メモリー・ウォール (Shinchosha CREST BOOKS)

  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (316ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105900922

作品紹介・あらすじ

老女の部屋の壁に並ぶ、無数のカートリッジ。その一つ一つに彼女の大切な記憶が封じ込められていた-。記憶を自由に保存・再生できる装置を手に入れた認知症の老女を描いた表題作のほか、ダムに沈む中国の村の人々、赴任先の朝鮮半島で傷ついた鶴に出会う米兵、ナチス政権下の孤児院からアメリカに逃れた少女など、異なる場所や時代に生きる人々と、彼らを世界に繋ぎとめる「記憶」をめぐる6つの物語。英米で絶賛される若手作家による、静謐で雄大な最新短篇集。O・ヘンリー賞受賞作「一一三号村」およびプッシュカート賞受賞作「ネムナス川」を収録。

感想・レビュー・書評

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  • 6つの短篇を収録した作品。それぞれの話は独立していますが、「記憶」という糸で繋がっていたりします。アメリカでは数々の賞を得た作品であり、日本でも本屋大賞翻訳小説部門第3位にランク付けされたそうです。

    どの短篇も夢中に読ませられる佳作でした。なかでも、ふたつの長めの短篇がとくにおもしろかった。表題作でありトップバッターの『メモリー・ウォール』がまずひとつ。近未来の南アフリカの都市が舞台で、その世界では人間の記憶を外部にとりだしてメディアに収め、VRでビデオを見るように体験することができる。三人称多視点、つまり群像物なのですが、アルマという認知症を患う上流層の老女が中心に位置して、彼女の記憶をめぐる話からはじまって、物語は拡大し深まっていきます。文学性かエンタメ性かといえば、本短篇集は文学性のほうに寄っています。しかしながら、『メモリー・ウォール』にしても伏線が張ってあり、作品が進んでいく原動力になっている「謎」の扉に差しこまれる鍵となっていて、読者を夢中にさせてくれる仕掛けになっています。物語そのものも、はじめて触れるアンソニー・ドーアの世界なので読者としても慎重になりますしラジオのチューニングを合わせるようにダイヤルを探っていくかのような読みだしになりましたが、最後まで読み終えてみると、入門編としても最適でしたし、物語そのものだってずいぶん楽しめました。本書の6つの物語の並び方もよいのです。

    続いてふたつめは最後の短篇『来世』。ナチスドイツのハンブルクのユダヤ人孤児院が舞台です。そこで生活する少女エスターと親友ミリアムを中心とした12人の少女。その時代と、エスターが長い人生を終えようとする現代を往き来しながら進んでいく。この構造自体も面白いですが、物語自体に独特の推進力とさみしさや悲しみがあって、ぐっと物語のなかに入りこむ読書になりました。僕はこの作品が本書ではもっとも気に入りました。

    これらの短篇に限らず、どんな年代の老若男女も作者はみごとに描きます。小説の土台となる「世界」だって頑健なつくりをしている。

    本書は作者が30代半ばの時期の作品です。読んでいるとそこには圧倒的な知識量がすぐにうかがえるのでした。ブルドーザーのように書物をあさり、現実世界においても「これは○○というもの、あれは△△といって□□の役割をするもの」と普通はそこまで知らなくても困らないそれ以上までしつこく言葉で世界を分節して記憶してきたのだと思います。かといって知識量をひけらかすことはしていない。必要に応じて、知識の入った引き出しをあけ、ぴったりのものを取りだしている。(しかし、あるいはそれほど膨大な知識量ではないのかもしれない。限られた知識を無理なく自然な形で、その大切なひとつをひとつのかけらとして小説のなかにあてはめているだけなのかもしれない。そしてそうとは思わせない。ひねくれた見方になるけれども、つまりは自分の底を見せないためのワザなのかもしれない。)

    だけれど、つよく自制する力があるのでしょう、バランスをとるためまたはくどくならないために、表現しているその解像度は高くとも余白が多いし、客体への距離感はどちらかといえば遠い。要するに、文章そのもので解像度をあげているというよりも、固有名詞など具体的な単語の結びつきで解像度をあげている感じがするんです。その結果、構築された物語の世界は、まるでほんとうにどこかで実在しているのかのような現実感をたずさえた強度を保っている。それがこの作者ならではの表現作法であり個性とも言えます。

    簡単にいえば、抑制が効いているということですね。無駄話はしないのだけど、話はおもしろいタイプと表現するといいでしょうか。圧倒的な知識量が背後にあるからなせる解像度で小説世界が構築されているとしても、しっかり生命が住まう川は流れている感じ。それがないと無機質なものに沈んだ創作になっておもしろくなくなります。

    ただ、硬質な小説作法の印象ですから、作者がこのあとどう自分のやり方に対して舵を切っていくのかには興味がわく(これは2010年の作品ですから、その後「どう舵を切ったのか」が現在の作風からわかることですね)。同じ象限に居続けて完成度を高めていくのか、解像度を維持したまま、より柔らかな表現の象限へ移動するのか。あるいは、もっと違った形へなのか。

    ここまで全力で「小説家として小説を書くこと」にエネルギーを注いでやりとげるのはすごいことです。それ相応の犠牲だってなければできないと思います。後年、そこに失意を感じることだってあるだろうし、それが致命的になるものである可能性だってあるのですし。全力と覚悟の賜物なのでした。読んでよかった。

  • 記憶にまつわる短編小説集。舞台が多彩で、著者の母国アメリカはもちろんのことケープタウン、中国、リトアニア、ハンブルク。老人を描くのがうまい、と思う

  • アンソニー・ドーアの短編集。
    表題作は、記憶をプラスチック製のカートリッジに保存できるようになった近未来の南アフリカが舞台。

    認知症を患う裕福な老女アルマの家に、
    彼女の夫が死の直前に発見した幻の恐竜の化石を探すロジャーと、
    記憶読み取り人のルヴォが侵入する。
    二人はアルマのカートリッジを次々と再生していく。。

    最後の方はぎくしゃくしていた夫婦関係にも、
    美しい宝物のような瞬間があった。
    たとえアルマが思い出せなくても、
    紙片で覆われた寝室の壁に、
    記憶のかけらに触れたルヴォの心の中に、
    二人の愛は生き続ける。

    ある朝、以前の明晰さを少しだけ取り戻したアルマが、
    使用人に話しかける場面が印象的。
    彼女は結婚生活を振り返って
    “しあわせだったときもあるし、そうでなかったときもあるわ”
    “ほかの人たちと同じように。しあわせな人だとか、不しあわせな人だとか言うのはばかげている。人間って、一時間ごとに千もの違った人になるんだもの”
    と語る。

    本書に収められているのは、
    千もの違った人になれる人間の、生の断片。
    その一つひとつがかけがえのないもの。
    決して乗り越えられない、悲痛な思い出であっても。
    体験した本人がいなくなったとしても、
    誰かが覚えているかぎり、
    それらの記憶はいつまでも失われることはないだろう。

    • mikemike64さん
      レヴューを読ませていただいて、少し泣きそうになりました。
      これは是非読みたいです
      レヴューを読ませていただいて、少し泣きそうになりました。
      これは是非読みたいです
      2012/02/28
    • JUNさん
      > mikemike64さん。

      コメントありがとうございます*
      海外の小説なので、日本語訳が読みやすいといいですが。。

      この新潮クレスト...
      > mikemike64さん。

      コメントありがとうございます*
      海外の小説なので、日本語訳が読みやすいといいですが。。

      この新潮クレスト・ブックスというシリーズは本そのものも大好きで、個人的にお気に入りです(^_^;)笑
      2012/03/02
  • 喪失を抱えた人々を描く短編集
    舞台も南アフリカ、中国、リトアニアと幅広く、面白い

  • "来世"が一番心に残った。
    運命的な物語だった。

    「わたしたち一緒のところに送られるといいわね」という台詞やワルシャワへの楽観的な夢想。
    エスターの無邪気さが切なかった。
    こういう子どもは当時多かったんだろうなと思わせられた。
    それに対するミリアムの静かに現実を受け入れている達観した眼差し。
    「わたしがこれまでに学んだことがひとつだけあるの、エスター」
    「ものごとはどんなときも悪くなるだけなのよ」


    てんかん持ちであったこと。
    絵が得意だったこと。
    エスターの運命を分けることとなったいくつもの出来事。
    何がどう作用したのかは分からない。

    障害者の行く末を知っていて、というのもあるだろうけれど、何よりローゼンバウム医師を突き動かしたのはエスターが描いた彼の妻の絵だったのは間違いないと思う。
    人の運命を変えてしまうほどの、芸術のもつ力、というものへも思いを巡らす。

    タイトルも良い。
    来世という言葉をAfterworldって表現するって初めて知った。

  • 6篇を収めた作品集。
    表題作は、記憶の断片をカートリッジに記録するという設定と、場面を細片化しカットバック的に繋いでいく手法とが見事に結び付いている。たかだか数十年しか保持されない人間の記憶と、何万年という時を経て遺された化石との鮮やかな対置。
    心に深く残るのは「来世」。1930年代ドイツのユダヤ人街の孤児院に暮らした、今はアメリカに住む老女。人生の終幕が近付く中で彼女は、孤児院での他の少女達と過ごした記憶へと立ち返っていく。刻々と閉塞していくドイツの記憶は胸が苦しくなるが、人生の最期に記憶の中の少女達と再会を果たせて、哀しさ辛さだけではない、記憶は彼女を救いもしたのだと感じ入った。

  • 記憶、時間軸、科学、独特な筆致、など、ドーアの世界に惹き込まれ中。

    個人的には表題作と来世が良かった。
    ただデビュー作に比べるとバラつきがあるような気もした。

  • 記憶がテーマの短編集。
    懐かしさと切なさが余韻をもって胸に残る。
    表題作はもちろんだが、両親を失った少女が徐々に新しい環境を受け入れていく「ネムナス川」、ナチス占領下の孤児院の少女を描いた「Afterworld」も印象的だった。
    大切な思い出や忘れられない思い出を胸に抱えて、傷を癒すように撫でながら希望を見つめる、そんな優しい読後感があった。

  • 『知りたい思いは知りえないこととせめぎあう。サボおばあちゃんの人生は、どんなだったのだろう? ママの人生は? わたしたちは濁った水を通して過去をのぞく。見えるのは形と姿だけだ。どこまでが本当なのだろう』-『ネムナス川』

    たとえば何のために本を読むのだろう、と問うてみたくなる。問われただけで何となく不快な気分になるこの問いは、けれど、敢えて問うてみる意味のある問いであるような気がする。それはこの問いがすぐさまより大きな人生の問いに繋がってゆくような予感がするからだ。

    何故不快なのかと考えてみると、その問いの立て方が既に結果を問うような形をとっているせいだ、と気付く。それが読むことの楽しみが半減するような気分にさせられる原因だ。つまり読むことは結果を求めて行う行為ではない、とどこかで自分が思っているということだ。そうだ、読むことはどこまでも過程に意味がある。その本に書かれている事実や情報が役に立つとか立たないとかには余り価値はない気がする(そうじゃないこともあるだろうけれど)。例えば自分にとっては、本の内容と全く関係のないことを漠然と考える気分になること(たとえばこんな風に)、その過程にこそ意味があるように思うのだ。そう呟いてみて、すぐに別の思いも湧いてくる。ひょっとして人生というやつもそうなのではないのか、と。

    記憶というものと本というものは似た存在だ。記憶を(未来へ)残すということの一つの物理的な形が本なのだから、それは当たり前と言えば当たり前なのだが、そのことを言っている訳ではない。それは、どちらもそれを辿る者がいない時、存在しないのと同じである一方で、それを辿る者(本人を含む)がその過程で経験することは、本や記憶を残したものの意図とは無関係である、というところが、似ていると思うのだ。それは恐らくどんな言葉一つでも映像でも、文脈ということを逃れては存在し得ないということを意味しているのだろうと思う。

    この本のどの短篇の中でも記憶の伝達というようなことがテーマとして扱われるが、それが間に入るべき世代を越えてなされるように描かれている作品が多いのも、記憶媒体に載せて伝達可能な情報と文脈の間に溝があることを示すのが解り易くなるからだろうと思う。その効果をより深めるためか、物語はオープンエンドの印象を残すように描かれる。結果を問わないことが、記憶の過程(文脈)依存性をより強調する。この作品を読むものたちとて、自分自身が既に知っている(と思っている)文脈の中でしかその物語を読むことはできない筈だ。例えば、アパルトヘイトという言葉を探し出してくる脳、38度線という言葉を呼び出す脳、三峡ダム、クリスタルナハト、アウシュビッツ。文字になっていない言葉が頭の中で勝手に渦を巻き、読み解く物語を導いてしまう。

    記憶はある意味で中立なものだ。もしそれが記録という言葉に近いものを意味しているならば。しかし一方で一人の頭の中にある記憶は、その人の今現在置かれた立ち位置における文脈を除外して意味を取り出すことは難しい(それをやったらどんなことが起こるのかを描いているのが「メモリー・ウォール」だ)。しかもより厄介なことに現在の文脈は過去の記憶の文脈を容易に置換する。時には事実を上書きさせもする。記録とは程遠いものとなる。では記憶すること、過去の記憶を辿ることなど全く無意味なことなのか、と問えば答えは当然否である。記憶は辿り直すことで新たな変化を辿ったものにもたらす。そのことに意味がある。新たに与えられた文脈の中で記憶の意味も新たになる。時をおいて読み返した本が新たな楽しみを与えてくれるように。

    正確に過去に何が起こったのかを知りたい、との思いは普遍的な希求としてあるだろうし、この作家の中にもあるのだろう。しかし、正確な過去とは何か、と問い始めた時、知りたいことの意味はあいまいにならざるを得ないだろう、とも思う。恐竜の化石の記憶は、ある者にとっては封印したい文脈の中に存在し、ある者にとっては現実の文脈の中で価値を伴う情報とつながる。言葉の壁はその向こうにある記憶の扉を開けるための失われた鍵のようでいて、本当に知りたいことは言葉を越えて伝わる。祖母の記憶は歴史を再構築するための情報としての価値はないかも知れないけれど、その時代の空気を間違いなく吸い込んでいて、孫という培地に置かれた時、それが確実に言葉から滲みだして来て、新しい意味を教える。

    記憶。それは別の言い方をすれば、正義ということと同じニュアンスを帯びてくる。常に正しい記憶がないように、常に正しい正義もない。僕らは自分たちを過大に信用してはならないと思う。

  • 2011年のクレストはいっそう豊かで、『オスカー・ワオ』や『ソーラー』、シュリンクもあった。この中篇集にはそういった華とは別種のしかし絶大な魅力がある。理系の知識と文系の表現。乾いた文体、映像的な、息を飲ませるうつくしい情景。人物に彼方から寄り添うドーアの愛情。読後も静かにおだやかに残りつづける、時と記憶をめぐる物語。圧倒的。年間ベスト級。

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