- Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101121093
感想・レビュー・書評
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「死んだ娘が歌った・・・・・」について
一文あらすじ
家が貧乏なために出稼ぎで上京した少女が、「自由意志」によって殺される話。
メモ
職場の上司から「自由にしてよい」と命じられ、出稼ぎ先を首になった少女は、欲しくもない自由を手に絶望して自殺する。
近代以降の人間は、自由を万人が持つべき絶対不可侵の権利のごとく認識してきた。しかし、自由とは権利なのだろうか。自由とは、意図的な力が加わらない状態のことではなかったのだろうか。
自由を権利として定義づけ、あたかも義務かのように個人に課すこと、これは暴力にほかならない。これこそ、かつて自由を求めて闘った人々の共通の敵であったはずだ。金と力ある者が自由を牛耳る世界において、その逆の者がそれを謳歌できるはずもなく・・・少女は死んだ。
これは現代においても起こりえる、あるいは今まさに起きている悲劇の縮図であり、非常に諷刺の効いた作品であると思う。
「鏡と呼子」について
一文あらすじ
四六時中望遠鏡で村民を監視し、鏡と呼子をつかってあやしい動きをとる住民を告発する老姉弟の家に下宿した教師の話。
メモ
部外者である主人公が、ある奇妙な村に入り、その村の異常さを内面化して出られなくなってしまう物語。『砂の女』の筋とたいへんよく似ている。違いがあるとすれば、もちろん流れが同じなだけで細部はまったく異なるわけだが、諷刺している位相が異なるように思う。これももちろん明確なことではないが、あえて特徴を切り出すのであれば、『砂の女』が抽象的な問題を諷刺しているのに対し、『鏡と呼子』はより現実的な問題を諷刺しているのではないだろうかと思う。
『砂の女』の場合、読んだときにわたしがふと想ったのは、砂の村の住民の生活様式と雪国の住民のそれとが酷似しているということだった。「雪かきをしなければ住めない場所になぜ住むのか」と問うことは、(極端にいえば)「食べなければ生きられないのになぜ生きるのか」と問うようなもので、人間は毎日せっせと異常を積みあげているのかもしれない、なんてことを思った。
『鏡と呼子』の場合、現代の監視社会の発展に対する諷刺がはっきりと読みとれる。たとえば、望遠鏡はありとあらゆる場所に設置された監視カメラ、鏡と呼子は世界中にはりめぐらされた情報伝達システムの寓意と考えることができるし、そのなかで「問題がないことが問題」と語る村民たちは、監視社会のなかで得体の知れない不安を感じる現代人の寓意と考えることもできる。
この作品のなかでもっとも印象的だったのは、主人公の教師のスピーチと村にある道のコントラストだった。教師は次のようにいう。
「世の中には、いいこと、悪いことの、二つがあるように言われています。しかし、なにがいいことで、なにが悪いことか、はじめからはっきりとした区別があるわけではありません。(みんな、あわてるだろうな)道は
はじめから道だったのではなく、人が沢山そこを通るようになってから、はじめて道になるのです。だからどの道も、かならずうねうねと曲がっているのです。それは道をきめることのむつかしさを物語っています。(名
文句だが、どこかで読んだ気もするな)だから、諸君も歩きたいと思った方なら、道がなくても歩いていく勇気をもって下さい。やがて、そこが、本当の道になるのかもしれないのですから・・・・・」
本人のいうように、たしかにありきたりな感じもしなくはないが、悪くもないスピーチだ。しかし、この常識的な発言を嘲笑するかのように、村にはただひたすらにまっすぐな道が通っている。抗うことのできない、なにか大きな力が働く世界。安倍公房はこの作品で、監視社会に潜む問題点だけをあぶり出すだけでなく、社会的圧力と闘う人ひとりの無力さと、個人を支配せんと近づく無言の構造体の異常さをあらわにしたと思う。
引用
Kは大きな音をたてて、自分の喉を飲込んだ。巨大な三角形が、大きな口を開けてすぐ後ろにせまってきているように思われた。―304頁より詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
短編集。よくわからないものからSF的なものまで様々。
「棒」がよかった。男が棒になってしまう、という驚きの展開だが読み終わってみてどこか引っ掛かるところが出てくる… -
中山さんからのオススメ。公房作品三作目。短編集。大抵の主人公は何故かすぐ死に至る位置にいるようだ。何処かカフカっぽさを感じさせる作品の多さよ。一番好きなのは、解説で唯一触れられていない「パニック」かな。ミステリィっぽさを感じさせ、世間を皮肉っている点が好み。あと「人肉食用反対〜」も白井智之氏の『人間の顔〜』みたいで好きだ。
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相変わらずの突飛な発想力で、生から死、死からその先へとくるくる変わる短編集です。
テーマはヒューマニズム。
機械にされた人、藁を食べる人、死んだ人間が生者を観察したり、公房独特の180度の発想の転換で楽しませて…というのもありますが、これからの教訓になる一冊です。
鉛の卵で、予期しているのが怖いくらいに当たっているのが凄味があり、またじっくり読み直したいとも思いました。 -
表題作2編の結末の色合いが全く異なるので、上手い本の題名つけたなぁ、と別なところで感心。
久しぶりの安部作品。彼の永遠の命題はアイデンティティー。
どの作品も、なにか、なにかが揺さぶられる短編ばかりです。 -
機械になったり幽霊になったり、盲腸だけ動物になったり、棒になったり……もとは人間だったものがこの1冊の中であれこれ変わっていくのだが、その変化に個人の意識がもっと抵抗するかと思いきや、意外と順応性があるので、けっこう内容的にはグロイ面がありながら笑ってしまいそうになる。ところがそういう展開が短篇の形で繰り返されると、表面的には諦めて適応しようとしているように見える思考の裏で、自己が消えてしまいそうな不安を抱えて右往左往している様子が目に浮かんでくる。これは、登場人物たちの「器」に引っ張り込まれた読み手が動揺して抗うせいなのか。
それまでの己の立ち位置や価値観が崩壊した後の自己構築は、容易ではない。 -
たけぽん推薦
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安部公房らしい短編集
よかった -
安部公房の短編集は読むのにすごくエネルギーがいる。長編小説であれば最初から最後までトップスピードというわけにはいかないので「遊び」がある。遊びとは、安部公房の世界から我々の住む、あるいは理解し得る世界へ戻って来れる瞬間のことである。しかし短編小説では向こうの世界に入ったっきり、物語が終わるまで帰ってくることができない。読者が通訳だとして、通訳の話す時間を与えるために適宜話すのを止めてくれるスピーカーが長編小説、自分の言いたいことを最初から最後まで一気に自分の言語で話してしまうスピーカーが短編小説といったところである。後者の場合、通訳である読者である我々はとにかくスピーカーが話すことを全神経を集中して頭にしみ込ませていかなければならない。しかも日本語に直している時間はないので記号として脳内に蓄積していくのだ。そして最後の最後に通訳を開始するときには記号であるところの文脈の欠落から断片的にしか思い出せない、日本語に直した後ストーリーが再構成できない、、、と呆然としてしまうのだ。額に汗だけかきながら。
ピカソや岡本太郎の芸術作品は前衛的と言われる。国語辞典を引くと前衛的とは「時代に先駆けているさま」とある。しかし、「芸術」に対する社会通念を持ち合わせていない自分にとって、前衛的とは「わけが分からない」と同義だ。何が「わけが分からない」のか、ピカソや岡本太郎の絵を例に改めて考えてみると、生み出されたものから自分にとって有意な情報としてのメッセージを得ることができない、あるいはなぜそうでなければならなかったのかという背景なり作者の心情なりが理解できないということになると思う。しかし、前衛的なものがわけが分からないからといってまったくつまらないかというとそうでもない。前衛的な作品には前衛的ならしめる一歩進んだ何かがある。同じモチーフを使って絵画にしたとき、一般の作品であればおおよそ「芸術」と認識される範囲の中で作者の心情なりメッセージが付け加えられるところを、前衛的作品には「芸術」と認識される範囲を逸脱するという点においての「くずし」が入ってくる。この「くずし」の先にある作者の心情やメッセージが読み取れなくても、「モチーフをこんな風にくずすのか」という一点においても十分に感銘を受けることができる。同じく前衛的と評される安部公房の作品を楽しむ1つのヒントのようなものを本書で掴んだような気がする。
安部公房の小説で言えばモチーフとは小説の場の設定であり、最初の設定を出発点としてそこから世界がどんどん歪んで来る。あるいは歪んだ世界が最初から存在していて、その中にいる登場人物たちが歪んだ思考、発言、行動をする。この歪みが「くずし」の領域に達してしまっている。この場の設定と歪みの関係にバランスとセンスを感じたのが「鉛の卵」と「人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち」だ。