運命の子 トリソミー: 短命という定めの男の子を授かった家族の物語
- 小学館 (2013年12月20日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784093965279
作品紹介・あらすじ
出生前診断に一石を投じる小児外科医の記録
人間の生命は、両親から一本ずつ染色体を受け継ぎ誕生しますが、染色体が三本に増えている病気がトリソミーです。異常のある染色体の番号によって、「13トリソミー」「18トリソミー」「21トリソミー(別称・ダウン症)」などがあります。13トリソミーの赤ちゃんは、心臓の奇形や脳の発達障害があるため、半数が1か月ほどで、ほとんどが1歳までに死亡します。本書は、小児外科医である著者が「地元の主治医として13トリソミーの赤ちゃんの面倒をみてほしい」と近隣の総合病院から依頼され、朝陽(あさひ)君とその両親に出会うところから始まります。朝陽君の両親は我が子を受け容れ、自宅へ連れて帰り愛情を注ぎます。そして障害児を授かったことの意味を懸命に探ります。著者は朝陽君の自宅へ訪問をくり返し、家族と対話を重ねていきます。また、その他の重度障害児の家庭にも訪れて、「障害児を受容する」とはどういうことなのかを考えていきます。やがて朝陽君の母親は、朝陽君が「家族にとっての幸福の意味」を教えてくれる運命の子であることに気付きます。出生前診断の是非が問われる中、「命を選ぼうとする考え方」に本著は大きな一石を投じます。
【編集担当からのおすすめ情報】
2013年度 第20回小学館ノンフィクション大賞の大賞受賞作品です。
著者は現役小児外科医・松永正訓氏(52才)で、
開業医として小児クリニックで日常の診療活動を行うかたわら、命の尊厳や出生前診断等々をテーマとし、取材・執筆活動に取り組んでいます。
また、がんを克服した子どもたちの支援も行っています。
本書では、染色体の異常「トリソミー」の乳児及びその家族と松永医師の出会いから現在までが丁寧に描かれております。
生まれる前に劣ったと決めつけられた命を排除することは、果たして人を幸福にするでしょうか? 出生前診断の広まりにより、ともすれば「命を選ぶ」という考え方も生じます。本書はそうした考え方に、大きな一石を投じるものです。
感想・レビュー・書評
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筆者のコラムなどはよく読んでいて、医師としての視点と同列にソーシャルワーク視点が必ずあるのが好きだ。
本書が小学館ノンフィクション大賞を受賞したとは知らなかった。好きな筆者の本ということで手にした。
本当に深い。
仕事柄、障害児・者とそのご家族に日常的にお会いする機会があり、できるだけ彼らの気持ちに寄り添い、彼らが自分らしく生きられるようお手伝いするべく努力しているつもりだった。
だが果たして、私は一体彼らの何を理解できていたのだろうかと思わずにいられない。いや、理解などとおこがましい思いは持たずにいたつもり、でも自分ができ得る努力は惜しむまいと努めていたつもりだったが…。彼らの本当の思いを知るなど、叶わないのかもしれないと改めて痛感せざるを得なかった。
でも、だからこそ彼らの話を丁寧に聴かなければ、彼らから教えてもらわなければならないのだと、自分の仕事の原点に立ち返ることができた。
わかったつもりになることだけは避けなければならない。
当事者だからこそ到達できる医学とか倫理とかを超越した境地に、それを語る彼らの言葉の重さに、ただただ心を揺さぶられた。
松永医師の「医者の基本は相手の話を聴くこと」という言葉に、対人援助の基本はいつも同じなんだなと改めて強く感じる。
語り口が優しく、選ぶ言葉も平易で非常に読みやすい。
筆者の医師として人としての在り方が文章にもそのまま表れている、学ぶべきことに溢れた作品であった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
命について考えさせられた。
子どもが生まれて毎日幸せを感じつつ、もし自分の子どもが、、と想像したときに自分はこの本に出てくる両親の様に子どもを受け入れることができるのか。
障害、というものを理解しながら育ってきたが、結局当事者にならないと本当のことは分からない気がする。
家が欲しい、子どもがほしい、ブランドのバックがほしい、何もかも揃っていることが幸せ、と思いがちだけど、幸せの定義を見直すきっかけになった。 -
読んでよかった。会う人全員に薦めたい本。
どの親子の話も胸打たれるものがあったが、誕生死のエピソードは本当につらいものだった。医療職として、こんな思いをさせてはいけないと強く思う。
正直うまい感想がいまは出ない。何度か読まなければいけないと思う。 -
2019年5月29日(水)摂南大学図書館枚方分館で借り、5月30日(木)に読み始め、6月1日(日)に読み終える。
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生まれた時から短命である定めの、染色体異常の子ども。彼らを育てるって、どういうことだろう。いつ、障害を受け入れるんだろう。そういったことを、小児外科医である著者が障害を持つ子を育てる親に聞き取り、本にした。短命な子だからこそ一日一日が大切で、けれど短命なんてことは考えたくなくて、でもその子を残しては死ねなくて。相反する思いがある中で子どもの生まれてきた意味を見出し、それぞれに幸せの形を見つけている。誕生死した18トリソミーの子の話はとても悲しかった。出生前診断の是非など、考えさせられた。
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生まれてくる命の選択や生まれてからの育てる覚悟と苦労,言葉で大変だという以上の重苦しい人生に読みながら考えさせられました.でも,いろいろな思いを乗り越えて明るく優しく生きる姿にほっとしました.
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泣いた。めちゃくちゃ泣いた。
染色体異常の子を持ち、短命と言われた中での親の苦悩、葛藤、決断、現実的にのしかかるケアの辛さ、不安、それらを経験する中で自分の中の気持ちと向き合い、対話し、時間をかけてそれぞれの接し方を見つけていく。決して悲しい、かわいそうの話だけではない。つらい中でも、自分の子供の可愛さ、ほっこりするような気持ち、ちょっとした成長、回復への喜び、幸せの感情を伝えている。そこには子供を産んだことに対しての後悔は微塵も感じられない。
私も兄妹が染色体異常を持っているので、兄妹の立場としても共感できるところが多かった。
出生前診断に対して一石を投じた作品ということで、非常に内容が濃く、もっともっと多くの人、幅広い人に読んでもらいたい作品です。 -
まさに副題そのもの。
染色体異常のなかでも「13トリソミー」の赤ちゃんは、心臓の奇形や脳の発達障害があるため、半数が1か月ほどで、ほとんどが1歳までに死亡してしまうとのこと。
「13トリソミー」として生まれた朝陽(あさひ)くんの両親は、目も見えず、耳も聞こえず、ミルクを飲むこともできない、見た目にもはっきりとした障害のある我が子を受け容れ、自宅へ連れて帰り愛情を注ぎます。
そんな短命という定めを負って生まれた朝陽くんの生命力に、多くのことを考えさせられます。
そして、朝陽くんの両親の凄さ・・・自然さが凄いです。
出生前診断なんて、うちの子のときにもあったんだっけ?
ってくらい、記憶が希薄ですが「命を選ぼうとする考え方」に通じるわけで・・・考えさせられちゃいます。 -
朝陽くんのお祖母様の言葉、有希枝ちゃんをカンガルーケアしたお母さんのシーン…涙が止まらなかった。生命の尊さ、有り難さを、感じさせてもらいました。
人間には、いろんな人がいます。発達障害の人、身体的障害のある人、トリソミーで産まれてくる子、みんな、同じ生命。みんな、尊い存在。神様の采配ってすごい。むしろ、トリソミーで産まれてくれたからこそ、周りにはたくさんの学びがあります。ほんとにステキな本でした。ありがとう。 -
短命の運命を背負って生まれた子とその家族のお話しです。
家族はトリソミーという運命をいかに受容したのか、家族にとっての幸せとはなんだろうか・・・
すごく考えさせられる内容です。
自宅介護は想像以上に大変そう。でもその中には確かに愛情や絆、希望がある。
障害があるから不幸ではないし、長生きだけが幸せというわけではない。
家族が揃って普通に笑って暮らせることが一番幸せ、という言葉が印象的だった。
たとえ脆くて危ういものだとしても、この家族は毎日に感謝をし普通に笑って暮らしている。 -
「短命の赤ちゃんに医療行為を行うことはいたづらに命を引き延ばすだけの過剰な医療であり、親にとって残酷なことだ」と考えられていた時代や病院があったということが少し信じられなかった
親と病院の話し合いが大切だと思う -
8月新着
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薬剤師として働いていたとき患者さんに13トリソミーの子供さんがいた。
小児医療センターの処方せんが来る薬局だから本当に重い病気の赤ちゃんが多かったしピリピリしてるお母さんが多くて薬の説明にもずいぶん気を使った覚えがある。
でも13トリソミーの子供さんのお母さんはおおらかな感じで問診票にも堂々と?13トリソミーと病名を書いておられた。
当時13トリソミーについて多少は調べたと思うけど今回この本を読んでそうかこういうことだったのかと改めて気がついた。
こんど小学校に上がるので学校に持っていくラコールの味を毎日変えてあげたいと言われ、希望に答えるよう味の違うラコールを仕入れた。
若い薬剤師は経管栄養なんだから味が変わってもわからないのにって言ったけど。
障害を持った子供を育てる親がみんな強くなるわけではないし美談では決してないと思う。
ただ障害があるから出生前に選別される世の中になるってことは高齢者になってからだが弱ったら選別されることになるのだろうなと思う。強者ばかりが生き残る世の中ってどうなんだろう -
4月初めに読んだ『誰も知らないわたしたちのこと』は、主人公の発言や訳者あとがきの内容などモヤモヤが残った。出生前診断によって「この子が生き延びることは不幸だ」と見なされた胎児が中絶される。
染色体どころか遺伝子レベルでこまごまと調べることができるようになってきて、「この病気をもって生きるのは不幸だ」「この異常があると大変だ」という線引きの範囲は、じわじわ狭まってきてる気がする。ほんとに他人事ではないと思う。
この『運命の子』は、13トリソミーの子をもった家族の話を主軸に、「「短命」と定まっている赤ちゃんを育てることで、家族はどのような形の幸せを手にすることができるのであろうか」(p.18)という、著者自身の疑問に取り組んでいる。幸せとはなにか、何をもって幸せといえるのか、この本に出てくる家族もまた考えている。
発生の過程で、通常は女親と男親から23本ずつ受け継ぐ染色体がなにかの拍子で数の異常を起こした場合、多くは流産や死産となる。だが、13番染色体、18番染色体、21番染色体が3本ある(トリソミー)胎児は、必ずしも流産にならず、生を受ける。
21トリソミー(ダウン症)は、およそ1000人に1人の割合で産まれてくる。医療レベルが上がって、ダウン症の人が大人になり、老いることは当たり前になっている。だが、13トリソミー(5000~11000人に1人の割合で産まれる)、18トリソミー(3500~8500人に1人の割合で産まれる)は、同じ染色体異常とはいってもダウン症とは異なり、複雑な奇形を多発することが多く、赤ちゃんの命は長くないことが多い(1歳を超えて生きる子は全体の10%という)。
日本の新生児医療のなかでも、13トリソミーや18トリソミーは積極的な治療はおこなわない疾患とされ、いわば見捨てられてきた病気だった。著者自身、治療をやめるどころか赤ちゃんの死に加担するようなことを1度だけやったことがある。「私の両手に罪悪感が貼り付いた」(p.16)と本の冒頭にある。
大学病院を退職したときに、著者は大きな悔いを抱えていた。重い奇形や障害をもって産まれた赤ちゃんが、もし自分の子だったら…他人の家族には説得して命を長らえるための手術の同意を得る一方で、もし自分の子だったら障害児を引き受けるのを拒否するのではないか…そんな不安が漠と胸にはあったものの、結局その自分の心と正面から向き合うことはなかったと。
▼障害児を授かるとは一体どのようなことなのだろうか。その不条理な重みに人は耐えられるのか? 受け容れ、乗り越えることは、誰にでも可能なことなのだろうか?(p.19)
この問いかけに答えるために、著者は、13トリソミーの赤ちゃんの家族の言葉に耳を傾けた。開業医となってから、自宅に帰る朝陽君(13トリソミー)の地元の主治医を頼まれた著者は、朝陽君の家族の歩みを中心に、様々な障害児の家族の話も交えて「命を巡る会話」を重ね、この本を書いた。
産まれてきた子に障害があると知った親御さんやきょうだいの話、悩みや迷い、そこから考えなおすいのちのこと、障害のこと… 印象に残る箇所がいろいろあった中で、退院して1年経ったときの朝陽君のお父さんの話がいいなと思った。
▼展利[=朝陽君の父]はネットを介した情報は要らないと言う。朝陽君の誕生日に13トリソミーを検索して以来、彼は一度もネット検索をしていない。ネット情報に意味がないとは言わないが、自分には必要がないと考えている。なぜならば朝陽君は、知識としてでなく、実在する人間として目の前にいるからだ。
ネットで知識を得るよりも、朝陽君のここを触れば足が動く、あそこを突けば表情が変わる、そういうことを発見していくことの方が、意味があると展利は考えている。(p.162)
「知識としてでなく、実在する人間として目の前にいる」、それが親の目なのだろうと思う。(「知識として」目の前にいる人を見る医者は、おそらく多いのではないかと思う)。
その時点では、口蓋裂の手術や人工呼吸器を望まないという父の展利に、著者は「意地悪な質問をする訳ではありませんが」と、ゴーシェ病の子のお母さんがしてきた選択(人工呼吸器をつけての在宅)を紹介して、「朝陽君が苦しい思いをしても、今の決意は変えませんか」(p.163)と訊いた。
その問いかけに「変わっていくと思いますよ。あくまで今はそう思っているというだけであって、気持ちは変化しても当たり前だと思っています」(p.163)と答える姿勢も、いいなと思った。
ゴーシェ病の子をもつ親御さんの話のところでは、「治らない病気」を持つ子の親の気持ちとは…というのがあった。13トリソミーや18トリソミーは「致死的な染色体異常」と言われることもあるようだが、ここを読んで私は(人間みんないずれは死んでいくし)と思い、しかし本のタイトルにもなっているように短命という「運命」で死に至るだろうという点では、「治らない病気」のままで生き延びることは難しいから「致死」といった言葉が使われるのだろうかと思った。
母が神経難病だと診断されたとき、「この病気では死なないけれど、感染症などが命とり」と言われたことを思いだす。病気の進行の速さから、母には平均寿命は世界一というような長命は望めないのだろうと思ったことも。
それでも、歳の順からいえば、子よりも親のほうが先に死ぬ。親は、親となった時点で子よりも長い人生をすでに生きている。「治らない病気」を持ち、短命という定めを持つ子の生涯を親御さんが見続けるのと、この先は短命であろうという親を見るのとは、やっぱり違うかなとも思う。
『運命の子』は、著者が自身を振り返り、自分の心のうちをしっかりと掘り起こした率直な文章にいろどられている。この著者の姿勢があるから、私は『誰も知らないわたしたちのこと』を読んだときのようなモヤモヤした気持ちにならずに読めた気がする。「あとがき~何を感じながら執筆したか~」で、先を見通せなかった自分について、著者はこう書く。
▼それは、私が確固たる生命倫理観を自分自身の中に築いておらず、きちんとした準備もせずに、話を聞き始めたからだろう。そして朝陽君の両親の言葉を耳にしてすぐに、私は大変な不安感にとらわれた。それは朝陽君の周辺にいる人間の中で、13トリソミーという障害に対して最も偏見を抱いているのは、医者たる自分自身なのではないかと疑い始めたからである。(pp.216-217)
「倫理は思弁ではない、行動である」(p.219)と著者は学んだ。時に親御さんの話を聞きながら涙を落としそうになり、家族が辛さに向き合って前へ進んでいくのを待ち続ける根気を医師は持たなければと、自らの学びを心をふるわせながら綴る。
▼誕生死した18トリソミーの赤ちゃんの物語は、両親に話を伺いながら落涙しそうになった。そんな自分を医者として甘い姿勢だと感じたが、澄んだ心で自分は患者家族に学べばいいと思い直した。…(略)…
障害新生児を授かるというのは誰にとっても耐えがたい不条理な苦痛である。しかしだからと言って、子どもを手放したり家庭を捨ててしまう親はほとんどいない。逃げることは叶わずその辛さに向き合わざるを得ない。長い時間をかけて、受け容れたり反発したりしながら、徐々に前へ進んでいく。医療関係者はそのことを知らなければならない。建前けの倫理で家族を説得し従わせるのは実は倫理的ではない。時間はかかっても、両親はやがて新しい価値基準を構築し始めるはずだ。家族が悲哀のそこから立ちが[ママ]上がるのを、待ち続ける今期を医師は持たなければならない。(p.218)
昨年春から実施されている新型出生前診断で、染色体異常が「陽性」と出れば現状ではほとんどが妊娠中絶を選んでいるという。調べるということ、科学技術が進むということ、病気を「治す、治療する」ということ、病気が治らないということ… この本を読みながらそういうことをまた考えて、「運命」に人間はどこまで手を加えることができるのか、「運命」をどう生きるのかと思った。私自身も。
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*4月初めにネットで掲載された著者インタビュー
新型出生前診断で問われる"命の選別"
「13トリソミーの子」と家族に寄り添う医師、松永正訓さんに聞く
http://www.huffingtonpost.jp/2014/04/02/trisomy_n_5074329.html -
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とてもよかったです。
自分の悩んでることの小ささに気づかされました。 -
読了。正解はない。
自分自身の価値観はあるが、当事者がどう考えるかはさまざまだし、
何か強いきっかけがあれば、がらっと自分自身の価値観も変化するかもしれない。