- Amazon.co.jp ・本 (348ページ)
- / ISBN・EAN: 9784105328030
作品紹介・あらすじ
内戦の深傷を負うスリランカで、生死を超えて手渡される叡智と尊厳-。オンダーチェ渾身の傑作長篇。
感想・レビュー・書評
-
昨日感想を書こうとしたけど、書き始めることができなかった。
体の中に、この小説の残留物が沈殿していて、かき回すと、水の中の沈殿物みたいに舞い上がるのだけど、きちんと意味のある言葉にならないって感じです。
私のオンボロな処理能力が、物語を消化することに途中で追いつかなくなったのかな。
きっとまだ処理中なのだと思う。
読み終わった日は眠りが浅くて、ずーっと深い森の中をさまようみたいな、明らかにこの本からインスパイアされたような亜熱帯な湿度の夢ばかり見続けて、夜中にちょっとうなされた。(でも意外にも寝覚めは悪くなかった)
最近、自分の生まれ育った土地を想う、という行為について(故郷そのものではなく、その行為について)考えることが多い。そして、故郷について語ることが、すごく難しいことのように思える時がある。
萩尾望都さんが「故郷の炭鉱町についてはまだ描けない」とどこかでおっしゃっていたけれど、この本もそんな感じで、ずっと書けるようになるのを待っていた、という印象の本だった。(もちろん本当のところはどうか知らないんだけれど)
とにかく、なかなか一筋縄ではいかない複雑な語りになっている。
故郷の土地とはつまり、自分を作っているものは何か?ってことを考えることだから難しいのかな。
読んでいる間、「こんな国でもやはり愛する」(P317)という思いを非常に強く感じた。
そんな風に語る人を、紛争を取材したドキュメンタリーなどでは本当にたくさん見るよなぁ、と思う。
ガミニが「この土地への愛着は西洋人にはわからない」と言っていたけれど、そんなことはない、きっと彼らもまったく同じではなくても、違った形で理解はできるはず、と思ったりもする。
それはともかく、この本の主人公たち(アニル、サラス、ガミニ、そして開眼師の4人)は見事なまでに不協和音ばかり奏でていて、登場人物の関係性として、ある意味新鮮だった。
まるで遠心力が働いているみたいな人たち。
でも、この4人は個性が見事にバラバラなのに、私は全員に不思議なほど均等に共感した。
あと、サラスとガミニの兄弟は共に心の奥に大切なものの象徴として「子を思う母親」のイメージがあって、やはり兄弟なのだなぁと思った。
「似てない兄弟」って、まさにこういう、不思議なところで似ていたりするよね、と思う。
この本で描かれる人との距離感こそアジア特有なのかな。
オンダーチェの小説はいつもそうだけど、今回も気になるアイテムが満載で調べものに追われた。
毎回、この人の小道具の描写には激しく好奇心がかきたてられるんだよなぁ。
それが楽しみの一つにもなっているんだけど。
今回は、3つの「場所」が興味深かった。
サラスの師匠が晩年に姪とひっそりと暮らしていた修行の森、それと中国の古い水墓、そしてアニルがサラスと訪れたというコロンボ近郊のアランカレーの森の僧院。
師匠が隠遁生活を送っていた、という設定の地域(アヌラーダプラ)は、世界遺産にもなっているようなので、日本語で地名を入れただけでたくさんの関連サイトがヒットしたけれど、あとの二つは特定するのに結構苦労した。
岩が入口になっているという「アランカレーの森」は、日本語のサイトは見つからなかったけど、海外では普通に有名な観光地のようで、「Arankele Monastery」と入れるとたくさん出てきた。
本の中の描写どおりな印象。僧が二時間かけて掃き清めている、と書かれていた小道などの写真をしげしげと堪能。
中国の水墓、は場所の特定に一番苦労した。紀元前5世紀、という情報を頼りに探した。「曽侯乙墓」が正式名。
原文にはどう書かれていたのかは分からないけど、本には水墓、とあったので、私は、澄んだ水にひっそりと沈められた墓を想像して激しく心ときめかせていたのけれど、この言葉はちょっと語弊があるようで、実際は水は特に意図したものではなく、完成した後に地下水が入り込んでしまった、ということらしい。澄んだ水というよりは濁った水というのが正しいようです。
ただし、水のおかげで埋葬品の保存状態が素晴らしく良かったのは事実のようで、特にこの本に書かれていたとおり、出土した65個の編鐘は圧巻。
一つの鐘で短3度の二つの音を出すことができ、5人がかりで演奏するものだったとか。
鐘を吊るすフレームや鐘じたいの表面に彫られた碑文には当時の音楽理論が詳細に記されていたらしいが、どんな音楽が奏でられていたかはやはり謎のままで・・・等々、興味は尽きず、またまた説明サイトを読みふけってしまった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
2000年に書かれ、2001年に翻訳刊行された作品。日頃、新刊あるいは読み逃していた古典的名作を読むのにあくせくしがちで、なかなかこの手のとくべつ新しくもなく古くもない本を読む機会がない。そのうえ、これは余白を味わうゆとりや集中力を必要とするタイプの本で、読書の原点的な喜びというのかな、そういうのを感じつつ一周まわって新鮮に読んだ。舞台が同じ南アジア、そして巨匠作ということもあってか、去年読んだアミタブ・ゴーシュ『飢えた潮』と似た読み心地で、土地の歴史や文化の固有性を味わいつつ、登場人物たちの人生の苦さそしていっときのきらめきに思いをはせて、そのストーリーテリングの妙にさすが巨匠と感心したり。そういえば、凛とした女性の色っぽい一面が妙に生々しいのも同じかも。
-
雑草を抜くように簡単に人が殺される。そんな日常が当たり前の世界で暮らすというのはどういう感覚なのだろう?戦争は私たちが想像し得ないような価値観を生み出し、それがまかり通ってしまう。この物語はスリランカ内戦の悲惨さを国際協力(検死)という形を通して語りかけてくる。国内(スリランカ)の情勢を国外(西欧諸国)の感覚で判断すると必ず歪が生まれる。国際的判断というものは万国に通じるわけではない。たとえ不正な事だとしても、真実の追及が必ずしも道を正すとは限らない。オンダーチェは凄く悲惨な事柄を詩的な美しい文章で綴る。だから目を覆う様な悲愴な場面もすぅっと入ってくる。人間の儚さ、不条理にも嘆くわけでもなく、淡々と生活をする強さ。それらが、本当に美しく綴られる。なんでこんな文章が書けるのだろう。この作家は怪物である。とにかく、良書。
-
マイケルオンダーチェ「アニルの亡霊」https://books.google.co.jp/books/about/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%AB%E3%81%AE%E4%BA%A1%E9%9C%8A.html?id=89SYPQAACAAJ 読んだ。よかった。よかったけど辛い。法医学者がジェノサイド調査でスリランカへ派遣される話が幹。いろんな人物が入れ替わり登場しては消えその全員が傷ついている。ずっと暗闇の中で断片的に話は進み、描写は映像的で美しい(おわり
-
読んだあとしばらく放心してしまった。重量級の小説。知らなかった、スリランカの内戦の凄まじさ。毎日のように出る誘拐による行方不明者、テロの怪我人や死者。その日常の中で暮らすということ。スリランカで生まれ外国で暮らして法医学者となったアニルはオンダーチェの生い立ちとも重なり合うところが多い。そのアニルが帰国して政治テロの大量殺人を暴こうとするという設定だからこそ、外から見たのではないスリランカと、そこに暮らす人々が生々しい。生々しく悲痛で、苦しい。光の描写が印象的。そしてラストシーンは映像的で素晴らしい。
-
【再読】
一回目→2001/10/
二回目→2007/9/13
三回目→2015/3/23 -
アジア、中東系の作家さんの文章はなんでこんなにも美しいんだろう。訳者さんの文章力もさながら、流れるような文体、細かい情景描写。。。スリランカでの隠された内戦という重いテーマながら、現地の風景が目に浮かぶ。結末に切なさを感じながらも、原書をぜひ読みたいと感じた。
-
2012/4/19購入
-
「「ユングは絶対に正しいことを一つ言った。われわれの思考は神にとらわれている。その神と同じ側に身を置いてしまうところに間違いがある」 これがどういう意味であるにせよ、何となく深みのある警告のように思われて、彼らは心に留めておいた。」-『鼠』
記憶の断片は、前後をバラバラにして並べられたとしても、互いに触手のようなものを伸ばして繋がろうとするように見える。もちろん、記憶の断片自体が能動的にそのような因果関係を作り出そうとするはずもなく、その感覚は断片を受け取った側の人間の意識が自動機械のように作り出す感覚だ。人は全く関係のない二つの出来事の間に、ありもしない関係性を「発見」してしまう。そんなオートマトン的関係性構築の仕掛けを意識的に打ち壊そうとし、記憶の断片の間を錯綜する糸を断ち切ろうする作家がマイケル・オンダーチェだと思う。
断片を脈絡もなく示しておいて、謎解きの遍路へ読者をぐいぐいと引っぱることもできるだろうに、と思う。しかし、少なくとも意図的にそういう一つの企まれた方向に読む者を追い込まない態度がオンダーチェにはあるように思う。それでも、自分の中のオートマトンはしつこく断片どうしを縫いつけようとする。これらの記憶の断片は一つのストーリーを綾なすものとして読むべきものなのか、それとも、人生には触手が半分伸び欠けたままに放り出された記憶の断片が、意味はどうあれ、あちらこちらに散らばっているのが自然であるのだとする作者の意図を汲み取るべきなのか。そのどちらとも読みかねる。その掴みどころのなさが、実はオンダーチェの魅力であるのかもしれない。
例えば学術的文献を読む際に、よく警句としても言われることだが、技術論文のような論理性が必要以上に強調されている文章からでさえ、人は読みたいものしか読みとらない。それは決して意図的に読みとらないのではなく、読み取れない、というべき事実だ。そうしてみると、オンダーチェの小説から何を読み取る(あるいは読み解く)かは、結局のところあまり突き詰めて考えても仕方がないことなのかも知れない。作家の意図がどこにあるのかを問うことは、正しい問いではないのかも知れない。意図はどうあれ、それは読むものに委ねられてしまっていることなのだろう、と思うのだ。
あるいはそれでよいのかも知れないと思いつつ、心の奥にある小さな引掛りにいちいち気を取られる。スリランカの強烈な自然と内戦下の非常さが、物語の展開いかんに係わらず、こちら側の脳の中に侵入しようとしてくるのを意識してしまうのだ。憤りはそこかしこに、ある。だからといって、何かが意図的に糾弾されているようではない。そして、その憤りを読み取ったとしても、問題の根源は一つの視点からだけでは決して見通すことができないことも同時に理解される。そうは思うのだけれど、それでも、オンダーチェがこの作品を通して、読むものにその憤りの存在を知らしめることを、やはり意図していたのではないかという思いが、打ち消してみてもしつこく湧き上がるのである。
そして、てっきりカナダの作家であると思っていたオンダーチェが実は主人公の一人であるアニルと同様の過去を持つ人であると知るに至って、ますますその思いが強くなるのである。 -
著者の故国スリランカを舞台に静かに語られる虐殺の記憶。語り口がすばらしいです。