ボヴァリー夫人 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (660ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102085028

作品紹介・あらすじ

娘時代に恋愛小説を読み耽った美しいエンマは、田舎医者シャルルとの退屈な新婚生活に倦んでいた。やがてエンマは夫の目を盗んで、色男のロドルフや公証人書記レオンとの情事にのめりこみ莫大な借金を残して服毒自殺を遂げる。一地方のありふれた姦通事件を、芸術に昇華させたフランス近代小説の金字塔を、精妙な客観描写を駆使した原文の息づかいそのままに日本語に再現する。

感想・レビュー・書評

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  • 新訳ボヴァリー 買ってしまった。
    シャルル・ボヴァリーが人畜無害のいい夫であることは、妻の幸福度とはまったく無関係。
    足るを知れとか、神に感謝せよとか、お門違い。
    夫に一瞬でも負い目を感じるくらいなら死んだほうがマシ、と本当に死ぬ妻。
    一種の憤死。潔し。
    文字どおり死ぬほど嫌悪される夫とはなんなのか。
    ただ生きているだけの愚鈍な夫は、存在自体が罪。
    それをこんな昔に、男が著しているのも面白い。
    人間ってずっとこんなだったんだな。
    やはり傑作。
    ボヴァリー夫人は、わたしです。

  • 文芸作品を読んで「では主人公はどうすべきだったのか」みたいなことを考えるのは粋ではないし見当外れだとわかってはいる、けれどエンマはどうしたらよかったんだろう。やることがないから火遊びにドはまりして、だれにも止められなかった。『アンナ・カレーニナ』のアンナと同じで、だれも止めてくれない。さびしい。

    エンマのやっていたことが村の人たちにばれていなかったとも思われず、それなのにシャルルにもだれも忠告してあげなかった。人間はいやだなあという気持ちで読み終わった。しかし引きこもって暮らすには人生は長い。

  • 吉田健一の『文学人生案内』第一章「文学に現われた男性像」に小説には女性が華やかに、かつ悲惨に焦点を当てられ中心になって描かれているのが多い、男性には光が当てられてない、 という記事にはわたしは目をひらかれる思いだった。

    吉田氏はこの本の中で「フローベルの『ボヴァリー夫人』」という章で詳しく、文学論のような感想をも書いていてらっしゃるのだけど、第一章のように副主人公の男性ボヴァリー氏については掘り起こしていない。

    ただ、「フローベルは人生など何ものでもなく、充実か虚無かのふたつであると思っている思想のもとに描いた」と結論付けている。

    しかし先の「文学に現われた男性像」に吉田氏が触れられているのは、田舎娘エンマをボヴァリー夫人にするだけのボヴァリー氏ではない、読者に印象付けられる特異な人物なのであるという。

    そう、ボヴァリー氏は脇役ではない、最初から最後まで登場するというだけではない、夢見るばかりで実人生をふわふわ追いかけ、きれいなものが好きで、浮気や浪費を限りなくするエンマ・ボヴァリー夫人を強烈に愛するエネルギーある人物なのである。

    どうしょうもない女性を愛してしまったら、一緒に奈落に落ちるしかない、強い強い男性なのである。だからエンマが破産して自殺してしまったら、抜け殻となり死んでしまう、生ききった男性主人公なのである。

    それで「ボヴァリー夫人はわたしだ」と作者は言ったのだと思う。

  • 本書を読んでいると、妻から「いやらしい!『ボヴァリー夫人』って、いやらしい小説でしょ!?」と言われたのであった。どこから、そういうイメージを抱いたのかよくわからない。情事をこってり描いた映画化作品があったのかもしれない。ちなみに、この小説で描かれる情事らしき場面は、きわめて淡白で間接的な描写にすぎない。
     
     フランス、ルーアン市近郊の小さな村ヨンヴィル。時代は、どうやら1850年頃らしい。ボヴァリーとは、実は若い開業医の名前。その妻エンマそのひとが「ボヴァリー夫人」なのである。乱暴に言えば、エンマは、ファムファタル、そして愚かな女なのであった。
     エンマは、夫シャルル・ボヴァリーと結婚してほどなく、夫を覇気も野心も才能もないつまらない男と感じ、現実を見ず常に夢見がち。別の男性との恋愛だけが、自分を別の幸福に連れていってくれる、と信じこんでいる。村のレオン青年と昵懇になり、次は、隣村の裕福な独身男ロドルフといい仲になる。だが、ロドルフは駆け落ち前夜に遁走。(エンマに飽きはじめ、うんざりしはじめていた。)そういう、男の飽きやすさや、身勝手さずるさはよく描かれている。その後、エンマはレオンと再会。彼と再び恋仲になる。
    面白いのは、夫シャルルは、妻エンマの不義不倫に最期まで気づかないこと。かなりのお人好し、あるいは、単に鈍いおとこなのか。(死後しばらくしてようやく、自室の恋文を見つけて驚愕する。)
     
    エンマは度を越したバカ女だ。相手をほんとうに愛しているのではない。現実逃避のよすがとして、恋愛関係に夢見心地になっているだけ。哀れで痛々しい。不倫のために小都会ルーアンのホテルにしけこんだり、衣装や宝飾品を購入するうちに莫大な借金を背負う。その額8000フラン。(いかほどの金額?)もはや、自身はもちろん、夫の開業医のしごとも、すべてを破滅させる巨額の負債。転落の途を転げおちてゆく。だが、それでも、エンマはその厳しい現実を直視しようとしないのであった。

    エンマの独白
    『自分は幸福ではない、一度だって幸福だったことはない。いったいなぜこのように人生が充ち足りないのだろう…(後略)』p513(3部6章)
    同時に、愛人からもかく評される、
    ロドルフの独白
    『ああいう女に道理を分からせることがはたしてできるというのか!』p362(2部13章)

     単なるファムファタル、というよりも、実生活の現実を見ず、ありもせぬ幸福を幻視しつづけることの愚かさを感じた。
     物語は、悲劇的な結末に至る。なのだが、エンマの通夜や葬儀の過程でも、終始滑稽な場面や描写がつづいてゆく。これは悲恋や悲劇でなく、むしろ喜劇なのではないか。私はそう感じている。

     そのほか、印象に残ったのは、周囲の人間たちの俗物さ。とくに村で薬局を営むオメーという薬剤師。愚鈍気味のシャルルをそののかし、“最新医術”として、脚の調子の悪い村の男に手術させる。功名心のためだ。だが、不幸にも手術は失敗、脚は壊死となり、男は片脚切断の憂き目に遭う。しかも麻酔無しで脚を切られる。なんとも可哀想な男だ。薬剤師オメーは、その後もさらに虚栄心にとりつかれ、低劣で俗な論文を書きちらかすのであった。
     終幕、エンマの悲劇が終わったあとも、しばらく、オメーのその後について描かれるのが興味深い。エンマの物語として幕は降りないのであった。
    この小説は、人間の俗物さ、愚かさが主題なのでは?というのが読後の感想だ。

     ちなみに、薬剤師オメー氏は“おなじみ”レジオンドヌール勲章を授与される。トルストイ「戦争と平和」の話中でナポレオンが授与するレジオンドヌールはなにやら権威を感じさせた。だが、オメー氏の授与で、私のなかで同勲章の権威はガタ落ちとなったのであった。

     翻訳に関して。訳者は「自由間接話法」に限りなく忠実に訳したという。主語や話者が、はっきり区別されないまま、文中で自在に転じてゆく。そのため、小説を読みなれていないひとには、この訳は読みづらいかもしれない。

  • 装丁が水色で夫人の後ろ姿の後毛まで。
    フローベールの文章に忠実に訳してあるそう。


    ルルー氏のとりたてが執拗で、上乗せしてたんじゃないかなどど思った。378
    エンマは、いいようにおだてられてしまったけど、このルルーの悪党ぶりには天罰でも降らないかと思ってしまう。

  • 配偶者や恋人以外の男女に心が傾くことを浮気と呼ぶのは実に言い得て妙だ。足が地につかず、まさに気持ちがフワフワと浮き立つ如きその感覚は、恥ずかしながら私自身にも経験がある。以前読んだ桐野夏生著「柔らかな頬」のなかで、不倫相手と密会する主人公が「このまま彼と生きていけるなら子供を捨ててもいい」と考えるのだが、これは誇張でも何でもなく実際そんな風に思えてしまうものなのだ。本書の帯に記された「甘い恋の毒が人妻を狂わせる」のキャッチコピー通り、悦楽と陶酔さらには高揚感をもたらす浮気の作用はもしかすると麻薬に似ているのかもしれない

    少女の頃から数多の小説を読み耽り、劇中のヒロインが胸焦がす洒落たロマンスに夢中だったエンマにとって、恋愛や結婚とは美しく魅惑的なイメージを伴う出来事のはずだった。従って、ほぼ成り行きで契りを交わす運びとなった夫シャルルの鈍感さや野暮ったさを激しく嫌悪し、どうにも我慢ならなかった彼女の気持ちは何となくわかる。だからって不倫をしていいとは言わないけども、あまりにも理想と現実のギャップが大きかったのは事実だ。夫はおろか、娘も顧みず(娘は乳母が養育)、手練手管の色男ロドルフや年下の青年レオンとの情事に溺れ、嘘と借金を重ねたエンマの行いは良識ある方々からすれば浅薄でふしだらにしか映らないだろう。しかしながら、そんな彼女のことを映画「リトル・チルドレン」のなかでは、良妻賢母などという如何にも男本位の社会が仕立てた枠組みを一蹴し、自分の好きなままに生きた、前時代におけるフェミニストと言及しており、個人的にその見方はあながち間違いではないようにも感じられる

    最後にエンマは服毒自殺を遂げるのだが、文字通り彼女にとっては結婚が人生の墓場となってしまった。エンマの死後、シャルル・ボヴァリーとロドルフが偶然顔を合わせる場面は出てくるものの、レオンについての描写は一切ない。彼が元愛人の選択をどう受け留めたのか、ちょっと気になるところだ

  • 最初は冗長に感じたが、読み進むうちに繊細な情景描写や感情表現にぐいぐいと引き込まれた。文学史上に残る傑作だと思う。翻訳も丁寧で読みやすい。

  • 19世紀フランス文学の名作。モームの世界十大小説のひとつ。原文に忠実な訳文を目指したという日本語最新訳。

    恋愛小説のような情熱的な恋に憧れていた少女が、うっかり平凡な結婚をしてしまった反動で引き起こしてしまう壮絶な不倫劇。不倫にまつわる情動の燃え上がりや苦悩の激しさをあますことなく描き切り、恋愛と結婚の本質に芸術的な迫力で切り込んでいる。こういうドロドロとした話を目にすると「昼ドラ」という単語が頭に浮かんでしまうが、内容そのものは実際、現代においては目新しいものではないのかもしれない。しかし酸いも甘いも噛み分けたようなフローベールの筆致は並みのエンタメでは味わえない凄まじさがあり、読み継がれるべき名作なのは間違いない。

    この新潮文庫版、裏表紙の紹介文で盛大なネタバレをかましているので、これから初見の人は注意。いくら有名な古典といっても初めて触れる読者もいるだろうし、配慮がほしかったところ。

  • エンマとシャルルのような組み合わせってこうなるよね。うん、身近で見たことあると思ってしまいました。やっぱりフローベールの小説はなんだかつらい。

  • 翻訳が馴染まないと思って読んでいた。解説に、著者と同じ読点を使ったと書いてあり納得。原文の雰囲気を取るか、日本語にした時の自然さを取るかは難しいところだ。ボヴァリー夫人も、もう少し落ち着いた口調の方が合うのではとか、物語以外のことをたくさん考えてしまった。海外文学は翻訳で登場人物のパーソナリティも全てが変わる。他の翻訳も読んでみたいと思った。

    鹿島茂の本に、ボヴァリー夫人は3人いる、と書いてあった。そういえば、初めの方に何人もボヴァリー夫人がいて混乱した。シャルルの母、最初の妻、後の妻だ。この3人が凡庸なシャルルを成功させようとする物語という見方もあるという論に、本作の深さを感じた。

  • ネットで、「高校生・大学生が読むべき本」のリストに入ってて興味を持ったから読んでみた。

    文体に慣れるまでめちゃくちゃ時間がかかって挫折しかけた。
    前半はどうでもいい描写がやたらと長い…
    1/3読んでも難しくて止めようかと思ったけどやっと話が進み始めてなんとか最後まで読めた。
    一文の中で主語がころころ変わっていく。
    慣れてくると癖になる。

    どんどん破滅に向かって行くのが、なんだかもうそれでいいような気になってくる…
    みんな自分勝手で、娘が一番可哀想。

  • でたらめな父親と、気位の高い母親にふりまわされて
    シャルル・ボヴァリー氏は自分では何もできない男だった
    親の言うまま勉強して医者になり
    親の言うまま資産ある中年女を嫁にとった
    しかし患者の家で出会った若い娘と恋におち
    初めて自らの意思を持ったシャルルは
    熱愛のさなか妻が急死する幸運?にも恵まれ、これを成就させるのだった
    この第2の妻が、物語の中心人物エンマ・ボヴァリー夫人である

    シャルルは自分の意思を達成したことに満足していたが
    エンマはすぐに幻滅を味わった
    彼女をおそう退屈は、ただの退屈ではない
    娘だった時分、小説を読み過ぎた彼女にとってそれは
    自尊心を貶め、つまらない女であることを強要する暴力の日常であり
    そして彼女はその凡庸さに仕える自分を被害者と信じていた
    自分ではなにも決められないという部分で
    実はエンマもシャルルも似たものどうしだったが
    ただ曲がりなりにも巡ってきたチャンスを掴み
    自己実現を果たしたシャルルの余裕に対し
    エンマはわけもわからず焦れていた
    美しさは人並み以上だったので、不倫の相手に恵まれるが
    相手との温度差にも気づかず、真剣にのめり込んでいく始末
    悲しい人だった
    夫の凡庸さを軽蔑することで自意識を保ち
    また自分を高めようとショッピングにのめり込み、散財を重ねれば
    あとは破滅への道をまっしぐらに突き進むのみであった

    エンマのそういう有様は
    ひょっとするとあり得たかもしれない若き日のシャルルの
    人生の可能性でもあった
    その運命を分けたのは神のみわざか作者の意図か

    少なくとも語り手は、観察者の立場を逸脱しないよう配慮している

  •  主人公エンマは自分が既に持っているもの、手を伸ばせば届くものには幸せを見出さず、だから遠くにあるもの、かけ離れたもの、失ったもの、身分不相応のものを追い求める。その気質は奇しくも彼女の忌み嫌う市民的な平凡さそのものとして描かれているように感じた。おそらくフローベールもそのように意図して書いているのだろう。
     対して夫シャルルには特別の同情を禁じ得なかった。ただただ可哀想。
     文体や自然描写は悪くはないけれど、一文一文が長くて難解。もう一回読まないと全然分からん。フローベールは自由間接話法を初めて小説に取り入れたとされているそう。私は語り手と登場人物が一体となって臨場感のある、この文体が結構好き。

  • よく、繊細で精密な絵画なんかを、よく書き込まれていると表現するけど、小説に対して書き込みがすごい、と初めて感じた。細すぎて回りくどい、とはならず、情景がありありと目に浮かぶようで、より物語に没頭できた。

    それにしても金、恋の恨み…おそろしいね。。(この一言では収めたくないけど)笑

    1856年✏️

  • 本館

  • 美しい夫人の不倫を描くフランスの近代文学の名作。
    恋に憧れ欲の尽きることのないエンマと、足るを知るシャルルの相性は最悪で、人の幸せは多様なことがよくわかります。
    ちゃんと働いて(しかも名声はないとはいえ医者!)、無謀なことをしない、日々の暮らしで十分満足できるシャルルに共感できるだけに、彼と夫婦の子供がかわいそうでしょうがないです。
    あと、当時の交通手段に欠かせない馬の扱いがひどすぎるのもあわれです。
    情景描写が緻密で、物語の筋を忘れかけることがしばしばなので、スキマ時間のちょい読みには向いていないと思います。
    一文の中で主語が変わる箇所が何回も出てくるため読みづらいのですが、これは自由間接話法というそうで、原文を忠実に訳しているらしく、そういったことが最後の解説に書かれています。読み始めて「?」となり、解説を読んだら、だいぶ理解しやすくなりました。
    (津村記久子「やりなおし世界文学」で紹介)

  • 凄まじいバカ夫婦の物語笑
    テーマとしては今日的にありふれたものだけど、その時代に何がそんなにこれがウケたのだろう?
    ーーーーー
    娘時代に恋愛小説を読み耽った美しいエンマは、田舎医者シャルルとの退屈な新婚生活に倦んでいた。やがてエンマは夫の目を盗んで、色男のロドルフや青年書記レオンとの情事にのめりこみ莫大な借金を残して服毒自殺を遂げる。そして――。

  • 足るを知らない人間の破滅劇。

    夫の鈍感さ(なにも気づいていないふりをしていたのか?)も相まって、救われない。

  • 『ボヴァリー夫人』

    「そろそろやばいかな」とかこの若妻は思いません。
    元祖ゴーイングマイウェイな”ボヴァリー夫人”。

    若い時の夢見がちな空想って、
    いつしか現実と向き合う時間が増えるにつれ
    にこやかに送り出せるものだと思うのですが、
    (と言うかサヨナラせざるを得ない…?)

    この妻、諦めない。
    夢想で無双。

    ナボコフは『ナボコフの文学講』の中で、
    「俗物の中の俗物」みたいな勢いで彼女を評していましたが、今で言うと

    スイーツ大好きインスタ映え命の韓流ドラマ大ファン女子って感じでしょうか。
    (悪気はないです。例えね例え。)

    もうね、ここまで貫かれると賞賛しちゃう。
    あっぱれだよあっぱれ。
    最後のほうなんてむしろちゃんとやりきってくれよって若干思ってた。

    1857年の作品が、2023年に新訳で読めてるってもうやべーことだと思うのですが、
    何でそこまで語り継がれているかって言うと、
    当時のフランス文学をガッツリ変える革命を起こしているからなんですねぇ。

    起こっている事を何もかも知っている俯瞰の第三者に語らせるという物語進行をせず(神の視点の排除)、
    話者がかわるがわる交代することにより
    それぞれの主観を際立たせ、感情移入を容易にしている。

    つまり話者が、
    誰かがこちらへ向かっているけどそれが誰かは分からないという状況なら、
    我々読者も誰が来るのかわからない。

    こういったミステリアスな仕掛けが、個々の文章や小説全体から受ける印象を形作っており、
    まさにハラハラドキドキソワソワの追体験を読者に提供してくれています。

    そして当然ストーリーとしても面白い。
    これは当時のフランスで意欲作というか、
    最早喧嘩腰作ですね。やるやんフロベール。

    うまいなこの料理ってなって、
    複雑な調理法や意外な材料を考えながら食べることもできるし、
    「とりあえずうまい」とそのものの全体の味を楽しむこともできちゃう、と盛り沢山でありました。

  • 初夜のあとシャルルがむしろ処女だったみたいでエンマはスンとしてたのウケる
    「彼女が知らない場所で寝るのはこれで四度目だった。(中略)そして、そのどれもが自分の人生に新たな段階の幕開けをもたらしてきた。場所が違うので、同じことがまたしても起こるかもしれないなどとは思えず、これまで体験してきた部分がなにしろ辛いものだったので、たぶんこれから味わうべきものは、もっとましになるだろう。」
    「男の子を持つというこの思いは、これまでできなかったさまざまなことに対するひそかな復讐のようなものだった。少なくとも、男なら自由で、どのような情熱もたどれるし、いかなる国々も駆けめぐることができ、あらゆる障害をくぐりぬけ、どんなに遠くにある幸福でも食らいつくことだってできる。ところが女はしじゅう思うようにいかない。女は活発さに欠けるだけでなく従順だし、意に反して肉体の軟弱さを持ち、法に縛られやすい。」
    「自分の魂を奪ってくれるなら、生活をまるごと消し飛ばしてくれるなら。どんな深い信仰にも身をささげてみようという気になっていた。」
    「エンマもほかのどの情婦とも似たり寄ったりで、そして、目新しさの魅力は少しずつ剥げ落ち、衣服と同じことで、そうして目にする裸は、お定まりの恋情の単調さで、恋情はいつも同じ形をしており、同じ言葉づかいをするのだ。じっさいの経験をつんでいるこの男も、同じ表現を浴びせられると、感情の違いなど見きわめようもなかった。というのも、放埒な唇や金で買った唇にも同じ文句をささやかれていたからで、彼はエンマの言葉の純真さをろくすっぽ信じられず、凡庸な情熱を秘めている大げさな愛の言葉は割り引いて聞くべきだと思っていて、まるで心が充ち足りると、ときどきじつに空虚な比喩がこぼれでるようなもので、なにしろだれであれ自分の欲求や想念や苦悩が正確にどれほどのものか示すことなど決してできないからで、さらに人の言葉は音の狂ったひどい楽器のようなものだからで、空の星までほろりとさせようとしても、熊を踊らせる節回しを打ち鳴らすことにしかならないのだ。」←心当たりありすぎ

  • 田舎の退屈さに倦む恋多きエンマの破滅への道。つけ入るロドルフ、レオンはやがては退いてしまう。狡猾なルルーに莫大な借金を負わされ服毒する。献身的な夫シャルルが哀れ。推敲を重ねた文体からの翻訳が馴染まないのか読み終えるのに随分かかったが満足。2023.3.21

  • 金の切れ目は縁の切れ目ということが大変よく分かる恐ろしい小説。しかしまあ、バルザックにしろスタンダールにしろディケンズにしろ、昔のヨーロッパの小説というのはどうしてこんなに面白いのだろう。そして、この面白さはどこに消えてしまったのだろう。

  • 大学で後輩が『ボヴァリー夫人』の劇をやるというので、内容を確認するために読んでみた。

  • 『戦艦ポチョムキン』を新作として見るようなものか。翻訳に違和感を覚えながら読み終えたが、解説にその理由が書いてあった

  • 2021.09.10

  • 最初から最後までエマには共感できず。シャルルとベルトーがただただ可哀想。結局ロドルフもレオンもエマとのことは遊びだったようなもので。何というか不倫は昔も今も惨めでだれも幸せにならないものなんだなぁと思った。情景描写はすばらしかったです。

  • 途中棄権。ストーリーの流れよりもその場その場の情景描写が緻密すぎて、読んでいて少し疲れました。さっと脳に入ってこない。翻訳だから仕方ない部分もあるし、もちろんこれがこの作品の凄さの一つなんだろうけど。話がずっと足踏みしてなかなか進まない印象。あまり物語に入り込めませんでした。

  • 冷静で緻密な描写に終始圧巻される。
    ストーリー自体は現代ではありふれた転落劇だが、これでもかと積み重ねられた情景描写が雄弁で士気迫ってくるものがある。
    農業共進会でのロドルフとの逢引シーンが素晴らしい。
    役者あとがきまでボリューム満点で満足度が高かった。
    シャルルは何も悪いことはしていないし一貫してかわいそうではあるけど、エンマの嫌悪する気持ちもわかってしまう。

  • 風とともに去りぬからの流れで読んでみましたが、あまり共感できる部分もなくちょっと退屈でした。

  • 解説でフローベールが取り入れた新しい文体ということを意識して訳されたということを理解しましたが、やはり読んでる時は読みにくいなあ…とずっと思ってました。革新的な文体故に評価されているのだとしたら、翻訳するとその彩度は失われてしまうわけで、素晴らしさを掴みきれない。難しい。
    ボヴァリー夫人は浮気気質だし…夫の金を間男の為にも嘘をついて使い込むあたりもアホ女としかいいようがない。好きにはなれませんでした。

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著者プロフィール

1821年生まれ。19世紀フランスを代表する小説家。主な作品に、本書のほか『ボヴァリー夫人』『聖アントワーヌの誘惑』『サラムボー』『三つの物語』『紋切型辞典』『ブヴァールとペキュシェ』など。

「2010年 『ボヴァリー夫人』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ギュスターヴ・フローベールの作品

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