もう一つの維新史: 長崎・大村藩の場合 (新潮選書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106004506

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  • 幕末、幕藩体制を維持しようとする人と、
    それを覆し天皇中心の世を作ろうとする人との激しい権力闘争が繰り広げられた。
    もちろん、両者の争いで多くの血が流されたことは周知の通り。
    しかしながら、これだけドロドロとしたものだったのかと、
    外山氏の調査から明らかになる大村藩の権力闘争には目を覆いたくなる。
    しかし、それに目を見張らない限り、
    幕末維新の実態は明らかにならないし、
    現代にも通じる日本人の覇権を争う性根は掴みようがない。
    幕末の歴史小説を一通り読んだことがある方にこそ、
    是非ともに一読して欲しい読み応えのある作品と言える。

  • 「もう一つの維新史ー長崎・大村藩の場合ー」は、天領の長崎に近い西の端の小藩、大村藩の幕末維新の内部史。大村藩は、藩主が早い時期から勤皇思想に目覚めた開明的な藩だったので、藩士にも勤皇家が多く育ったところだったらしい。

    新選組ファンならおなじみの渡辺昇もこの藩の藩士で、「大村騒動」の壮絶な収束方法に大きく関わっている。
    試衛館は、他流試合申込者や道場破りが来た時、時々ご近所の錬兵館に応援を求めていたなどというエピソードが残っているが、このとき応援に駆けつけていた一人が渡辺昇で、そのような因縁もあって渡辺はしばしば試衛館をおとずれては、近藤と飲み、世相を語り合っていたそうだ。彼は近藤の親しい友人の一人だったらしい。
    2人の友情は、倒幕、佐幕と立場が違っても続いていたらしく、慶応3年、渡辺が京都で倒幕運動に加わっていた時も、近藤は渡辺捕縛には消極的な態度を示し、土方をやきもきさせたらしい。会津藩から渡辺抹殺の許可がでると、近藤は、表立って反対はしないまでも、土方たちが踏み込んだ間一髪で渡辺が逃げおおせたという報告を聞くと「逃げていてくれてほっとしたよ」と思ったと、のちに語っている。渡辺も近藤のことは、生涯、悪く思っていなかったようだ。


    早くから勤皇方であった大村藩は新精隊16名を慶応3年6月に薩摩藩兵名目で上洛させ徐々にその数を増やしている。鳥羽伏見の戦いでは、大津に出兵し、幕府軍の攻撃に備えている。その後大村藩軍は、東海道鎮撫総督指揮下の先鋒として桑名、鎌倉をへて江戸城にはいり、木更津方面の鎮撫や彰義隊との戦いにも参戦。さらに、江戸から海路平潟に上陸して、平・三春を射ち、二本松に入り、会津攻撃では若松城攻撃の先鋒となって十六橋から城下に入っている。また、奥羽列藩の中で唯一勤皇派を支持したため、苦境に立っていた秋田藩の応援にも出向いている。

    旧幕軍の側に思い入れして史料や小説や映像を見ていたときには、ただの敵側のとんがり帽子とだんぶくろ集団にしかみえない新政府軍の先鋒にたびたび大村藩士がいたことになる。複雑な気持ちではあるが、両側の顔が見えると、より客観的な立場で事を眺めることができるという強みもでてくる。

    大村藩という小藩の幕末維新の壮絶な歴史だが、、大なり小なり同じ事が各地で起こっていたことだろう。大村藩の内面史は、日本近代化のヒナ型の一つでもあるという安岡章太郎氏の解説文に納得させられる。

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著者プロフィール

1932年、長崎市生まれ。1961年、広島大学大学院博士課程国史専攻単位修了。佐世保工業高等専門学校助教授、長崎大学教育学部教授、長崎県立シーボルト大学教授などを歴任。2013年、没。
【主要著書】『大友宗麟』(吉川弘文館、1975年)、『長崎奉行』(中公新書、1988年)、『中世長崎の基礎的研究』(思文閣出版、2011年)、『長崎史の実像 外山幹夫遺稿集』(長崎文献社、2013年)

「2022年 『大村純忠』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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