- Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101126180
感想・レビュー・書評
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『懐かしい年への手紙』の続編です。
まだ三部作の第一部ですが、この一冊ですでに十二分の満足感がありました。
『懐かしい年への手紙』で試みられた「魂の救済」について、この物語の長さを利用して、更に深く追求しようとしています。
印象に残った2つのシーン。
ギー兄さんが信用を失い、町民からのリンチに遭う場面。黙って暴力を受け入れる姿は、磔にされたイエスのようで、まさに“救い主”という言葉が適当でした。
そして、ギー兄さんが小児癌を患う少年カジに、“救い主”として言葉をかける場面。
「ほとんど永遠にちかいほど永い時に対してさ、限られた生命の私らが対抗しようとすれば、自分が深く経験した、“一瞬よりはいくらか長い間”の光景を頼りにするほかないのじゃないか?」詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
四国のある村で立ち上がっていく新興宗教の話。独特の英語表記、鉤括弧を使わない会話表現など文体として取っつきにくい部分はあるものの、ストーリーの駆動力が強くグイグイ読めた。日本は宗教の概念が希薄なので信仰する気持ちを理解しにくいと思う。その中で、この小説は信仰の発生/終焉/再生を描いており興味深かった。
まだ残り2巻もあるので総論的なことは言えないにしても一番オモシロかったのは「一瞬よりはいくらか長く続く間」というフレーズに基づいた説法。宇宙の時間スケールで見て自分の人生を相対化する。死んだ後に流れる時間と死ぬ前に流れた時間は等価ではないか。詭弁のようにも思えるけど、こうやって人間は実態のないものに振り回されながら生きていくしかない。
スピリチュアルな要素は少ないにも関わらず、徐々に大きな意思の存在が確からしいものになるのが著者の筆力なんだろうか。それぞれ役割を持ってそうな職業/特徴の人々が信じることで始まろうとするボトムアップ型の宗教。教祖の施しと人智を超えたものがすれ違う偶然の交差点、それが宗教/信仰の震源地であることがよく理解できた。 -
隆:治癒能力が有るのか無いのか両義的。
サッチャン:男なのか女なのか両義的。
燃え上がる緑の木:半分は燃えていて半分は水に濡れて青々としていて両義的。
現在のギー兄さん:救い主なのかそうでないのか両義的。
集中:祈りと原発の因果関係はあるのかないのかが両義的。 -
信じることって何だろう
何故信じたのか 救われる人もいれば疑う人もいる 信じたことにより人との関係が断絶されることもある
第1部では私の問いの答えははっきりしなかった
ただ、自分を受け入れてくれた人を信じようとするのかもしれないとギー兄さんとオーバー、ギー兄さんとサッチャンの関係から感じたことではあるが、でもその受け入れることだって完全ではなく不完全だろう。曖昧なものを信じることに怖さを感じながらも、第二部に進む -
大江健三郎さんは同時代ゲームまではとても好きなのだけど。それ以降が自分には合わない。
本作も面白さが無い訳では無いが、腰が重く何か進まない。年取って時間が出来たら、文庫本で読もう。 -
カテゴリ:図書館企画展示
2020年度第3回図書館企画展示
「大学生に読んでほしい本」 第2弾!
本学教員から本学学生の皆さんに「ぜひ学生時代に読んでほしい!」という図書の推薦に係る展示です。
川津誠教授(日本語日本文学科)からのおすすめ図書を展示しています。
展示中の図書は借りることができますので、どうぞお早めにご来館ください。 -
大江健三郎 「 燃えあがる緑の木 」 1部 救い主が殴られるまで
100分de名著により 人物イメージと主要テーマを学習済みなのでスイスイ読める。
1部の内容は 土着宗教の誕生プロセス と 魂の動きに関する思考実験と捉えた。これから宗教と魂、人間と命、記録としての文学を考察するための伏線だと思う
土着宗教の誕生プロセス
*土地の伝承を蘇らせる 救い主が現れる
*救い主の言葉と神秘的な力により、信仰者と糾弾者が現れる
*救い主と信仰者が一体となり 教会を建てる
魂の動き
魂が 身体の中で生き、身体を残して浮かび上がり、自分に割り当てられた樹木の根におさまる
救い主の言葉(死の恐怖の克服)
*一瞬よりはいくらか長く続く間〜自分が深く経験した生きたしるし
*永遠に近いほど永い時に対して 限られた生命の私たちが対抗するには〜一瞬よりはいくらか長く続く間を経験するほかない
名言「人生に失敗はない。愚痴があるだけだ」
ランボオの詩が盛り込まれているとは知らなかった
「永遠」もとより希望があるものか〜黙って黙って勘忍して〜苦痛なんざ覚悟の前
大江健三郎 の文学テーマ
*障がいを持つ息子との共生〜ケアする側も される側と同じくらい多くのものを受けている〜大江健三郎は 息子の誕生によって生まれ直した
*人間は続いている〜私たちは死んだ人間の代わりに生きている〜私たちは 未来の人間につながっている
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全3巻、トータルでは983頁に及ぶドストエフスキーなみの大作。まずは第1巻を読了。転換したサッチャンによる「如是我聞」という方法での―すなわち、彼女が聞いた限りではという形をとることでリアリティを確保しながら―1人称で語られるギー兄さん=「救い主」の物語。四国の辺境のきわめて限定された地域に残る伝承を背景にしながら、その世界観は無限の彼方までも拡がってゆく壮大な物語。久しぶりに大江文学を堪能したという感じだ。あるいは、これこそが大江だ。これほどの20世紀文学を大江と共有できたことの幸せを噛みしめたい。
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「一瞬よりいくらか長いあいだ」としての「永遠」!このくだりを見たとき私は大変驚愕して、というのも大江健三郎がここまではっきりこの言葉を口にするとは思ってもいなかったので…『嘔吐』では似た言葉が、存在の罪が一瞬だけぬぐわれるとき、などという表現されていたアレ…『嘔吐』以後サルトルが触れなくなってしまったアレ…。私にとってはこの「瞬間としての永遠」はサルトルとバタイユをつなぎ、または作中に引用されているランボーとも、プルーストとも強固に繋がるキーワードである。しかしこれを掲げて宗教を始めることが可能なのか…。自分の存在というものの途方もない無意味さ、偶然性を乗り越えることが出来るのは、自分の身を以て体験出来るこの「瞬間」以外にない。しかしこの「瞬間」は純粋には偶発的なものであって、いわゆる「企て」はそれ待ちきれない人々の暇つぶしでしかないように私には思える。後に覆されたとしても一度は自らの本の集大成として、とても積極的な社会参加とは呼べないこの宗教の本を据えた大江の学生時代のサルトル解釈は一体どのようなものだったのだろう…。