- Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101121147
感想・レビュー・書評
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失踪者を探す男がやがて自分を見失っていく話。調査の拠り所がなくて落ち着かない男の様子が、読点だらけのモノローグから滲み出てきて、読んでいる間ずっと不安で不安定な気持ちになりました。
冒頭の一説がとても印象的で、読み終わった後にもジワジワ効いてきます。
「都会――閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくりの同じ番地がふられた、君だけの地図。だから君は、道を失っても、迷うことは出来ないのだ。」詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
表現力に圧倒される。時代背景も人物背景も馴染みがないはずなのに、自分がそこにいるような手触り感。特に二回目の団地の描写はすごい。あ、この感じ前にもあったな、懐かしい、主人公に自分が重なる。
内容は難解。さらっと読みしただけでは喪失部分が唐突で意味がわからない。一体どういう心情でそういうことになったの?これまでの丁寧な説明は逆になんだったの?と。でももしかしてそれも表現効果の一部なのだろうか。メビウスの輪(とはよく言ったものです)の裏側は表と近しい位置にありながら全く繋がらない世界です、というのをその唐突さで表している?
主人公は弟、田代君、仕事、彼の妻からの依頼、と次々に目的を見失い(これが燃えつきた地図か)、存在価値を失う。おそらく彼も同じように行方不明になったのだろう。田代君はその孤独の怖さに耐え切れず自殺した。主人公はどうするのだろう。自分の地図を、他人に指図されない自分の道を選ぼうとするラストは明るいものに見えるが…。 -
安部公房(1924-1993)の長編小説、1967年。
安部公房の小説の主題として、しばしば「自己喪失」ということが云われる。では逆に、「自己」が「自己」を「獲得」しているのはどのような情況か。それは、「世界」の内で何者かとして在ることができるとき。則ち、「世界」が"存在の秩序(ontic logos)"として一つの安定した価値体系を成し、その内部において「自己」が意味を付与され在るべき場所に位置づけられているとき。しかし、近代以降、「自己」の存在根拠を基礎づけようとするのは当の「自己」自身となる。このような【超越論的】機制から次のことが帰結する。
□ 自己喪失は不可避である。
なぜなら、超越論的主観性は「自己」の存在根拠をその都度毎に対象化し否定し続けることで無限に遡及していこうとするのであり、ついに最終的な基礎づけへの到達は無限遠の彼方に遅延されることになるから。「けっきょく、この見馴れた感覚も、じつは真の記憶ではなく、いかにもそれらしくよそおわれた、偽の既知感にすぎなかったとすると……いまぼくが帰宅の途中だという、この判断だって、おなじく既知感を合理化するための、口実にしかすぎなかったことになり……そうなれば、自分自身さえ、もはや自分とは呼べない、疑わしいものになってしまうのだ」。
自己は喪失するものとして在るしかない。こうした自己存在の無根拠性・虚無性に対する自覚が、欺瞞的な自己規定に安逸している日常性への頽落からの実存的覚醒の契機となる。それは、あらゆる概念的規定を虚偽として峻拒しようとするロマン主義的な自由への意志として現れる。「緊張感で、ぼくはほとんど点のようになる……暦に出ていないある日、地図にのっていない何処かで、ふと目を覚ましたような感じ……この充足を、どうしても脱走と呼びたいのなら、勝手に呼ぶがいい……海賊が、海賊になって、未知の大海めざして帆をあげるとき、あるいは盗賊が、盗賊になって、無人の砂漠や、森林や、都会の底へ、身をひそめるとき、彼等もおそらく、どこかで一度は、この点になった自分をくぐり抜けたに相違ないのだ……誰でもないぼくに、同情なんて、まっぴらさ……」。
自由とは、自己を断片化しようとするあらゆる欺瞞的な意味の絶対的拒絶という不可能性においてのみ、無限遠における成就ならざる成就としてのみ、可能となる。「「彼」……どんな祭りへの期待にも、完全に背を向けてしまった、この人生の整理棚から、あえて脱出をこころみた「彼」……もしかしたら、決して実現されることのない、永遠の祝祭日に向って、旅立つつもりだったのではあるまいか」
このような自己喪失の事態に対して、超越的な何かを仮構して喪失した自己を回復することは不可能である。なぜなら、あらゆる存在が超越論的主観性への表象として在る以外には在り得ないのであるから。一切の外部が無い。いかなる形而上学的逃避も予めその可能性は閉ざされている。この意味においてもまた、自己喪失は不可避である。取り戻すべき自己を探し求めるなどということは、全く無意味であるから。「だから君は、道を見失っても、迷うことはできないのだ」。道を見失っている、という情況から逃れることは永遠に不可能である。それ以外の情況は在り得ないのであるから。
そして、失踪者を追う者がついに当の失踪者それ自体に反転することは不可避である。失踪者を追うという超越論的主観性の【超越論的】機制そのものが、失踪者を何者かたらしめようとする不可能性に不可避的に撞着する以外にないという点において、失踪者それ自体の在り方に他ならないのであるから。追う者の姿は失踪者の姿そのものである。こうして、失踪者は増殖していく以外にない。
「探し出されたところで、なんの解決にもなりはしないのだ。今ぼくに必要なのは、自分で選んだ世界。自分の意志で選んだ、自分の世界でなければならないのだ」
しかしその「世界」とは、決して肯定的に規定し得ないものではないか。掴み取っては投げ捨てるという無限の否定運動の裡においてしか在り得ないものではないか。 -
非現実な現実と自己が喪失していく不安が主人公に迫り苦しめていく。2018.11.21
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正確かもわからない地図、報告書、嘘かもしれない嘘、そういうものたちにしか立脚することのできない存在の不安が描かれる。ロブ=グリエの『消しゴム』をやたらと思い出させる、裏返しのモチーフが何度も出てくる。ただまあ個人的に文体があまり馴染まなかった。
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夫が失踪した、という女性からの依頼を受けた調査員が巻き込まれる不可思議すぎる出来事のあれこれ。
弟も謎なら夫も謎だし、決着つくかと思いきや、ラストますます迷子になるという……やはり安部公房であった。 -
安部公房の不条理は、さまざまな形を変えた自己喪失であることがほとんどだと思うのだけれど、この長編もそのカテゴリ。失踪した夫を探して欲しいという依頼者と、胡散臭いその弟に振りまさわれる興信所の調査員が主人公。彼自身も自立して成功した妻と別居しており、ふわふわと根無し草のような一種の家出状態。
基本的には探偵ものっぽい趣で、行方をくらました男が自ら出て行ったのか、それとも依頼者である妻と義弟が共謀して何かを隠ぺいしているのか、さまざまな可能性を疑いながら、一見それなりの真相に近づいていくように見えるのだけれど・・・
そこは安部公房なので無事に事件が解決してめでたしめでたしで終わるわけがない。個人的には探偵自身がその探している男ではないのかというエンジェルハート的オチを予想していたのだけれど(ある意味あながち間違いでもない?)こうしてまた新たな失踪者が増殖していくのだなと思うと虚しい。自分自身もまたいつかふと、その虚無に陥らないとも言い切れないのが怖い。 -
失踪した夫の行方を探してくれと依頼を受けた興信所の男が、調査を進めていくうちに自分自身をも見失っていく話。
もう、このつかみどころのない、ぐにょぐにょした感じが気持ち悪いのなんの。安心して信じられる人物がいないどころか、どう接していいやらわからない人ばかりのうえに、追えば追うほど目当てのものが遠ざかっていくようで、ちょっと走っては息切れし、また走ってはテンションが下がり……の繰り返しが、どんどん疲労感を積み上げていく。それでも、疲れ切ったその先に、足があるかぎり歩き続けていく人間だからこそまだ向かえる場所があるのかもしれない。たとえそれにより、自己が埋もれることになっても。 -
1967年初出だが、内容は極めて現在的。近年よく「生きづらさ」ということが言われるが、そんなものは今に始まったわけではないことがわかる。