- Amazon.co.jp ・本 (220ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102060179
感想・レビュー・書評
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大人ならこういのもちゃんと読んどかなきゃなと思い、チャレンジしましたが、やはり撃沈しました。しかし、思ったよりそこまで難解ではなかったです。
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自分の理性
「理性は人を幸福に導く」自分を信じて、理性が意識するがまま生きることによって幸福を得ることができる。過去信仰がその理性を左右したが判断するのはあくまで自分自身であると。現代、「理性」とは道理によって物事を判断する心の働き、とある。人は様々なヒト・コト・モノによって心が動かされるが、より多くのヒト・コト・モノに遭遇できることはトルストイの生きた時代とは違い幸運だと思う。よって判断できる材料をできる限り集め、自分に快適、且つ心地よい道が許され、自信を持って前に進むべきなのだ。 -
これまでずっと新しい定義に出会うたびに納得した風にして、でもどこか矛盾を感じていた疑問に対する答えを見つけられた一冊。これまで読んできた本の中で最も有益で有効で善良な一冊だと感じた。
生命とは何か、なぜ生きるのは苦しいのか、幸福とはないかというあまりに捉え難い抽象的だけど当事者であり過ぎるあらゆる生への答えを、どこまでもロジカルに教えてくれた。 -
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2020/11/08
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2020/11/08
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『人生論』トルストイ メモ
◯内容整理
・「動物的個我」と「理性の法則」という考え方。動物的個我は、生命とは誕生から死までの期間である、その限られた生命の中で幸福は人生を達成しなければならない、みたいな考え方。目に見える(偽りの)生命。人間は目に見える人生こそが自分の人生という確信に陥ってしまった。
→人間の幸福は、理性的意識の覚醒=動物的個我の幸福の否定によってはじまる。
・動物的個我における時間的、空間的条件は、真の生命に影響を与えない。(限られた人生の中でどう生きるか、みたいなことは、真の幸福には影響しない。真の幸福ではない)
→理性への従属を通じて幸福を志向する力は、向上させる力であって、時間的・空間的制約を持たぬ生命の力そのもの。(時間と空間がx,y軸なら、理性的意識はz軸のイメージ?)
・真の生命は時間と空間にかかわらない。
・人間の幸福は、動物的個我を理性の法則に対して従属させること。
→動物的生存を生命とみなすのをやめたとき、はじめて真の生命が始まる。
p95「生命を維持する食物を作るためにある鍬を使い惜しむ人間は、使い惜しみすぎて、食物や生命まで失う」
◯理性的意識とは
・動物的個我としての自分自身(この人生で何を達成すべきだろうか...みたいな)よりも、他の存在を愛するような状態を目指す。
・これによって、それまで個我の幸福に向けられていた活動全てを、全世界の幸福の達成に向けた活動に変えられる。
・真の愛は、動物的個我の幸福を否定する際にのみ可能。
・愛とは、自分、すなわち自己の動物的個我よりも他の存在を好ましく思う感情。
・他人に対しては悪意を抱くときに「わたしはどうでもいい、わたしは何もいらない」と言い、ほんのいっときにせよ、何一つ自分のために望まぬようにさせてみるとよい。
→そうすれば、それまで閉ざされていたすべての人に対する好意が心の奥から奔流となってほとばしりでるのを認識するだろう。
・ここで言う他人は、家族や友人のような選ばれた人への愛(動物的個我の一時的な幸福を増大させる対象)のみならず、自分以外の全てに対する愛。
・生命とは世界に対する関係であり、生命の運動とはより高度な新しい関係の確立であるから、死とは新しい関係に入ることである。
→(解釈)人との関係の中に自分の生命は存在し、新しい人や世界との出会いの中で新しい関係を築いていく、ということが生命の仕事。人(世界)との関係の中で、愛を増大させていく。
・人は死んでも、大切な人の心の中に思い出として生き続ける。世界とその人との関係は、死後も強く残された人々の中に作用し続ける。
→自己の動物的個我を理性のうちに従属させ、愛の力を発揮した人は誰でも、自己の肉体的生存の消失後も他の人々の中に生きつづけ、現に生きている。
・関係を確立することが、生命の仕事。
◯感想
自分に引き寄せると、動物的に、エゴイスティックに自分の幸せだけを考えるのではなく、「わたしはどうでもいい、わたしは何もいらない」と唱えて、理性的に生きてみよう、と考えた。
また、新しい人々と出会って、関係を築いていくという点は、ストンと腹に落ちた。自分自身、人は接する人との関係の中で磨かれていく(作りかえられていく)ものだと思っているので、どんどん新しい出会いに向かって踏み出していく人生にしたいと思った。
椎名林檎&トータス松本『目抜き通り』の歌詞の、「あの世でもらう批評が本当なのさ」というフレーズを思い出した。自分が死んだときに、自分との思い出が生き続ける人をどれだけたくさん作っていけるか(たくさんの関係を確立していけるか)
「関係」という言葉は自分の人生にとってとても重要な考え方だと思う。どういう人と生きて、どういう関係を築いていくか。そこに人生の本質があると思う。そんなことを考えさせられた。
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トルストイが晩年に残した本。現代科学が定義する「生命」に関して、痛烈な批判を展開しながら、人間が手に入れ得る新の生命、本当の幸福について議論して行く。
トルストイはまず、「個人の幸福の最大化が生命の目的である」であると現代科学によって信じられている事関して、幾ら自らの幸福を最大限にしようと行動した所で、いずれはその幸福感が個人から消え去り、その時に常に辛苦をなめねばならず、幸福を追求する存在として根本的な矛盾を抱え込んでいると指摘する。
その指摘を踏まえ、「個人の幸福」ではなく、心からの「他者の幸福を願う」その指向性こそがあるべき幸福の姿であり、ある人間が「他者の幸福」を求めて存在する様になる時、現代の一般多数が持つ間違った生命の観念から離れ、その人間の新しい生命が生まれる時だと説く。
また、そのような目覚めた人間は新たに生まれるだけでなく、この世にとどまらない永遠の生命をも手に入れると続ける。死とは単純に肉体的な消滅にすぎず、自らとこの世界の関係を絶ちきる訳ではなく、その自らがもたらしたこの世との関係は残り続けるので(e.g.他者の心の中)、真の生命に目覚めた者は死を畏怖すべき事象とは捉えない。
むしろ、一般的に、死というものが断続する事なく続く自我の「線」を断ち切る出来事だと認識されている事のほうが間違いであり、人間は時間の経過とともに常に同じ存在であり続ける訳はないので(昨日の自分と今日の自分の間では明らかに「眠り」という自我を断絶させる事象が起きている)、死をもって自我の消滅に狼狽するのは滑稽で仕方ない、との事らしい。
・・・。内容はかなり深遠であり、是非とももう一度読みたいと思わせるないようではあったが自分の中でのこの本の中身に対する拒絶反応は否めない。 -
この本は生命について書かれている。
幸福とは動物的個我を超え理性に従うことで達成される。
また、彼は愛を語り死をこの本の中で説いた。
「人」として生まれたこと、
そして理性を持っていること。
これがとても大切なことなのかもしれない。
本書にはたくさんラインマーカーで線引きをし、
ドッグイヤーで気になるところを目立たせました。
結果読み終わったころには思い出深い一冊になりました。
ところどころキリスト教徒の教えなどもでてきますが、
とても納得させられる作品です。
死については腑に落ちないところがあったので
何度も読み返してみたいと思います。 -
大変ディープな内容を扱ってはいるが、よく読むと納得できる部分が多く、さらに同じ内容を折に触れて反復している。深い作品だけにしっかりメモをとりながら読めば良かったと、読み終わってからしばらく経つ今になって後悔。
人間の生命は幸福への志向である。しかし、人間は理性という天性の特質ゆえに、動物的個我の追求によっては真の幸福を達成できない。なぜなら、不可避な死を認識してしまう以上、生きている間のいかなる個人の快楽も結局は無に帰す虚しいものであるという事実から逃れることができないからだ。根源的には満たされえない個人の快楽を追求する人々は、不可避な死から必死に目を背け、それに常に怯えながら生きていくしかない。
この個我としての人生に対する絶望から立ち上がり、真に幸せに生きるために必要なものこそが、全人類に対する愛である。自己ではなく他者の幸せを追求することに人生の意義を見出すならば、自分の死は全く恐れるべきものではなくなる。自分の死は、他の全人類の終焉を意味するものではないし。むしろ然るべき時に自分が死ぬことは人類全体の繁栄にとって必要不可欠なものであるのだ。
人生における、個人に起因しない理不尽な苦しみすらも、自らの生命を人類全体という視点から捉え、全人類との因果の鎖の中で見れば、自分の味わう苦しみは全人類が負っている罪(原罪?)に起因するものである。自分はそれを味わっているに過ぎないし、自分が味わうことによって他社の苦しみは軽減される。すなわち、理不尽な苦しみの耐えがたさも、人類への愛に追って軽減される。むしろ、これらの苦しみの、個人に限定された因果関係からは説明しがたい理不尽さは、生命を一個我として捉えるべきではないということを示している。
以上、本作品の要旨を私なりに整理した。しばしば論理が明確に示されないまま自明であるかのように断定に至る部分も少なからずあり、完璧に理解しきるには難しい、だが、偉大な思想家トルストイの人生についてのスタンスを学べたことに意義はあると思う。個我の快楽を否定し全人類への愛によって生きるという人生はいくら理性的ではあるとはいえ実際なかなか実行できないものではあると思うが。
自分のために内容を整理した感が強いのでとても長くなってしまってごめんなさい。
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ダメだー。途中で挫折。相当気合入れて読まんと無理だなー。しばし積読へ。
たちまち、目的と手段を履き違えるな、ってことは分かりました。 -
生命や愛、死についてのトルストイの考察。
人生において、動物的個我に執着するのではなく、それを理性的意識に従属させることで、生命や死の本来の姿が見えてくる、というのが、一番の主張でしょう。
生命は苦しみの連続であるが、苦しみこそが快楽を引き起こし、生命をさえ動かす、という考え方に非常に魅力を感じました。死についての考察にはいささか違和感がありますが。 -
むずかしい!!!ので、なかなか進まない。
人間の幸福について語っているのだが、確かにそうだ!とうなずける文言がいたる所で出てきます。 -
「人間は、何のために生きなければいけないのか?」
おそらく今、哲学と呼ばれる学問が生まれてから、いや人が言語を使うようになってからずっと考え続けられていたであろう、命題に対して、トルストイが答える。
「自らに対する愛を捨てよ。そして本能が望むものではなく理性的な意識をもって、他の存在をいつくしみ、それらの幸福を追求せよ」
自己満足で終わっている、自分の利益を考えて、活動している以上、幸福は得られない。
苦しい人生を送る事になるのかもしれない。裕福には過ごせないかもしれない。でも、真に幸福であるとは何なのか?人から存在を認めてもらうことではないのか。たとえどんな事があろうと、人に信頼されること。それだけでも十分生きる意義ではないか?そしてそれに応える意味でも、ノーブレス・オブリージュ、すなわちその信頼に応える価値を提供すれば良いのではないか。。ちょっと考えがまとまらない。。 -
感銘を受けた。
聞くと、父は高校生の時にハマったそう。
私が高校生のころは太宰治にハマっていて、トルストイは読まなかった。
父が高校生でこの思想にハマってたんだと思うと感慨深い。 -
2023.11.28読了
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非常に難解な文章だった。人生論とあるが、幸福論としたほうが相応しいような気がする。
人間は動物的自我によって自分個人の為の生き方に疾走ろうとし、それこそが幸福であり生活の凡てだと思い込む。しかし、あらゆる人間が自分個人の為に生きると考えると、その為には他人を排除しようとする者が出てくる。とすると、自分個人の幸福とは容易に手に入るものではない。ましてや病気、衰え、死などが刻々と近づいているわけである。それを避けることはできないし、そうなると自分個人の幸福はまやかしのようなものであることに気づき、人生の矛盾にぶち当たる。
したがってほんとうの幸福の為には自らの動物的自我を理性的意識に従わせる必要がある。そこから発生するのが愛である。愛とは自分個人の幸福よりも他者への善、自己犠牲を伴う行為である。真の愛の為には死をも恐れなくなるのだ。
拙い要約としてはこういう内容であった。おしまい。
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トルストイだもの、覚悟はしてたが、予想以上に難解だった。解説にあるとおり、表題は『人生論』より、『生命について』の方が相応しい。一文一文、噛みしめるように読み進め、なんとか最後まで読了。
「人間の生命は幸福への志向である。人間の志向するものは与えられている。死となりえない生命と、悪となりえない幸福がそれである。(p247)」
結びのフレーズは、読了した者だけが味わえる高揚感がある。