- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101123158
感想・レビュー・書評
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1.著者;遠藤氏は小説家。12歳の時に伯母の影響でカトリック協会で受洗。日本の風土とキリスト教の対峙をテーマに、神や人種の問題を書き、高い評価を受けた。「白い人」で芥川賞、「海と毒薬」で新潮文学賞・毎日出版文化賞、「沈黙」で谷崎潤一郎賞・・等を受賞。「狐狸庵山人」の雅号で軽妙洒脱なエッセイも多数執筆。ノーベル賞候補に上がる程で、今でも読み継がれている作家の一人。
2.本書;「神の沈黙」を主題にした歴史小説。江戸初期のキリシタン弾圧の渦中に置かれたポルトガル人司祭(ロドリゴ)を主人公に「神と信仰」を問うた名作。出版当初は、カトリック教会からの批判と反発が非常に強かったそうです。とは言え、「沈黙」は、13か国語に翻訳され、戦後日本文学の代表作と言われる程、高い評価を得ています。某読書会のコメントです。「この作品は作者が人生をかけた渾身の一冊。物語としてもドラマチックで非常に魅力的」である、と。
3.個別感想(印象的な記述を3点に絞り込み、感想を添えて記述);
(1)『第Ⅳ章;セバスチャン・ロドリゴの書簡』より、(ロドリゴ=主人公)「人間には生まれながらに二種類ある。強い者と弱い者と。聖者と平凡な人間と。英雄とそれに畏怖する者と。そして強者はこのような迫害の時代にも信仰のために炎に焼かれ、海に沈められる事に耐えるだろう。だが弱者はこのキチジローのように山の中を放浪している。お前はどちらの人間なのだ」
●感想⇒世の中には、「強者・聖者・英雄」よりも、「弱者・平凡・英雄に畏怖する者」の方が多いと思います。私も後者に入ります。負け惜しみかも知れません。私は、体力や経済的な強者よりも、精神的な豊かさのある人になりたいと思うのです。恩師の言葉です。「人間の中には、“成功したのは自分の努力だ”と、天狗になる人がいる。何事も一人では限界がある。有形無形の支援あればこその成功だ。人に対する恩を忘れずに、人を慈しみ弱者に寄り添う心が大切だ」と。人の気持ちを理解し、寄り添える心を持つ方法は、人生の師・宗教・書物・・等で学ぶ事。精神的豊かさを養う為に。但し、師匠や宗教に教えを乞う前に、自分で勉強し、経験を積んで自らの哲学(人生観)を形成するべきだと考えます。
(2)『第Ⅶ章』より、(フェレイラ=ロドリゴの恩師)「この国(日本)で我々の建てた教会で日本人達が祈っていたのは基督教の神ではない。私達には理解出来ぬ彼等流に屈折された神だった」「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない」「日本人は人間を美化したり拡張したものを神と呼ぶ。人間と同じ存在を持つものを神と呼ぶ。だがそれは教会の神ではない」
●感想⇒NHKの「日本の信仰調査」によれば、“無宗教→49%、宗教を信仰している→39%(仏教→38%、キリスト教系→0.9%)”。他の調査でも、日本は人口の29%が神を信じていない無神論者。中国に次いで世界第二位と多く、日本人の信仰心は薄いと言えます。キリスト教を布教し難い国かも知れません。私が以前ブグログに載せた「日本人とユダヤ人」(イザヤベンダサン)に興味深い記述がありました。「日本人とは、日本教という宗教の信徒で、それは人間(人間性・人間味)を基準とする宗教。この宗教は、人間とはかくあるべきだとはっきり規定している」。ロドリゴは、「最も人間の理想と夢に満たされたものを踏む」と踏絵し、背教。彼は、日本的な心の持ち主かも知れません。
(3)『第Ⅷ章』より、(フェレイラ=ロドリゴの恩師)「わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。そのあとでここに入れられ耳にしたあの声(穴吊りにかけられた信徒たちのうめき声)に、神が何一つ、なさらなかったからだ。わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかった」「お前(フェレイラ)が転べばあの者たちはすぐ穴から引き揚げ、縄もとき、薬もつけようとな。・・彼等(信徒)はもう幾度も転ぶと申した。だがお前が転ばぬ限り、あの百姓たちを助けるわけには行かぬと」
●感想⇒大変悩ましい問題です。信徒達を餌に棄教を迫る役人の卑怯さは筆舌に尽くし難い暴挙。信仰している神に助けを求めても、神は「沈黙」したまま。フェレイラには二者択一の方法しかない。悩んだ挙句、棄教して、百姓達を助ける。彼は、百姓の命を救う為に、教会を裏切り、教会の汚点となったのです。この決断の評価は難しく、意見は分かれるでしょう。私は、「世の為、人の為に役立つ人になりなさい」と常々教えられました。従って、私はフェレイラの人助けによる棄教に賛成です。宗教は、人を救済するために存在するとすれば、「物言わぬ神」よりも正義を貫く人に喝采を送りたい。フェレイラは、棄教により重い十字架を背負い、心の悩みに苛まれたと思うと、心が痛みます。
4.まとめ;重い精神小説です。無神論者の多い日本で、果たしてキリスト教は意味を持つのかを考えさせられる小説です。先の感想でも述べたように、日本人はベンダサンの言う、日本教の信者であり、「神よりも先ず人間」である事を行動規範にしているのかも知れません。イエスの言葉です。「踏むがいい。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。私はお前たちのその痛さと苦しみを分かち合う。その為に私はいるのだから。私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいた」。ここで、棄教したロドリゴは踏絵を踏む事で自分の信じる神の教えを理解します。私は、遠藤氏の日本人としての心根を見た思いです。感動に浸りました。(以上) -
少し古めの本だから難しいかなと思ってたけど、驚くほど読みやすくて内容も頭の中で想像できてびっくりしました。踏み絵は中学、高校の教科書で見たことあるなくらいの知識しかなかったけど、この小説の中でどんなに過酷な状況に追い込まれてたのか、司祭者からみる日本というのが新しくて感慨深かったです。もっといろんな人に読んでもらいたい一冊です。
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「なんのため、こげん責苦をデウスさまは与えられるとか。パードレ、わしらはなにもわるいことばしとらんとに」
キチジローの偽らざるごくごく素朴な問いが、通奏低音のように物語を貫いている。
人々を救うべき信仰が、人々の命を奪っているのなら、もはや悲劇であり滑稽ですらある。
それでも神は沈黙していただけではないと言えるのか?自分の理解はそこまで及ばなかったけれど、人生の一冊に出会えた気分です。 -
舞台は島原の乱後の五島列島におけるキリスト教の布教活動と先に日本に渡った恩師の安否確認のためにローマ教会からくる司祭の物語。最終的には棄教という選択を選ぶことになるが、それまでの葛藤の心理が臨場感溢れている。当時の日本がいかにして異教を排除していたかが分かる。踏み絵のことは授業で習っていたが、本当の意味でこの本を読むことで理解できる。穴吊りという拷問は本当に恐ろしい。
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またすごい本に出会ってしまった。
とんでもないものを目撃した気分。
作者について。
遠藤周作という名前だけは知っていたけど、どういう小説を書く人かは全く知らなかった。
キリスト教作家として有名な人だったとは。
彼自身もカトリックとして洗礼を受けているにもかかわらず、こういったものが書けることに驚きを感じる。
「神は存在するのか」という、「宗教」の根本を揺るがしかねない問いが作品全体に真摯に貫かれている。私が遠藤周作の立場だったらこんなの怖くて書けないよ、「神はいるよね、うんうん」と自分の中で納得させて終わらせるよ
でもそこを書き切ったことに、作家としてのの覚悟と矜持を感じました
信じている宗教の有無に関わらず、私たちってなんとなく「人智を超えた何か」というものの存在を認めながら生きている気がする。
それがある人にとっては神であったり、霊だったり、あるいはお金だったり。
『沈黙』は単なる宗教小説ではなくて、「自分が無垢に信じてきたものが覆ったら、どうします?」という作者からのとんでもない問いかけな気がする。
いろんな人に読んでほしいと思う作品。 -
確かに、恐ろしい拷問の話と読むことも出来るのか、と頭を殴られたような気分になる出来事があって久しぶりに思い返しています。
知人が「本当に怖かった」というので、何か違う「沈黙」の話をしているのだろうかと最初は思い、「ああそうか」に至るまで結構な時間を要しました。文学系の授業の一環で人生における挫折や黄昏時、アイデンティティ喪失の問題などについて考えながら読んだ作品だったこともあってか、描写の悍ましい部分については特段注目しなかったというべきか、とかく「そういう時代だったのだ」と、強いて言うならば憐みの目で見ていたのかもしれません。それから、遠藤周作同様幼児洗礼を受けたクリスチャンとして、今の時代に生まれてよかった、と思いはしました。でも、ある種の感情を遮断した状態で読んでいたのかもしれない、あるいは鈍っているのかもしれない、と今現在茫然としているところがあります。
さて最近は、何がきっかけか自分でも分かりませんが、戦争映画を観ても大河ドラマを観ても、何が人を残酷にさせるのか、凶暴にさせるのか、ということをしょっちゅう考えるようになったような気がします。そういう意味では、キリシタンの弾圧も、あくまで今の常識的な価値観からするともちろん異様です。でも自分と同じ人間が、同じ日本人が、同じ日本人に対して、ときには外国人に対して、行ったことだとされています。同じ人間なのですから今の私たちもやろうと思ったらやれる行為であり、それでも私たちは自らを倫理や法律などの名の下縛り付けています。そういう自制のための装置を作ろうとしない状況とはどんな状況なのでしょう。(語弊の多そうな表現ですが)あるいは、死刑を認める日本は根本的なところでは変わっていないともいえるのでしょうか。
話はそこそこ飛びますが、日本の思想にはある意味で「救い」「赦し」が無いのだ、とふと思いました。容赦ないのです。遠慮深い人は多いと思っています。でも、「そうしましょう」と律するものは実は無いのではないか、ということです。そういうことを体現した神様が多分いないから。そこに端を発している物事は色々ありそうだな、と思いつつ、その先について考えるのは別の機会に、とします。随分遠くまで行ってしまったので一旦閉じます。 -
神はなぜ沈黙を続けるのか というある種タブー的な問いがずっと付きまとう。
常に救いが欲しくなるシーンばかり。それほどに、拷問と自分の信じる心を試されるシーンがむごい、、、
そもそもなぜ、信徒たちは異常に棄教できないのか、キリストの教えに背くこと、踏絵を踏むことがなぜそれほど苦しめるのかが自分には分かれなかった。そもそもの信仰心が弱いからなのか、そういう教えだからなのか、理由はまだ分からない。
けど、異教徒としてはその信心深さに恐怖すら覚える。
海はかぎりなく広く哀しく拡がっていたが、その時も神は海の上でただ頑なに黙りつづけていた。
五島の海は本当に美しい、のに、この作中では常に恐ろしいもの、不気味なものとして描かれていた。 -
キリストの話か、と敬遠していたが読んでみたら凄かった。
キリシタン弾圧化の江戸期日本に布教ためにやってきたポルトガル司祭ロドリゴ。
彼が布教に挫折し棄教する過程が物語の大筋だが、テーマとなるものが2つ。
1)神は存在するのか?
2)信仰とは何だ?
1)神は存在するのか?捕らえられたロドリゴは棄教を迫られる。信徒である農民に加えられる壮絶な拷問。信者の呻き声と叫び声を聞かされる。取り締まる井上筑後守はいう。
<転べ=棄教しろ。すればあの農民たちは助けてやる。>
ここでの司祭の祈りと葛藤。そして井上筑後守との対決が非常にドラマチック。引き込まれるし巧い構成です。
で、ロドリゴは思う。信徒が苦しんでも主はなにも言わない。救わない。奇蹟が起きない。なぜ沈黙しているのか。こうやってロドリゴは内面で神の沈黙という出来事からその存在そのものを問う。
さらに神の沈黙を際立たせるのが情景描写。信徒が拷問によって死ぬ。殉教が行なわれた。なのに外の世界は変わらない。単調な波の音。中庭の静かさ。蝉の声。蠅の羽音。殉教者と無関係に世界が同じ営みを続いていることにロドリゴはショックを受ける。神の沈黙を情景描写で際立たせる。巧い表現です。
2)信仰とは何だ?葛藤と苦しみのすえ司祭は踏み絵を踏んで棄教する。が、それは神への裏切りではなくキリストは足で踏まれ棄教者ですらそれを赦しているというラストの描写は、そもそも信仰とはなんだろうか?という重くて深遠な問いを突きつける。
神の存在と信仰のテーマを物語に落とし込み、ドラマチックな作品に仕立て上げた遠藤周作の力。畏れ入りました。
、マシュマロさんのコメント、励みになりました。今後ともよろしくお願いいたします。
こちらこそ今...
こちらこそ今後ともよろしく宜しくお願い致します。
残暑が厳しいのでどうぞご自愛下さいませ。