シズコさん (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101354156

感想・レビュー・書評

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  • 佐野洋子の自叙伝です。シズコさんは彼女の実の母。 親は選べないとはよくいわれる言葉、しかし、本当は選んで生まれてくるのではないか・・と読み終えて思う凄まじい母娘の関係がありました。 彼女の記憶では4歳位のとき、手をつなごうとした彼女の手を”チッと舌打ちして振り払った”というのがシズコさん、「私はその時二度と手をつながないと決意した。・・」とあるから、その後の母娘関係は想像するに難くない。 彼女の回想は自分が還暦を迎える年齢になり、彼女が自責の念からお金を 出し高級な老人ホームへ入っているシズコさんを見舞う様子から始まっている。シズコさんはすっかり呆けてしまい、娘かどうかの区別ももはや定かではない。 これは佐野家の一族の物語です。 家族は人格を育む最少の社会だが、その親子関係は夫婦の仲、兄弟関係・・祖父や祖母、伯父、伯母・・・ 生まれおちた時に既に形成されている濃密な血縁関係の渦の中で作り上げられる。 幼い子供を3人失くし、5人の子供を育て上げた主婦としては優秀で たくましかったシズコさん。現実的で享楽的だが情に薄い・・・ 母の生き方を回顧するに洋子さんは、「私は母を母としてでなく人として 嫌いだった・・」と告白している。 自分だけが母をキライなのか・・とか疎ましく思うのか・・と密かに悩む 女性は洋子さんが”発見”したように”想像を超えて沢山いる”のだろう。 実の親子だからうまくいくのではなくその反対が正解なのだろう。 それだからこそ、そこに生まれ落ちる。そしてどういう最後を迎えるのか・・ 誰もが宿題を抱えて生きているのでしょう。 終わりよければすべてよし・・人生のしめくくりにこの言葉をつぶやくことができれば上出来ですね。

  • 身内のことをここまで書いちゃうなんて凄いな。
    本音で書いているから、嫌いだった母親が呆けて好きになったという経緯も、しみじみと受け容れられる。
    佐野さんの言葉には嘘がない、それもまた凄い。

  • 確かにこんなお母さんは嫌だ。

  • 「母は強し」「やっぱり母にはかなわない」
    そんな言葉を聞くたびに、
    嘘を言うな、と腹を立ててきた。
    母は強くない。そう見えるのは子の欲目だ。

    リリー・フランキー『東京タワー』を
    読んで泣く、というのもわからない。
    リリーさんは幸せでよかったねー、
    お母さんいい人だし看病できたし。
    幸せでよかったね。そういう本じゃん。
    皮肉じゃないよ。いい本だった。
    あれを読んで泣く感覚がわからないだけ。
    わからないというか、実感がわかない。

    しかしそんな私でも「おしん」を観て
    「何つーことないじゃん。それにいくら器量が悪くても
     ピン子の母さんはおしんに優しいじゃんか」
    とまでいえる佐野洋子にはうなった。

    もちろん戦前に北京で産れた佐野さんは
    子供ながら引揚げの苦労を体験してるし、
    弟や兄をなくした経験もこの本に綴られている。

    でもなにより、この本は母の本。
    自分と母親の関係について、
    嘘をつかずに語った本だ。

    佐野さんは母親のシズコさんから愛されなかった。
    佐野さんも母を愛せなかった。
    そのことで苦しんで、独り立ちして、結婚して、
    子供産んで、離婚して、そして母を引き取って、
    老人ホームに入れる。

    そこで、私は母を捨てたのだ、と佐野さんは言う。

    そうだよね、捨てたんだよ。
    佐野さんとは状況がまるで違うけど、
    私も自分の母を捨てたと思っている。
    佐野さんだって、自分が特別ひどいわけでもないこと、
    頭のなかではわかっていたはず。
    私だって特別ひどかったわけではない。
    自己弁護ではなくそう思う。
    でも捨てた。それは事実だ。

    読んでいてこんなに痛い本はなかった。
    胸にズキズキとくる。
    この人は嘘を言っていない、というのがわかるからだ。
    「母は強し」と言ってる人が嘘ついてるわけじゃない。
    その人にとっては真実。でも私にとっては嘘だ。
    佐野さんがいてくれてよかったよ。

    上記のリリーさんについて、
    佐野さんは亡くなる前の座談で直接、
    あなたはお母さんに愛されて育ったんだから
    それでいいじゃない、と言ってる。
    そう言える佐野さんが好きだ。

    ところで全然関係ないけど、一時期夫だった
    谷川俊太郎さんについての描写は笑えた。

    「私のつれ合いは人に親しむ人ではなかったから、私は気が楽だった。今でもあの人にとって母は家具とかバケツと同じ様なものだったのだろうと私は思う。とても感謝している」

    イヤミじゃなく、本気で感謝しているんだろう
    と思わせるから、なおのことおかしい。
    こういう簡潔な言葉で書かれているからこそ、
    この本は、そして佐野さんの本は
    すばらしいのだと思う。

    日曜朝10時、小川洋子さんのラジオ番組
    「メロディアス ライブラリー」を
    いつも楽しみにしているけど

    (小川さんの笑っちゃうくらい
     上品な話し方がたまらない。
     柳原可奈子にモノマネしてほしい) 

    前回がこの『シズコさん』だったのは嬉しかった。

    佐野さんと母親の関係が
    『100万回生きたねこ』と似ている、
    という指摘は目からウロコ。
    言われてみると確かに、なあ。

    明日(5/15)は最近話題の
    クレア・キップス『ある小さなスズメの記録』。
    これは聴いてから読もう。

    ああでも本当にこの本があってよかった。
    私は母から愛されなかったわけでも
    母を愛さなかったわけでもない。
    それでもボケたりしない限り
    罪悪感は一生消えないだろうから、
    それを共有できてよかった。

    解説は内田春菊。この人も母親といろいろあった。
    晩年の佐野さんのスケッチがすばらしい。

    最後に、この本で一番好きな言葉を。

    「母さん、呆けてくれて、ありがとう。
     神様、母さんを呆けさせてくれてありがとう」

    ボケてはじめて母親と和解できた佐野さん。
    よかったね。さよなら。


    2011年5月14日記

  • 友人に借りた。

  • 読みながら、生きるって何か、老いるってなにか、母親って何か、家族って何か、介護って何か、とぐるぐるぐるぐる考えていた。読み終わってからもぐるぐる考えている。
    この世の中に善悪二元論できれいに片付けられるものなんてないんだなと思う。人生の先輩たちからみたら私なんてまだ赤ちゃんみたいなものなんだろうけれど、いつでも「老いの眼」みたいなものは頭の隅っこに取っておきたい。

  • 「100万回生きたねこ」の著者の、母親との関係を描いた物語。

    「100万回」は、私自身、子どもが生まれてから初めて読んで、その哲学的な内容に正直びびった。
    その後、この「シズコさん」の紹介文をどこかで読んだら、著者の方が母親から受けた虐待をつづったもの、というような説明があり、読んでみたいと思っていたら、次に聞いたニュースが訃報だった。
    今やっと読んだが、「虐待の回想記」とは程遠い。
    確かに、厳しい子ども時代を送っており、母親との関係の描写も不自然なまでに客観的で、自分と母親の母娘関係や、自分と自分の子どもたちの関係と比べると、その違いには驚くものがある。
    が、佐野氏は、それが「虐待」ではなく、母親の性格から人生、時代背景などすべてがかかわり、自分に愛情をもって接してくれなかった(でも、衣食住の世話はきちっと見た)事情を客観的に受け入れ、自分も母親に対し心を閉ざしていく経緯を、自分を擁護するわけでもなく、自虐的な見解も含めぶちまけている。母親が彼女のことをどう思っていたのか、結局知ることはなかったのだけど、「動物的にしか子を愛せなかった」「父に似ている私(佐野氏)に嫉妬していた」という考察は、かなりあたっているのではないかと思う。
    そんなモーレツ母ちゃんぶりより、呆けの症状が始まってからどんどん素直な少女のようになっていく母を描写する部分が、ただただ切ない。決して言ってくれなかった「ありがとう」と「ごめんなさい」をいい、互いに身体に触れたことがなかったのに娘をベッドに招きいれ、施設を訪ねると顔を輝かせる。やっと母と会話できるようになっても、母は自分が誰だかも分からないし、夫も、早くに死んだ息子たちも母の中ではいないことになってしまってる。私自身は、自分の母には感謝しても仕切れないほど世話になっていて、いま母が逝ってしまったらその恩返しができなかったことを一生悔やむと思う。たった一言の「ごめんね」を、呆ける前にいえなかったことを悔やむ佐野氏と、そしてお母さんは、どんな気持ちだったろう。
    絵本では、ねこは100万回目で、やっと満足して死ぬ。たった一度の人生を、後悔なくして満足して死ねるのは、本当に難しいんだろう、と、ここで絵本と彼女の人生がつながった。

    佐野氏の母親は2006年になくなり、「シズコさん」は2008年に書かれた。そのたった2年後の、佐野氏の死は、早すぎる。ただ、この本を書くことによって、「自分が死ねば、幼くして死んだ兄弟たちを知るものはいなくなる」「私だけは死ぬまで覚えているからね」と言っていた、彼女の兄弟や、父親、母親が、書籍という形で永遠に残ることになった。それは、彼女も満足しているかもしれない。

  • 母と娘の物語。
    失礼ながら佐野さんに対してなんて執念深い…と思ってしまった。
    でもこれを書いたのは佐野さん自身が結構年齢がいってからのようなので、くどい書き方も文章がところどころおかしいのも読み飛ばすことができた。佐野さんは至らなかった自分を自虐的に書いておられて、もしかしたらこれを書かなければ死ねない、と思ったのかもしれない。巻末の内田春菊さんの書評を読んでも我が強そうなお方なので。

    内容は母への愛情と感謝と憎悪と軽蔑が入り混じっている。
    同じ話を何度も新しい話と混ぜ込みながら書いている。
    家族っていいところも悪いところも清濁飲み込んで付き合っていかなきゃ無い集団だよなぁということを再認識。
    老いて行く親の存在っていうのは世の子供たちにとって逃れられない試練のようなものだけど。やっぱり少しでも先延ばしにしたいよなぁ。神様。お願い。

  • 母親が持っていたので、暇つぶしに。
    読後一番に思ったのは、この人、本当に文筆家なのだろうか?ということ。
    自分の心の整理が付けきれていないことを、その衝動のままに書き散らした、と思ってしまうような文章。
    そういう人が、そう書いたように見せようという意図のもと、書いたのであれば★4つ。

    で、よく聞けば100万回生きたねこの著者とのこと。
    佐野洋子さん自体が好きな人はいいかもしれないけれど、ただお話として読むには「微妙」です。

  •  フィクションとノンフィクションの区別を、そして垣根を超越しているのではないか、後半はそんなことを考えながら読み進めた。

     著者の人生、家族、そして母娘の歩みは紛れもなく物語でありノンフィクションだからこそ、フィクションをも越えているのかもしれない。

     洋子さんが堰を切るように泣く場面ではどんな読者も必ず心の中で涙するだろう。読み手もまた著者と同じく最初の一ページから涙をバケツに溜めながら読み進めていたのだと、その時に気づくだろう。

     一度は離れた小説を再び読むようになって本当に良かったと思う。こんな本に出会え、自ら手を伸ばし、読む日が来たことが本当に嬉しい。


     生きてきて本当によかった。

    そしてこれからも、

    もっともっと生きていきたい。

    そう思えた。

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著者プロフィール

1938年、北京生まれ。絵本作家。ベストセラー『100万回生きたねこ』のほか『おじさんのかさ』、『ねえ とうさん』(日本絵本賞/小学館児童出版文化賞)など多数の絵本をのこした。
主なエッセイ集に、『私はそうは思わない』、『ふつうがえらい』、『シズコさん』、『神も仏もありませぬ』(小林秀雄賞)、『死ぬ気まんまん』などがある。
2010年11月逝去。

「2021年 『佐野洋子とっておき作品集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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