- Amazon.co.jp ・本 (607ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101169064
感想・レビュー・書評
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▼「裏声で歌え君が代」丸谷才一。1982年新潮社、書き下ろし。個人的には恐らく1985年くらいに読んでいるんです。だから38年ぶりくらいの再読。そしてその頃はあんまりよく楽しめなかった(笑)。今回は大変に面白かったです。
▼敢えて言えば「ウディ・アレンの恋愛映画(のように一見見える人間ドラマ映画)みたいな感じ」です。軽くて明るくて都会的でおしゃれで知的で・・・そして登場人物たちが難しい議論をしばしば戦わせます。そしてドロドロしたドラマチックな展開にはなかなかならず、なったかと思ったら、ひらりと身をかわすかのように拍子抜けな終わり方をします。で、僕はすごく好きです。
▼主人公は梨田という恐らく57歳くらいの画商。戦争体験など含めて、つまり丸谷さんと同世代です。
この人がエスカレーターの反対側に、顔見知りの美女を見かけたことから物語が始まります。顔見知りだけど知り合いではない。だからここですれ違うともう生涯、ちゃんと知り合えないかもしれない。これが大変に素敵な女性である。挨拶をすると向こうも顔見知りなので、曖昧な挨拶くらいはしてくれる。
この時に梨田は下から上に上がっている。美女(朝子)は上から下に下がっている。二人はすれ違う。梨田は咄嗟にエスカレーターを逆走して下り降りて、下で朝子と合流する。朝子はそんな行動に苦笑して、でも二人はそのまま食事に行くことになる・・・。
なかなか鮮やかなトップ・シーン。ここから、要はこの二人が別れてしまうまで。ボーイ・ミーツ・ガール物語とも言える小説。
以下、ネタバレ含めて備忘録。
▼梨田は若い頃は銀行員だった。ひょんなことから会社をやめて、妻とも別れ、画商に。梨田の画商というのは、政治家の闇金の流通にも一役買うような、そういう言ってみれば薄汚れた商売でもある。そして朝子という恋人はこれまた確かバツイチだったはずで、(この時代はまだ多くなかった)ワーキング・ガールである。
主人公・梨田には友人がいて、中国系であり、これが洪さんという。洪さんはスーパーを経営していたりする実業家だけど、実は政治運動もしている。それは「台湾の民主的独立」である。
▼台湾は毛沢東に負けた蒋介石が仲間と乗り込んできて支配してしまった。ずーっと、1949ー1987の38年間、戒厳令が敷かれていて、簡単にいうと今日の日本のような言論の自由や民主主義がなかった。ちなみにこの小説が1982なので、まだ戒厳令の真っ最中。
元々台湾で暮らしていたのは「内省人」と呼ばれ、蒋介石と乗り込んできたのが「外省人」と呼ばれ、超少数派の外省人が、もっというと蒋介石の家族子孫とその一派が、全て支配。1947年から始まった反対派への凄まじい弾圧・処刑は、台湾映画「非情城市」に描かれました。この映画は1989年ですから、戒厳令後に撮られたわけです。蒋経国の死後の作品。
▼というわけでこの小説発表当時、台湾は酷い国だったんです。民主主義目線でいうと。ただ、共産党中国へのブレーキ機能があるから、世界最強国アメリカはずっとそんな酷い台湾政府を支持してきた。さてそこで、台湾に住んでいない台湾人によって「亡命政府」が作られていて、台湾を蒋経国一派から独立させる運動を(ささやかに平和裡に)している、ということなんです。
そして、画商梨田がひょんなことから友人になっている洪さんが、その亡命政府の大統領なのです。
▼さて、物語は梨田と朝子の恋の成り行きを見守りながら、「世界の誰もが真面目には相手をしない、理想主義のおままごとのようなもの」であるはずの、亡命台湾政府大統領の洪さんに、何やらきな臭い動きがはじまるのを描いていきます。
そしてどうやら、洪さんは家族などの弱みを台湾政府に握られて、台湾に降参するのではなかろうか、と。一体どうなってしまうのか・・・。
▼という面白い小説で、後味として「国家と個人という摩擦、軋轢を感じずに済んで暮らしていければ無事だけれども。すぐ近くで国家というものとヒリヒリと対峙している人間模様を見せつけられると、改めて、空気のようでいるけれど確実に我々と隣接している国家というぬめっとしたものを意識して狼狽えてしまう。国家がないと多分困るけど、国家は突き詰めていくと個人と対立する。どうあるべきなんだろうねえ・・・」という感じです。そういう意味でこの小説の主題は「国家と個人、国家という政治機能と個人」ということなんでしょうね。大変に滋味深い読書の快楽でした。
(これは丸谷さんの長編小説で唯一、電子化されていないんですよね。文庫も事実上絶版のようで・・・ここにも国家が関係していなければいいんですけどね・・・)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
丸谷才一氏の本を初めて読む。
旧日本陸軍での経験から国家に対して虚無感を抱く画商の梨田と、その友人であり、日本でスーパーを経営しながら細々と台湾独立運動を続ける「洪さん」。
架空の1970年代の中で、日本と中国の文化風土の違いから、国旗・国歌とは、ひいては政治とは、民主主義とは、国家とはなにか、といった遠大なテーマを縦軸に、「大人の恋」やら「大人の遊び(芸者さんと麻雀とか)」を横軸に、ストーリーが展開していく。
うらぶれた街の集会所での決起集会など、国民的ムーブメントになる前の「独立運動」には独特のリアリティがあった。スコットランドも、グリーンランドも、今でこそ「すわ独立か?」と世界的に報道されているが、こんな時代があったのかもしれない。一方で「これがうわさに聞く丸谷才一のラブストーリーか」と感心させられる男女の機微の描写も多数。
自分の国、というのが空気のようにもとからそこにある、という国民は必ずしも多くない。革命や独立戦争の歴史を共通の記憶にすることで結束していたり、そもそも現在進行形でそれを作ろうとしている人たちも多い。国の存在は決して自明ではない。
・・・なんて固い読後感よりも、実は恋愛話の結末が余韻を残す一冊であった。 -
うん、やっぱり丸谷先生のお話は面白い!
20年ぶりくらいに読みましたが、お洒落で、反骨で、悲しくて、しかもエッチ(*^_^*)で。
主人公の画商・梨田が、知り合ったばかりの美貌の未亡人・朝子を連れていくのは
彼の友だち・洪さん(バナナで大儲けした後、日本でスーパーマーケットやホテルを経営。スーパーの店長として、たぶん(*^_^*)アラン・ドロンかジュリーのようなとんでもない美男・林さんが出てくる)
の“台湾民主共和国”大統領就任パーティ。
もちろんそれは「まだ」ない、架空の国で、
「台湾人による台湾の統治を目標にして」日本で運動している、という設定なのだけど、
国家とは、という固い(はずの)テーマが随所に、しかも、結構長く語られているのに、
丸谷さん独自の筆致に助けられて、それがなんとも切実&身近な恋物語のように展開していくのが面白くてたまらない。
考えてみれば、私たちは毎日、国家の中で暮らしているのだから、身近なのは間違いないんだけどさ。
梨田は丸谷さんご自身を思わせる、全体主義嫌い、かつお喋りの楽しいお洒落な男性で、
なんと10代のころ、陸軍幼年学校中退、というか、その上の士官学校に行くことを拒否した、という経歴を持つ。
これって、ホントだったら絶対に考えられないことなんだけど、あれこれの道具立てで、うん、そういうこともあったのかも、と思わせられてしまうのが可笑しいし、そこに絡む、右翼や中国の大物が滑稽かつ、やはり恐ろしさを漂わせているあたり、巧いなぁ、と唸らされてしまう。
梨田と朝子の大人の恋の進展と、洪大統領の日常や“政治活動”が、とても面白く、かつ切なく語られて。
以前に読んだ時も、今回も、
台湾に住む洪さんの姪の話に強い印象を持った。
まだ小学生の彼女が日本に遊びに来た際、一番衝撃を受けたのは
銀座で、現内閣打倒をがなり立てている右翼の街宣車だったということ。
それは台湾では、重刑に値する大変なことなのに(戦前戦中の治安維持法のようなものだよね。)
誰もが無関心で通り過ぎ、また、そのあとに入ったデパートの豊富な物資に、
日本は自由にものが言える国だから、あんなにモノがたくさんあるのね、
と呟いたという・・・。
しかも、その姪は長じて・・・と話が続くと、
国 というものの力の大きさ、わけのわからなさ、そのくせ、とても卑近な存在でもあるということ、にドキドキしてきてしまう。
梨田や朝子、洪さん、その他、登場人物たちが皆、自分の思いをその都度、適切な言葉で表明し、その知的な佇まいのカッコよさ、好ましさに、うふふ・・・と嬉しさを感じながら、国というものも同時に考えてしまえる、という、ある意味、お得な小説、なんでしょうね。
とっても!!!面白く、(かつ切なく)読みました。 -
碩学の小説家が台湾の帰属問題に仮託して描いた国家論、というとなんだかしかつめらしいが、語り口が上品で気が利いているから読みやすい。気品がありつつエロチックな男女関係にも憧れるけれど、オツムの程度を試されるからやっぱり大変ですよ。
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思ひ出したやうに丸谷さんの文章が読みたくなることがあります。それでちょつと題名にたぢろぎながら購入しました。
裏表紙には「著者が趣向の限りを尽くして国家とは何かを問いかける注目の純文学巨編」と有ります。確かに、主人公の恋物語や友情などの要素も書き込まれ、それはそれで中々に面白くはあるのですが、やはりこの本の主題は「国家論」にあるやうです。しかし私には、そもそも国家論を小説にしやうとすること自体に無理があるやうに思えます。登場人物の口を借りて、様々な思想家達の国家論が議論されるのですが、浮いてしまうと言ふか、現実味に乏しいと言ふか。
それは丸谷さん自身の国家論がはつきりと見へて来ないせひかも知れませんし、私自身が非政治的な人間のせひかも知れません。
600ページにわたる文庫本。かなり苦戦しながらの読了でした。それでも読み終えれたのは、おそらく丸谷さんの力量だとは思ひます。
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こういう日本的ドラマを、翻訳文学風に語っていながら、旧仮名遣いを使っている、この複雑。
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何と言っても、このひねくれたタイトルが秀逸。実際に君が代に言及した箇所はごく一部に過ぎないけれども、読み終えたときには不思議な余韻が残る。
国家に不満があるとき、抵抗の手段はいくつもある。クーデターによる命懸けの体制転覆などはその最も過激な方法であるが、道楽としての安全なレジスタンスというのもある。シュティルナーは言う。
「国家は個人たちを可能な限り自由に遊ばせて置くーー彼らが本気にならないうちは」(p.170)
だが、本人たちは本気でなくても、国家の側が本気と受け取る可能性はある。本書の中でも、国家を怒らせた人間と、そうでない人間とが登場する。両者は一体何が違うのか。実は紙一重ではないのか。そんなことを考えさせられる。
プラトンの『国家』を万引きしようとして、間違えてシュティルナーの『唯一者とその所有』を盗んでしまうというトホホなエピソードが物語を構成する重要な核となっているが、登場人物が繰り広げる国家論の応酬はむしろプラトンの対話篇を意識させる。
ひょんなことから物語を思わぬ方向に展開させて国家と個人の関係を描くという、丸谷才一得意の手法が炸裂した長篇。 -
読み終わるのに1年くらいかかりました。読もうと思ったきっかけは、丸谷才一さんが亡くなったからです。父が買ったハードカバーを持っていたのですが、ずっと読まずにいたのでいい機会だと思って読み始めました。
丸谷さんの本は「女ざかり」以来2冊目です。丸谷さんの文章は、それは見事というほかない日本語で、全ての比喩が、いったいどこから取り出してくるのだろうと思うくらいビックリするような表現なのに、すらすらと頭の中に入ってきます。こんな日本語が書けるようになりたいです。
さて、内容ですが、昭和50年くらいの東京が舞台で、主人公は第二次世界大戦末期に、陸軍幼年学校から陸軍に入隊したという経験を持つ中年の画商・梨田。彼の周辺で起こるちょっとした事件(台湾独立運動や、美しき未亡人との後腐れのない肉体関係など)を通して、「国家とエロス」が語られる仕組み。作中に引用されるシュティルナーのことは知らなかったのですが、彼の国家論は現代でも有効なのでしょうか。
なんとか最後まで読み終わったのですが、最後の最後で「あっ」と言わせる仕掛けになっています。やられた・・・、としかいいようのない読後感です。これは読んだ人にしかわからない。
今、日本がおかれている状況は、この本が書かれた時代とは変わっているようで、そう変わっていないのかもしれません。「国家と国民」の関係について、この本を読めば少しは達観できるような気がします。気がするだけかもしれませんが。