神的批評

著者 :
  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (253ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103278115

作品紹介・あらすじ

自己を問うこと。問われること。他者に開き続けること。開かれ続けること。思考を徹底化・無限化していくことで、人間はどこまで行けるだろうか-小林秀雄に始まる文芸批評の新鋭が、崇高への言葉を刻みつける。今この時代に私たちの生き方を問う、21世紀の批評は誕生する。

感想・レビュー・書評

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  • 北大路魯山人論が面白かった。
    とにかくこの人は、山川草木鳥獣虫魚の命を奪いながら生きている人間の必然的な暴力に自覚的であれ、と叫んでいるように思われる。
    ナイーブすぎるという感想もでてきそうだけれど、個人的にはとても共感できる。

  • 思索
    文学

  • まったくの偶然だが、殺すこと、食すこと、生きること、について考えさせられる本が続いた。アプローチは全く違うが、安易な感傷や自己欺瞞を許さない怜悧さは共通している。

    「宮沢賢治の暴力」「批評と殺生ー北大路魯山人」は対象に対して一般的な知識しかもっていない自分にとってとても興味深かった。

    そして、内省的で美しい文章。76年生まれとは驚く。


    [more]<blockquote>P14 法華経には摂受と折伏という布教思想がある。摂受が致わりによって相手の仏性を喚起させて帰依させる布教姿勢であるのに対し、折伏は相手の邪心を徹底的に法の力で打ち破ることで帰依させる戦闘的な布教姿勢である。

    P30 殺されたくない。殺したくない。けれど死ぬこともできない。そして殺していく。だとすれば生きるとはどういうことか。見つめること。賢治にとってはそうだった。

    p48 生き物を殺す自分を愛することであり、同時に生き物を殺す他人を愛することでもあり、さらに一歩進めて、自分という生き物を殺す他人を愛せよということになるからだ。

    P58 憎んでいる者なら殺すこともあろうが、愛する者だけは殺さない、という自己規定こそが暴力の形式である以上、それを破壊しなければ真の意味で暴力批判はできない。自分を暴力と無縁の存在に位置付けようとする限り、彼らに暴力の革新を見つめることはできない。

    P110 目の前にいる「自分を愛せない他者」に向かって、「あなたが自分を愛せるようになるためには他者を愛さなければならない」といったのだ。そこには、本人がどう思おうが、「人は他者の力なしに自分を愛せない」というイエスの直感がある。

    P161 肉体的な現実があって、抽象的な文字がある、ではない。わたしたちの肉体には常に文字がくいこんでいるし、逆に、どんな文字にも歌の息が吹き込まれている。真の困難は、私たち自身が、記号という外部を差し込まれた奇妙な生命体であることを自覚する過程にある。

    P169 殺していい者といけない者の線引きは言うまでもなく、殺される者への感謝も、殺す者としての反省も、居直りも、たった一つの命を奪う者の覚悟として、生ぬるい。菜食主義者の誇らしげな主張も、食事という暴力を忘れている。迫られているのは、その種の自己正当化の拒絶を最低条件とする、終わりなき自己への問いなのだった。

    P173 私たちの究極の使命は、自分を心から愛せるかどうかにしかない。
    それは、殺す者として自分を愛せるかということだ。しかし、私たちの根源にある、命を殺すことの苦しみが、その優しい心こそが、自分自身を愛することを否認させる。この日人が暴力を第三者に委託するシステムを生み出す。それは自らの暴力を忘れさせるだろう。だが一見、どんなに快適に思えても、その時自分を真に愛する可能性も失われたのだ。
    ならばヒトや動物を平然と殺せるようになればいいのか。違う。それは恐怖を克服したかに見えて逆にこの『プログラム』に回収されることでしかない。大切なのは命を殺すことの恐怖それ自体にどこまでも寄り添うことだ。

    P208 魯山人にとって自然はそんな『人間』を打ち破る外部としてあった。単なる観察対象ではない。自らの実践を促す動的原理として打ち込まれている。【中略】たまたま生きている自分という、この天が作りし動物に驚いている。感謝している。この自然に対する受動性は、彼が自分を食的存在として見つめるとき、すなわち、生かすことと殺すことが交錯する割烹の場に身を投じるとき、もっとも先鋭化する。

    P225 自然の美しさに目を開かれることと、自らの殺意に怯えることは、違うことではないのです。殺したくない。殺さねば生きられない。この苦しみから解放されたい。そう願う心こそが、そこにある自然を見出します。

    P232 そのなかにおいては一切のものが目的であると同時にまた相互的に手段となる。【中略】私たちが本当に恐れているのは、殺したつもりが殺されていたとか、食べたつもりが食べられていたではなく、殺した相手にこそ愛されていたと言うことではないのか。そんな愛にこの体が耐えられるものか。それでも正しく食べなければならない。単に一緒に食べるのではない。感謝でもない。そんな愛に貫かれて食べることだ。その人と同じように食べること。この身体を分配するように食べること。それがあなたたちを解放するように食べること。食べさせること。

    P236 自分を問うこと。これがわたしの批評原理である。それは、自らの行動を反省したり、否定したりすることとは、少し違う。例えば人はしばしば、否定しても何一つ傷つかないことだけを都合よく自分で否定する。そうすることで何かを反省した気になる。そして忘れてしまう。それは他者を消すことであり、つまりは自分に閉じることだ。</blockquote>

  • 暴力に自覚的であれ。悩み抜け。
    気迫で書かれているものは気迫で読み解くしかない。

  • 我々現代人が、今、現に過ごしている社会をサバイブしていく際の課題―というか、目を背けがちになってしまっている事実―を、宮澤賢治・柄谷行人・柳田国男・北大路魯山人らの人物・作品評を通して、鮮やかに描き出していると思う。
    その主張というのは、じつはこの度、個人的にネットから離れたことによってみえてきた「それがもつ醜悪さ」と「でも!それでも尚!つながっていかなければならない!」という感情に大きくシンクロするものだったりして、まあ、とにかく大変感銘を受けた次第。というか、その感覚を補完するため「そういう風に読み説いた」可能性は全然あるわけだが。
    というわけで、具体的に何が書かれているのか――それをボクの言葉で要約してしまうのは、作者の意図するところでは無いはずなので(←重要)、まあ、とりあえずボンヤリ書いておくと――「メシを喰う時は自分も喰われる存在であることを常に意識しろ。そうすればおのずと喰うことに感謝するだろう。そして、それによってメシのホントの意味が見えてくる」といったカンジ。

  • 哲学にも文芸批評にも全く素養がないため、一週間弱で本書を読み終えられたのは奇跡に近い。具体的な筆者の議論には全く追いつけないけど、考えるということの気迫は十分伝わってきた。 仕事で考えるのは,ある実利的な目的を達成するためということが多くて、本質を追求する考え方って、思い返してみると全くしていないのかも。そういう気づきが一つの恐怖ではありますね。

  • 面白いという形容詞はこの一冊がまとう切実さには不謹慎か。“弱い者がさらに弱い者を叩く「循環小数の輪廻」”をはじめ、ここで提示されている問いは今を生きる全ての人にとっての問いであるはず。いずれにしても再読が必要、そしてカントの再読もしてみよう。

  • 宮澤賢治・柄谷行人・柳田国男・北大路魯山人の4人の作品について批評している。その内容は極めてエキサイティングだ。この批評を読むと上記4人の作品に再度、そしてもっと触れたくなる。

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