スパイよさらば (新潮文庫 フ 13-18)

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  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102165188

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  • すべては生きるためだった。
    大戦終結後、ナチス・ドイツが併合していたオーストリアは英仏米ソが分割占領した。同時にウイーンは各国諜報機関の主戦場となった。ナチ戦犯追及機関の職員フーゴ・ハートマンは、頭脳明晰な現地工作員を求めていたKGBに勧誘され、フリーランスのスパイとなる。その1年後にCIAが接触、二重スパイとなった。ミッションは個別に遂行し、尻尾を掴まれることはなかった。少なくとも、一方を裏切るようなミスは冒さなかった。長きにわたり着実に成果を上げ続け、高い評価を得て、充分なカネも蓄えた。機は熟した。心の支えとなっていた愛人レベッカとの新たな生活を始めるために、男は引退を決意した。

    ジャック・ウィンチェスター名義による1980年発表作。比較的短い作品だが、エスピオナージュの魅力を凝縮、フリーマントルの類い希なる力量に圧倒される傑作だ。原題は「The Solitary Man(孤独な男)」、あとに「Iron Cage(鉄の檻)」と改題している。東西冷戦期、両陣営の雇われスパイとして歩んできた男が、ようやくの安寧を得ようとした時、鉄の檻へと引き戻され、残酷な孤独へと落ちゆくさまを極めてドラスティックに描いている。
    あまねく不信と裏切り。虚構が現実を凌駕し、いつしか〝真実〟として罷り通る世界。油断すれば一瞬で押し潰され、一切が闇へと葬られる。身を守るために、どう抗い、戦うか。
    フリーマントルは、逆境を逆手に取り、培った智力の限りを尽くして意趣返しする男を好んで描く。チャーリー・マフィンはその典型だが、本作のハートマンの苦闘はより壮絶で、重い。

    スパイ稼業からの離脱を仄めかしたハートマンに対し、KGBとCIAの両監督員(コントロール)は、異口同音に警告する。「先に待ち受ける運命は、ただひとつ」と。両組織にとって、ハートマンは「知りすぎていた人間」だった。どれだけ利用価値があろうと、組織に属さない者は所詮使い捨ての駒に過ぎない。問題が生じれば、「存在しなかった」ことで片が付く。掴みかけた未来が脆くも崩れ、重苦しい焦燥が男を危険な賭けへと向かわせることになる。
    ハートマンはCIAが依頼してきたナチ残党狩りの仕事をこなしつつ、計画を練る。そんな折、人生を変える瞬間が訪れた。ニューヨークで或る人物へと流れたカネを追っていたハートマンは、予想だにしなかった男に行き当たり愕然とする。いまだに悪夢の中に登場する鬼畜、ラインハルト。湧き上がる恐怖。それ以上に、煮え滾る怒りで全身が打ち震えた。逆流した過去が男を襲う。

    すべては生き残るためだった。
    この世の地獄、ホロコースト。結婚したばかりのハートマンは、妻ゲルダと共に捕らわれ、ベルゲン・ベルゼン強制収容所送りとなった。あとにニューヨークで目撃することになるラインハルトは、不条理な暴力で囚人に恐れられた収容所員だった。この醜悪なナチス崇拝者は、美貌のゲルダを〝所有〟し、陵辱した。妻の犠牲によって、ハートマンは同胞を監督するカポの特権を獲得し、卑しくも死を逃れた。恥辱よりも勝る生存本能。それが現実だった。ラインハルトへの復讐心も生に執着する動機となった。やがてナチス・ドイツは敗北し、二人は生還した。その後、長男デイヴィッドを授かるが、夫の命を救い、あれほどに気丈だったゲルダは、間もなくして発狂した。

    ゲルダは正気に返ることなく、死へと向かっていた。精神科医として大成したデイヴィッドは、母親を狂気へと追いやった父親を憎悪し、親子関係は冷え切っていた。ゲルダ、デイヴィッド、ラインハルト、そしてレベッカ。それぞれとの〝清算〟も大きくのしかかった。一度は逃れた濁流にのみ込まれ、溺れもがくスパイは己の歩みを振り返り、思い付く。再び生き延びるための策。すべてを終えなければ、始まらない。そして、何もかもがハートマンを〝無〟へと押し流していく。スパイとの決別とは、それまでの人生との決別に他ならなかった。

    凡庸な作家であれば、甘美なラストで締め括るだろう。だが、フリーマントルは徹底して冷徹な視点を崩さず、〝幻想としての愛〟の脆さを抉り出す。積年の怨みを果たす刹那、ハートマンが吐く衝撃的な事実。愛する女が浴びせる痛切な言葉。不信と裏切りの世界を生き抜いてきた男が、唯一侵した過信。それを〝罪〟と呼ぶにはあまりにも惨く、〝罰〟と喩えるにはあまりにも哀しい終局が待ち受ける。
    安易なカタルシスを拒否するが故に、鮮烈な余韻を残す幕切れ。実に見事だ。

    フリーマントルは、ジョン・ル・カレに比べれば〝軽い〟評価に甘んじているようだが、元ジャーナリストならではの批判精神、人間の業を掘り下げる炯眼、娯楽小説としての完成度は、決して引けを取らない。逆に、文学的香気にこだわる晦渋なル・カレ(特に中期)は、スパイ小説を敬遠する読み手を増やす要因ともなっていると個人的に捉えている。多作でありながら、フリーマントルに〝ハズレ〟は無い。常に高いクオリティを保ち、緻密なプロットと圧倒的なサスペンス、何よりも息遣いさえ聞こえてくるような人物造形の巧みさに唸り、スパイ小説の虜となるだろう。
    本作はフリーマントルの技倆が光る名篇の〝ひとつ〟だが、エスピオナージュの真価は、紛れもなくここにある。

  • フ−13−18
    購入後行方不明

  • 実は別名義で出版されたのですが、それでも完成度の高さで評判になった作品
    どこまでも皮肉な巡り合わせは、チャーリーマフィン物に通じます

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