存在論的、郵便的: ジャック・デリダについて

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (344ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784104262014

作品紹介・あらすじ

ハイデガーの存在論とフロイトの精神分析を継承する現代最高の思想家ジャック・デリダ。その謎めいた脱構築哲学を解読し、来るべき「郵便空間」を開示するロジックの速度。情報の圧縮。知的テンション。27歳の俊英が挑む未知の哲学空間。

感想・レビュー・書評

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  • 女子栄養大学図書館OPAC▼https://opac.eiyo.ac.jp/detail?bbid=2000069300

  • 現代思想のオールスターの言説を批判的に読み解きつつ、デリダの思想を読み解く試み。
    二種類の脱構築。郵便、幽霊。転移。を理解するのがやっと。ところどころ、副次的にそういうこと!と儲けもん的に理解が深まる思想があった。

  • 東浩紀の博論
    ・大陸哲学と分析哲学の双方に目配せ
    哲学史的には、論理実証主義の登場やそれらのハイデガーに対する批判により、ドイツフランスを中心とした大陸哲学と、英米を中心とした分析哲学に哲学研究は2分される。東氏はこの本で、両者の知的伝統をを固有名に対する関心という点で比較したり、デリダサール論争に注目することによりむずびつけている。両知的伝統を踏まえた議論ができるという点は東氏の強みの1つだと思われるが、この点はあまり指摘されない気がする。

    ・のちの議論の雛形
    『動物化するポストモダン』や『ゲンロン』におけるいくつかの批評など、東氏の現在までの議論の分析枠組みがこの本で構築されている。

  • ラカンもドゥルーズも読まなくていい。不毛な言語の羅列、思考の隘路。考えているふりをしたい人たちのための言説だ。社会は一歩も前に進まない。

    デリダも同様だ。東氏の功績によって、「読まなくていい」がはっきりしてよかった。それにしても、快刀乱麻。ざっくり、ばさっと、難解な思想をさばいていく。「紋切り型」(p256)のフランス現代思想をさくっとまとめる。見事。

    デリダもラカンも分からなくていい。でも、そう納得するためにも、本書は読んだほうがいいだろう。

  • ハイデガーの『存在と時間』を読んで、そこで幾度も用いられている論理形式に納得しかねた哲学素人がその乗り越えを期待して本書を手に取った。
    『存在と時間』で根本的に疑問に思ったのは、ハイデガーが先生のようにポンポン新しい固有名詞を「現象学的手法」の名のもとにどこかから持ち出して、「それは存在的には××だが、存在論的には〇〇なのである」と、あたかも何かを理解したような気にさせる形式を一貫して採用していること。この論理は構造的には預言者とか宗教の伝道師が語るときのものと変わらないと思ったのだ。

    この『存在論的、郵便的』では、ハイデガーの哲学にラカンの理論を併置し、両者に共通する、"ある固有名詞を特権化・絶対視し、言葉の意味全体の根拠としてそれを挙用する手法"を「存在論的脱構築」と名指し、それに対抗する言説としての「中期デリダ的文章」とその手法「郵便的脱構築」がフロイトを援用しながら言われている。

    詳しく述べると、存在論的脱構築と郵便的脱構築では言葉の意味の不確定性(=超越論的シニフィアン)の取り扱いが異なっている。前者においてはその不確定性は、"一つの(ないしは有限個の)言葉の意味の不確定性"へと言語体系内で「皺寄せ」され、皺寄せされたその一点は言語体系内での定義が不可能なものとして言語の外部に依拠するとともに、その言葉以外の残余については意味の確実性が担保される。
    後者においては、言葉の意味の不確定性は無数のそれぞれの言葉に分割されて宿っており、一つ一つのそれらの不確実性は記号がエクリチュールとしてのみ解釈される無意識の次元からの揺さぶりとして捉えられる。そして無意識は「転移」によって他者へと接続されている…。

    本書を読み終わって、まず私は冒頭の疑問を通して私自身の物事の捉え方に潜む一切の恣意性を排除したかった、という私自身の欲望を理解することができた。この「恣意性の問題」は、第二章でデリダ派の問題として直接的に言及されている。本書を通じてそのことに対する明確な回答を得られたと思うのでとても満足している。
    また、本書では言葉の意味の絶対化についてだけではなく、意識生活において何かに拘りそれを過剰に意味づけること一般に対しての批判もデリダから読み解かれていて、著者自身も最後の部分で「デリダに拘りすぎた」というニュアンスのことを言い性急に議論を終えている。
    この態度はまさしく「観光客」的であるとともに、著者自身がこれまでに身を以て示して続けてきた在り方だと思い、ある種の感動さえ覚えたけれども、私自身もそのような転移的な読みや、実存の悩みの末に哲学書にのめり込むこと自体もそろそろ終わりにし郵便空間に身を委ねるべきである、と強く感じさせられた。人生の転機となり得る読書体験だった。

  • 前期の明瞭さ、晩年の政治的な発言に比べ奇妙なテクストの中期の著作、デリダ『葉書』の解読。ラカンハイデガー的な否定神学ではない、郵便的脱構築の提示。『葉書』では、郵便系の隠喩が特権的重要性をもち、半虚構・口頭発表・論文・対話の論述スタイルの網羅、フロイト・ハイデガーの特権的地位がある。デリダだけでなく、ゲーデルや論理学、クリプキ、ドゥルーズ、フーコー、ハイデガー、フロイトに触れ議論を展開し、奇妙なテクストの謎に迫る。
    クラインの壺、フロイト「マジックメモについてのノート」を援用し、存在意識の声の問題を整理する。
    円錐底面の下の外界からの刺激がラング=カテゴリーの平面を通過し、底面Da=現にシニフィアン象徴界の層を作り、エクリチュールの層から散種した部分が剥離のリズムによって痕跡を残し、絶えず二重化され、一層が剥離=散種しUbw無意識=郵便空間を通過しフォネー声=意識内に再来する。
    デリダ概念を引用符に入れ、固有名として扱う学問的なアプローチがデリダ派の転移構造であり、切断を要請されることが明らかになると同時に本書は閉じられる。

    以下メモ。
    第1章
    声・耳の多義性、文字・目の散種(引用可能性がもつ飽和不可能な多様性)
    コンスタティヴ(事実確認的)、パフォーマティヴ(行為遂行的)のオースティンの二分は、劇場や冗談の一般的な引用を除外しているので成立していない。行為遂行がすでに引用だから。「私は結婚します」という言明によって結婚する場合など。あらゆる言説は同時に二つのコンテクストに所属しうる。
    デリダの三つの理論的柱、脱構築、パロール/エクリチュール、現前/非現前的時間
    フッサール幾何学の起源、幾何学のように誰に発見されてもいい理念は、誰かに発見されねばならないという超越論的歴史
    同じものの反復が反復されるものの差異を生み出す。単数の同じものが複数の同一性を生み出す。エクリチュールと同じもの性mêmeté。
    固有名の単独性は現実においては、確定記述と同一化して差し支えないが、デリダの散種の複数性は反実仮想=条件法過去的な可能世界を示唆する。にもかかわらず、デリダはなぜ形而上学を脱構築するも伝統を重視したのか。それがポストモダンとして延命したことになったとしても。それは、ヨーロッパという直線的同一性から解放するために、同じものから拡散させる。概念のコーラ(容器)は自由に動き、自由な解釈を受け取りうるが、未来の一時点ではひとつの系列をつくり、そこには事後的に規範が発見される。
    出来事の一回性は記念日のような亡霊的な再来の反復可能性によって記憶が支えられる。
    リオタールは計測不可能性を感情として記憶するとしたが、それも過去の一回性を遡及的に多義性として回収する。
    ソクラテスの精神が伝わるとすれば、固有名を書きとる背後のプラトンによって亡霊の再来と化したエクリチュール、反復可能性=複数性。
    哲学の歴史は固有名の集積であり、偶然かつ経験的に成立したものでありながら、必然かつ超越論的に真理を語る。
    『葉書』は哲学者を郵便局に喩える。概念が提出され哲学的固有名となり、新たに発送する。行方不明の郵便物を探索するのがデリダ。固有名と配置、署名とエクリチュールの同一性に抵抗する。その頂点が『葉書』
    第2章
    真理と家族の完全性と、散種と郵便の不完全性。誕生から人生を語りなおす告白も純粋性を前提としている。
    脱構築するとは与えられたシステムの形式的自壊の地点を探すことしか意味しない。
    形式的なゲーデル的脱構築、解釈・系譜学的な後期デリダ的脱構築。後者によって体系的には決して語ることができないものがあるという否定神学的、形而上学的誘惑に抵抗しなければならない。
    クリプキが、フレーゲラッセル的な確定記述に回収されない固有名を、名付けに遡行する剰余として提示したのに対し、ジジェクがラカン的現実界のものとして無、つまり欠如・否定神学・対象aとして結論づける。デリダはそれを、目的なき死の欲動をただ一つ定めようとする超越論的シニフィアンと呼び批判した。それは全体性がないということで全体性をもつ転倒である。ポー『盗まれた手紙』解釈におけるラカンの、決して届かない手紙の単独性に対して、デリダは届かないことがありうるということを強調した。固有名の剰余はエクリチュールの散種、コミュニケーションの失敗、誤配可能性と解釈できる。クリプキの訂正可能性は社会的文脈によって規定される。一つの名は複数の経路を通過してきた複数の名の集合体であり様々な齟齬が生じるため、配達過程で行方不明=デッドになってしまった名は、つねに幽霊的な訂正可能性が取り憑く。
    第3章
    詩的言説の分析により、思考不可能なテクストの外部へと近づくハイデガー的なアプローチをデリダが継承している。ただし、否定神学的に陥らないよう場所替え(哲学素に宿る無数の連想の意図を辿ることであえてそれを誤解してみせる戦略)が求められる。
    自分で自分の声を聞くことによってデカルトフッサール的な自己の存在認識論があるが、ハイデガーはそこに回収されない単数の呼び声として内部に自らを蝕むものがあると考えた。デリダは音や文字に刻まれる以上、外部の物質=エクリチュールがあると考えた。複数の能動的幽霊の隠喩。行方不明の手紙、無数の留守番電話、デッドストック空間。ある回路と速度(リズム)の選択の効果。行方不明=死とは極端に遅い回路を通ること。フッサールハイデガー的に、声を耳で自我を感じる近さは、現存在の全体化=単一化として世界を認識する。デリダは郵便空間をその境界に置き複数の偶然的な誤配を想定した。
    情報機械を媒介として、それぞれのセリーに宿るリズムがフォネー(声=意識)のなかへと不可避的に侵入する。labyrinthe内耳=迷宮、つまり郵便空間。PPの略語(快感原則principe de plaisir と郵便原則principe de postale )混同させることによる着想。脱構築の前期後期の二重性、ハイデガー解体とフロイト無意識の衝突。郵便的脱構築のフロイトの可能性。
    appendix
    ドゥルーズガタリアンチオイディプスとデリダ葉書の接合可能性。欲望機械と配達機械、モル的集合と超越論的シニフィアン、2人の著者と複数性。ドゥルーズ意味の論理学の表層概念に否定神学を見出し、ガタリ分裂分析的地図作成法の複数世界と比較する。さらに意味の論理学を読み進め、第27セリー以降に、深層の動的生成に、郵便=誤配システムを見出す。フッサールとフロイトの参照対比がデリダのテクスト読解を強固にする。
    第4章
    ハイデガーゲーデル的論理的存在論的脱構築と、フロイトデリダ的郵便的精神分析的脱構築。論理的脱構築は、テクスト/システムに決定不可能な特異点=限界を見つけ、思考されざるものを存在論化する。解釈学的循環=自己言及性の深淵に他者性(存在の声)を見出し、詩的言語に発見する道を整えたのがハイデガー。郵便的脱構築は、不可能なものの複数性に注目し、郵便空間や幽霊の比喩で、フロイト的にコミュニケーション=欲望の流れの場で生じるデッドストック空間に他者性(反復強迫)に見出す。
    ウィトゲンシュタインや分析哲学は論理形式、存在そのもの、不可能なものについて問うことが定義上できない。ハイデガーは論理に先行する基礎づけとして哲学を規定し、沈黙を拒否した。現存在を問うことで論理形式が問われ、メタレヴェルをメタレヴェルのまま考察できる。それは論理学批判のゲーデル不完全性定理によって可能になった。クラインの壺のように現(Da)存在を亀裂として実存論的構造(ここではクラインの管)を経由し、存在からの呼び声(Ruf)「不可能なもの」として再来し循環する。後期ハイデガーはギリシア語ドイツ語の解釈学化、隠語化し、哲学の自閉化を呼び寄せた。前期の否定神学システムの「覚悟」はドイツ語で「閉じた状態への移行」を指し、後期の呼び声でない存在そのものの声を「聞く」ことはドイツ語で「隷従・所属」に関連する。
    フロイトの再考。夢には名詞の結び組みあげ、全体の統一性を保証する前置詞の位相が存在しない。それは「論理形式を名詞化する」。つまり、夢作業が論理的思考をできないのではなく、対象間関係を思考対象に変えてしまう、メタをオブジェクトに送り返す。抑圧で否定された無意識が循環し、クラインの管に相当。
    無意識の夢の綴り字の化学と、デリダのシニフィアンの分割可能性。パロールに還元不可能な根源的なエクリチュールの場である夢=無意識では、語が純粋かつ単純な物と化す。クラインの管の複数化。
    『ポジシオン』古名の戦略。引用符は確定記述から意味を抜き取り、表示のみにする。『太陽系の質量中心』。ハイデガーの隠語化を避け、古語異なった同一性を与える。クラインの壺底面=Da=象徴界が絶えず二重化され、一層が剥離=散種しUbw無意識=郵便空間を通過しフォネー声=意識内に再来する。デリダは固有概念ではなく、plus「超=非世界的なもの」を言葉自体がもつ裏打ち構造、シニフィアンとエクリチュールとの二枚重ね性から説明する。
    フロイト「マジックメモについてのノート」を援用し、円錐底面の下の外界からの刺激がラング=カテゴリーの平面を通過し、Da円錐底面にシニフィアン象徴界の層を作り、エクリチュールの層から散種した部分が剥離のリズムによって痕跡を残し、一部が郵便空間へと落ちる。
    『葉書』第4部、精神分析分派へのデリダ講演du toutにおいて、フロイトの転移transfertを切断するtrancherと合わせた造語tranche-fertを扱っており、集団の単一性が構成員の指導者への転移、さらに集団から集団への切断移転を対象として表現している。第1部送付はデリダの妻が精神分析研究者であることから恋愛と精神分析、イエール学派のデリダ派とのやり取りは、デリダの再応用répliquer、転移の構造である。第2部思弁する-『フロイト』については、自己言及的に思弁について思弁する他なく、超transの可能性については、転移=郵便により開かれるため、理論的に読み込むことは不誠実。転移切断への逸脱が重要。
    著者の目論見では、『葉書』は転移切断を加速化するため。ラカンがパリフロイト学派を解散しそのラカンという主を確実にしただけに対し、デリダは加速化し著書は散種され集団も分割移転される。『フロイト』の引用符に表されるように、概念を固有名として扱うことがデリダ派の欲望であるが、その転移を切断しなければならない。

  • 頭のいい人が書く本。

    小生も昔に同じ記号でも2つ以上の意味を持つことを考えていたことがある。

    ハイデガーとフロイトの中間にデリダをおいている。ハイデガーの別名が存在論的、フロイトの別名が郵便的。タイトルに入れているだけのことはある。

    デリダがどうして意味が難読の文章を書くのかを理解したいという著者の気持ちがわかる。実に単純だ。しかし、それを知るために随分と紆余曲折して現代哲学を学ぶこともできる。

    ゲーデルの不完全性定理は数学用語なので慎重に扱わなければならないが、本文に影響はないと思われる。

  • 読むものを惑わし、拒絶しているようにも見えるデリダの奇妙なテキスト群はなぜ書かれ、なぜ必要だったのかという素朴な疑問から始まる一冊。丁寧に、幾重にも引かれた補助線を一気に畳み込んでいく展開がすさまじい。というよりも振り落とされた。だが、あくまでも語り口は平易だ。

    積んで数年、読み始めて忘れるを三度繰り返し、ようやく腰を落ち着けて読み始めてから三カ月にしてようやく読み切る。読み切ったものの、正直理解できているのかというと微妙なところがある。また時間を空けて読もうと思う。

  • 思索
    哲学

  • 殆ど何言ってるのかわからなかったが、所々オッと思うところがあった。
    しかし、もう何にオッと思ったのか忘れてしまった。
    一方でオッと思ったことは確かなのである。
    オッと思ったことが「オッと思った箇所」から剥がされ、当該箇所は郵便空間を漂い、オッと思ったことだけが幽霊として現前をゆらついているのだった。

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著者プロフィール

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』など。

「2023年 『ゲンロン15』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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