善き女の愛 (Shinchosha CREST BOOKS)

  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (444ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901141

作品紹介・あらすじ

昨年度ノーベル文学賞に輝いたマンローの円熟期の傑作短篇集。独身の善良な訪問看護婦が元同級生に寄せる淡い思いと、死にゆくその妻。三者の心理的駆け引きをスリリングに描くO・ヘンリー賞受賞の表題作ほか、母と娘、夫と妻、嫁と小姑など、誰にも覚えのある家族間の出来事を見事なドラマとして描きだす、マンローの筆が冴える金字塔的短篇集。一九九八年度全米批評家協会賞受賞作。

感想・レビュー・書評

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  • 可能性への怯え、不安、そして迷い。
    人生を選び、まっすぐに進んでいると思っていても、その気配はいつでも潜んでいる。そしてときに夢に形を変えて忍び寄ってくる。
    諦め、失意、失われた選択への憧れ。
    平然と過ごしていても、心に去来しては掻き乱していく感情が日常の中に不意に顔を覗かせる。

    簡潔でありながらしっとりと繊細な文章で、女性たちの複雑に綾なす心のうちをアリス・マンローは見事に掬い上げる。綴られた思いは、揺らめき、翳ろいながら指の間を伝いこぼれて胸の内へ沁み込んでゆく。微かに苦味を残してー。

    物語の中で時間や場面は自在に切り替わる。詳細には語られない過去が存在する。そのことが人間関係や複雑な感情の機微にしっかりとした背景と深みを添えている。一編を読むごとに本を閉じて、ため息と共にしばし反芻する。もう一度開いて文章を確かめて味わい、思いを巡らせる。
    読者の想像力と積み重ねてきた人生を信頼して、作者から多くを委ねられているかのようだ。

    一つだけ選ぶなら“善き女の愛”だろう。間違いなく完璧だ。“セイヴ・ザ・リーパー”も捨てがたい。ただ、一冊通して読み終わったときに、最後に置かれた“母の夢”は不思議に心に残る。女性であること、女性として生きていくこと、人生を引き受けることが、決して賛美するのでも決然とした意思表明でもなく、ただ確かなこととして伝わってくるようだ。各短編の女性たちの生き方を肯定するような温かさが感じられた。

  • アメリカ人の作家エイミ・タン編の「アメリカ短篇小説傑作選」(翻訳本がDHCからでています)にこの「善き女の愛」の一篇である「セイヴ・ザ・リーパー」が含まれています。「アメリカ短篇小説傑作選」の「セイヴ・ザ・リーパー」の訳は、近藤三峰さんです。
    クレストブックスの「善き女の愛」の小竹由美子さんの訳とは、違う部分があります。私が一番気になったのは、この「セイヴ・ザ・リーパー」の難解で重要と思われる部分の訳です。それはこの小説の主人公ともいえるイヴがテニスンの詩を思い出して口にする場面です。

    この場面の最後の部分は、小竹さん訳では、

    「『刈り手らのほかは、朝早くムギを刈り━』「ほかは」というのがいちばん響きがよかった。刈り手らのほかは。(最後の「刈り手らのほかは」の部分にルビのように「セイヴ・ザ・リーパーズ」と書かれています。)

    近藤さん訳では、

    「ただ麦刈りの男たちを除き、朝早くから麦を刈り━」
     イヴはそれがいちばん気に入った。"死神を救え"と聞こえるからだった。(「ただ麦刈りの男たちを除き」と"死神を救え"の部分にどちらもルビのように「セイヴ・ザ・リーパー(ズ)」と書かれています。)

    辞書で調べてみると、reaperには「刈り取る人」という意味のほかに、「死神」という意味があります。
    どちらの訳がいいという権利は私にはありませんが、「死神」という言葉がある近藤さんの訳の方が、「セイヴ・ザ・リーパー」という短篇を理解しやすくしていると私は思います。
    小竹さんの訳だけと読むと、なぜこの短篇のタイトルが「セイヴ・ザ・リーパー」なのかが全く分かりません。

    ちなみに、テニスンの詩は"Only reapers, reaping early"(「刈り手らのほかは」ではなく「刈り手らのみが」)となっていて、イヴは(わざとかもしれませんが)間違えて覚えているようです。

    もちろんこれも私の個人的感想ですが、小竹さんの訳だけを読んでいた時は、「これぐらいでノーベル賞?」と思っていました。

    また、このクレストブックスの「善き女の愛」の「変化が起こるまえ」だけは気持ち悪くて我慢できませんでした。

  • 映画『スタンド・バイ・ミー』風にはじまるのが、表題作『善き女の愛』。春の朝、三人の少年が初泳ぎを自慢するために出かけた川で見つけたのは、近くに住む検眼士のウィレンズの死体だった。第三者の視点でひとしきり小さな田舎町を素描したかと思うと章が変わり、視点人物は訪問看護婦イーニドに移る。彼女が今看ているのは、同級生のルパートの妻ミセス・クィン。死が迫っているせいか片意地で我儘な患者に手を焼きつつも、常に善行を心がけるイーニドは誠心誠意務めを果たす。寡夫になろうとする男と奉仕活動のせいで行き遅れてしまった女との間に何かが起きるであろうことは、読者にも予想がつく。それを知ってか妻は死に際にとんでもない告白をする。

    どこにでもありそうな静かな田舎町の上辺を繕っている覆いを剥ぎ取ったら、恐ろしい真実が現われる、というのはアメリカによくあるスモールタウン物の典型だが、全く別と思っていた話が、突然目の前に現われた川の情景で一つに結ばれる。告白の真偽が疑わしいのは、紹介済みの患者のねじくれた性格から予想される。イーニドの揺れる心が最後に選択したのはルパートと二人でボートに乗ることだった。暮れゆく光の中、隠してあるオールを探しに男は姿を消す。残された彼女を静寂が包む。息の詰まるようなラスト・シーンに言葉をなくす。

    人物の心情や心理が嘘やごまかしなく的確に描かれている。周りからはその善行ゆえに聖女のように見られているイーニドだが、自分を汚らしく思えるような夢も見る。善行を積んでいるように見える生き方も、父や母との確執があってのことだ。どの登場人物もただの善意の人であったり、優れた人物には納まらない。物には裏表があるように、人にだって表面の笑顔の下に隠された思いや自分でも気づかない欲望や野心が埋もれている。

    一人の人間が出来上がるにはいろいろな条件が左右し、人はそのなかでどう生きるか、どう生きればよいかを思い悩む。人が一人で生きていないように、成長する過程で親や配偶者、またその兄弟姉妹、さらには我が子、との間に必ず葛藤が生じる。アリス・マンローの短篇小説は、誰にでもある家族という核を中心に構成される。休暇旅行や帰郷といった日常性の中に時折り訪れるふだんとは異なった状況に人物を放り込み、そこに立つ小さなさざ波がしだいに輪を広げ周りのものを巻き込んでゆく様を、細部を大切にしながら丁寧かつ細心の注意を払って観察してゆく。

    はじめは静かな佇まいを見せていた状況が、次第に募ってゆく人々の意地悪い視線や不寛容な言動によって、それまでの均衡を保てなくなったとき、事態は起きる。ずっと隠されていた秘密が暴かれ(「善き女の愛」、「コルテス島」、「変化が起こるまえ」)、危険が身を包み(「セイヴ・ザ・リーパー」、「腐るほど金持ち」、「母の夢」)、思い切った行動に走る(「子供たちは渡さない」)。

    主人公は女性、それもかなり知的で、読書や音楽、演劇に親しみ、読んだ本のことを人と話したり、自分でも何かを書いたりすることを好む。周囲は善意の人々であるかもしれないが、地方の変わり映えのしない暮らしに慣れており、彼女が持ち込む知的な印象を、あまり感心しているふうではない。主人公は、一見それを受け入れているように振舞うが、内心では全然納得していないのは、たとえば一番身近な両親にははっきり反抗的な態度をとることでそれと知れる。

    知的で自立した女性が、あまり都会とはいえない土地で周囲の因襲的な視線に囲まれて暮らすうちに溜め込んでゆく反感や抵抗、とそれが原因で起きる破局を、これぞ短篇小説という抑制された筆致で一気に終末に落とし込む。八篇のどれをとっても、鋭い人間観察力、肺腑を抉るような心理描写、切れのいい会話、時代背景が浮かぶ細部の描写、日常に亀裂を走らせる戦慄的なラスト、といずれ劣らぬ見事としか言いようがない手並み。大人の読者を満足させに足る短篇小説集である。

  • 「わかってるわ。そんなの公平じゃないわよね。でも人生って公平じゃないものなのよ、あなたもそれに慣れたほうがいいわ」

    それは野に咲くあるがままの美しさと個性ある(疵のある)花たちで彩られた花束ではもはやなく、きちんと生産された高価な花々でつくられたフラワーアレンジメントのような完璧な 作品 になっていた。そしてもう、迷いなんかはないようにおもえた。
    "嘘っぱち" でどうにか姿をたもっているこの世界を、まやかしであるときちんとゆるしているひとの頑なさと柔らかさも、とてもあんしんする。静まりかえった湖面にとつぜん鮫があらわれたとしても、おどろきもしないような、そんな覚悟のような。
    過去や思い出にこだわることになんとかしがみついていようとすることを否定しないように、じぶんを励ましているかのような可笑しみと哀しみ。つまらないひとのつまらない話も、あるいはつまらなくないのかもしれないという人生における期待も。

    くりかえされるモチーフによって、それぞれの短篇の断片から、彼女じしんの記憶と体験を手繰り寄せていく(ストーカーみたい!)。なんだかのぞき見をしているようなちょっぴりの罪悪感と高揚感がこころを擽り、ある種の処世術を乞うているじぶんに気がつく。
    なまなましい情事の外でのあれやこれやのやりとりに、あのころの胸の痛みや高鳴りをばかみたいに思い出す。もう過ぎ去り忘れたのだとおもっていたのに。ただ、あんぜんな場所にしまわれていただけだった。それは、わたしが選択したことなのだろうか?? けれどそんなことはもうどうだっていい。どこかのだれかの思い出に、あぁわかる、とかウケる、だとかの共感とじぶんのなかでの答え合わせのようなもののための、たんなるひとつの経験だったんだ、なんて(そんな戯言も、あなたならきっとゆるしてくれる)。
    あなたはベルイマンもすきなのね。そして燃やされたかもしれないいつくもの手紙のことを想った。いまは、あの頃の合言葉だったような冗談を、記憶の欠片の箱から見つけようとしているところ。
    ジルの弾きはじめたメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は、この物語の終わりで「わたし」にとっての皮肉のような拍手で幕をとじる。約30分間。完璧。





    「すごく年を取った人たちはね。もう悲しみに打ちひしがれたりしないの。悲しむだけの価値のないことだって思うんだわ、きっと。」

    「みっしりとして穏やかな、古典的な美しさで、努力や虚栄ではなく献身と本分を果たすことによって達成されたものだ。」

    「品位と楽観性を漂わせている人というのがいる、その人がいるとどんな環境も浄化されてしまうように思える人が。そしてそういう人にはとてもあれこれ話せないのだ、それはあまりに破壊的なことだから。」

    「ふと浮かんだジェフリーについての思いは、おもいなどではぜんぜんなかった ─── むしろ身体の変化に近かった。」

    「自分はもう二度と、どんな部屋で暮らすかということもどんな服を身につけるかということも気にもとめないだろうと彼女は思った。自分が誰か、どういう人間なのか他人に示すためのそういった助けを求めることはないだろう、と。自分自身に示すことさえ必要ないのだ。彼女がやってのけたことでじゅうぶん。それがすべてなのだから。」

    「愛ゆえに、と事態を見守る人たちは皮肉っぽく言うだろう。セックスゆえに、という意味で。セックスというものがなければ、こんなことは一切起こらないだろうから。」

    「わたしは自尊心を取り戻しかけてるわ。あのね、取り戻し始めてやっと、自分がどれほど自尊心を失っていて、どれほど失ったことを悔いているか、気がつくものなのよ。」

    「でも、一旦あの痛みの高原に達してしまうと、死ぬことも生きることもどちらも意味ない、好きな映画と同じようなものだってわかった。極限まで引き伸ばされながら、巨大な卵、というか赤ん坊とはまるで違う燃え上がる惑星のように感じられるものを動かすために何かするなんて全く無理だと確信したの。永遠に続きそうな時間と場所のなかにそれははまり込んでいて、わたしもはまりこんでいた ── 抜け出せるわけなんかなかったし、わたしの抵抗はとっくに無力化していたわ。」

  • 表題作は2度読みした。その後の作品も注意深く読んだ。
    マンローの文体は一読しただけでは、登場人物の関係性が掴みにくいからだ。

    仄暗い人間の機微が丁寧に描かれている。
    マンローの文体、書き口の特徴は、書き進んでも、決して全貌が明らかになることはないことに尽きる。不完全な人間の物語は決して終わらない、まだまだ続くということを示している。

  • 表題作が秀逸。

    検眼士ウィレンズの溺死と、末期患者ミセス・クィンの訪問看護婦イーニドの話が絡んで来るまでは、物語はとてもゆっくりと進むが、絡み始めてからは容赦なく、運命の輪は結末まで回り続ける。

    死の間際に打ち明けられた秘密。
    「善い」女は、聞かなかったことにしてやり過ごせない。そして、誰も幸せにならないこんなやり方を選ばなければ気が済まない。
    作者は更に、追い討ちをかけるように、ルパートとイーニドの甘酸っぱい青春時代を披露する。これは誘惑だ。全て素知らぬ顔を決め込んで、後釜に納まれば…という選択肢をチラつかせる。…「善い」女なんかやめて、ね。

    そして、ベケットの「いざ最悪の方へ」さながらに。。。

    勿論、作者は物語にとって「神」なわけだが、マンローはゾッとする位、残酷な神だ。残酷な舞台設定に登場人物を放り込むだけでなく、その足掻くさまを物語の中で掬い上げてやらないまま、終焉の幕引きをしてしまうくらいに。

  • 善き女を貫くのも大変です。

  • ◯県立図書館より。
    ◯表題作が一番良かった。最後がどうなったかもよくわからないし、ミセス・クィンがどうして都合よくなくなったかもはっきりしない(本当に危篤で?それともイーニドがこっそり毒を盛った?)から、全体としてもやもやと霧の中で起こりそして終わったような感じがある。
    ◯途中、イーニドとルパートがクロスワードを挟んで交わす会話が、イーニドの思い出の中の(少女時代の甘さと罪悪感が入り交じる)ルパートとのやりとりにオーバーラップしたりして、これはいい感じに二人の仲が進展していくのか?と思いきや、終盤で出てくる「薪小屋の中に押し込められていた古い学生カバン」をルパートが乱雑に放り出す場面で、甘やかなイーニドの回想は彼にとってはすでに過去であり取るに足りないもの、もしかしたら覚えてすらいないもの、として示唆されたりする。苦い。
    ◯というか、全体を通して、ストーリーの核になっているのは主人公の女性のちょっとした感情の変化や微妙な決意なんかで、大々的に言葉に出して(あるいは心中で宣言して)いるわけではない。彼女たちのものの見方、感じ方の変化、それに対する控えめな表現だけですべてが進行し、静かに話が終わって行く。すべすべした布に生じた小さなビリングを注意深く取っていくように、一つ一つの描写に丁寧に心を傾けないと話の流れが読み取りにくい。川端康成みたいな小説だなあと感じた。
    ◯収められた数編はどれも、女性をめぐるキーワード「結婚」「思い出」「出産または子供」がこれでもかと詰め込まれている。作者のアリス自身の半生の大部分が、作家としてというより家庭人として、主婦として、母として、妻としてのものだったのだと考えると、煮詰めたように濃厚で時に息が詰まりそうになる夫婦のやり取りや家庭の中での描写にも納得がいく。
    ◯一つ一つがものすごく甘くてドロドロした、きれいな砂糖飾りのかかった焼き菓子みたいだった。クッキーアソート缶の中に1つか2つ入っていたら気持ちが華やかになっておいしいと思っただろうけど、こればかり続けて食べているとそのうち虫歯になって歯が痛みだしそうな、甘すぎるお菓子のような作品たち。

  • 女性たちの苦悩を越えた冷静なまなざしが恐ろしくもあり、どこか痛快にも感じる。強い。

    こんな書き手がいること、こんな作品たちを読めることが嬉しい。

    白々しさを暴いてくれるみたいで救われる。

  • 最初に物語の舞台、登場人物に入り込むのが
    少し難しかったですが、入り込んでしまうと
    映画を見ているような気分で読み進められました。

    感動できるような良いひと、というのはさっぱり
    出てこず、感動できる良いエピソードもなく、
    人生そのものを描いている小説たち。
    やっぱり好きだなぁ。

    表題作「善き女の愛」と「母の夢」がお気に入り。

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著者プロフィール

Alice Munro
1931 年生まれ。カナダの作家。「短編の名手」と評され、カナダ総督文学賞(3 回)、
ブッカー賞など数々の文学賞を受賞。2013 年はノーベル文学賞受賞。邦訳書に
『ディア・ライフ (新潮クレスト・ブックス) 』(小竹 由美子訳、新潮社、2013年)、
『小説のように (新潮クレスト・ブックス)』(小竹 由美子訳、新潮社、2010年)、
『 林檎の木の下で (新潮クレスト・ブックス)』(小竹 由美子訳、新潮社、2007年)、
『イラクサ (新潮クレスト・ブックス)』(小竹 由美子訳、新潮社、2006年)、
『木星の月』(横山 和子訳、中央公論社、1997年)などがある。

「2014年 『愛の深まり』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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