- Amazon.co.jp ・本 (189ページ)
- / ISBN・EAN: 9784104412068
感想・レビュー・書評
-
川上未映子の『わたくし率イン歯ー』を挫折してこちらを読了。面白かった。後で性欲をテーマにした短編集だと知りましたが、そう言われたら…タイトルもそんな感じだっけ、という程度でいつもの川上節と変わらない感じがしました。
不思議度は芥川賞を受賞した『神様』くらい高い。『センセイの鞄』や『ニシノユキヒコ〜』などわかりやすいほうが好きな人はイマイチかもしれません(わたしはどちらも好きです。)
それぞれ、aqua/terra/aer/ignis/mundus
というタイトルで全部ラテン語だそうな。
aerはアエルで空気、ignisは炎、mundusは宇宙。
aquaは思春期の女の子の性と死に触れる歩みのようなもの。
terraは事故死した身寄りのない彼女の納骨をする話。間に紐で繋ぎ止められる感覚や体の記憶に対する気持ちが隠喩的に入る。セックスをすれば気が紛れるかもしれない、というのは共感する人も多いのでは。
aerは出産の物語で、赤ん坊を「しろもの」と表現。女性としての心情の変化や表現が一番わかりやすい。
ignisは一番好きな話。30年以上結婚せずに人生をともにする男女の話で、なんか思い出させるな…と思っていたら、最後に『伊勢物語』を下敷きにしていると書いてあった。『伊勢物語』を少し知っている人なら、あぁあそこがあれか、となるのかな。自分はちょっとしか知らないから、伊勢物語を今すぐ読み直したい!!と思いました。(ホテルに逃げ込む話は「芥川」かな、と思いました。)昔の話だけあって伝奇物語っぽく面白いんだよね、と思い出しました。(漫画にしたら売れまっせ。)
mundusはすみません。難しくてよくわからなかったです。わかりそうでわからないというか。。細かなエピソードがたくさんあるので、エピソードごとにわかるものもあるのだけど、全体を通すと「ほえ?」。
勝手に「それ」を『千と千尋の神隠し』の顔なしのようなものを想像して読んでいました。
何か日本書紀の神話のような印象。
全体的には性欲というよりも、死を感じた。読むとなんだか寂しいような空しいような気持ちになったから。二人でいるとますます孤独を感じるみたいなやつ。でも、セックスもそんな感じがするっけ。セックス自体が生と死の繰り返しなのか。でも、そんな孤独に浸りたくなるような小説だった。
存在しないものを気配として書く描写は『真鶴』を思い出させました。しかし、こちらを読むと『真鶴』はわかりやすかったわ…と思わずにいられない。
また読みたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
140601 9:50
-
「これでよろしくて」の夫婦、「センセイの鞄」の恋愛、「真鶴」を代表とする人ではないもの…川上さんがこれまで描いて来た作品のエッセンスがギュッと濃縮された一冊と言っても良いだろう。
なめらかな文体、身体の芯がジンと熱くなる昂揚感、そしてよくぞ甘苦しいと言い表した焦燥感は彼女にしか描けない唯一無比の世界観。
ネタをバラせばこのタイトルが性欲のメタファーなのだが世俗的にならず抽象的にさらりとそれでいて耽美な詩歌のように進む物語は見事と言うしかない。
川上弘美信者にはわかってもらえると思うがまさにこれぞ「神様2013」!絶品!! -
『せいよく、などというへんな言葉のものとも違うような気がするのだけれど、違う、ということの曖昧な感じもふくめたもの全体の意味を「性欲」という言葉が表すのならば、それはやはり性欲なのかもしれない』ー『terra』
川上弘美の文章は、川上弘美の価値観にとても深く根差していて、似たような文体の文章には時折みかけるけれども、同じ感情を呼び起こしてくれる文章には出会ったことがない。自分にとって川上弘美はやはり特別作家なのだと強く意識する。
例えば、その特徴は語尾にある、などと言い募ることも可能であるかもしれない、と思ってみたりもする。でもそれは見かけだけのこと、と急いで否定する。断定しない言葉で締めくくって柔和な感じを醸し出してはいるけれど、そこには強い意思が働いていることが、否応なしに伝わって来る。この世の全てを否定したいと思ってみても、現実は残酷にも存在感をますます強める。その事実も併せて飲み込んだら、そこには断定はつけ入る隙がないだろう。そんな諦観めいた思いを頭の片隅に置きつつ、尚、何かを切々と訴えている右手の動きが文字の向こうに見えてくるような気がしてならない。
この本に収められた川上弘美には、今まで感じたことのない一つの特徴があるような気がするのだけれど、それは、瞬間的に移行する時間というものかもしれない、と再び川上弘美を要約してみたくなる。元々、素振りも見せずに大胆な展開を示すというのは、この作家の特徴であるとは思うのだけれど、そしてそれに酔ってしてやられたような感じを味わうことも楽しいのではあるけれど、この短篇たちの中にあるすっと経過する時間の流れは、頭と身体の間に起こる齟齬を一足飛びに絡めとり、読むものに一瞬の目くらましを与える。何処かで似たような感覚を味わった憶えがあると考えていたら、夢十夜の一節(「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた)に行き当たる。ああ、漱石はそういう感覚を描写していたのだな、などと急にわかったような心地になる。
それにしても、この帯のいやに扇情的なことには違和感を覚えずにはいられない。確かに川上弘美はなまめかしい言葉を連ねることもあるけれど、それは表層的なことであって、身体の感じる現実と実際に目の前に在る現実との間にある乖離、あるいは、理屈では解っている筈のものと身体が感じ取るものとの整合性のなさに起因する違和感を、訴えているだけのこと。それが、性というもので表現された時に一番分かり易いので、そこに目が行ってしまうのだろうけれど、同じ構図の違和感についての描写はそこかしこに書き連ねられている。なまめかしいさに取り込まれてしまうと、川上弘美の恐ろしさを見誤ることになり、暗喩的に浮かび上がる不条理、例えば大震災の残したもののことなど、に気付かないままに文章をつらつら読んでしまうことになるように思う。
なめらかでふわふわとしたような文章に騙されて川上弘美を読み誤ってはならない。そこには、火山の地下でひっそりと圧力を蓄えているマグマのような熱い昂ぶりがある。そのエネルギーの源は、頭の思い描く現実と身の回りで起こる現実の間に生じる齟齬が産む苦しさであると、そしてそれを抱えて行くのが人であると、川上弘美に教えられる。