- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784096263167
作品紹介・あらすじ
戦術、人間真理を検証。歴史の「常識」を覆し、戦乱に隠された真実に迫る!歴史上名高い「戦乱」を、井沢史観が斬る。
感想・レビュー・書評
-
過去に起きたことを羅列するだけではなく、
各々の思考、意図を汲み取った上で解説していたので
飽きずに読めた。
あくまで著者の考えである、と前置きしていたので
偏った見方もせずに済んだと思う。
歴史に疎くても流れを掴めるわかりやすい文章で
読みやすかったです。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
歴史の常識に疑問をつける視点。
そして、その理由にとても説得力があるので興味深く読めました。 -
井沢元彦の通説に基づかない自由な視点からの歴史、戦乱の描きぶりを面白く読みました。
-
逆説の日本史の単行本はそろそろ(2013.10)20巻が出るようですが、ずっと愛読しているシリーズを書かれている井沢氏の本です。戦国時代を中心に幕末維新のあたりの戦乱について、本当はどんな戦いであったか、それらにまつわるエピソードをコンパクトに纏めてくれています。
歴史書に残っている戦いは、どれも恰好良いものばかりで、少数の敵が多数の敵を討ったとかありますが、その背景には記録には残されていない「本当の勝因」が隠れていることも多いと思います。それらを読むたびに、たとえそれが真実とずれたとしても、私は、当時の武士や彼等をサポートしている人間の生き様や、本音と建て前を垣間見ることができて、同じ人間なんだなと安心できます。
タイムマシンに乗って、有名な戦いを上空から見たいものですが、それができないのであれば、井沢氏の本を読んで自分でその映像を脳の中に描く楽しみを与えてくれる読書を続けていたいです。
以下は気になったポイントです。
・斉藤道三が浪人の身で「国盗り」したというのも最近では否定的(中央の意を体して東国にやってきた)に見られるが、50歳を過ぎてから新しいことに挑戦し、通常の人ならできないことをしたということは素晴らしい(p10)
・通説よりも24歳も下げる説もあるが、12の倍数である、年齢はわからないが干支はわかっているケースが多いので(p11)
・秀吉が出世したのは信長の引立てのおかげ、実力があればどんな出世も夢ではない、という戦国常識は、実はウソである(p18)
・大名家は、いまでいう同族会社なので、よそ者をいれて会社の乗っ取られては困るから、どの大名も警戒した(p21)
・第四次川中島の戦いが激戦(大混戦)だったのは、信玄の弟(信繁)が上杉軍にクビを取られているにもかかわらず、誰が取ったのか未だに分からないこと(p26)
・次男だった毛利元就が本家の当主になった、厳島で勝ったこと、尼子氏を滅ぼしたこと、吉川家や、小早川家を乗っ取った元就の謀略は凄い、信長や家康は足元にも及ばない(p30)
・信長が桶狭間で勝った勝因は、1)豪雨・雷雨により戦場が相当な視界不良、2)城にこもらず出撃していたこと(p36)
・山上への敵へ、つまり「下から上へ」の不利な突撃がなぜ成功したかといえば、雷雨による視界不良による(p38)
・長篠の戦において、鉄砲の弾丸が必ずしも命中する必要が無かった、馬は大変音に敏感で、ちょっとした音を聞くだけで暴れ馬になる(p48)
・船は外洋航海するものという常識があったので、鉄=重い=錆びる、は使えなかったが、新造船も目的は外洋に出るのではなく、ほとんど動かずに村上水軍の炮烙火矢を防ぐのが目的だった(p55)
・本能寺の変において黒幕がいたとしたら、織田信忠をノーマークしたことはあり得ない(p60)
・賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が負けたのは、前田利家の責任、柴田勝家・佐久間盛政も子孫がいないので、悪口は言い放題(p78)
・小牧長久手の戦いにおいて、秀吉が織田信雄と単独講和ができたのは、信雄の周辺に家康の家臣が一人もいなかったことを示している(p83)
・開戦派の勢いが反対派の勢いを上回らないと、戦争などできない、独裁者秀吉であってもムリである。しかし資料としては、結果を支持していたものしか残らない(p86)
・朝鮮出兵に家康は、参加しなかったのではなく、「参加させてもらえなかった」のが正解、その戦争で活躍した大名が軒並み100万石になると、250万石の家康でも関ヶ原の戦いは起こせなかっただろう(p90)
・関ヶ原の戦いにおいて、秀忠軍こそが、徳川譜代の家臣を中心とした本隊、家康軍は有力な旗本はいるものの、他の大名との混成軍である(p96)
・関ヶ原の戦いは、実は謀略戦であり、戦う前から家康の大勝利であった。見方を申し出ていた吉川広家を使って、毛利輝元が大阪城から出れないように工作していた(p102)
・面白いことに、三成も家康も、敵の最大級の部隊への工作にまんまと成功している(p107)
・日本は古代は母系社会でありDNAを受け継ぐという伝統は希薄、「姓」である「源」よりも、足利・新田・武田・明智といった苗字が重んじられている(p116)
・1863年、長州藩は無許可で藩庁を萩から「山口」に移している、これは幕府の力が衰えているのを示す(p150)
・吉宗は将軍になると御三卿を設立したが、これは「尾張潰し」である、紀伊家と御三卿で尾張家との勢力は、4:1となった(p159)
・河井継之助は、武士の意地を通した代わりに本拠地の長岡を灰にして批判を浴びた、これは徳川慶喜の「江戸無血開城」と対照的(p171)
・白虎隊は総勢305人で、切腹したのは19人、死んだのは少数派で後は生き残った。出撃した士中二番隊の悲劇ととらえるべき(p176)
・榎本義明が蝦夷島共和国がうまく行かなかったのは、幕府の金で買いつけた甲鉄艦がアメリカによって新政府に引き渡されてしまったこと。さらに旗艦である開陽丸が嵐にて沈没したこと(p184)
・佐賀の乱について、江藤新平は最初は乱を説得しようとして出向いたが、現地に入って、乱が起ころうと起こるまいと、「不平士族」を討つという政府の方針を知り、やむを得ず乱に加わった(p191)
・熊本城は、細川家となってから明らかに島津家の押さえとして位置づけ、九州から本州にわたる小倉城には、常に譜代大名、中国路の広島・姫路城は幕府に忠実な大名、大阪城は直轄、名古屋城は尾張家、関東入口の小田原城も譜代大名にまかせたのも、すべて薩長連合が江戸へ攻めてくるのを防ぐため(p194)
・神仏習合、日本の神の本体(本地)は、もともと仏であり、仮に姿を変えていたに過ぎないというのが本地垂迹説、これが日本の「神道」の最もスタンダードな説である、なので昔は必ず大神社の手前には、その神の本地(本体)である仏をまつる寺があった、逆に大寺院には、その仏が姿を代えた神をまつる神社があった(p213,214)
・屋島の合戦は、最終的には騎馬武者の突撃という義経が最も得意とする戦法がとれた、屋島は島だが、干潮時には陸続きとなる(p217)
・ツキというのは、決断力によって生かされる、というのも戦史における重大な教訓、一の谷・屋島・壇ノ浦の戦いにおいて(p218)
・元寇において、元軍(日本遠征軍)は騎兵がほとんどいなかった、指令官ぐらいしか馬にのっていない、3万の騎兵を使うのに最低でも9万頭の馬が必要だが運べなかった(p224)
2013年10月6日作成 -
井沢史観に戦乱を充てたもの。のはずだが戦乱と関係ない論旨に疑問。
-
当時の船はすべて木造帆船であり、出来るだけ軽く造らねばならない。この中で、鉄を使って鉄甲船というアイデアを出す、信長はまさに天才だ。
この誰もしないことを思いつく能力は、鍛えてどうにかならない。人事面で卓越した才能もあり、信長は現代にいれば、ビジネスでも成功しただろうと思う。 -
戦国時代を中心に、幕末とその他の時代における戦(戦争)に関する小さい常識に関する、井沢流のちょっとひねった歴史解釈集。
各項目が数ページと短く、あっさりした感があるのは否めなかったが、しかし10数年ぶりに戦国時代関係の本を読む自分にとっては、昔読んだことを徐々に思い出しながら読めて良かった。
井沢氏の、資料のみに頼らず状況証拠から推測する話の進め方は相変わらず説得力があり、直江兼続が優秀であったか否か、及び真田信繁が幸村と名乗ったか否かに関する解釈は、資料的根拠には乏しいものの十分納得できる推論である。 -
本家逆説の日本史がなかなか幕末に行かないので、痺れを切らして代わりになるかと思って読む。一つの戦いに割くページ数が少ないので、全然物足りないが仕方ない。
-
井沢さんの本は面白いけど、ネタの使いまわしが多いのが玉に瑕。今回は、北条早雲や斉藤道三の下克上伝説の異説だったり、桶狭間の戦いは迂回よる奇襲ではなく正面攻撃だったなど、おっと思わせる内容もあったけど、いかんせん一つのネタが6P前後では物足りないのが正直なところ。