時間の園丁

著者 :
  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (181ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103129080

作品紹介・あらすじ

二十世紀音楽に偉大な足跡を残し、世界中の音楽愛好者に惜しまれつつ逝去した、作曲家・武満徹。その洗練の極みを尽くした美意識と峻厳な批評精神を余すことなく示した最後のテクストを纒める。

感想・レビュー・書評

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  • 武満徹は、こう書き出している。 曰く、私たちの耳はきこえているか、  既に、あらゆる歌はうたわれ、私たち、ひとりひとりが、待ち期む美も、世界に偏在している。 目を凝らし、耳を澄ませば、その総てのうたやことばを読み取ることができるはずだか、 世界に、既に書かれ、うわたわれ、描かれたものたちは、未だに私たちの周囲に息を潜めて、見出され、読み解かれることを待ち望んでいる、 と。 そういうものかも知らん、

  • 450

    武満徹のエッセイに好きな世界観とか物とか人が全て詰まってることに気づいた。ちょっと詩的なエッセイだからインスピレーションを受けられる感じがする。

    武満徹がジョン・ケージとハワイ島でキノコ狩りをして、キノコが好きになった話面白い。理由は不意に現れて、直ぐに消えてしまうまるで音のような存在だかららしい。

    きのこは不思議な存在だ。不意に現れて、直ぐ消えてしまう。まるで音のようだ、と言ったら、 とに嗤われるだろうか。私がきのこに関心をもつようになったのは、何といってもジョン・ケージの影響が大きい。昔、ケージと共に過ごしたハワイ島でのはじめてのきのこ体験。それについては既に たのでここでは触れないが、そのあとも幾度かケージにつれられてきのこ狩りを楽しんだ。八月の半ばにそのケージの訃報が届き、今年の秋はいっそうもの哀しいものになった。
    いつだったかケージに、なぜきのこにそれほど興味をもつのか訊ねたら、英語の辞書では音楽ときのこは隣合わせだからさ、という答えが返ってきた。ケージ一流のユーモアだが、 そうだ。「音楽」という囲いの中だけで、音の人工栽培に夢中になっているような音楽の不自然さを、ケージは、皮肉としてではなく、ユーモアで指摘したのだろう。

    テレビとは何と落ち着きのないものだろう。絶えず音を発している。それにテレビ出演の常連たちはなぜいつもああ切羽詰まったような昂ぶった調子で喋るのだろう。たぶんあれはコマーシャルで寸断されるのを怖れて、その前に少しでも多く自分の存在を印象づけようとするからだろうか。 知らぬ間にそれは習慣になり、また相互にそれが助長されて、騒ぎはいっそう大きくなる。

    私の音楽は、たぶん、その未知へ向けて発する信号のようなものだ。そして、さらに、私は想像もシグナルし、信じるのだが、私の信号が他の信号と出合いそれによって起きる物理的変調が、二つのものをそれ本来とは異なる新しい響き(調秘)に変えるであろうことを。そしてそれはまた休むことなく動き 、変化し続けるものであることを。したがって私の音楽は楽譜の上に完結するものしろそれを拒む意志だ。


    詩の起源が、永劫の時間を不可視の痕跡に封じた古代の巨石や、砂壁に溯れるように、世界の至るところに詩は書かれ、歌はうたわれていた。目を凝らし、耳を澄ませば、その総てのうたやことばを読み取ることが出来るはずだが、怠惰が私たちを盲目にしている。世界に、既に書かれ、 れたものたちは、未だに私たちの周囲に息を潜めて、見出され、読み解かれることを 。バッハやベートーヴェンは、また、ダ・ヴィンチやミケランジェロは、それらを価値として見出すことが出来たのだ。

    私は、作曲という仕事を、無から有を形づくるというよりは、むしろ、既に世界に遍在する歌や、 声にならない嘯きを聴き出す行為なのではないか、と考えている。音楽は、紙の上の知的操作などから生まれるはずのものではない。音符をいかに巧妙にマニピュレートしたところで、そこに現れてくるのは擬似的なものでしかないように思える。それよりは、この世界が語りかけてくる声に耳を傾けることのほうが、ずっと、発見と喜びに満ちた、確かな、経験だろう。


    イサム・ノグチは、『ある彫刻家の世界』と題された回想風の自伝の中で、自分が求めているのは、 自然の眼を通して自然を視ること、そして特別な尊敬の対象としての人間を無視することだ、と述べている。そして、さらに、芸術家とは、幽霊、幻覚、前兆、鐘の音などーー精霊が流れてくる水路以 外の何ものでもない。そして彫刻(人間の芸術表現)は、人為的に完結するものではなく、自然界の変化に応じて絶えず変化し、また成長を続けるものだ、と言っている。このことは、かならずしも、 石や木を素材とした彫刻作品だけに当てまるのではなく、音楽表現にも同じようなことが言えるよ うに思う。音楽が人間の手(演奏)を通して顕われてくるものであることを考えると、いっそう、そ の思いを強くする。 自然から学ぶことは余りにも多い。自然の(この地球の)記憶の層の、深い、遥かな連なりを見出すのは、私のような者には、とても容易なことではないが、せめて季節毎の変化の相、その推移を感じとれる感受性を身につけたい。それは、私に、音が語りかけてくるこわれやすい言葉の表情のいろいを聞き逃がすことがないように、働きかけてくれるだろう。作曲は音と人間と協同作業だと思うから、作曲家は音に傲慢であってはならないだろう。

    それで、思いきって、仕事を中断し、バッハやベートーヴェンを聴いたり、読んだりする。こういう時は、なるべく、自分とは違う世界を散策する方が良い。バッハの『マタイ受難曲』のコラール等を弾いていると、私の精神は少しずつ穏やかになってゆく。

    私は、自然を賛美し、それから学び、充分過ぎるほどの刺激を受けているが、私の「自然」も、 大竹さんの「自然」とそう違うものではないだろうと思う。それは、自らに反映される自然であり、また自分を、露に、そこに映すことが可能であるような自然である。けっして、「小川のせせらぎ」というように、安直に抽象されるような、静的なものではない。人間の小賢しい思考や、手前勝手な欲望に牙をむくような、烈しい気配を秘めた自然こそ、私が敬うものだが、それはかならずしも、外界の相としてだけ顕れるものではない。

    読書の様態は、ひとそれぞれ、千差万別である。読書には、映画のように、必要とされる限定された時間というものはない。読書に費す時間は個別のものであり、その速度は一様ではない。時間をか ければより内容が把握できるというものでもない。 場合は、大きな流れをたゆたいながら、不意に起ちあがる、杭のような言葉やセンスとつひとつと、その度に交渉をもちつつ、書物それ自体とは一見無縁な寄り道を楽しめれば、それは最も充足した読書(体験)と言える。 だが、そうした遊びをゆるしてくれる本は、そう多くはない。不思議なのは、内容の純度が高いほどにそうした精神のあそびを促しもし、またゆるしてくれることだ。 秀れた書物のなかに書かれた言葉は、言葉としての(名指したり選別する)機能を失わず、それで自由な、眩いばかりに多様な意味の光芒を放っている。言葉はそれを使う者にもなり、また豊かにもなる。僅か十七文字の蕪村の句に時間を忘れ、際限ない言語宇宙を浮遊するのも、読書の様態のひとつであろう。

    彫刻作品に接するとき、屈託ないミロの自由な魂はより親しいものに感じられるのだが、同時に芸術家としてのその振幅のはば広さに圧倒される思いがする。 ミロの仕事はひとびとの空想を激しく搔きたてると同時に、そこには一種きびしい規制があるように思う。かれの奔放な、東洋の書を想わせる即興的な線も、また東洋の詩画一致を模したようにもみえる絵のなかに文字を書きこんだりする行為も、絵画の力学がそれをさせるのであって、単に形式上の文学的な詩讃などではけっしてない。 ミロの仕事は時間とともに単純化を深めていく。お前か俺か、そんな不分明の問いかけが、単純な色彩と線のなかで、静かに、しかも劇的に把えられている。この不思議な均衡は神秘な生命に関する 力学であるために、それを観る誰をしも納得させる。 世界ではじめてミロの評伝(単行本)を著した瀧口修造は、つぎのように書いている。 「フォルムの単純化や記号化がいきいきとしているのは、原始時代の文字や記号がまだ実体の生命をもっていたのに似ている。それがアニミスティックな現象であるかどうかはともかくとして、ミロは パウル・クレーのような稀れな特異な画家をのぞいて、この実体と表徴や記号との距離を縮め、麻痺した関係をよみがえらせる唯一の画家ではないかと思われる。」

    音楽と「出会った」と言えるのは、第二次世界大戦が終わる間際の中学生の時でした。勤労動員で、 山の中で食糧基地を造る仕事をやらされていた頃です。戦争末期に聞けた外国音楽は、同盟国である ドイツやイタリアのごく一部のものに限られていました。終戦の一ヶ月程前、一人の兵隊がフランスのシャンソンを聞かせてくれたんです。

    音楽の勉強と言えば、ラジオを聴くことと、楽譜を眺めることしかない。楽譜の書き方も作曲もどうしてできるようになったのか、不思議な気がします。 朝から晩まで、音楽以外のことは考えませんでした。家にピアノがなくて、とにかくさわりたくてたまらない。町を歩いていてピアノの音が聞こえる家の前を通りかかると、「弾かせてください」と 飛び込みました。幸運なことに、一度も断られなかった。

    なぜそうなるかは、僕の感性と言ってしまえばそれまでですが、その土台には僕の感性をつくり上げたもの、日本の伝統、歴史や環境があります。意識的な面では、僕は日本の庭が好きで、その形から示唆を受けて曲を作ったりすることが影響しているでしょう。また、年齢のせいか、最初はたくさ ん音符を書いていたのに、楽譜を読み返してみるとどうしても音を削ってしまいます。 ある外国の友人に、「君が日本の楽器を使って書いた作品より、オーケストラを使って書いた作品の方に『日本』を感じる」と言われたことがあります。心あたりと言えば、同じ楽器を使ってもその使い方によって創り出している響きが違うんだろうということです。西洋人にとっては 誰でも、自分にはその使い方の基礎的な知識がない。もしかしたら、そのことが僕の個性を作り出しているのかも知れない。

    音楽を作曲する(形づくる)際に、私は、日本の庭園の作庭の仕方から随分多くのヒントを得ている。特に、室町の禅僧、夢窓がしつらえた庭(西芳寺、天龍寺、瑞泉寺等)からは、その形成の深さと拡がりによって、つねに汲み尽くせぬほどの多様な啓示を受けている。 庭は、自然そのもののようでありながら、だが或る意味では、きわめて人工的なものである。人為によって、自然は、さらに奥深い、無限ともいえる、変化の様態を顕わす。人間の眼にはその人為のあと痕跡はかならずしも明瞭ではないのだが、仔細に観察すれば、どの隅々にも作者の認識が及んでいるのが分かり、その認識の深さに応じて空間の質、密度もそれぞれ異ったものになっている。この場合作庭者の認識とは、人間の生・死はもちろん、時間や歴史の推移を含む、万象に向けられた思慮というものである。


    庭は空間的な芸術であると同時に時間芸術であり、その点で、音楽にたいへん近いように思う。庭 は時々刻々その貌を変えている。だがその変化の様態は目に立つほどに激しいものではない。おだやかな円環的な時間の中で、完結することない、無限の変化を生き続けている。 ヨーロッパ庭園の多くが、幾何学的シンメトリを尊重しているのとは違って、日本の庭園はアンメトリな不均衡を作庭の基本に置いているようだが、どの隅々も明晰で、小さな石の配置一つにも、広大な宇宙の仕組みを暗示するような仕掛けがほどこされている。自然の中に設けられた別の人為的空間によって、その全体が示す多義性は、私たち人間に、庭がたんに美しいものであるという以上の感慨をもたらしている。 私は、自分が作曲する音楽が少しでもそういうものに近いものでありたいと思い、機会ある度に、 夢窓の庭を訪ねている。

    音楽を志した時、私は、殆ど、自国の伝統音楽に無知であり、また、さしたる関心も無かった、 それに対して、否定的ですらあった。たぶん、それは、戦争というものの影響だろう。私たちを抑えていた「日本」というものへの反撥が、伝統文化から身を退かせたのだった。西洋文化への憧憬だけが大きく脹れあがり、それに比べ、伝統音楽は低いものだという意識が、知らぬ間 に、私のなかに、育っていった。 偶々「文楽」を聴いて、その音楽の、西洋音楽とは本質を異にしながらも、そこにある、未知の、 新鮮な音色構造に、すっかり魅せられてしまった。また、大夫と三味線弾き、それに人形遣いとの、 とらえどころがないような、それでいて求心性を具えた、不思議な合奏の形態に目を瞠る思いがした。 太棹三味線の深い音色を耳にしてからの私の関心は、さらに複雑な音色を求めて、琵琶に到った。

    私がヤニス・クセナキスを知ってから、もう既に、三十年もの時間が過ぎた。考えると、その頃、 まだ四十になったばかりの気鋭の作曲家だったのだが、既に侵しがたい完成された人格の所有者であることに強く印象づけられた。そしてそれはいまも変らない。その風貌だけではなく、彼は真に知的な存在だ。 ヤニス・クセナキスは作曲家であると同時に、建築家でもあり、また数学者としても著名である。 かれの音楽は実に知的に組みたてられているのだが、それはけっして冷い印象を与えない。かれの方 法は、かれの内実と深く関わるものであり、たんなる数的操作として自己完結してしまうものではな い。でなければ、あのように激しい火のように燃える感情を、私たちは、かれの音楽から聴くことは無い筈だ。 「音楽は音によって知性を表現することだ」とかれは言うが、その言葉が、ギリシャ軍事政権に対するレジスタンス活動や、他の社会的運動に参加する、モラリストとしてのクセナキスから発せられたものであることを考えるとき、その意味はいっそう深いものに思われる。 同時代を生きるものとして、クセナキスの70歳の誕生日を祝福できることの喜びは、何にも増して、大きい。

    ケージは、形骸化した美や、美を不変とするような画一化を嫌ったが、芸術はエレガントでなければならない、と常に語っていた。そしてジョン・ケージほどに、美しいっという言葉を率直に、美しく言い得るひとを、私は他にしらない。 私がケージから学んだことは、外でもない、音楽は、生活と別に存在するものではないということ だった。そしてさらに、ひとつとして同じ音はこの世界には存在しない、ということだった。それは、 音の千差万別を聴き出すということであり、音は生きたものであって、それ自身の美しい秩序を具えている。それを正確に聴くことが、ある意味では、最も創造的な行為なのだ。つまり、音楽は音楽であって、それ以上のものでもなく、それ以下でもない。ケージの音に対する本質的認識は、かれが愛したきのこのように、音は、不意に現れて、直ぐ消えてゆくということだった。この当り前のことすらもがともすると忘れられてしまっている。「音楽」という囲いの中で、記号化された 現を抜かしているような作曲が、「前衛」をすっかり形骸化してしまった。方法は慣習に変わり、頹廃が生じた。 こうした音楽現状に対するケージの表明は過激ではあったが、それはたんに否定のための否定というものではなく、いっそう根源的な問いであった。

  • なんで借りたのか思い出せない。
    音楽や映画って本来どうあるべき、どう楽しむべき、というのを考えさせられるけど、その深い思考に達することは一生できない気がする

  • 感受性の細やかさが伝わってきて、心豊かになれる。文章を書くのと曲を作るのは近い能力なのだろう、流れがよく、分かりやすく、かつ深みをかんじさせる文章。素晴らしい。
    武満の曲を片っ端から聴きたくなった。
    ★を満点にしないのはエッセイで座右の書とまではいかないか、と。

  • 武満徹が最後に残したエッセイ。
    あらためて、武満徹がいかに絵画や詩、そして自然の佇まいから、創作のインスピレーションを得ていたかということが知ることができた。
    自身が書かれているように、音楽を言葉で表現することはとても難しい。いくら言葉を並べても、それらは音楽の周りを彷徨うだけのようにも思われる。
    それでも、そんな困難な営みを通して、伝えなければならないことがあるはずだ。そんな気持ちにさせられた著作であった。

  •  武満氏の曲は一つひとつの音に陰影があり、余韻豊かに語りかけてくるものを感ずるが、このエッセイ集に収められた短い文章にも似たようなものを感ずる。それはおそらく、氏が文章を作曲と同じ心持で書いていたからであるように思う。
     氏の早すぎる死を考えると、本書はかぎりなく貴重な魂の記録であろう。

  • 題名に惹かれます。

  • 希代の作曲家の紡ぐ音楽同様、透明な独特の「場」を形成してくれる文章の数々。

  • 今は無き大作曲家・武満徹の哲学感は自然体で高尚で素晴らしい。

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