- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101117430
感想・レビュー・書評
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(2008.09.22読了)(2008.02.01購入)
イギリス艦隊がやってくるのに備えて、鹿児島では、台場を整備し、軍事訓練を繰り返して待っていた。
6月28日、イギリス艦隊が現れた。薩摩藩から使者が送られた。
イギリス代理公使ニールから使者に国書が渡され、30時間以内に回答するように求められた。国書の内容は、リチャードソンを殺害した加害者を死刑に処すこと、リチャードソンの遺族に2万5千ポンド支払うこと、の2条件であった。
薩摩藩が、この条件を承諾しない場合は、戦闘行動を開始する。(18頁)
薩摩藩の回答は、「わが国法によって全国諸藩は、何事をなすにも幕府の命令に従っている。賠償金の支払いの件は、幕府から何の指示も受けていない。」また、「わが国には、旅をする大名の行列に非礼をしてはならぬという定めがある。行列を乱すような無礼者は斬り捨ててよい。」であった。
話し合いは、決裂した。
7月2日、明け方、イギリス艦隊は薩摩藩の「天祐丸」「白鳳丸」「青鷹丸」の3隻の蒸気船を拿捕した。交渉を有利にしようとしたのである。天候は急激に悪化し豪雨となり、風は東南風になり吹きつのった。
薩摩藩は、宣戦布告と受け取り、台場から一斉に砲撃が開始された。
イギリス艦隊は、薩摩藩からの攻撃は予想しておらず、反撃の準備に時間をとられたのと、天候のため、艦隊に損傷を受けた。
それでも、砲撃で台場は全部破壊し、薩摩藩の3隻の蒸気船は焼却し、鹿児島城下には、火箭を放って火災を起こし、引き上げていった。
7月9日、横浜にイギリス艦隊が帰ってきた。イギリス艦隊に同行した新聞記者が、観戦記を新聞に掲載した。イギリス側の戦死者は13名、負傷者は50名。艦隊の被った損害は大きかった。
鹿児島では、イギリス艦隊が再度来襲すると考え、防衛力の強化を開始した。長崎のイギリス商人グラバーに依頼し、新型の大砲を斡旋してもらった。マカオにあるアメリカ製鋳鉄砲89門、ロシア製鋳鉄砲42門。火縄銃も、ミニエー銃に変えることにし、グラバーに5千挺依頼した。
長州藩は、尊王攘夷を主張し、それの同調する公卿を動かし、天皇自ら兵をしたがえて、政党の途にのぼり、幕府を壊滅させるべきだと主唱し、京で活動していた。
孝明天皇は、公武合体を望み、攘夷親征論に危機感を抱き久光に上洛を求めた。
イギリスと戦闘状態では、久光は上洛できない。
実際にイギリスと戦って、兵器の力の差を実感し、攘夷は無謀であり、和議を結ぶことにする。ただし、和議を申し入れるのではなく、自然に気運を醸成し和議に持ち込む形が望ましいとした。
8月10日、薩摩藩の和議のための使者が、横浜に到着した。
和議に持ち込むには、幕府を間に立てるのが妥当と判断し、幕府に「薩摩藩の所有する蒸気船三隻を宣戦布告せずに拿捕したのは、不法な行為である」と訴えた。(108頁)
8月13日、朝廷が攘夷親征の議を確定して公布。
8月18日、攘夷親征の中止。薩摩藩と会津藩により長州藩が京都から締め出された。
9月28日、イギリスと薩摩藩との談判が開始された。和議を結ぶことに双方異議はなかった。談判を繰り返し、11月1日、賠償金を支払い決着した。(148頁)
1月24日、イギリス公使オールコックが横浜に戻り、代理公使のニールが上海経由で帰国した。
4月25日、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの代表が横浜に集まり、会議を開き長州藩の不法行為に対して懲罰のため痛撃を与えることを決議した。
長州は、抵抗をしたが惨敗し、和議を結んだ。伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)が間に立って奔走した。
この後は、薩摩と長州が手を組んで、討幕へと進むことになる。
この本の面白さは、折衝の駆け引きにあるといえる。交渉の場に立つ人の駆け引きが実に面白い。
作者が、この本で描きたかったのは、生麦事件でイギリスと戦った薩摩藩とアメリカ、フランス、オランダと戦った長州藩が日本を変えることになったことのようである。
(2008年9月26日・記)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
難しい時代をわかりやすく、しかもずっと緊張感があり、飽きさせない重厚な小説。
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2007.12.30