しかし,前書きを読み始めたとたんにそんな考えは吹き飛んだ。現在の太平洋戦争についての常識は,アメリカ人がこしらえたものだ。日本でそのときに何が起こっていたのか,日本人が何を考えて戦争へと突入したのか。現在の日本人として当然知っておくべきことであり,間違った見解を他人・他国の人が言った場合,それはきちんと正して行くことが,日本のことを思い散って行った人たちに対する,残された我々の義務なのだと。それがないと,やりきれない。私の祖父の兄弟2人も太平洋戦争で亡くなった。海軍と陸軍でだ。そんなに近くに戦争の犠牲者はいるのだ。戦争で亡くなったおじいちゃんの兄弟に対し,戦争の真実を知ることが私にとっては義務である,そんな思いに駆り立てられた。通常,私の歴史小説備忘録は,数巻の長編でも一つの備忘録に集約するが,今回は,1巻ずつ丁寧にまとめていこうと思う。 殺人は平時において最大の悪行である。が,戦争では,それが堂々と行われる。それも,殺しあう人々の間では直接何の怨怨もないと言うのに国家の名で堂々とだ。その殺人の量が功績となり,忠誠心を計るバロメーターとなって勝利者が決まってゆく。そのような不思議なルールの現実について,従軍経験のある著者の山岡氏は納得が出来なかった。日支事変を泥沼へ追い込んでいるものは,近衛首相や東条首相でもなければ蒋介石でもない。日支の代表者である両者が握手しそうになると,列強の間の見えざる手が動いたり,原因不明の不思議な事件が突発したりして戦線は思わぬ方向へ拡大する。前者の主役はアメリカとイギリスであり,後者は世界の赤化を目指すコミンテルンの手が動いている。それを解決して行くということは,そのまま,アメリカ,イギリス,ソ連を敵に回して戦わなければならないということと同義であった。 山岡氏は三十四歳の時,徴用令書を受け取っている。家を出るときは,自分の位牌を仏壇の隅に隠して行ったらしい。自分で自分を殺してゆけば気が楽だとでも思ったのだろう。そんな山岡氏が復員した中で一番辛かったのが,占領軍が日々ラジオで語りかけてくる「太平洋戦争の真相はこうだ!」という独善放送だった。日本国民がいかにして巧妙に大本営や軍部に欺かれ,踊らされていた愚民であったかという放送が,これでもかというほど続けられた。連合軍側は全て正しく,日本の散華者はみな犬死という,ありえないような戦争が日本民族の手で強行されたと言っても誰も信じるものはないが,しかし,それに関する反論の仕方さえわからないのではこの独善放送や戦後の誤った史観に対し,批判の仕様がない。山岡氏が十年間に渡りこの小説を連載していったのは,何のためにこの戦争は起こり,どのような結果を辿って敗れたのか,その粗筋だけでも読みやすく書き残しておくことが従軍した責任でもあったと綴っている。 日本と蒋介石が提携し,緊密化して行けば一番困るのは自由主義世界の諸国ではなく,アジア赤化を目指す勢力のはずであった。両者の間に紛争を起こさせるのは赤色革命の常道であった。盧溝橋の最初の撃ち合いは日本側の発砲でも蒋介石側の発砲でもなく,赤化勢力の仕業だった。にもかかわらず,日本側は蒋介石に挑戦されたと勘違いし,蒋介石側は日本軍に挑まれたと誤解した。近衛内閣の外相松岡洋右は,日支事変の解決には3つの大きな障碍があると近衛に語った。一つはコミンテルンの日支赤化方策,一つは日本にも蒋介石にも適当に干渉し適当に威圧を加えながら双方へ軍需物資を売っている米英両国の商人たち,そしてもう一つは,日本の内部における少壮軍人の下克上であると。 ただ,松岡外相も,今となってはアメリカの仲裁によるほか支那事変の解決の手段はないと考えた。アメリカがその気になれば,援助物資を断たれるのを恐れて,蒋介石もいやとはいえないだろうということだ。そして,日本もアメリカに首根っこを押さえつけられている。日本が今まで支那で戦い得たのは,アメリカの供給するくず鉄と石油のおかげだったからだ。松岡の目的の全ては,アメリカの仲裁による日支の和平であり,日米戦争の回避であった。 そんな日本の周りには,ソ連のスターリン,ドイツのヒットラー,アメリカのルーズベルト,イギリスのチャーチル,支那大陸の蒋介石がおり,世界の勝負は5人の男に握られていると言っても良かった。この5人の動向をいち早く・確実に掴むことが,国を存続させていく最低で最大の条件であった。米英は既に,支那事変からはっきりと日本の敵に回っている。米英が蒋介石を援助しなければ,とうに事変は解決していることを誰よりもわかっているのも彼らだ。その意味では,当時の支那軍は,米英とソ連の傭兵のようなものだ。支那軍は,ソ連と白欧主義の武器を持たされて,彼らの戦略のために同種の日本人と殺しあいを演じている。ソ連は日本と支那を戦わせ,双方を疲労のどん底に突き落とし,そこに共産政権を樹立して支那も満州も日本も一挙に赤化併呑しようというのが狙いだった。米英もそうしたソ連の方針は悉知しているし,やがてソ連が米英の前に立ち塞がる敵ということも分かっている。だが,彼らは白欧文明の支配者意識におごりきり,日本がやがて彼らの大切な協力者に育つのだと言う一点に目を塞ぎ,思い上がっている軍部を懲らしめるために正義感を燃やしていたのだ。もし,日本が滅び去ったら,ソ連の赤化は成功し,米英の自由は最大限に脅かされるということを見落としていた。 ルーズベルトの懸念と言えば国内の戦争反対の圧倒的な世論であった。彼は3選という異例の大統領選挙中に,皆さんの子供は戦争に引き出さないと公約もしているのだ。だが,当選後は彼は蒋介石に武器援助を開始した。こんな彼が日本に好条件で握手しようと言う提案を持ってきた。これを松岡外相は,アメリカにそんな意志はなく,単なる時間稼ぎで,出来れば会戦の口実を日本に作らせようとする罠であろうと,提案受け入れに前向きな近衛首相につっかかった。結局彼は更迭され,日本はまんまとアメリカの策略にはまって行く。戦時の指導者と国民ほど皮肉なものはない。誰が巧に国民を欺いて駆使し得るかにかかってゆく。ただ,この場合の国民欺瞞はそれを”勝利”に繋ぎ得れば救国の英雄とされ,”敗北”の側に回ると,哀れな最期を遂げざるを得なくなるのだ。 日本はアメリカに欺かれた。日本はアメリカに屈服すること無しに何事もなしえない属国のようなものだとアメリカはたかをくくっている。彼らはただ日本を激昂させ,日本から開戦の口火を切らせ,アメリカ国内世論を戦争に向かわせれば良いと考えているのだった。 そんな中,ドイツがソ連へ侵攻する。ドイツ軍の快進撃に,陸軍の少壮分子は世界中をドイツに取られてしまうと声を上げる。そんな声に押されて,南部仏印(第二次世界大戦下におけるフランス領インドシナ)に侵攻する。それをきっかけに,アメリカは日本の在米資産を凍結し,石油輸出もストップした。これで,戦争になれば1年から1年半で石油貯蔵がなくなるという事態に陥ったのだ。アメリカと戦って勝算があるのか,天皇が軍令部総長の永野にご下問した。永野は,座して屈服するわけに行かず,ほかに活きる道はないと言ったようだ。天皇も,それではこれは捨て鉢の戦ではないかとおっしゃられたという。天皇は日米開戦に絶対反対なのは明白な事実だった。日本人にとって,天皇と皇室は絶対であり,道徳そのものだった。御前会議でも天皇の意志は戦争に反対なのは明白であったが,専横を恐れ,小心で律儀な政務家の近衛の決断力のなさが,戦争を止めることが出来なかった一因でもあるのだろう。 そんな公卿首相に東条は『人間はたまに清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要ですよ』と言った。この言葉が,後々まで開戦の決意を促したとして,東京裁判でも問題になったが,東条は,必ずしも開戦の決意を迫ったのではなかったのではないか。天皇の意を汲み取り,戦争してはならないときっぱり言うべきだと言いたかったのではないか。 東条は,総理の煮え切れなさに腹を立てて言う。日本軍が満州から退き,防共駐兵を譲ると,支那全土は瞬く間に共産軍に占領される。これはアジアを赤化するかもしれない重大な問題だ。防共駐兵を譲れば交渉が妥結する確証があるなら別だが,確証はないと。東条はここで,開戦も止むを得ずと思うとも発言した。東条は確信していた。開戦を回避することは困難であると。アメリカ側に有色人種も含めて真に平等にものを考えていく習慣はまだ全くない。地球は白人のためにあると。日本がどれだけ良心的であろうと,戦を避けようとしても無駄であると。 その東条は,元首相7人で構成される重臣会議で首相に推薦される。陛下の意志には身を挺して主旨に沿うし,軍部の信用もあり,外交交渉の折に陸軍の少壮分子の主戦論を抑えることが出来ると。東条が首相に推薦された理由は他にもある。それは,責任回避の空気だ。みなが戦争は回避したいと思っている。でも戦争は回避できそうもない。その責任者にはなりたくないのだ。そんな感じだから,政府はあっても無政府状態となり,結局は責任ある行動がとれず,戦争に流れていったのかもしれない。これも開戦となった大きな理由の一つだろう。 しかし東条は天皇の意志が戦争回避にあるなら,それを貫こうとする。首相指名を受け,閣僚の人選に移るが,陸軍内の戦争へ向かって付き進むような閣僚推薦名簿には目もくれず,自分で人事を決めた。そして,陸軍の発言を抑えるために陸軍大臣と,警察権を手中にしておくため内務大臣を兼任した。 アメリカの思いは,日本もまたアジアのヒットラーであるということだ。その中心勢力は軍部であり,最後にはこれを叩きのめして懲らしめてやることが彼ら白人の言う正義のために絶対必要だと言うことだった。従って,日本が絶対服従の答えを出すのでなければ無意味と言うことは明らかだった。日本は様々な外交を駆使し,また,譲歩案も持参し,平和に努力した。中国における日本の地位さえも犠牲に共しかねまじき態度を示した。しかしアメリカは日本を許さず,またただ許さないだけ出なく,まず日本に最初の一発を発砲させることのみに苦心した。こんな状況下におかれて,日本人はどうすればよかったのだろうか。現に,インド,ビルマ,マレー,ジャワ,カンボジアなどは米英の支配の下で見るも無残な奴隷生活を強いられている。日本人はそんな現実を知っており,座してそうなるか,一縷の望みを胸に戦うのか,ぎりぎりの選択を迫られた。そんな極度の緊張を強いられることで,明治人の性根が再び頭を出してきた。日本国内では,直ちに開戦せよという声が国民大衆の声にまで膨らんできていた。 日本が開戦することを決意したのは,ルーズベルトの世界政策であったが,日本側で天皇はじめ,東条,などの平和の希望を一挙に吹き飛ばしてしまったのは,実は白人支配の地上の不合理に気付いて,外交交渉を行う前線と一つになって激怒した民衆の声であった。 ここで,山本五十六という,現連合艦隊司令長官の登場である。山本は日本海軍の使い方としては,独伊への奉仕に使うのでは,米英への奉仕に使うのとなんら変わりはない,白人利己主義から人類解放という全有色人種のために日本海軍は使うべきなのだというのが持論があった。ただそんな思いももはやこんな段階になって言っても仕方がない。挑みかかられれば,職責を果たすのみであった。 黒船来航以来,明治維新の根本には和魂洋才の思想が根を下ろしていた。独立を保持せんがために彼らの文明を吸収するのだと言う強い意志があった。それに対し,はじめはアメリカも同情の念があった。しかし,ロシアの抑え手である日本は好もしいが,アジアの強国になる日本は好もしくなかったに違いない。日露戦争の折にはアメリカは日本を応援したが,日本海海戦における日本軍の大勝利を見たとたん,急にこれを恐れて大西洋艦隊を回航してまで日本海軍を威嚇したりしたことでもそれはわかる。これを見た山本は日米対立は遠からずくるものと想定し,大艦巨砲時代から航空兵力の充実を提唱した。それに伴って飛行機の国産に乗り出し,上昇力・戦闘力ともに世界の目をみはらせた零式戦闘機が開発したのである。ただ,これらが悪循環し,アメリカは日本を,日本はアメリカを仮想敵国とし,太平洋での熱戦を展開しなければならなくなった。ここはしっかりと歴史の教訓として覚えておかなければならない。 一旦開戦となれば,日本陸軍はまず東南アジアに進出して,アメリカの売らなくなった石油の入手を計らなければならない。そのためには,陸軍の策戦海域にアメリカ海軍の出動を許してはならず,それを許さぬためには真珠湾に出てきているアメリカの太平洋艦隊主力に壊滅的な打撃を与えておかなければならない。これは小学生でもわかるようなことである。それをアメリカは予想できず,真珠湾を奇襲されたと言う。おかしなはなしではないか。 1941年12月8日の決戦前夜はどのようであったか。11月27日のアメリカのマーシャル参謀総長は,ハル・ノートに示した白人第一主義とも言うべき要求を日本が受諾する可能性はほとんどないこと,そして,その結果日本から先に敵対行動に出る事を期待していること,その際のアメリカ側の策戦計画も出来上がっていることをカリブ海の基地司令官宛に発していた。また奇襲の2時間余り前にも,ハワイ・フィリピン・パナマその他の前哨基地に特に警戒するよう打電している。これは,もはや奇襲とはいわない。アメリカ側から挑発した戦であり,彼らが日本にまず第一発を打たせる事によって自国の民衆を第2次大戦に参加させようとして,営々と苦心を重ねてきた結果なのである。日本が平和に解決せんがために様々な妥協案を提示したにもかかわらず。 そしてその時はやってきた。まだ世は明け放れず,月も落ちきってはいない時間に戦闘ラッパは鳴り響いた。有色人種の最初の反撃だ。ここ数百年,思うままに地球支配を続けてきて,次第に良心を麻痺させていった白人たちへの最初にして最大の警告だった。ただし,どんな場合にも非戦闘員に銃撃を加えたり,一般市民の頭上に爆弾を落としたりして日本人の名誉を損ずることのないようにという訓示は徹底されていた。結果として,真珠湾攻撃では,真珠湾の隣のホノルル市街地には何の被害も無い。後のアメリカの日本都市の無差別爆撃や原爆投下のような一般市民を巻き込みはしなかった。日本人の誇りとして。 なお,備忘中の言葉は小説の記載によりました。
2012年04月16日 | コメント(0) | 日本史 | 読み終わった (2012年04月16日) |
浅田 次郎
本 / 文藝春秋 / 2011年01月07日 発売
新選組の三番隊組長 斎藤一の物語。浅田次郎お得意の本人の語り口のパターンだ。歴史小説はすきだが,あまりこの調子のは私は好まないのだが,斎藤一という新選組でも一種独特の孤高の剣士というか,そんな人物を主人公に取り上げた小説は少ないので,読んでみた。 斎藤一は色々と名前を変えたが,藤田五郎というのが最後の名前だろう。維新後は警視庁で西南の役を迎え,後に東京高等師範学校の守衛,東京女子高等師範学校の会計掛となった。最後の方は,すごく意外だが,小説の中でなぜそのような道を進んだかだが,女学生は昔話をせがんだりしないからだったとも言う。 本書の題名は一刀斎であるが,その名を後ろから読んで欲しい。斎藤一である。 斎藤一は,もともとは山口一という名であった。それが上洛時,斎藤一と名乗り,伊東の元にいたときは山口二郎,会津での降伏後には一瀬伝八,斗南に藩もろとも移されたころから藤田五郎と名乗った。斎藤一が,山口の姓に執着しなかったのは,父祖代々の姓ではないからだ。斎藤一の父は苗字などない中間小者で,山口という御家人株を買って武士となった家だ。株を買うというのは面白いもので,山口某という侍の屋敷の住人がある日突然にそっくり入れ替わるのだ。そして,あくる朝には,同じ山口と名乗る見知らぬ人物が,『おはようございまする』と屋敷から現れ,勝手知ったるがごとくに登城する。むろんお城の朋輩たちも何食わぬ顔で入れ替わった山口某を迎えるというのだ。 著者の推論等も交えながら,話は進む。龍馬を暗殺したのは斎藤一だと。たしかに,少し考えさせられる。龍馬は額を真横に割られているが,斎藤一は居合の達人で左利き,ちょうど龍馬の額を横に割ることが出来る腕前だ。また,暗殺当時は伊東甲子太郎と行動を共にしていた。暗殺当日,伊東は龍馬のもとを訪れ,刺客に注意すべきと助言を与えているが,その用心棒という名のもとに斎藤を向かわせ,命を奪ったとも考えられる。 新選組は,内部抗争もいくつかあったが,その中で最たるものは,芹沢鴨暗殺と伊東甲子太郎離隊の件だろう。ただ,その2つの出来事で,新選組が割れたかといえばそうではない。近藤勇という心棒がしっかりとしていたので壊れるどころか,前にも増して一枚岩になったようなものであった。 乃木希典の話が上巻のはじめと,下巻の半ばに出てくるが,そこで,乃木の殉死について一刀斎というか,著者の思いが綴られている。乃木について,一刀斎は,馬鹿な奴よと一蹴している。乃木は一刀斎より5つ下である。馬鹿だと言う理由の一つは,明治天皇のお伴をする者がくどくどと己を弁ずる遺書をしたためた点。もう一点は,後始末をせねばならぬ妻を道連れにした点である。乃木は遺書に”明治十年の役に於いて軍旗を失い”と記している。何事であれ,己の死する理由を述べたのでは,殉死とは言えまい。また,妻は陛下の臣ではないのだから,夫に殉じたと考えるほかなく,勝手にそうしたことをされてしまったのでは,皇太后陛下や側室方も立場がなかったろう。一刀斎に言わしたのは,殉死そのものを非難したのではなく,思慮が足らなかったということを言いたかったのだろう。 一刀斎こと斎藤一が非常に暗く捕らえられてしまいがちなのは,何も一刀斎だけでない。暗殺という言葉には確かに陰湿で悪なイメージが付きまとうのはやむを得ないといえるが,そもそも暗殺者という者も,人間臭くはなりにくい。居合というのは,不意打ちの術であり,さらにこれを極めれば,不意打ちの機先を制して敵をたおすという,不意の上の不意を体得する。その域に到ったものは,耳目が獣のように鋭くなり,また,挙措動作の逐一が,静と動にきっぱりと分かたれ,およそ人間らしい曖昧な動きをしなくなる。寝ていても起きていても,立っても歩いても,全ての振る舞いが型にはまってしまい,人間臭く見えないのだ。 本書の大筋は,新選組の顛末を斎藤一という,ある意味新選組を外から見ていたような人物の回顧談のように進む。現存し,よく見かける土方の写真を,土方の親戚に届けた市村鉄之助と斎藤一の間のエピソードを軸にして話が進む。最後の最後は少し蛇の生殺しのような感じで終わる。どっちでもいいから,最後まで書いてと言いたい所だ。 全2巻。
2012年04月08日 | コメント(0) | 日本史 | 読み終わった (2012年04月08日) |
城山 三郎
本 / 新潮社 / 1984年07月 発売
終戦直前~自衛隊初期の話をまとめた短編集。 やはり一番読みたかったのは,硫黄島に死すだ。既に結論が見えている戦いに挑む日本人兵たち。負けると分かっていても,女々しい戦い方はしない。力の限り戦ってみるまでである。硫黄島は帝都守護の最後の防砦である。軍人として選ばれてその戦場に赴くことは名誉・光栄以外の何ものでもなかった。硫黄島への米軍の攻撃はすさまじく,島の最高地の摺鉢山は砲撃と爆撃で形が変わったと言われる。そこへ栗林中将を司令官とする日本軍が送られたわけだが,それ以上の増援部隊を送り込む余裕は日本にはもはやなく,唯一の応援といえば,毎夜1時間放送される「硫黄島将兵を激励する夕」で流れる軍歌,わらべ唄,家族の読む詩文であった。2月19日に米軍は硫黄島に上陸を開始し,3月17日には,日本国民の祈りもむなしく,2万人の日本人兵たちをが玉砕した。 特攻隊の短編も掲載されている。若き特攻隊士を育てる士官の中には,戦争の先が見えるに従い,14~5歳でしかない隊員を戦場に送り込まなければならないことに,疑問を感じる士官もでてきた。日本はとても勝てない,それより,何とかお前たちは生き延びて,生き延びることで祖国の役に立つんだよと,どれほど彼らに話してみたかったか分からない。そんな特攻残りの彼らを待っていたのは,頭脳労働者が生き延びれる世界だった。生き延びた上に恵まれた生活をしては申し訳ない。出世とか金儲けとか微塵もない世界で果てるのが許された生き方だと感じていた。生き残りは長生きしては申し訳ないんだという思いで生きてきたという。 その他,淡路島沖で敵機の攻撃に遭い,沈没した若き兵隊たちの話などが収録されている。
2012年03月22日 | コメント(0) | 日本史 | 読み終わった (2012年03月22日) |
久保田 競
本 / 大和書房 / 2011年09月10日 発売
三つ子の魂百までとかよく言うが,これは神話であり,三歳前後で脳の成長・発達が劇的に変わるとか,特殊な変化が起こるとかいったことは脳科学の世界では報告されておらず,科学的な根拠はない。 とはいえ,三歳までの子育てが脳にとって大事なこともまた事実である。しかし,三歳までが五歳よりも大事と言うわけではなく,本書では,そんな三歳から五歳までの子供の成長を手助けするにはどういったことに留意すべきかを記している。 脳を働らかせる時に必要な神経回路の元となるニューロン(神経細胞)は妊娠6ヶ月頃から作られ始め,ニューロン同士が繋がることで神経回路ができ,脳が働くようになる。このニューロン同士をつなぐ繋ぎ目がシナプスであり,シナプスは誕生直後から増え始め,生後八ヶ月から三歳ぐらいの間に密度が最大になる。シナプスは増やすだけではだめで,脳に刺激を与え,体の様々な部位を動かさなければ神経回路は繋がらない。二歳から三歳半頃までは,感覚刺激に対する反応が非常に良くなるため,この時期に適切な感覚刺激を与えないと,反応が鈍かったり,刺激をうまく受け入れられなくなるという。誕生から三歳までの時期は,とにかく適正な刺激を与え,脳の容量を増やし,神経回路をつなぐことが必要なのである。 三歳から先は脳はどのように変化するのだろうか。ニューロンやシナプスは今までのように劇的に増えることはない。これからは,神経回路をより蜜にすることが必要となる。さまざまなことが無駄なく,スムーズに行えるようにしていく訓練を毎日行うことが必要だ。この訓練が学習であり,絵を描き,本を読み,歌を歌い,指先を使う,外で体を使って遊ぶことが何より重要になる。本書ではこれらのことを学習と呼び,よく行う事が必要な学習について,以下の9つをあげている。 1.規則正しい生活習慣:生きるために最も大切なのは,脳が正常に機能すること。そのためには一定のリズムで生活出来ることが必要だ。毎日決まった時間に起き,食事をし,勉強をし,寝ることが大切。 2.歌う・踊る・演奏する:聴くことは,見る事,考えることより軽視されがちだが,聴力を鍛えないと,聞いたことが理解出来ない,理解するのに時間がかかって,コミュニケーションがうまく出来なくなる。そのため,歌って・踊って・演奏し,脳の広い領域を使いつつ,聴く力を養うことが必要だ。 3.絵を描く:5本の指を一本ずつ自分の思うように動かせるように,道具を上手に使い,新運動野という領域を鍛えることが必要だ。これはピアノを弾くことによっても同様に鍛えられる。 4.数字・文字を覚える:言葉だけ出なく,生活の知恵を増やすため,数字や文字に興味をわかせていくことが必要だ。まずは,好きな字や数字から無理せず少しずつやってみよう。 5.絵本を読む:ストーリーによって考え,想像する力を伸ばす。ここでは文字を読ませる必要はなく,絵を見ることで,知識を増やし,世の中のものに興味を持たせることが重要だ。絵本の中に書いてある絵と,実際にそれを街の中で見つけながら,知識を増やして行くことが良い。 6.外遊び:手・足・体を使って脳を鍛える。特に走ることが重要だ。走るためには,バランス,方向,タイミングが必要かつ,瞬時瞬時に判断することが必要であり,脳を鍛えるのに非常に効果的である。ボールを投げることも,走る事と同様に,どのくらいの力で,どの方向にといったように前頭前野が判断するため,脳と指先を鍛えることが出来る。 7.グループで遊ぶ:友達を通して,知識や経験を増やす。早い時期から友達を作り,楽しく活動できるようになった方が,その場で得られる知識や経験の量が増え,脳をより発達させることが出来る。そのためにも,なるべく多くの子供がいる環境に慣れさせ,そのなかで自分の居場所を見つけ,どんな子とでも会話が出来,一緒に遊べるようにしていく必要がある。 8.自分のことは自分でする:どこに何があるかを覚えさせ,きちんとした習慣を付けることが必要。習慣にするには,置き場所を決め,自分で片付け,そして,出すようにする必要がある。帽子やかばんなどは,幼稚園に行くようになると,いろんな準備をしなければならなくなる。靴をそろえる,ハンガーにかけるなど,親が見本を見せながら覚えさせて行く。 9.衛生習慣を身に付ける:外に出て,たくさんの人と触れ合うと,病気にかかりやすくもなる。病気にかかると,学習が遅れることになる。健康維持や予防対策もこの時期からきっちりと身につける。マナーや健康に関する基本的なことを覚えさせておく必要がある。 これら9つの学習について,ステップ1,2,3と徐々に上げていけるよう,例示しながら分かりやすく説明している。
2012年03月14日 | コメント(0) | 思想・哲学 | 読み終わった (2012年03月16日) |
本 / 小学館 / 2001年11月 発売
琉球王国の興亡・倭寇から戦国時代の始まり~信玄・信長までの話。 倭寇=日本人の海賊と思い込んでいたが,それは間違いだということを知った。日本歴史学の通説を集めた本とも言える『国史大辞典』において,倭寇とは,朝鮮半島を中心に展開した前期倭寇と中国大陸・南海方面を中心に展開した後期倭寇とがあり,後期倭寇の構成員の大部分が中国人で真倭と言われた日本人は10~20%であったとの記載がある。しかもこの時代の倭寇の最大のボスは王直という名の中国人なのである。 歴史には様々な視点があるが,そのなかの重要な視点の一つに『歴史は定住民と非定住民の抗争史である』と言うものがある。これを理解するのは難しい。というのも,非定住民の歴史というものが明確な形として見えないし,たまに見えたとしても,それは倭寇のような悪の象徴としてしか見えない。非定住民(つまり農業や工業に従事しない民)にとって,海こそ国家からの管理統制を逃れることの出来る真の意味での自由の天地だった。これは,海には非定住民の国家があったと言うことではなく(そういう発想こそ非定住民のもの),海はむしろ国家に縛られない人々の楽園であったということで,三島由紀夫の言葉を借りれば,『絶対の無政府主義(アナーキー)』なのである。 戦国武将の中で名将と呼ばれる人物には,一つの共通点がある。武田信玄,上杉謙信,毛利元就,北条氏康,今川義元 この5人に共通するものと言ってもよい。それは全員,金山か銀山を持っていると言うことである。名将の条件とは,戦争に強いことと答える人が多い。確かに間違いではないが,単に戦争に強いと言うことだけなら,関東の武将長野業政は信玄に負けたことがないし,真田幸隆の子昌幸も関ヶ原の戦いの際に,信州上田城において,わずかな手勢で徳川軍4万と戦い,一歩も引けをとらなかった。しかし,長野や真田は戦争に強い武将とは言われても,名将とは呼ばれない。やはりスケールが小さいのである。国人クラスだからしょうがないじゃないかといっても,元就だってはじめは国人クラスであるので言い訳にならない。戦争とは巨大な投資である。勝てば新しい領土や利権を獲得できるが,負ければ何もかも失う。だからこそやるには余程の経済力がないと無理なのだ。だから,名将の条件には財力があるということがあり,金山を持っている武将が歴史に名を残しているのである。これに対し,信長には金山を持っていないと言う点がある。それなのになぜ勝者になれたのかと言えば,皆さんご存知のとおり,金山以外の別の財源・商業財源を持っていたからである。 次に,信長が他の名将に比べ,大きく抜きん出たのは,目的を定め,具体的な計画を作成し,それを強烈な意志で実現するといったところであろう。例えば,信玄などは,川中島合戦などすべきではなかった。無駄な時間と労力を川中島で費やし,とりあえず自国の領土を拡張するということしか頭になかったと言うことである。だが信長は違う。天下統一と言う照準に合わせ,政治・軍事・外交の全てをその計画の元に行っている。足利義明の確保,京への通り道の北近江の大名浅井氏との婚姻政策,兵農分離などである。また,現代から見れば,野蛮・残酷の極致とも言える比叡山の焼き討ちについても,農民,商人,職人も,あの寺社勢力の横暴を何とかしてくれという意志を持っていたため,信長政権は支持を失わなかったのである。注意しておきたいのは,信長の目指したのは寺社勢力の武装集団,利権集団,政治団体としての解体であって,決して宗教そのものの弾圧ではないと言うことだ。比叡山を焼き討ちしても,天台宗禁教令は出していない。室町時代後期はあらゆる秩序が崩壊した混沌の時代であった。政府がどこにあるのか分からない。税金はとられるが,政府は何もしてくれない。物価は下がらず,一部の利権団体だけが巨額の利益を貪っている。正直に働くもの,能力がある者が決して正当な報酬を得られない そんな社会である。信長は,治安が守られ,産業が盛んになり,働く者は働いた分だけ正当な報酬が得られる社会に改革することを目指した。楽市楽座もそうだし,関所の廃止もそうだ。そういう改革を阻もうとする守旧派は必ず抵抗してくるから,それを排除するために対抗する武力がいる。その武力で抵抗を排除することを天下布武と表現したのである。
2012年03月14日 | コメント(0) | 日本史 | 読み終わった (2012年03月12日) |
永井 路子
本 / 文藝春秋 / 1988年08月 発売
父は草壁皇子,母は阿閉皇女(元明),祖父は天武,祖母は持統,弟は軽皇子(文武)という家系に育ち,持統から蘇我倉山田石川麻呂の血を引き継ぐ天皇の后として藤原氏と戦った氷高皇女(元正)の物語。 藤原鎌足が最も望んだという,自分の娘と天智天皇との結婚だったのだろうが,その夢を果たせぬまま死ぬ。天智系の皇子大友は壬申の乱で倒れたが,天智天皇の娘持統は天武の后であり,実の父を敵に回し,天武の世となるため共に天武と戦った。それは,天武のためというより,蘇我倉山田石川麻呂の家系を絶やさないため,倉山田石川麻呂の家系の女は天皇の后になるのだという誇り,倉山田石川麻呂を死に追いやった藤原氏への対抗意識からであった。 氷高は藤原不比等を政敵として戦うことになるが,その不比等の娘を,日高の弟軽皇子が娶ることから,世の中は混沌としてくる。軽皇子は即位して文武となるが,夭折してしまう。その後,後を継いだのが,氷高後の元正天皇である。これまでに例のない,未婚の女帝の即位である。時に三十六歳。最初の女帝推古が三十九歳だったのを除けば,歴代の女帝は全て四十代,それも妻であり,母であった。元正の即位は異例中の異例と言わざるを得ない。 不比等は政治的な腕力により,政界を不比等色に塗り替えてゆき,元正も都も平城京に移すことを余儀なくされるが,天武・持統の思いでの土地や寺を残していくことは何としても避けたく,薬師寺を平城の都に移すことを条件とした。今,平城京の地に薬師寺があるのも,命をかけて,元正や元正の母元明が藤原氏に移設を迫ったからである。そういった観点から薬師寺を眺めると,また違った感慨がわくというものだろう。 元正は不比等に対抗すべく,不比等亡き後の不比等の子・藤原房前と対抗するため,氷高と同じく天武を祖父に持つ長屋王とともに立ち向かう。が,房前や取り巻き連中にいわれない罪をかぶされて,自害に追いやられる。長屋王の変である。世は,元正から文武と不比等の娘宮子との子・聖武に移っており,聖武もはじめは房前を筆頭に,藤原氏を頼っていたが,長屋王の崇りとも言われる様に,房前をはじめ,不比等の四人の子は疫病に倒れる。これに恐れをなした聖武は,藤原氏と距離を置き始め,元正との仲直りや,自分の罪を償おうと事実上藤原氏の都である平城京遷都や大仏建立に意欲的に取り組む。 元正を最後に,石川麻呂の血は絶えることになるが,その誇りを汚すことなく誇りを胸に,元正は亡くなり,聖武と藤原光明子の子孝謙天皇が即位するのである。
2012年03月14日 | コメント(0) | 日本史 | 読み終わった (2012年03月14日) |
戸部 新十郎
本 / 光文社 / 2001年08月 発売
前田利春は織田氏に属して信用があった。織田家にも色々あるが,当時もっとも有力だったのが弾正忠と名乗る家系である。守護斯波氏の下に守護代織田氏がいて,岩倉織田と清洲織田の二家に分かれた。清洲織田家にはどうぞくの三奉行がいて,差配していたが,うち弾正忠信秀という者が他の二奉行を押さえて抜け出し,清洲織田家にとってかわり,尾張全体の織田氏を代表するほどにのしあがった。信秀はすなわち信長の父である。前田利春の属していた織田氏というのは,弾正忠織田家である。利家は利春の四男であり,天文七年の生まれで,干支が戊戌だったので幼名を犬千代といった。その容貌については,前田創業紀という本に『容貌端麗,幼にして穎悟聡敏』と書いてある。武将を語るのに,聡明さをうたうことがあっても,容貌に触れることはあまりない。当時の荒くれ大名のなかでは際立っていたのだろう。 天文二十年,犬千代は初めて信長にまみえた。犬千代の初陣は清洲三奉行の一人,織田彦五郎との戦である。そこで首級をあげ,信長は『お犬め』と鞍をたたいて喜んだと言う。この後すぐに犬千代は元服し,利家と名乗った。利家は那古野城下に一人住まいしだすが,その際,藤吉郎に出会った。藤吉郎はその時点ではまだまだ下賎の者だったが,藤吉郎を利家は友人のように扱った。老けて見えるがほんの一つ上にしか過ぎず,同世代の若者としか思えなかったのであろう。そんな利家二十一歳の時,嫁のまつがくる。嫁の歳は一二歳である。翌年には女の子が生まれた。 ある時,利家は,金の象嵌の笄(こうがい。脇差の付属品)を盗まれ,その盗人を捕まえた。成敗しようとしたが,信長の許可を得てからにしようと思い,そのように告げたたところ,信長からは勘弁してやれと答えが返ってきた。一旦は許したが,その後,利家は存外生ぬるいという噂が立ち,それを気にした利家は再びその盗人を探し出し,一刀のもとに切り捨てた。信長は怒り,成敗すると言ったが,側にいた柴田勝家などのとりなしで成敗は思いとどまり,代わりに長の暇が与えられた。その暇が,これまでは勇気や力一辺倒だった利家を人間として幅のある,また智も兼ね備えた武将へと育てていったのだろう。 そんな謹慎中の利家のもとには,勝家からは茶など見舞いの品が届けられた。藤吉郎は,勝家とかとは違い,身軽であり,顔も知られていないので,自分ではあまり飲めないくせに,酒を持ってきてくれたりしていた。 利家は,四男であったが,信長から目をかけられていたことや,嫡男の利久が凡庸だったことから,信長からの命令で,前田家を継ぐ事になった。 その後,桶狭間の戦い・長篠の戦いでの勝利など,破竹の勢いで天下統一の階段を駆け上がる信長だったが,まさに足元をすくわれる。本能寺の変である。これを敵討ちという名目で秀吉が信長の後を引き継ぐような形となり,秀吉の目の敵となる柴田勝家や佐々成政を片付けていく。そんな中で,利家は,秀吉に唯一直言できる人物であり,秀吉もそれを頼りにした。天下は武によって立つが,成り立った天下には武はそこまで必要とならず,利家は文化に注力していった。このため,加賀百万石文化と言われるほどになったのである。もしかしたら,秀吉に勝ち得る唯一の道だと思ったのかもしれない。秀吉亡き後も,利家は家康に取り入るでもなく,ずっと,信長を主人と思い込んで生き,秀吉を友と思い込んで生き,家康については,既に利家の思考の中には無かったのかもしれない。 最後の中世時代の武士と言えるかもしれない。 全二巻
なりふりや言葉でしか人は分からぬ。懇切,直截であればあるほどよいものです。そこのところを考えないと,人の心を得られません。(下巻) (P274)
2012年03月10日 | コメント(0) | 日本史 | 読み終わった (2012年03月10日) |
本 / 中央公論社 / 1989年02月 発売
平家の盛衰を清盛の妻・時子の視点から綴った物語である。 平治の乱で源義朝を倒した清盛は,その時点から勢いに乗って平家の世を詠うまでの階段を昇り続ける。敗れた義朝の子・頼朝が助かったのは,清盛の継母であり,頼朝を許した理由は,今は亡き子の家盛にそっくりだったからだ。それが結局,平家を滅ぼすことになったのだが,それを哀れな目で見ることが出来るのは,後世の私たちが後の壇ノ浦を知っているかである。 清盛は福原に居を移し,遷都の準備を着々と整える中,体調を崩した。当時は,体調を崩せば,かなりの確立で死ぬことに繋がる時代であり,清盛も助からないと感じたのか,最後の手段の出家という神頼みというか仏頼りにより回復を願った。同時に時子も出家したが,それが幸を奏したかどうかわからないが,清盛は回復した。都とは権力者の本拠であり,大昔,蘇我氏は本拠飛鳥に都を置き,平城京,平安京は藤原氏の都だった。平家のための平家の都をという念願により,福原遷都を実現した清盛だったが,高倉上皇が体調を崩した等の理由で,もとの京への帰還を余儀なくされた。清盛に老いが見られるようになったのはこの後からと言う。それもそうであろう。対宋貿易により富を築き,時子の弟・平時忠に平家にあらずんば人にあらずと言われ,栄華を誇り,これから自分の目指す平家の世を永らえる基盤作りをするのだと意気込んでいた矢先の話であり,一度崩し回復した体調も,また悪くなってきて,遂に帰らぬ人となってしまった。 清盛亡き後,時子は実の子・宗盛・重衡とともに平家の舵をとっていくが,既に歴史は東国武士団に傾いていた。本書を読み進めるに従い,平家の栄華の時代を生きたと言われる時子だが,平治の乱以降,心休まる日はなかったろうにと哀しく思うのである。
2012年02月29日 | コメント(0) | 日本史 | 読み終わった (2012年02月29日) |
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