悪霊(下) (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (758ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102010181

感想・レビュー・書評

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  • 何という陰鬱な小説なのだろう。この「悪霊」には、様々な心情の陰りのような色彩が見て取れる。不穏な夜のような暗さの絶望感、焦燥が渦巻く不安感、破滅への予感、そして世紀末的な倦怠感....といったものが描かれていると思われた。しかし、私は読み進めて行く内に、これらの灰色を帯びた絶望感に魅了され、知らず知らずのうちに物語の世界に引きずり込まれて行くのを感じた。


    主だった登場人物の殆んどが、絶対的な存在である神を喪ってしまっている。そして時代背景を見てみると、クリミア戦争の敗戦によるロシアの国際的な威信の低下があったことで、西欧の近代的思考が圧倒的な勢いを持ち始め、農奴解放宣言に加えて、無神論やあらゆる種類の社会主義が更に広く人々に受け入れられる土壌が形成された、文字通りの混沌そのもののような時代であった。こんな過渡期の時代には当然のことながら、生活を支えていた道徳や信仰といった習慣は揺らぎに揺らぐ。この揺らぎから生ずる絶望は老若男女の見境なく登場人物たちに襲い掛かるのだ。彼らの意識は時代の渦に否応なく引き裂かれる。これら多くの絶望者たちは各々の個性に準じた違った反応を起こす。殊に主要人物たるスタヴローギンとキリーロフから導き出された各々の思想は非常に興味深いものであり、事実、数多の評者がこれを論じてきた(余談ながら、ニーチェの超人思想はキリーロフの論に多大な影響を受けて形成されたと言われているし、カミュも「シーシュポスの神話」のなかでキリーロフと題した章がある)。

    ともかく、この「悪霊」は何度も再読を要する性質があり、多くの謎を孕むと同時に多面的な読み方ができるので、ネットのレビューなんぞではとうてい語り尽くせないような面白さを持っているとだけは言える。

  • 間延びした前半と比べて、後編の緊密性。
    ニコライは最後まで自分には理解できなかった。
    ピュートルは予想の範囲に収まる感じ。
    スティバン先生の最期の下りは良かった。

  • 再読。
    はじめて読んだのはたしか5年前の冬で、その時はとにかくスタヴローギンの蒼白な顔面の印象にすべて持って行かれた(巻末の「チホンの告白」を最後に読んだからというのもあって)。

    今回再読し、キリーロフをはじめとして、シャートフ、ピョートル、そしてステパン氏の顔が前回よりもはっきり見えた。
    相当暗い話だけど、話の中に彼らの顔が見えると不思議と心がなごむ。
    「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする」を裏返したような、どこか滑稽な彼らの顔。
    反対に、そういうファニーなところがひとつもないスタヴローギンがなにかつまらない人物のようにも感じられた。
    たとえば、「文法上のあやまり」というのは偉大な思想すら台無しにするはずのものなのに、彼の手紙に見られるそれはただの文法のあやまりで少しも可笑しいものではなかったりする。
    翻訳の加減もあるのかもしれないが、そういうのっぺらぼうのような端正な顔立ちが、脇役の表情の豊かさによってより際立った。

  • 読み終えての感覚は何ともすっきりとしないものだった。
    言うなれば”腑に落ちない”とでもいうか。
    結論から言えばいろいろな誤解が重なってのものなのだろうが、ここまではっきりとペンディングだなと思った作品は今までなかったように思う。


    私の読書人生の中で未読のペンディングと言えばサルトルの『嘔吐』になる。
    かつては本当に読書体力がなかったからの保留なのだが、今なら読めるだろう。しかし、ただ読めるのとそれを消化して己のものとするのは全く違う。我ながらその自信が未だになく、だからこそ手をつける予定が今のところない。
    いろいろと思い入れがある本なのだ。それだけに、切り捨てたくないというのも多少あるのだろう。
    私自身が持つあの本にまつわるエピソードが産む感情と、作品それ自体の感想はけして符合するとは限らない。その不一致を怖れているというのもあるのだろう。


    はてさて、話がそれたが、それとは別。読み終えたが全く腑に落ちていないのが本作だ。つまり再読しなければいけない本だと今回の『悪霊』は感じたのだ。
    先に言った『嘔吐』の話のように読解力の問題でいつか読みなおした方がいいのだろうと思う作品は多々あるが、これは少しばかり違う。
    元々、ドストエフスキーの本は前々からうすうす再読、それも予備知識を備えてのそれをしなければいけないだろうと感じていた。
    かの有名な『カラ兄』の”大審問官”の下りに、私はうんともすんとも何も感じなかった。
    あれは逆の意味で目から鱗、なんという衝撃。いやアレに関しては未完の作品というのも大きな要因になるだろう。
    逆に大好きな『罪と罰』はあの曰くありありの光文社の亀山訳である。私個人的には読みやすかったので、いいのではと思っているが、好きな人からすれば許せぬものが多いのだろう。私にとって光文社版の『ドリアングレイの肖像』はまさしくそうだ。そう言う話を聞けば、新潮か岩波もいつかは読んでおかねばなるまい、と考えてしまう。
    結局そう言う理由もあって既読のドスト作品はいつか再読せねば成るまい、と考えてはいたのだ。
    こういう話をするならマンの『魔の山』も該当するのだが、今回は風呂敷をロシア内部だけにしておこう。
    同じ教養小説で、『魔の山』も難所であり、初めて読んだ教養小説だったので鮮烈な印象は残るが、ドストエフスキーはさらにそれを上回る。
    なんというか、こちらの方が私には肌に合っているのだ。物語が壮大で、登場人物それぞれがキャラが立っており、おまけに緻密で、膨大な知識が眠る。
    このドスト先生の洗礼を受けてから、カストルプ君に会いにベルクホープに行った方がさらに新しい印象を得られるだろうと思う。正直マンの著者は私の本棚ではお飾り同然の状態になっているのもあるし。



    しかし、なぜこんなに『悪霊』でそれを感じたのか。
    それは中途半端に消化器系の途中でとどまっているからだろう。
    『カラ兄』のようにかすりもしなければ放置できるし、『罪と罰』ぐらいわかりやすければ熱狂でそれはとどまる。
    なんと言うか、『悪霊』は私の中で何ともいえぬ“途中感”を残しているのだ。
    そんでこの症状が意外にも重いみたいで、次に軽めの本をわざわざ準備したのだが全く進まずスタヴローギンにすっかりとらわれて、彼についての考察を長らく重ねている。
    キリーロフやシャートフではない、ましてやピヨートルでもないのだ。やはりスタヴローギン。むしろそれしか残っていないほどに、彼にとらわれている。
    しかしスタヴローギンは私の今回読んだ限りでは、悪魔的と言うには、あまりにも一貫性や掘り下げが曖昧で、強烈な個性がドストエフスキーの登場人物にしては薄い。
    最後の最後になって、比重が増えて急に主役の座を横取りしたとしか思えないような存在なのだが、それが故にすっかり私は魅了されたようなのだ。
    いやドストエフスキーの小説ってのは最後に向かって緻密にいろいろなものが集約されて行くものだと私は考えている。それすらも『悪霊』はどこか曖昧なのだ。
    内ゲバが主題なのか、革命への批判なのか、無神論なのか、それとも悪徳に対する贖罪なのか。
    なんなのだろう。
    全部であり全部ではない。だからこそいろいろな誤解が生まれ、私は混乱したのだろう。
    いやもっと簡単な理由は見えていて、この途中感を私の中に残した最大の理由は告白の章が本編から抜けているからだ
    アレがなければこの本は全く意味がない。いわば最大の山場なのにそれが結末を読み終えたところで現れる。こっちほっぽって最後の最後にねたばらしして逃げられた気分。なんというか物足りないのだ。前後がつながらない。
    それに関しては作者と出版社側でかなりのやりとり、いやいざこざがあり、その曰わくがこんな結果を生んだのだが、それで全体が乱されてしまっている。あとの解説を詳しく読まないと理解が深まらないなんてどういうことだ。
    こんな批判をしたら夢にでも出てきて呪われそうだが、ドストエフスキー自体も望んでこんな形にしたわけではないのだ。
    時代が今であればこれは完璧な形で、成立できたろうに。
    ドストエフスキーの切り込みは時代に制約を受けたが、驚くべきは自身が時代の渦中にいながらも、むしろそれを敏感に、そして冷静に捉えていたことだろう。
    センセーショナルなそれが肝なのではない。第一、表現の自由や道徳観の変化によってかそれは今の私にはあまり驚きを与えない。しかし、それにまつわる心理模様には普遍性がしっかりと生きている。
    何を今更、と突っ込まれるかもしれないが、『カラ兄』ではわからなかったそれが何となく感覚的に理解できるようになったな、と今では思う。
    とまぁ、とりあえず今回は細かくは書かずに、この辺で撤退しておくかな。

  • 「完全な無神論でさえ、世俗的な無関心よりましなのです」雑誌連載時にはその内容ゆえに掲載を見送られた「スタヴローギンの告白」内で用いられる、上記の言葉が個人的ハイライト。そう、無神論というのは「絶対的な神が存在する場所に、絶対に何も置こうとしない」という思想を信仰する、一つの宗教的態度である。宗教に無関心な人にでも、星に祈りたくなる夜は来る。あなたが好きなものを語る時、それは一つの信仰告白が行われているということなのだ。それでも僕らは何かを信じずにはいられない、人は真に堕ちきるには弱すぎる存在なのだから。

  • 作家の思想と主人公の思想がどのようにリンクするのか背景知識不足でちょっと楽しめなかった
    ーーーーー
    1861年の農奴解放令によっていっさいの旧価値が崩壊し、動揺と混乱を深める過渡期ロシア。青年たちは、無政府主義や無神論に走り秘密結社を組織してロシア社会の転覆を企てる。――聖書に、悪霊に憑かれた豚の群れが湖に飛び込んで溺死するという記述があるが、本書は、無神論的革命思想を悪霊に見たて、それに憑かれた人々とその破滅を、実在の事件をもとに描いた歴史的大長編である。ドストエフスキーは、組織の結束を図るため転向者を殺害した“ネチャーエフ事件”を素材に、組織を背後で動かす悪魔的超人スタヴローギンを創造した。悪徳と虚無の中にしか生きられずついには自ら命を絶つスタヴローギンは、世界文学が生んだ最も深刻な人間像であり“ロシア的”なものの悲劇性を結晶させた本書は、ドストエフスキーの思想的文学的探求の頂点に位置する大作である。

  • 長年積んでいたもの。なんとか読了。ロシア文学(ドストエフスキーだけ?)は名前がややこしいし、一文が長くてくじけそうになった……。『罪と罰』は面白かったんだけどなぁ。

  • 重い。上巻からだったが、悪いこと不安な事悩ましい事しか起こらない。下巻折り返しで、怒涛の不幸&不運のジェットコースターが始まる。不幸と不運と悩みが登場人物の数だけ有って、それが全部混ざって、後味の悪い暗澹な結果となってしまった。本当に誰も救われない話だった。重い。

  • 疲れた…

  • 悪霊 (下巻)
    (和書)2009年09月15日 15:52
    1971 新潮社 ドストエフスキー, 江川 卓


    なかなか興味深い内容でとても参考になりました。

    ドストエフスキーの作品を再読してみたいなーと最近思っています。他にも彼の作品をどんどん読んでいきたい。

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著者プロフィール

(Fyodor Mikhaylovich Dostoevskiy)1821年モスクワ生まれ。19世紀ロシアを代表する作家。主な長篇に『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』『未成年』があり、『白痴』とともに5大小説とされる。ほかに『地下室の手記』『死の家の記録』など。

「2010年 『白痴 3』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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